第7話 傲慢な義弟との御前試合(瞬殺)
世の中には、そこが致死量の地雷原だとわかっていながら、自ら嬉々としてタップダンスを踊りに来る人種がいる。
たとえば、自分よりはるかに血の滲むような努力を積み重ねている相手を、過去のイメージだけで見下して、当然のように勝てると思い込むタイプとか。
たとえば、周囲の大人が自分を都合よく甘やかしてくれる環境を、自分の“実力”だと盛大に勘違いしているタイプとか。
たとえば、私の最推しを、いまだに「冷遇しても平気な、ひ弱で邪魔なサンドバッグ」扱いしている、公爵家の愚かで傲慢な異母弟とか。
はい。
全部です。
全部、今日の主役です。
主役といっても、もちろん最推しの圧倒的な強さを引き立てる“極上の踏み台”としての主役ですけれども!
私は訓練場の端で、こっそり手作りした『応援うちわ代わりの白い布』を握りしめながら、静かに、そして熱く深呼吸した。
落ち着け、私。
冷静に状況を整理しよう。
本日、この公爵邸の広大な中庭兼訓練場では、ささやかな“お披露目”が行われている。
名目上は、公爵令息である兄弟の親睦を深めるための、軽い手合わせ。
実際には、最近少しずつ体力をつけ、周囲の評価を変え始めたレオン様を牽制し、再び泥の中へ叩き落とすために継母派が仕組んだ『公開処刑イベント』である。
だが。
残念だったな。
そちらのポンコツな情報網が認識しているレオン様は、まだ数か月前の『吹けば飛ぶような儚げ美少年』で止まっている。
しかし現実のレオン様は、私の生活魔法製・規格外バフ飯と、伝説の剣聖による地獄のように濃密で、しかし愛ある修練により、すでに“覚醒の片鱗が見え始めたバケモノ”なのだ。
まあ、本人はまだ八歳なので、見た目の華奢さやあどけなさはしっかり残っている。
でも、ずっと見守り続けている私にはわかる。
立ち方が違う。
視線の鋭さが違う。
木剣の握り方、重心の置き方がまったく違う。
あの子はもう、以前みたいにただ怯えて震えているだけの存在じゃない。
尊い。
あまりにも尊い。
努力して成長していく推しを間近で見られる環境は、オタクの健康に良すぎる。
いや、健康にいいどころではない。確実に寿命が延びる。魂がピカピカに洗われる。毎朝の訓練風景がもはや実質神事である。私は半分くらい信徒だ。いや最初から過激派の信徒だが。
「クロエ」
控えめな声で呼ばれて、私ははっ! と顔を上げた。
レオン様が、試合用の軽装でこちらを見ている。
白銀の髪が風に揺れ、その蒼い瞳はいつものように澄んでいるのに、奥底の芯のところだけが静かに、そして鋭く燃えている。
ああ、好きです。
いや知ってる。今さら大声で再確認することでもない。でも、こういう真剣で美しい横顔を見るたびに、私は何度だって新鮮に心臓を撃ち抜かれ、ときめき直してしまうのだ。仕方ない。限界オタクは推しの成長とギャップに弱い生き物なのだ。
「いかがなさいましたか?」
「……そんなにじっと見られると、ちょっと緊張する」
「すみません。つい尊さに……見惚れておりました」
「……みとれて」
「いえ、温かく見守っておりました」
「今、言い直した」
「気のせいです」
レオン様は、ほんの少しだけ眉を下げた。
困ったような、でも決して嫌ではなさそうな、そんな表情だ。
「……僕、ちゃんとできるかな」
その声は、小さかった。
けれど、かつてのような怯え一色ではない。
ちゃんと自分より大きなものと戦おうとしている子の、不安と決意が混ざった確かな声だった。
私は一歩近づき、そっと、この世で一番やさしい顔で微笑んだ。
「できます」
「……でも、エドガーは」
「ええ、知っています。口だけは一人前に大きいですね」
「……クロエ」
「失礼しました。でも揺るぎない事実です」
私は少し声をやわらげる。
「相手がどれほど傲慢に振る舞おうと、何を企もうと、レオン様が流した汗と積み重ねてきたものは絶対に消えません」
「……」
「剣聖様に教わったことを、いつもの朝のように、ただ真っ直ぐに出せば大丈夫です」
「いつも通り……」
「はい。呼吸を整えて、足を見て、相手の重心を見て、無駄に力まず、必要な時だけ振り抜く」
「……うん」
「それに」
私はにっこりと笑った。
「もし少し緊張しても、私はここで、誰よりも全力でレオン様を応援しておりますので」
「……応援」
「ええ。心の中ではもう、かなり盛大に横断幕を掲げております」
むしろ心の中だけで自重して済ませている自分を全力で褒めてほしい。
本音を言えば、特大の横断幕を掲げて『レオン様、圧倒的優勝!』『今日も顔面国宝!』『勝利はすでに確定演出!』くらい拡声器で叫びたいところだ。
だがメイドという立場上、さすがにそれはできない。非常に残念ながら。
レオン様は、少しだけ口元を緩めた。
「……クロエがいると、へんなふうに安心する」
「へんなふう、ですか」
「……なんか、絶対、大丈夫な気がする」
「でしたら、それで十分です」
私は胸の前でそっと拳を作った。
よし。
大丈夫。
この子はもう、“怯えながらただ殴られるのを待つ”だけじゃない。
不安を抱えたままでも、自らの意思で一歩を踏み出せる。
その時点で、もう勝ちは半分決まっている。
◇ ◇ ◇
異母弟――エドガーは、まことにわかりやすく、テンプレ通りの『嫌な感じの悪役』に育っていた。
金茶の髪を丁寧に巻き、無駄に装飾の多い仕立ての良い訓練服に身を包み、口元には薄く人を見下した笑みを浮かべている。
ぱっと見は愛らしい貴公子然としているが、その瞳に宿る色は、幼さゆえに隠しきれない傲慢とドロドロの悪意そのものだった。
しかも、私が猛烈に腹立たしいのは、周囲の大人がそれを“利発さ”や“快活さ”と都合よく誤認し、チヤホヤしている点である。
いや違うだろうが。
それはただの、甘やかされて矯正されなかった『性根の腐敗』です。
訓練場の中央で、エドガーは木剣を肩に乗せ、わざとらしく大きなため息をついた。
「兄上と手合わせなんて、退屈だなあ」
その声音は、いっそ感心するほど無邪気に聞こえる。
だが言葉の端には、これ見よがしな露骨な侮蔑が滲んでいた。
「だって兄上、今までまともに剣も振れなかったでしょう? ずっと地下室で震えていたのに」
「……」
「怪我をされたらお父様とお母様に叱られて困るから、僕、手加減しないといけないし。面倒だなあ」
ぐっ。
私は思わず、ギリィ! と奥歯を噛みしめた。
ああ、もう。
その減らず口を今すぐ泥雑巾で塞ぎたい。
私の最高に尊い推しを前にしてよくもまあ、そんな軽薄で命知らずな嘲りを。
だが駄目だ。ここで私が飛び出して物理で黙らせるわけにはいかない。私はあくまでモブメイド。今日の主役はレオン様だ。
公爵は上座の席に腰を下ろし、無表情で訓練場を見下ろしている。
その隣には継母。
目元こそ穏やかに取り繕っているが、扇子の奥にあるドロドロの期待は丸見えだった。
“レオンが無様になぶられ、這いつくばる姿を見たい”
“公爵に改めて『公爵家には不要な使えないゴミ』と印象づけたい”
“できれば二度と剣を握れないよう、心も完全に折っておきたい”
その全部の悪意が、透けて見える。
最低だ。
本当に控えめに言って最低だ。
でも――今日は、貴女の思い通りにはいかない。
レオン様は、訓練場の中央へ静かに進み出た。
姿勢はまっすぐ。
木剣を持つ指先にも、無駄な力みは一切ない。
剣聖様の教えを思い出す。
あの偏屈で、気難しくて、でも剣の道に関しては一ミリも妥協しない老剣士は、何度も何度もこう言っていた。
『剣は怒りで振るうな。怯えで握るな。見ろ。相手を、空気を、地を、呼吸を、全部をだ』
その言葉を、レオン様はちゃんと自分の血肉へ落とし込んでいる。
公爵が低く告げた。
「……始めろ」
次の瞬間、エドガーがニヤァと笑い、先に飛び出した。
速い。
年齢のわりには、確かに速い。
普段から甘やかされながらも、それなりに高価な指導は受けているのだろう。
力任せではない。だが、浅い。見え見えだ。殺気が素人丸出しすぎる。
木剣が、まっすぐレオン様の華奢な肩口を狙って、容赦なく振り下ろされる。
私は息を呑んだ。
だが、レオン様は瞬き一つ、動じなかった。
ほんの、半歩。
それだけ、流れるように身体をずらす。
「え?」
振り下ろされた剣先は完全に空を切り、エドガーの重心が勢い余ってわずかに前へ流れる。
そこだ。
レオン様の木剣が、ふわりと、羽毛のように軽く持ち上がった。
軽い。
静か。
でも、極限まで無駄がない。
次の瞬間。
ヒュンッッッ!!! と。
空気を真っ二つに裂く、鋭すぎる音が訓練場に響き渡った。
「え……?」
エドガーの間抜けな声が漏れる。
その身体が、ぴたりと不自然に止まった。
私は目を見開いた。
今のは――。
ただ、木剣を振っただけだ。
ただ、それだけ。
なのに、その軌道に沿って、白い線みたいな『凶悪な風圧』が走ったのだ。
真空刃。
いや、そこまで明確な魔法現象ではない。
けれど、少なくとも“八歳児が振るうただの木剣の一振り”では絶対にありえない威力。
バサァッ!! とエドガーの前髪が激しく揺れ、その足元の砂が爆発したように一直線に弾け飛ぶ。
頬のすぐ横をかすめた不可視の空気の刃に、彼の顔色が一瞬にして土気色へ変わった。
「ひっ……ぁ……」
情けない、カエルのような悲鳴が漏れる。
そのまま、へたり、と。
まるで糸の切れた操り人形みたいに、エドガーは腰を抜かしてその場へ尻もちをついた。
次いで。
じゅわ……と。
仕立ての良い高級な訓練服の股間あたりに、非常に不穏で温かい染みが広がっていく。
「…………」
場が、完全に凍りついた。
私は数拍遅れて状況を理解し――そして、心の中で盛大に万歳三唱した。
勝った。
というか、文字通りの『瞬殺』だった。
しかも想像の十倍くらい“圧倒的な格の違いを見せつけるタイプの完全勝利”だった。
いやいやいや、ちょっと待って。
さすがにこれはすごい。すごすぎる。
剣聖様の修練と、Sランク魔物の肉を使ったバフ飯と、本人の努力の結晶が、わりと早い段階で凶悪な牙をむいてきた。
我が最推し、フィジカル強くなりすぎでは?
いや知ってた。将来最強になることは知ってた。でも成長速度が予想以上にえぐい。これ、本当に八歳児の一振りですか? 当たってたらエドガー、木剣ごと上半身吹き飛んでませんでしたか?
「……さっすが私の推し!」
思わず、小声で心の声が漏れた。
しまった。
声に出た。
でも小声だからたぶんセーフ。たぶん。
いや、たぶんではないかもしれない。
数人の使用人がギョッとしてこちらを見た気がするが、気にしない。今はそれどころではない。推しが強い。圧倒的だ。世界がまぶしい。
レオン様は、木剣を静かに下ろした。
その顔に驕りや見下す色は一切ない。
ただ、目を丸くして驚いていた。
自分でも、木剣から出た謎の風圧とこの結果に少し戸惑っているみたいに。
ああ。
そうだよね。
まだ本人にとっては、“できることが急激に増えてきている”実感の途中なのだ。
でも大丈夫。
それは全部、あなたが流した汗と努力の結果だ。
公爵が、ガタッ! と椅子から立ち上がった。
「……今のは、なんだ」
凄みのある低い声だった。
訓練場全体が、その一言でぴんと張りつめる。
レオン様は少しだけ視線を上げ、静かに、堂々と答える。
「……木剣を、振りました」
「それは見ればわかる!!」
継母が、ヒステリックな甲高い声を上げた。
取り繕っていた優雅な余裕が、完全に剥がれ落ちて般若のような顔になっている。
「何か卑怯な真似をしたのでしょう!? 魔道具とか、妙な細工とか! エドガーが負けるわけないわ!」
「しておりません」
レオン様の声は、氷のように淡々としていた。
だが、その奥には、以前にはなかった『折れない鋼の強さ』がある。
私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
そう。
もうこの子は、ただ大人の言いなりになってうつむくだけじゃない。
理不尽な言いがかりに対して、自分の言葉で、自分の足で立てる。
たとえまだ小さくても。
たとえ声が大きくなくても。
それだけで、どれほどすごいことか。
継母はなおもヒステリーを起こしてわめこうとしたが、公爵がそれを手で厳しく制した。
「レオン」
「……はい」
「……誰に、習った」
数秒の沈黙。
私は、そっと息を呑んだ。
ここが分岐点だ。
嘘をつく必要はない。だが、全部を馬鹿正直に晒す必要もない。
レオン様は、ほんの一瞬だけ、訓練場の端にいる私を見た。
その視線が、まっすぐ胸に刺さる。
そして彼は、静かに、明確に答えた。
「――師が、おります」
「師、だと?」
「はい。きちんと、正当な剣を教わっています」
公爵の目が細くなる。
継母の顔から、完全に血の気が引いていく。
私は内心で、スタンディングオベーションを送りながら拍手喝采していた。
いい。
最高にいい。
全部は明かさない。
でも、この圧倒的な成長が偶然でも奇跡でもなく、“確かな積み重ねと優れた指導”によるものだと明確に示す。
それは、今のレオン様にとって満点の最高の返しだった。
対するエドガーは、地面に尻もちをついたまま、真っ青な顔で股間を濡らしながらガタガタと震えていた。
情けない。
実に情けない。
でも一ミリも同情はしない。
散々人を見下してイキり散らしておいて、いざ本物の『格の違い』を突きつけられたら恐怖で失禁して崩れるなど、完全なる自業自得、美しいほどのテンプレざまぁである。
私は内心で、見えないうちわを激しく振り回した。
よかった。
本当によかった。
レオン様が、ちゃんと人前で、圧倒的な結果を出した。
しかも誰の目にも明らかな圧勝で。
もう誰も、以前みたいに“何もできない無能な子”とは言えない。
言わせない。
そんな不当な評価、今ここで完全にへし折ってやる。
◇ ◇ ◇
試合のあと。
レオン様は、無言で解散となった訓練場の端へ戻ってきた。
私は今すぐ全力ダッシュで駆け寄りたかった。
駆け寄って「今の見ました!? 見ましたとも!! すごすぎます!! 実質英雄の初陣、伝説の幕開けでは!?」くらいの勢いで褒めちぎり、胴上げしたかった。
でもさすがに人目がある。
理性、頑張れ私。
限界オタクの爆発しそうな情熱を、今こそ上品で有能なメイドの微笑みに変換するのだ。
「……お疲れさまでした」
できるだけ落ち着いた、やさしい声で言う。
レオン様は、少しだけ呼吸を乱しながら、私を見た。
「……勝った」
「はい」
「……ほんとに、勝てた」
「ええ。完璧すぎるほど完璧でした」
その瞬間、彼の蒼い瞳がほんの少し揺れた。
信じたいけれど、まだ自分でも信じきれていない、そんな夢見るような顔。
私はこらえきれず、少しだけ身を寄せて囁いた。
「すごかったです」
「……」
「本当に、すごく」
「……クロエ」
「誰よりも、最高にかっこよかったです」
ぴたり、と。
レオン様の動きが止まった。
あ。
しまった。
最後の一言、わりと限界オタクの本音がだだ漏れだった。
でももう遅い。言ってしまったものは仕方ない。事実だし。
レオン様は、少しだけ目を丸くしたあと、ふいっ、と照れ隠しのように視線を逸らした。
その耳が、ほんのりと赤く染まっている。
「……そういうこと、すぐ言う」
「事実ですので」
「……ずるい」
「えっ」
ずるい?
何が?
こちらとしては推しの歴史的勝利に対する正当な称賛を述べただけなのですが?
だが、レオン様はそれ以上何も言わなかった。
ただ、口元だけをかすかにやわらげ、木剣をぎゅっと握りしめている。
ああ、もう。
かわいい。
圧倒的に強くて、かっこよくて、でもまだこういうところは年相応に幼くて、かわいい。
どうしよう。感情の反復横跳びで情緒が忙しい。
「クロエ」
「はい?」
「……僕、もっと強くなりたい」
「ええ」
「今日みたいに、もう二度と、ああいうのに負けないように」
「はい」
「それで……」
少しだけ、ためらって。
それから、彼はとても小さな、けれど熱を帯びた声で続けた。
「……あなたを、安心させたい」
私は、一瞬、呼吸を忘れた。
なに、それ。
なにその、オタクの心臓に対する破壊力が高すぎる言葉。
そんなの、真正面から受け止めたら、私のメンタルがもたないんですが?
でも、彼はきっと本気なのだ。
今日、自分が圧倒的に勝てたこと。
人前で最高の結果を出せたこと。
それを、私が心から喜んでくれたと知って、今度は自分がもっと強くなって、私を安心させたいと思ってくれた。
その健気さが。
まっすぐすぎる想いが。
泣きたくなるほど愛おしい。
私は胸の奥に込み上げるものをぐっと飲み込み、精いっぱいやさしく笑った。
「私はもう十分、安心しておりますよ」
「……ほんとに?」
「はい。ですが」
私は少しだけ悪戯っぽく続けた。
「もっともっと強くなってくださるなら、私はもっと喜びます」
「……じゃあ、なる」
「ええ」
「世界で一番、強く」
「楽しみにしております」
そのやりとりに、レオン様は深く、小さく頷いた。
その横顔には、さっきまでの戸惑いとは違う、静かで強烈な熱が宿っていた。
きっと今日の勝利は、ただの一勝ではない。
この子の中で、“自分はやれる”“理不尽は覆せる”という感覚を確かな形にした日だ。
だったら。
ここから先は、もっと早い。
剣聖様の教えが、さらに深く染み込んでいくだろう。
食事も、訓練も、心も、全部が完璧にかみ合っていく。
そしていずれ、この屋敷の誰もが見下せなくなるくらい、圧倒的で絶対的な存在になっていくのだ。
……うん。
楽しみすぎる。
推し育成ルート、進捗が良すぎて逆に怖い。
でも最高です。ありがとうございます。
◇ ◇ ◇
その夜。
北棟の自室に戻った私は、一人こっそり、白い布を細長く折って『即席の応援うちわ』を作っていた。
いや、必要だろう。
こう、オタクとしての応援グッズ的な何かが。
今日みたいな歴史的初勝利の記念日に、心の中だけで盛り上がるのには限界がある。
もちろん人前で大々的に振るわけではない。さすがにそれは自重する。だが、せめて部屋の中だけでも、私は今この歓喜を形にしたいのだ。
「よし……」
小さく呟きながら、布へ控えめに刺繍を入れる。
――最推し優勝・圧倒的No.1。
うん。
完璧だ。
実にいい。
これを見せる相手は今のところ私しかいないが、重要なのは『パッション』である。
と、その時。
扉がこんこん、と控えめに叩かれた。
「はい?」
開けると、そこには寝間着姿のレオン様がいた。
最近、夜にこうして少し話しに来てくださることが増えた。尊い。あまりにも尊い。信頼度の急上昇を実感して、毎回じんわり嬉しくなる。
「どうされました?」
「……まだ起きてた」
「ええ、少しだけ」
「……何してるの?」
私は反射的に、背後のうちわをバッ! と隠した。
危ない。
これはまだ見せてはいけない気がする。
いや、見せてもいいのか? でもちょっと早い。たぶん早い。主に私の狂気的な情熱が。
「いえ、その……日記のようなものを」
「……ふうん」
レオン様は、少しだけ首を傾げた。
明らかに怪しんでいる。
だが深くは追及しないでくれるあたりが優しい。推しが優しい。知ってる。
彼は少し黙ってから、ぽつりと言った。
「……今日、僕が勝てたの、クロエのおかげでもある」
「いいえ。レオン様ご自身の血の滲むような努力のお力です」
「でも、食べるものも、教えてくれる人も、安心できる部屋も……」
「……」
「ぜんぶ、あなたがくれた」
その言葉に、胸がいっぱいになった。
違う。
私はただ、足りなかったものをかき集めているだけだ。
本当は最初から、この子が受け取るべきだったものを。
ぬくもりも、食事も、学びも、安心も。
本来なら当然そこにあるはずだったものを、ようやく手渡しているだけ。
でも、それでも。
この子がそれをちゃんと受け取って、感謝してくれている。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
私はそっと微笑んだ。
「でしたら、これからもたくさん用意いたしますね」
「……たくさん?」
「ええ。もっと強くなれるように。もっと安心できるように。もっと笑えるように」
「……うん」
「私はしつこいので」
「知ってる」
くすっ、と。
レオン様が小さく笑う。
そのやわらかな笑みを見た瞬間、私は今日何度目かわからない幸福な致命傷を受けた。
ああもう、本当に。
勝利のあとにこんなご褒美があっていいのだろうか。
いいのか。ありがとうございます。
「おやすみなさい、レオン様」
「……おやすみ、クロエ」
扉が閉まったあと、私は壁に背を預けて、そっと息を吐いた。
よかった。
本当によかった。
今日という日は、きっと大きい。
この子が初めて、理不尽な大人たちの前で堂々と勝利した日。
努力が、圧倒的な結果として形になった日。
そして、“自分は奪われるだけの存在じゃない”と、ほんの少しでも思えた日。
だったら私は、明日からも全力で支えるだけだ。
次の試練が何であろうと、全部まとめて物理と魔法で乗り越えてみせる。
毒も、呪いも、悪意も、傲慢な義弟も。
推しの未来を曇らせるものは、一つ残らず片づける。
私はベッドの脇に隠した即席うちわを見下ろし、ふっと笑った。
――最推し優勝・圧倒的No.1。
うん。
やはり名文である。
――そして私は、この時まだ知らなかった。
今日の御前試合で見せた『真空刃』の一振りが、公爵や使用人たちの間でどれほど衝撃的かつ脅威として受け止められていたかを。
追い詰められた継母とエドガーが、恐怖と焦りを本格的に募らせ、次なる暗殺の手を急ぐことを。
そして何より、レオン様の中で“クロエに褒められたい”“クロエを安心させたい”という感情が。
ただの純粋な信頼では済まない、もっと重たくて、深くて、暗い『独占欲と執着』へ変わりはじめていることを。
この時の呑気な私はただ、
「今日の推し、かっこよすぎませんでした!? いや知ってたけど! でも実際見ると破壊力が違うんですよ!!」
と、心の中で一人、限界いっぱいに盛り上がっていたのである。




