第26話 魔女の館
王都の東端には、学生たちが決して近づかない森がある。
『神秘の森』。
名前だけ聞けば、きらきらした可愛い妖精が飛び回って、運命の出会いやレアアイテムが落ちてそうなファンタジーな雰囲気だ。
だが、実態はだいぶ違う。
深い霧、そして凶悪な魔物が出る。
運が悪いと、そのまま二度と帰ってこない。
……そんな死の森の奥へ、今夜、二人の人間が踏み込んでいた。
ひとりは、傲慢なバカ王太子カスティエル・ド・ヴァロア。
もうひとりは、腹黒原作ヒロインのアリア・ベルフォード。
最高にろくでもない、最悪の組み合わせである。
◇ ◇ ◇
「ちっ……この森、泥だらけで臭いな」
カスティエルは不機嫌そうに吐き捨て、邪魔な枝を踏み折りながら前へ進んだ。
王太子の高価な外套は泥を極端に嫌うはずなのに、今夜ばかりはそんなことを構っていられないらしい。
理由は簡単だ。
一週間後に迫った決闘。
相手は、公爵令息レオン・ヴァン・エルグラン。
あの“公爵のくせに王族たる俺へ臆さない生意気な男”を、大観衆の前で完膚なきまでに叩き潰す。
そのために必要なら、禁忌の森だろうが何だろうが進むしかない。
カスティエルの狭い頭の中は、怒りと屈辱と、クロエへの歪んだ執着で真っ赤に燃えていた。
「殿下、お足元にお気をつけくださいませ」
背後から、ひどく甘い声が落ちる。
アリアは、息を切らしたふりをしながらも、しっかりカスティエルと一定の距離を保って歩いていた。
怖がっているように見せるのは上手い。
でも、本当は一ミリも怖くないのだろう。
彼女の瞳は、暗い森の中でも獲物を値踏みするように妙に落ち着いている。
「……アリア。案内が間違っていたら、ただでは済まさないぞ」
「恐れながら、殿下。間違いございませんわ」
上品な返事。
けれど、その上品さの裏には“この単細胞は扱いやすい”という確信がドロリと滲んでいる。
実際、カスティエルは扱いやすい。
煽れば怒り、褒めれば気持ちよくなる。そして、拒めば執着する。
そして、自分が選んで決断したつもりで行動しているが、アリアの掌の上で転がされているだけなのだ。
森の奥で、獣の気配がした。
『ぐるるぅ……』と地を這うような低い唸り声。
闇の中で複数の赤い目が光る。
「……魔物か」
カスティエルが舌打ちし、腰の剣へ手をかけた。
闇から躍り出たのは、狂暴な狼型の魔物だった。
三体。鋭い牙に、ぬめるような毒液が光る。
「雑魚が……! 俺の邪魔をするな!」
カスティエルは剣を抜き、魔力を纏わせて斬りかかった。
一体、倒す。二体目、弾く。
だが三体目が、素早く背後へ回り込む。
「殿下!」
アリアが短く、可憐な悲鳴を上げる。
同時に、風が走った。
刃ではない。ただ押し流すような風。
魔物の足元を崩し、攻撃の軌道をわずかに逸らすための、絶妙に控えめな魔法。
サポートに適した完璧な加減。
カスティエルは、その風の援護に気づかない。
いや、気づいていても「自分の力だけで切り抜けた」ことにしたいプライドの塊だ。
「女は下がっていろ! 俺が――」
言いかけた瞬間、体勢を立て直した魔物の爪がかすめた。
外套の端が裂ける。
カスティエルの眉間が深く歪む。
「くそっ!」
怒りで剣の振りが荒くなる。
「光よ、殿下の道を照らして――!」
淡い光が浮かび、魔物たちの目が眩む。
その隙を突き、カスティエルが魔物たちを乱暴に斬り伏せた。
「……ふん。くだらん雑魚どもが」
勝ったのに機嫌が悪い。
それがカスティエルだ。
アリアは微笑む。
怖がったふりをして、そっと豊満な胸に手を当てる。
「殿下、素晴らしいお強さですわ。私、見とれてしまいました」
「当然だ。俺は王太子だぞ」
そして彼は、鼻を鳴らして前へ進む。
怒りと意地と、底なしの驕りのままに。
アリアはその後ろ姿を見つめ、誰にも聞こえない声で心の中を暗く笑う。
(――その調子よ、アタシの可愛いバカ王子)
(あなたが薬で暴れて……最後に一番おいしいところをもらうのは、このアタシ)
◇ ◇ ◇
森の深い霧が薄れた先に、それは不気味に建っていた。
古びた屋敷。
木の幹のように歪んだ壁。窓は黒く、灯りはない。
なのに、空気が異様に澄んでいる。
「……魔女の館、でございます」
アリアが囁く。
カスティエルは鼻で笑った。
「くだらんボロ屋だ。だが、あの公爵を確実に跪かせられるなら何でもいい」
分厚い扉を叩く。
一度。二度。三度。
やがて、ぎい……と不快な軋む音がして扉が開いた。
現れたのは、深い皺だらけの老婆だった。
背は曲がり、目は濁っているようでいて――瞳の奥の芯だけが、やけに鋭く王太子を値踏みしている。
「……こんな夜更けに、高貴な客かい」
声は枯れていた。
けれど、カスティエルは王太子だ。
こういう卑しい相手に頭を下げる気など一ミリもない。
「貴様が魔女か。魔力強化薬を売れ」
「……ほう」
老婆が、ニタリと口元を歪めた。
「金は持っているんだろうね?」
「いくらだ」
老婆は、カスティエルの高価な外套を眺めたあと、ゆっくりと告げる。
「銀貨三百枚」
「……平民の分際でふざけるな」
「嫌なら帰りな。こっちは無理に売る気はないんだ」
交渉の余地が一切ない声だった。
カスティエルはギリッと歯ぎしりしながら、懐の重い金貨袋を乱暴に投げつけた。
床に落ちた袋から、硬貨の音が響く。
老婆は、満足そうに下品に笑った。
「毎度あり。じゃあ、これだ」
差し出されたのは、小さな濁った小瓶。
中身は、どろりとした赤黒い液体。
見た目からして、飲めば確実に何かを失う嫌な予感しかしない劇薬だ。
老婆は言った。
「一時的に、魔力を数十倍に引き上げる特製品だ」
「……ほう」
「だが反動で、肉体も魔力回路もボロボロに砕け散る劇薬だよ。あんたの心臓が耐えなきゃ、その場で血を吹いて死ぬ」
アリアは、その代償の大きさにわずかに息を止めた。
だが、カスティエルは狂ったように笑った。
「俺に向かって脅しか?」
「ただの親切な忠告さ」
老婆は肩をすくめる。
「飲むか飲まないかは、あんたの覚悟次第だよ」
カスティエルは瓶を強く握りしめた。
「飲むに決まっているだろうが」
その声には、公爵への怒りがあった。
女に拒絶された屈辱があった。
そして、絶対に負けられないという狂気じみた執着があった。
「俺は王太子だ。選ばれた存在だ」
低く言い切る。
「公爵ごときに侮られたまま、終わってなるものか」
老婆は、哀れむように薄く笑った。
「愚かだねえ……」
「黙れ」
カスティエルは瓶を外套の内側へ大事にしまう。
その手が、恐怖と興奮でほんの少し震えているのを、本人だけが気づいていない。
アリアは、その愚かな横顔を見て、心の中で甘く笑う。
(いいわ。それでいいのよ)
(バカ王子が劇薬で暴走して、レオンの体力を奪う…弱ったところへアタシの最大火力のチャームを叩き込む!)
(今度こそ、あの最強の男をアタシの足元に跪かせるのよ)
アリアは表の顔で、天使のように微笑んだ。
「殿下なら、きっと勝てますわ」
「当然だ。俺の本当の力を見せてやる」
その言葉が、どれほど脆く崩れ去る砂上の楼閣かも知らずに。
◇ ◇ ◇
王立学園のレオンの私室。
私は今、人生で何度目かわからない“限界オタクとしての理解不能な状況”に陥っていた。
最推しであるレオン様の、逞しい太ももの上。膝の上。
背後からがっちりと抱きしめられ。
首筋に、延々とすりすりされている。
「…………」
声が出ない。
出ないというか、出したら私の情緒が完全に崩壊する。
この人、昨日は私と王太子が接触しただけで嫉妬で激昂して、なぜ、いま、平然と私の首筋に顔を埋めているのか。
いや、理由は知っている。
激重ヤンデレ彼氏のお説教である。
レオン様は、耳元で低く甘い声で囁いた。
「クロエ」
「は、はい」
「俺の目の届かないところで、他の男と一言も話さないでくださいね」
優しい声。甘い声。
なのに、逃げ道を一切許さない、鎖のような声。
私は背筋をピンと伸ばしたまま、小さく頷いた。
「……努力します」
「努力?」
「だって、学園の授業とか、校内の移動とか……」
「無理なら、俺が男をすべて排除して環境を変えます」
「やめてください」
「嫌です」
だめだこの人。話が通じない。
首筋に、またすりすり。
大型犬みたいな甘え方なのに、腰に回された腕がっちりしていて、完全に『監禁』である。
私はなんとか理性をかき集めて、言った。
「レオン様、一週間後の決闘の準備をしなくていいんですか」
「しています」
「え?」
「今、まさにしているでしょう」
「どこがですか」
「クロエの安全確保と、精神的補充です」
そんな準備、聞いたことがない。
でもこの人にとっては、たぶんそれが剣の素振りより最優先なのだろう。
「……」
私は言葉を失いかけて、慌てて別の方向へ話を戻した。
「決闘なんて、危ないです」
「全然、危なくありません」
「危ないです」
「俺が、あんなゴミに負けると?」
「負ける負けないの話じゃありません!」
私の声が大きくなった。
だって本当にそうだ。
私のチートバフで最強に育った推しが、あんなバカ王太子に勝つのは知っている。
知ってるけど、万が一、怪我でもしたらどうするのか。
それが限界オタクとしては怖いのだ。
推しが傷つくのは嫌だ。
推しの尊い血を見るのは絶対に嫌だ。
推しが痛がるのも嫌だ。
推しが少しでも苦しむのも嫌だ。
……あれ?
これ、私のほうが愛が重くない?
私は自分で自分の限界オタクっぷりにびくっとした。
レオン様は、私の頬に軽く口づけるような至近距離で、低く笑った。
「可愛い」
「やめてください」
「嫌です。本音なので」
だめだ。
本当にだめだ。この甘い空気に流されそうだ。
レオン様は、私の髪を長い指で優しく梳きながら、静かに言う。
「クロエ」
「はい」
「あなたが心配するような結果には、絶対になりません」
「でも」
「かすり傷一つ負わない」
「でも」
「一滴の血も流さない」
「……それ、本当に言い切れます?」
「言い切れます」
その圧倒的な強者の確信が怖い。
でも、怖いくらい強いのが私の育てた推しなのだ。
わかってる。わかってるんだけど、オタク心は“推しの完全無傷”を病的なまでに求めてしまう。
私は口を尖らせた。
「……私、応援席で見ているだけで、心配で心臓が持たない気がします」
「ずっと俺のそばにいてください。俺の視界のど真ん中で、俺のためだけに息をしてください」
重い。
重すぎる。
でも、言い方があまりにも必死で切実で、私の胸が少し甘く痛んだ。
この人は、決闘の勝敗なんて一欠片も心配していない。
私は小さく息を吐いた。
「……わかりました」
「本当に?」
「はい。逃げません……たぶん」
「“たぶん”をつけないでください」
「は、はい」
首筋に、またすりすり。
だめだ。
この人、安心すると甘え方がさらに増える。
ほんとうにどうにかしてほしい。
私は、膝の上でそっと拳を握りしめた。
決闘まであと一週間。
その間に、私は私にできることを全力でやろう。
推しが絶対に怪我をしないように。
絶対に無傷で私のところに帰ってくるように。
万が一に備えて、エリクサーを大量に用意しておこう。
あと、例の回復クッキーも特大サイズで焼き増しする。
推しの回復手段は多いほどいい。
そう、これは過保護ではない。
限界オタクの危機管理である。推し活の基本中の基本である。
私が頭の中で『推し絶対無傷計画』を練っていると、レオン様が低く囁いた。
「クロエ」
「はい」
「今、また俺のために何か危ないことを考えていますね」
「考えてません」
「考えています」
「……えっと、推しが決闘で怪我しないように、最高級の備えを少々」
「可愛い」
「褒めないでください」
いつもの無限ループだ。
私は天井を見上げた。
ああ、もう。
きっとバカ王太子と腹黒アリアが、なにか悪巧みをしているというのに。
この部屋では最強の推しが、私の首筋にすりすりして甘えている。
世界の温度差がひどい。
でも、ひとつだけ確かなのは。
私は、その修羅場の中心にいる。




