第27話 決闘開始
最推しが、決闘をする。
この事実だけで、限界オタクの心臓は一回『ぎゅっ』と握られてから、二回目で『みしっ』と嫌な音を立てて軋む。
勝つ負けるじゃない。うちの推しが負けるわけがない。そんな低次元の話ではない。
推しが一ミリでも傷つく可能性が存在する、それがもう私の情緒にとって大事件なのである。
だから私は、決闘三日前の深夜、寮室の机に向かって必死に針を握っていた。
「……よし」
机の上に広げたのは、小さな端切れ。
学園制服の予備布を少し分けてもらったものだ。深い紺色の生地に、銀糸の縁取り。
ただの、お守り。
重要なので二回言う。ただの、お守り。
私は純粋に応援グッズを作っているだけだ。
勝利祈願、無事祈願、絶対無傷祈願。
つまり推しの幸福と健康を祈る、オタクの正しい礼儀である。
……そのはずなのに。
針を進めた瞬間、私の指先から溢れる膨大な魔力が、糸へ『ズズズ……』と吸い込まれていく感覚があった。
「え、ちょ、待って」
手が止まる。
針先が、淡く異常な光を放っている。
「私、ただの裁縫してるだけだよね?」
【裁縫魔法】。
便利なチート生活魔法。
破れた服を直して、ボタンを付け替えて、裾上げを一瞬で終わらせる、平和で健全な家事用魔法。
なのに、糸が光ってる。
静かに、でも確実に、尋常じゃない魔力密度で。
「……いやいやいや」
ただの掃除で聖域結界を張った女が、裁縫で何も起きないわけがない。
ただの煮沸で猛毒を魔力回復バフに変換した女が、巾着を縫ってただの巾着で終わるわけがない。
嫌な予感しかしない。
でも、止められない。
推しの完全無傷がかかっているのだ。
私は限界まで息を吸って、覚悟を決めて針を動かした。
糸が走る。
銀糸が縫い目に沿ってまばゆく光り、布の表面に小さな紋様が浮かび上がる。
花みたな星みたいなでもどちらでもない模様。
「えっ……」
縫い終えた瞬間、『ぱちんっ』と小さく空間が弾けた。
音は小さいのに、部屋の空気だけが一瞬で浄化され、澄み切る。
私は出来上がった巾着を持ち上げて、目を凝らした。
刺繍が、ほんのり光っている。
手のひらの巾着を見ると、胸の奥に熱が灯る。
推しが無傷なら、それでいい。
推しが血を流さなければいい。
推しが少しも痛い思いをしなければいい。
推しが、理性を飛ばさずに平和に帰ってきてくれるなら、なおいい。
◇ ◇ ◇
決闘当日。
朝の空気は、妙に張り詰めて冷たかった。
学園全体が静かで、でも熱狂的にざわついている。
廊下を歩く生徒の会話が、全部同じ方向へ流れていく。
「今日だって」
「王太子殿下と、あの公爵令息が……」
「止められないの?」
止められない。
うん、止められない。
なぜなら、うちの推しがバカ王太子を消し去る気満々で止まる気ゼロだからだ。
私はレオン様の私室の前で深呼吸し、『お守り』を胸元に握りしめた。
ノックをする。
返事がする。
「入って」
扉を開けると、レオン様が窓辺に立っていた。
朝の光を背負った横顔は、今日も息が止まるほど顔面国宝で美しい。
でも目が完全に冷え切っている。
獲物を屠る前の、冷酷な捕食者の目だ。
怖いのに、限界オタクとしては誇らしい。
推しの本気の戦闘態勢、供給のカロリーが高すぎる。
「クロエ」
振り向いた蒼い瞳が、私を見た瞬間だけ、わずかに極上の甘い温度を取り戻す。
その変化が本当にずるい。
「……どうしました」
「えっと」
私は巾着を持つ手を、モジモジと背中へ隠した。
いや、なにこの挙動不審。大の大人が。
でも推しに手作りのプレゼント渡す前って、こうなる。オタクだから。
「何を隠しています?」
「隠してません」
「見せてください」
「……はい」
即落ちである。
レオン様の視線からは逃げられない。
私は観念して『モジモジ』しながら巾着を差し出した。
「こ、これ……」
「……?」
レオン様が不思議そうに受け取り、長い指先で縁をなぞる。
銀糸の刺繍が、かすかに魔力の光を返す。
「お守りです」
「……俺への、お守り」
「はい。あの」
緊張で喉が詰まる。
「万が一にも、推しが……じゃなくて、レオン様が傷ついたら絶対に嫌なので」
言った瞬間、レオン様の瞳が大きく揺れた。
氷のように冷たかった蒼の底に、ドロドロとした熱が急速ににじむ。
「……あなたが」
声が甘く低くなる。
「俺のことを心配してくれた」
耳まで熱くなる。
「そ、そりゃ心配します! 大切なので! 決闘とか、私の心臓に悪いので!」
レオン様の口元が、ゆっくりと持ち上がった。
私にだけ見せる、狂おしいほど危うい歓喜の顔。
「クロエ」
彼は『お守り』を、自分の心臓に当てるように大切に胸元へ握りしめた。
「これは、あなたからの『愛の証』ですね」
「違います」
ピシャリと冷たく言い放った言葉とは裏腹に、クロエの白い頬はみるみるうちに朱に染まっていく。
否定されてもなお、幸せそうに笑う彼にいたたまれなくなり、彼女は身振り手振りを交えて必死に言葉を紡いだ。
「違うんです! ただの安全確保の応援グッズです!」
「可愛い」
「可愛くないです!」
「可愛い」
「話を聞いてください!」
「聞いています」
低い声に、爆発しそうな嬉しさが滲む。
「あなたが、俺の無事だけを祈って、これを作ってくれた。それ以上の愛の形が、他にありますか?……俺のすべてを懸けて、お応えしましょう」
ある。愛以外の形(推し活)が。
あるんだけど。
ここで私がそれを言語化して否定したら、彼の情緒がどうなるかわからない。
私は真っ赤になって視線を逸らした。
「……勝敗より、無事が大事です」
「ええ」
レオン様は静かに頷く。怖いくらい落ち着いている。
「だからこそ、確実に終わらせます。あなたに二度と、あんな不快な言葉を聞かせないために」
あんな言葉――側室要求。
胸が『きゅ』っと痛む。
レオン様の声が、さらに一段と低く、冷酷なものになる。
「俺のクロエを侮辱した。その罪は、万死に値する」
そして彼は、暗く淡く笑った。
「……今日の俺は、とても機嫌がいい」
「え?」
「あなたが、俺に愛の証(お守り)をくれたから」
レオン様はそう言って、私の額へ軽く口づけるような至近距離で囁いた。
「見ていてください」
「……」
「あなたに捧げる、俺の完全な勝利を」
「勝利より無傷での生還です!」
「完全無傷で勝つ」
その言い方が、あまりにも絶対の確信に満ちていて。
私はただ、祈るように頷くしかなかった。
◇ ◇ ◇
決闘場は、学園の中央闘技場。
すり鉢状の観客席には生徒がぎっしり。
教師陣も並び、王宮の騎士団の監督役まで来ている。
学生の決闘でここまで物々しくなるのは異常だ。
私は前列――ではなく、レオン様から厳命された最も安全なVIP席へ座らされていた。
周囲に強固な物理結界の気配がある。過保護。ありがたい。でも重い。
そして。
「……来た」
闘技場の入口から、カスティエル殿下が現れた。
目が血走っている。
比喩じゃない。白目が異常に赤い。呼吸が荒い。
笑っているのに、笑い方が薬物中毒者のようにひきつっている。
そして何より――黒い。
赤黒いドス黒い靄みたいな魔力が、殿下の周囲にまとわりついている。
普通の魔力の発光じゃない。
身体を内側から蝕む、劇薬の魔力。
殿下は闘技場の中央へ進み、ぎらぎらした異常な目でレオン様を睨んだ。
「……エルグラン公爵」
声が掠れている。
怒りと興奮と、異常な魔力による妙な快楽が混じっている。
「今日で、貴様の終わりだ」
「終わりにするのは、あなたのほうです」
レオン様の声はいつも通り冷たい。
殿下は下品に笑った。
「俺が勝ったら」
ねっとりとした、欲望に満ちた甘い声。
「あのメイドのクロエは、俺の側室だ」
観客席が凍る。
私の胃が不快感でひっくり返る。
次の瞬間、レオン様の空気が目に見えて絶対零度に冷え切った。
「……その穢れた口で、彼女を語るな」
地を這うような低い声。
殿下は、逆にそれで気持ちよくなったみたいに下劣に笑う。
「嫌か?」
「反吐が出る」
即答したのは私ではない。レオン様だ。
はっきり、全観衆の前で断言した。
「クロエは、永遠に俺のそばにいる」
殿下の目がぎらつく。
理性の端が、ぽろぽろと剥がれ落ちていくのが見える。
そのとき――観客席の影で、ふわりと甘ったるい香りがした。
私は視線を走らせる。
アリア。
影の奥で、上品な微笑みを浮かべていた。
けれどその目の奥は、濡れた黒曜石みたいに冷酷だ。
(さあ、壊れて)
アリアの視線は、私ではなくレオン様に向いている。
バカ王子が暴れて弱ったところを、『魅了』で落とす気だ。
進行役の教師が、恐怖で震える声で宣言した。
「こ、これより……決闘を開始する!」
風が止んだ。
レオン様が流麗に剣を構える。
胸元のお守りが、淡く光った。
カスティエル殿下が、歪んだ笑みで魔力を異常に膨らませる。
赤黒い靄が渦を巻き、闘技場の空気が死の臭いに濁る。
「見ろ……!」
殿下の声が、妙に高く跳ねた。
「これが、俺の真の力だ……!」
次の瞬間。
殿下の魔力が、爆発した。
「っ……!」
観客席の結界が軋む。
教師たちが青ざめる。騎士団監督役が前へ出ようとして、でもその異常な圧に足を止める。
異常な魔力量。殿下の背中が、異形に歪む。
骨格が変わるとか、そういう露骨な変化ではない。
でも、人間の輪郭が崩れていく。
黒い靄が皮膚を這い、目の白がさらに赤く染まり、『魔人化』の兆候を見せる。
「う、うあ……!」
殿下の喉から、声にならない獣の声が漏れた。
それが苦痛なのか快楽なのか、もう判別できない。
――理性が、完全に落ちている。
アリアが影で、ほんの少しだけ口角を上げた。
(いいわ。そのまま暴走して)
殿下の手のひらに、ドス黒い光が集まる。
「壊せ……!」
殿下の声が、完全に獣じみる。
「俺をコケにする奴は……全部……邪魔だ……!」
黒い魔力が膨れ上がり、巨大な球体になる。
「殿下、やめ――!」
教師の叫びが届く前に、殿下は狂ったように笑った。
「呑み込め、漆黒の――『極大破壊』」
放たれる。
巨大な漆黒の奔流が、闘技場全体を飲み込む勢いで広がった。
観客席の結界が悲鳴を上げる。
視界が黒に染まる。
「レオン様――!」
私の喉から、悲鳴が飛び出した。
その瞬間。
レオン様が、動いた。
一歩。
たった一歩前へ出る。
なのに闘技場の空気が完全に変わる。
冷たく、静かに、絶対の支配者が場を掌握する。




