第25話 アリアの謀略
世の中には、絶対に怒らせてはいけない存在が二種類ある。
ひとつは、己の権力を無制限に行使できるバカ。
もうひとつは、推し(私)のことを「俺のすべて」と言い切り、害をなす者は国ごと滅ぼそうとするタイプの『激重ヤンデレ男子』。
そして今、王立学園という公共施設のど真ん中で、その最悪の二種類が正面衝突しようとしていた。
◇ ◇ ◇
「――貴様ァ!!」
昼休みの廊下に響き渡った怒号に、私は思わず肩をびくりとすくめた。
声の主は、もちろんバカ王太子・カスティエル殿下。
金髪が逆立ちそうな勢いで、顔をゆでダコのように真っ赤にしている。
いや、王太子が公衆の面前で顔を真っ赤にして怒鳴り込んでくる状況ってだいたいろくでもないんですが、今回も例に漏れずろくでもなかった。
その怒りの視線の先には、私の最推し・レオン様がいる。
レオン様は、いつも通り氷のように静かだった。
静かすぎる。
一切の感情を排した絶対零度のその静けさが、余計にプライドの高い相手の怒りを煽るタイプの顔だ。
「俺を、誰だと思っている!」
カスティエル殿下の声が、怒りと屈辱で震えた。
「この国の王太子だぞ!」
レオン様は、美しい眉ひとつ動かさずに見下すように答えた。
「ええ、知っています」
「なら、なぜ俺の寛大な申し出をあんなふうに――」
「申し出?」
レオン様が、ほんの少しだけ首を傾げた。
その仕草があまりにも涼しくて美しくて、私は内心で頭を抱えた。
やめて。
その「虫けらの言葉など覚えていませんが?」みたいな“煽り100%の顔”、やめて。
今の王太子は私に側室要求を断られたショックと傷ついた自尊心を抱えたまま、さらに公爵令息に上から目線で返されたことで、ほぼ爆発寸前なのだ。
「そこのクロエを! 平民のメイドを俺の側室に迎えてやるという、光栄な話だ!」
殿下が唾を飛ばす勢いで吐き捨てる。
私の胃が『きゅっ』と雑巾のように縮んだ。
やめて。
私の名前を、その不敬な文脈で、推しの前で、絶対に出さないで。
レオン様の纏う空気が、一瞬で死の世界のように冷えた。
「光栄?」
地を這うような、低い声だった。
「随分と、あなたの価値観は安っぽく、下品ですね」
終わった。
今の一言で、王太子のなけなしの理性は完全に千切れたと思う。
「抜かせ!」
殿下が腰の剣の柄に手をかけ、一歩踏み出す。
「王族である俺を侮辱するのか!」
「侮辱?」
レオン様は、塵を見るような目で淡々と言い放った。
「俺のクロエを『側室』などという汚らわしい言葉で侮辱した、愚かな事実を述べたまでです」
「貴様ァ……ッ!」
殿下の魔力が、ぎらりと不快に膨れ上がった。
周囲の生徒が悲鳴を飲み込み、蜘蛛の子を散らすように壁際へ退く。
教師が駆け寄ろうとして、でもレオン様の放つ圧倒的な殺気に当てられ、足を止める。止めに入るべきだとわかっているのに、入ったら確実に命がないと本能が判断している顔だ。
そして私は。
視線を斜め下へ落として、できる限りモブらしく壁と同化しようと存在を消そうとしていた。
無理である。
この状況でモブに戻れるわけがない。
むしろ私は、この国家を揺るがす争いの火種(ヒロイン的ポジション)そのものだ。
それがもう本当に最悪。
「決闘だ!」
殿下が血走った目で叫んだ。
「俺と決闘しろ、レオン・ヴァン・エルグラン! その傲慢な態度、俺が直接叩き斬って正してやる!」
空気が完全に凍りついた。
レオン様は、私の方を一瞬だけ見た。
その視線は早すぎて、周囲は誰一人気づかない。
でも私にはわかる。
――心配している。
俺の神様が怯えていないか。
嫌な思いをしていないか。
この愚か者の怒号で、耳を汚されていないか。
そんな過保護な確認が、あの一瞬に全部詰まっていた。
私の胸が、変なふうに『きゅっ』と甘く痛んだ。
……だめだ。
こういう時に“俺が守るモード”が発動すると、レオン様はブレーキを失う。
だから私は、できるだけ平静な顔を作って、小さく頷いた。
「私は大丈夫です」というつもりで。
レオン様の目が、わずかに安堵で細まる。
それから、ゴミを見る目に戻って王太子へ視線を向けた。
「いいでしょう」
あまりにもあっさり受けた。
殿下が一瞬、醜く口元を歪める。
「よし! 尻尾を巻いて逃げてもいいんだぞ?」
「俺が、逃げる?」
レオン様の声は冷酷そのものだった。
「あなたのような害虫が、二度と俺のクロエの名を気安く口にできないようにするには……一度、徹底的に命の危機を刻み込み、黙らせる必要がある」
『ひゅっ』と周囲の誰かが息を呑む音がした。
殿下の顔色が『サッ』と変わる。
怒りと興奮の奥に、本能的な『死の恐怖』が混じったのだ。
だが、もう引けない。王太子というメンツが、ここで引く選択肢を許さない。
「い、一週間後だ!」
殿下は虚勢を張って声を荒げた。
「学園の闘技場で行う! そこで俺の強さを思い知らせてやる!」
「構いません」
レオン様は淡々と、死刑執行を告げるように答えた。
「日程は一週間後。場所も規定通り。お望みの形式に合わせて、潰して差し上げましょう」
「よし……覚えておけ!」
殿下は勝った気でいる。その顔がだいぶヤバい。
私は、心の中で頭を抱えて叫んだ。
――やめてぇぇぇ。
公式決闘って、つまり全校生徒の観衆あり。
つまり「公爵令息がモブメイドを巡って王太子と決闘する」という特大の噂が流れる。
そんなの私のモブとしての心臓が死ぬ。
しかも相手はバカとはいえ王太子。勝敗次第で政治的な地雷が爆発する。
さらにうちの推しは、私が絡むと手加減なんて絶対できない。
詰んだ。
どう見ても、私の平穏な学園ライフは詰んでいる。
◇ ◇ ◇
王太子カスティエルは、学園の王族専用個室で、苛立ちを持て余して暴れていた。
机を蹴り上げる鈍い音が響く。
「くそっ……! あの生意気な公爵風情が!」
「で、殿下、どうかお静かに……」
側近が怯えた声で宥める。
だが殿下の耳には入らない。
「俺に向かってあんな口を利きやがって! クロエもだ。あの女、俺の寛大な申し出を拒みやがった!」
歯ぎしり混じりの声。
「殿下は優しく側室の席をご用意されたというのに――」
「そうだ! 俺は最大限に譲歩してやったんだぞ!」
殿下は苛立ちのまま言い切る。
「なのに、あのメイドは公爵の方を選ぶだと? ふざけるな!」
怒りの奥に、別の醜い感情が混じっている。
悔しさ。意地。
そして、自分になびかなかった女への歪んだ執着。
王太子は、生まれてこの方、拒まれ慣れていない。
だから拒まれた瞬間、それがどうしても手に入れたい『獲物』に変わる。
そういう、もっとも面倒なタイプの人間だ。
「決闘で徹底的に叩き潰す」
殿下はギリッと歯を食いしばり低く言った。
「公爵に、王族との格の違いを思い知らせてやる」
側近が恐る恐る口を開く。
「ですが……エルグラン公爵令息の実力は、騎士団でも最強と噂されて……」
「黙れ!」
殿下が吐き捨てる。
「王太子であるこの俺が、あんな奴に負けるわけがないだろうが!」
「……は、はい」
根拠が一切ない。
でもバカな本人の中では、それで完全にロジックが完結している。
王族の驕りとはそういうものだ。
そこへ。
控えめなノックの音がした。
「失礼いたしますわ」
入ってきたのは、アリア・ベルフォード。
完璧に計算された可憐な微笑み。上品な仕草。
男を油断させる皮を、完璧に被っている。
「殿下、お顔がひどく険しいですわ」
「……お前か」
殿下は不機嫌そうに言いつつ、アリアを追い返さない。
それだけで、すでに彼女の『魅了』が完全に成功している証拠だった。
アリアはゆっくり近づき、そっと甘い声を落とした。
「決闘の件、学園中で噂になっております」
「当然だ。俺が直々に罰を下してやる」
「ええ、殿下が正しいですわ」
その全肯定の一言で、殿下の苛立ちが少しだけ和らぐ。
アリアは、その変化を毒蛇のように見逃さない。
「ですが」
彼女は不安そうに、庇護欲をそそるように眉を寄せた。
「相手は……とてもお強くて、狡猾な方ですもの。何か卑怯な手を使ってくるやもしれませんわ」
「俺が負けるとでも?」
「いいえ」
アリアはふるふると首を振る。
「殿下が負けるなど、天地がひっくり返ってもありえません。ただ……」
言葉を、さらに甘く脳を溶かすようにする。
「“念のための備え”があるほうが、より完璧に勝てますわ」
殿下の目が、わずかに光った。
「備え?」
「ええ」
アリアは、微笑んだ。
その笑みの奥に、ドス黒い計算がある。
「王都の東のはずれにある『神秘の森』をご存じですか」
「聞いたことはある。魔物が出る危険な森だろう」
「その奥に、『魔女の館』があるそうです」
「魔女の館?」
「はい」
アリアは声を落とす。
「父から聞きましたの。あそこでは……劇的に力を高める『魔力強化薬』が手に入ると」
殿下の呼吸が、欲望で少しだけ荒くなる。
「魔力強化薬」
「ええ」
アリアは、さらに甘い囁きを足す。
「殿下の力がさらに万全になれば、誰も殿下に逆らえません。完膚なきまでに叩き潰せますわ」
殿下の口角が、酷薄な弧を描いて歪む。
「あの生意気な公爵令息も、殿下をコケにしたクロエ様も」
その名を出した瞬間、殿下の執着が鮮やかに燃え上がった。
「行く! 今夜だ」
アリアの瞳が、ほんの一瞬だけ暗く歪んで笑った。
(――よし、バカが引っかかった)
心の中の“アタシ”が、舌なめずりをしてそう言った。
(このバカ王子を薬で強化して、闘技場で暴れさせてやる。そうすれば、アタシの邪魔をするあのメイドを潰せる…フフ)
でも表の顔は、天使のように可憐なままだ。
「ええ、殿下」
「お前も来い。案内しろ」
「かしこまりましたわ、私の太陽」
こうして二人は、王都の禁忌である神秘の森へ向かうことになる。
決闘に勝つために。
そして、アリアの腹黒い計画を遂行するために。
◇ ◇ ◇
一方、その頃
私は、レオン様の豪華な私室で、『お説教面談』を受けていた。
「クロエ。何かあれば、必ず俺に真っ先に相談してください!」
「はい」
「一人で勝手に抱え込まない!! 二度と、あの汚らわしい王太子に近づかない!!」
「はい……」
はい、はい、と素直に返すたびに、なぜか胸が『ぎゅっ』と少しずつ痛くなる。
これはたぶん、私が“守られる側”に慣れていないせいだ。
私はずっと、推しを裏から守る側でいた。
バッドエンドから救う側だと認識していた。
それが限界オタクとして当然だった。
なのに今は、推しが私を全力で守ろうとして、私のために王家を敵に回す決闘まで受けようとしている。
推しが強いのはうれしい。
推しが私を狂おしいほど大切にしてくれるのもうれしい。
でも、そのうれしさの裏に、怖さもある。
この人は、私のためなら本当に――『世界』を壊せる。
「クロエ。怖いですか?」
レオン様が、少しだけ声をやわらげた。
私は一瞬、言葉に詰まった。
怖い?その通りだ。
でも、それ以上に――
「……信じています」
まっすぐに、そう言ってしまった。
レオン様の蒼い瞳が、わずかに大きく見開かれ、そして甘く細まる。
「俺のすべてを懸けて、俺の神様のその信頼に応えます」
低い声に、火傷しそうなほどの熱が混じる。
「……はい」
私は小さく息を吐いた。
この一週間が、どうなるのか。
決闘がどう終わるのか。
バカ王太子が何を企んでいるのか。
そして、腹黒アリアがどこまで悪辣に動くのか。
嫌な予感は、ずっとしている。




