第24話 バカ王太子からの側室要求
世の中には、限界オタクの平穏を脅かす“絶対に近づいてほしくない面倒”というものがある。
たとえば、厄介な嫉妬の噂。
たとえば、原作ヒロインのドス黒い憎悪。
そして、その全部を己の権力で踏みつけて「俺がこの世のルールだ」と本気で思い込める、傲慢なテンプレ的バカ王子――もとい、王太子カスティエル・ド・ヴァロア。
私は今日も今日とて、学園の廊下で、特大の嫌な予感を全身にまとっていた。
理由は簡単だ。
先日のS級魔獣襲来事件で、私は王太子殿下の傷をチートクッキーで治してしまった。
結果、殿下は私の名前を覚えた。
そして、殿下の目が、明らかに私を『自分が所有すべき獲物』としてロックオンしているのを肌で感じていたからだ。
ああ、やだ。
やだやだ。
私は推しの隣で静かにお茶を飲んで、ただただ推しの顔面を拝んでいたいだけなのに、どうして王太子イベントが勝手に開幕するのか。
原作本編、モブに対するフラグの暴走がひどすぎる。
◇ ◇ ◇
昼下がり、人気の少ない回廊。
次の授業へ向かう途中で、私は背後から近づく足音に気づいた。
重い靴音。堂々としていて、一切の遠慮がない。
しかも、周囲の空気が威圧感で自然と道を開けるタイプのやつだ。
振り向かなくてもわかる。
「……おい、クロエ」
案の定、低く尊大な声が落ちた。
来た。
最悪のバカが来た。
私はゆっくり振り返り、有能メイドの染み付いた動作で、できるだけ礼儀正しく頭を下げた。
「カスティエル殿下。ごきげんようございます」
「堅いな。俺のことは気安く呼び捨てでいい」
「絶対に無理です」
食い気味に即答してしまった。
やばい。王太子相手にノータイム拒否はやばい。
でも無理なものは無理である。呼び捨てにした瞬間、距離感が完全に終わる未来しか見えない。
殿下は一瞬『むっ!』と不快そうに顔を歪めたが、すぐに自信満々に口元を吊り上げた。
「ふん。まあいい、特別に許してやる」
近づいてくる。
近い。やめてほしい。
距離を詰めて『王族オーラ』の濃度を上げないでほしい。香水じゃないんだから……
「先日の件だ」
殿下は私を上から下まで、品定めするように舐め回すように見た。
値踏みの視線。それだけで胃が『きゅっ』と縮む。
「お前は、俺の傷を治した。ほら見ろ! 完全に治った」
カスティエルは、割れた腹筋を見せつける。
完治したことを自慢したいのか、あるいは言葉に詰まった照れ隠しか。
乱暴にまくり上げられたシャツの奥で、鍛え上げられた筋肉が意思を持つかのように硬く脈打った。
彼は視線をあえて逸らし、ぶっきらぼうに喉を鳴らす。
「まぁ、なんだ、お前は俺の役に立つ女だ」
言い方が最悪だ。
でもこの王太子はたぶん、全力で褒めているつもりなのだろう。
私は営業スマイルを硬く貼りつけた。
「お役に立てて光栄です。では、私はこれで……」
「待て。特別な褒美をやろう」
「結構です」
「は?」
殿下の目が、信じられないものを見るように据わった。
あ、まずい。
この人、“自分からの提案を断られる”という経験が人生で一度もないタイプだ。
断られた瞬間に無駄なプライドが傷つき、その傷を権力で強引に埋めようとする。厄介な存在。
私は慌てて言い直した。
「光栄ですが、その、私は今の生活で十分すぎるほど満たされておりますので……」
「欲がないのか?」
「欲はあります」
「あるのか。なら俺が叶えてやる」
「ありますが、ここでは言えません!」
言いかけて、危うく「推し活と日々の供給方面です」と言いそうになった。
危ない。
王太子に限界オタクの概念を理解させるのは不可能だし、理解されたらそれはそれで最悪である。
殿下は、私の抵抗を女の可愛い照れ隠しとでも受け取ったのか、『ふっ』と余裕ぶって笑った。
「面白い女だな」
ちっとも面白くないです。
私はただの平穏なモブライフが欲しいだけです。
殿下は、さも全世界の女がひれ伏す特権を与えるとでもいうように、堂々と言い放った。
「俺の妻になれ」
「……はい?」
私の思考が完全に停止した。
いや待って。
早い。展開が早い。
クッキーで傷を治しただけで妻要求は早すぎる。攻略フラグの管理が乱暴すぎる。
王太子ルート、バグってません?
「殿下、それはいくらなんでも」
「俺の妻になれば、次期王妃だぞ!」
殿下は声を張り上げ、両手を広げてアピールした。
「エルグランの公爵風情の隣より、未来の国王であるこの俺の隣のほうが、女として圧倒的に魅力的だろう!」
殿下の声には、絶対の自信と甘さがあった。
本人としては最大級の“抗えない提案”なのだろう。
権力、地位、名誉、未来。
相手が尻尾を振って飛びついて当然だと信じ切っている、傲慢な声。
でも。
残念だったな。
私の心は、もう完全に、隅から隅まで『最推し』で染まりきっている。
白銀の髪。蒼い瞳。
冷たくて、強くて、私のためなら国を更地にする勢いで、私にだけやたらと激重な愛情を注いでくる人。
愛してやまない、私の推し。
だから私は、一片の迷いもなく、即座にこう答えてしまった。
「お断りします」
「……は?」
「申し訳ありませんが、私の心はすでに別の方で限界突破するほどいっぱいです」
「誰だ」
殿下の声が、地を這うように低くなった。
私は一瞬だけ迷って、でもここで逃げないと決めた。
曖昧にしたら、もっと面倒になる。
なら、正面から叩きつけるしかない。
「レオン様です」
「……エルグラン公爵か」
殿下の表情が、一段と冷え、醜く歪んだ。
これは恋敵への嫉妬ではない。
王族としての優越感が傷ついた時の、あの嫌な感じ。
自分より下だと思っている者の名が出たことで、露骨に自尊心が傷つけられた顔だ。
「お前、自分の立場を理解しているのか」
「平民のメイドでございます」
「俺は王太子だ」
「存じ上げております」
「公爵など、王家の下だ」
「……身分制度の上では、そうですね」
そこで肯定してしまったのは失敗だった。
殿下の口元が、勝ち誇る形に醜く歪む。
「なら、答えは決まっている」
殿下は一歩近づき、私の逃げ道を塞ぐように壁に手をついた。(※いわゆる壁ドンである。迷惑極まりない)
「公爵の所有物でいるより、俺の隣に立て。俺が直々に決めてやる」
「嫌です」
「嫌?」
「絶対に嫌です」
私の声は少し震えていたけれど、言葉だけは絶対に曲げなかった。
殿下は怒りで眉を吊り上げた。
「俺の妻になれば、国で一番の権力を持つ王妃だぞ!」
「その未来が、私にとって幸福とは限りません」
「身の程知らずの贅沢だな」
「贅沢ではなく、価値観の違いです。私はレオン様のそばにいるのが一番幸せなので」
殿下の目が限界まで細まる。
プライドをへし折られた怒りが、ギリギリと音を立ててにじむ。
「……なら、こうしよう」
殿下は、まるで最大の慈悲と譲歩を与えるみたいな、傲慢な口調で言った。
「妻ではなくていい」
「え?」
「側室になれ」
頭の中が、真っ白になった。
……側室。
軽く言うな。
その言葉の重さを、何だと思っているのか。
いやこのバカ王子、重さなんて一ミリも考えてないか。
王太子の言う側室は、“便利で優秀な道具を囲う所有物枠”くらいの意味だ。
私は思わず息を呑んだ。
「殿下、それはいくらなんでも」
「お前は平民だ」
殿下の声は淡々としている。残酷なくらい、他者の尊厳を踏みにじることに慣れている。
「正妻の座は、力のある高位貴族にくれてやる。だが、お前は特例として俺のモノにしてやる」
「……」
「公爵への見返りは適当にくれてやる。光栄だろう」
よくない。
ぜんぜんよくない。
私の背中を滝のような冷たい汗が滑り落ちた。
ここで私が力技で強く拒否して逃げたら、王太子は確実に意地になる。
意地になった王太子は、王家の権力で無理やり私を奪いに来るだろう。
奪いに来たら、それはそれでまずい。レオン様の激重ヤンデレ殺意が完全に大爆発する。
爆発したら、王都が確実に灰と化す。(物理で)
終わる。国ごと全部終わる。
私は必死で言葉を選んだ。
「私は、誰の所有物でもありません」
「王太子の命令を拒否するのか」
「拒否します。私は、レオン様の……」
言いかけて、止まった。
婚約者待遇。
専属メイド。
彼を支えたい限界オタク。
どれを言っても、この人と前では無駄。
言葉にした瞬間、殿下のくだらないプライドがさらに刺激され、レオン様への敵対心に火をつける。
私はぐっと唇を噛みしめた。
その私の沈黙を、バカな殿下は勝手に身分差に揺らいだと好意的に解釈したらしい。
「ふん」
殿下は勝ち誇ったように鼻で笑った。
「悩む必要はない。お前の運命は、俺が決定してやる」
「勝手に決めないでください!」
「決める。お前は俺のものだ」
「殿下!」
「明日、また話す。覚悟を決めておけ」
去り際の声は、一切の拒絶を許さない命令だった。
私はその場に取り残され、足元の力が抜けそうになって壁にもたれかかった。
最悪だ。本当に最悪だ。
バカ王太子からの側室要求イベント、こんな超序盤で来ることある!?
やっぱりこの世界線、私のチートと推しの無双のせいで、いろいろなフラグが異常加速している。
そして、さらに最悪なことに。
殿下が去っていった廊下の曲がり角の向こうから、ふわりと、甘ったるい香りが流れ込んできた。
◇ ◇ ◇
「カスティエル殿下……お待ちくださいませ」
鈴を転がすような上品な声。
柔らかな足音。
アリア・ベルフォードが、廊下の角から現れた。
完璧に整った可憐な微笑み。
控えめで男心をくすぐる所作。
“男爵令嬢”の弱々しい皮を、一寸の狂いもなく完璧に被っている。
殿下が立ち止まって振り返り、アリアを見た瞬間――廊下の空気がまた、じわりと甘い毒のように変わる。
【魅了】。
露骨ではない。
でも、確実に殿下の苛立ちを丸め、自分の都合の良い方向へ誘導する精神干渉。
「……お前か」
殿下は、さっきまでの傲慢な苛立ちを少しだけ抑え、男の顔になっていた。
「何の用だ」
「失礼いたしました。先ほど、偶然お見かけして……殿下のお顔が、少しお辛そうに見えたものですから」
嘘だ。
辛そうに見えたのではない。
自分が欲した女(私)にフラれて、プライドを傷つけられて苛立っているのを嗅ぎつけたのだ。
そして、その心の隙を利用できると冷酷に判断した。
アリアは、本当にそういう立ち回りが恐ろしく上手くて厄介だ。
殿下は『ふん』と鼻を鳴らした。
「くだらん。俺が辛いわけなどない」
「ええ、存じております」
アリアの声は蜜のように甘い。
でも、言葉は殿下の肥大した自尊心を優しく撫でるように巧妙に作られている。
「殿下が辛いわけがありません。ただ、まわりが……殿下の絶対的な価値を、まだ理解できていないだけでございます」
殿下の表情が、わかりやすく緩む。
落ちた。
早い。クッキーで傷が治るよりも早い。
さすがチート魅了スキルと腹黒コミュ力の合わせ技。
「……お前は、よくわかっているようだな」
「恐れながら」
アリアは視線を伏せ、上品に、でも計算高く笑う。
「殿下の御威光は、この国を照らす太陽のようでございますもの」
うわあ。
言うなあ。「太陽のよう」って。
この王太子、太陽というより周囲を巻き込んで熱暴走する危険な暖炉みたいなところあるんですが。
でも本人は「俺スゲー!」と気持ちよくなるやつだ、これ。
殿下は偉そうに顎を上げた。
「当然だ」
「ええ」
アリアは、さらに一歩、パーソナルスペースへ入り込んだ。
「……殿下が、先ほどのクロエ様にお声をかけていたのも」
「見ていたのか」
「はい。少しだけ」
アリアの目が、うっすらと毒を含んで笑う。
「不思議な力を持つ方ですもの。殿下のお目に留まるのも無理はありませんわ」
殿下が、満足そうに大きく息を吐いた。
「そうだ。あの女の力は俺の役に立つ」
「ええ」
アリアは、周囲を気にするようにさりげなく声を落とした。
「ですが……殿下」
ここからが、彼女の本題だ。
「殿下ほどの方が、ただの平民の女に拒まれるのは」
「……」
「少し、私まで悔しゅうございますわ」
殿下の目が、『ギリッ』と怒りで光る。
そのコントロールしやすい反応を見て、アリアは確信したように微笑んだ。
「殿下は、何も間違っておりません」
「当然だ!」
「ええ」
アリアの声が、さらに甘く脳を溶かすようになる。
チャームが最高潮に濃くなる。
「殿下が望むなら、あの女は、殿下のものになるべきです」
「……」
「殿下の寛大なお心で、側室という名誉ある席を与えてくださるのですもの」
「そうだ」
殿下は大きく頷く。
「俺は、エルグラン公爵の女に譲歩してやったんだ」
譲歩。
あの暴言を、ここで誇りとして出せるのがバカ王太子クオリティである。
でもアリアは、そこを絶対に否定しない。
むしろ全力で持ち上げる。
「殿下はお優しい」
「……」
「きっと、あの方はまだ、自分がどれほど幸福か気づいていないだけなのです」
「ふん、愚かな女だ」
「ですから」
アリアが、悪魔のようにそっと微笑む。
「殿下が、強引にでも『導いて』差し上げればよろしいのですわ」
導く、ね。
権力による略奪の間違いだろう。
殿下は、さっきまでの苛立ちが、見事にクロエへの“執着と征服欲”へ変わっていく顔をしていた。
拒まれたことが、逆に彼の歪んだ熱に燃料を注いでいる。
そこへ、アリアのチャームが油を注ぐ。
最悪のレシピの完成だ。
アリアの腹の中のドス黒い声が、陰に隠れる私にも聞こえた気がした。
(アタシの獲物は、まずこの王太子。次に、最強のエルグラン公爵。)
(アタシの邪魔をするあの生意気なメイドは……王太子に押し付けて、踏みつぶしてやる!)
その微笑みの奥に、もう可憐さは微塵もなかった。
◇ ◇ ◇
私は廊下の陰で、その吐き気のする会話を最後まで聞いてしまっていた。
聞かなければよかった。
でも聞いてしまった。
胃が痛い。頭も痛い。
バカ王太子は権力で私を側室にしたい。
腹黒アリアは王太子を操って私を排除したい。
そして――うちのレオン様は、私が誰かに所有されることなど、国を滅ぼしてでも絶対に許さない。
詰んでる。
完全に詰んでる。
私はゆっくり、絶望の息を吐いた。
……でも。
逃げない。
逃げたら空からお姫様抱っこで強制回収される。それはもう知っている。
だったら私は、正面から向き合うしかない。
まずは、推しにこの危機を報告だ。
「王太子が側室要求してきました」なんて言ったら、推しが王太子を切り刻むに違いない。
でも黙っていたら、それこそ後で大爆発して王都が焦土と化す。
私は覚悟を決めて、一歩踏み出そうとした。
「……明日だ。必ず、俺のものにする」
「ええ、殿下。きっと……」
遠ざかる二人の声を聞きながら、「はあ……」と限界の溜め息をついた、その瞬間。
「――俺の許可なく、俺の神様に触れようとした虫けらがいるようですね」
「ヒッ!?」
背後から、地獄の底から響くような、絶対零度の声が落ちた。
振り向くと、そこには。
周囲の空気を凍てつかせ、瞳の奥で真っ黒な殺意の炎を燃えたぎらせたレオン様が立っていた。
「レ、レオン様!?」
「ええ。一部始終、俺の魔力探知で聞いていました」
嘘でしょ。
いつから!? 全部!? 側室要求から!?
レオン様は私の腰をぐっ、と強く抱き寄せた。
逃がさない。誰にも渡さないという、骨がきしむほどの強さで。
「……国を一つ、更地にする準備に入ります。少々お待ちを」
「お待ちをじゃないです!! ストップ!! クーデターはやめてください!!」
私は慌ててレオン様の胸にすがりつき、必死に物理で止めた。
「レオン様、落ち着いて! 法的に! 社会的に処理しましょう!?」
「俺からあなたを奪おうとする国に、法的価値などありません」
「あります!! 私の平穏な推し活のためにあります!!」
――ああもう。
本当に、ろくでもない修羅場が始まってしまった。




