第20話 原作ヒロイン「アリア」
人は、特大の嫌な予感がする時ほど、だいたい百発百中で当たる。
たとえば、乙女ゲームのメインステージである学園の正門をくぐった瞬間とか。
たとえば、モブメイドの分際でなぜか『婚約者待遇』という爆弾を背負って同伴する羽目になった朝とか。
そして何より――
「……来たな」
私は王立学園の中庭へ続く回廊で、遠くに見えた『その姿』を視認した瞬間、限界オタクの危機管理センサーを最大級に鳴らした。
春の光が降りそそぐ王立学園。白亜の校舎。噴水の音。
そして、色とりどりの制服に身を包んだ貴族子女たちのざわめき。
これぞ乙女ゲーム、というキラキラした風景の中心に、ついに本来の『主人公』が表舞台へ上がってきたのだ。
淡い蜂蜜色の髪。風に揺れる柔らかな巻き毛。透き通るような白い肌。
男爵令嬢らしい控えめな制服の着こなしなのに、ぱっと見た瞬間、誰もが“可憐”と認識してしまう圧倒的な愛らしさ。
アリア・ベルフォード。
原作ヒロイン。
そして、この世界線では、かなり厄介な意味で“敵”になる腹黒少女。
「うわあ……」
私は遠巻きにその姿を見ながら、なんとも言えない声を漏らした。
いや、わかる。
ビジュアルの強さは認める。これは確かに、ゲーム画面越しでも人気が出る。
男の庇護欲をそそる儚げさ、でもちゃんと目を引く華やかさ。正統派ヒロインの皮をかぶるには、あまりにも完成度が高い。
だが私は知っている。
その可憐な外見の内側で、えげつない逆ハーレム計画を計算していることを。
「クロエ」
すぐ隣から、ひどく低い声が落ちてきた。
私は『びくっ!』と肩を揺らして顔を上げる。
しまった。またしても、だいぶ親の仇のような真顔で観察していたらしい。
そこには当然のように、私の最推し・レオン様がいた。
王立学園の男子制服をきっちり着こなし、今日も今日とて、存在だけで周囲を黙らせる国宝級の美貌と威圧感を放っている。
ほんとうに困る。
アリアという“原作ヒロインの初登場イベント”の最中でも、私の情緒は推しの横顔ひとつで激しく揺れるのだ。心が忙しい。
「どうしました」
レオン様は、私の視線の先をたどるようにアリアの方を一瞥し、静かに問うた。
「ええと……」
私は少し迷ってから、正直に答える。
「かなり厄介で、面倒な人だな、と」
「知っているんですか」
「まあ、その……私のオタクの勘が働くといいますか」
「あなたの勘は、俺にとって絶対です」
「それ、信用が重すぎるんですよね」
「ええ」
あっさり認めた。
でも、その重さの裏にあるのは、冗談ではなく絶対の信頼だ。
この人はもう、私が何かに嫌な予感を覚えた時点で、かなり本気で相手を『警戒・排除対象』へ入れる。
ありがたい。
でも少し怖い。主に“その後の武力対応”の容赦なさが。
私はそっと息を吐いた。
「とりあえず、あの方は様子見でお願いします」
「俺は最初から、息の根を止めて潰しておきたいんですが」
「だめです」
「……俺のクロエはやはり甘い」
「知ってます」
「あなたはいつも、自分に危険が及ぶ寸前まで我慢する」
「否定しづらい言い方をしないでください……」
レオン様は、わずかに目を細めた。
冷たい。
でも、その氷のような冷たさの向きは私ではなく、はっきりとアリア側へ向いていた。
うん。わかる。
この人、今の段階でだいぶ彼女を嫌ってる。
というか、私が“厄介”と評した時点で、もう相当な抹殺警戒ランクへ入れたに違いない。
そして、その直後。
「あっ……」
中庭の空気が、目に見えない形でドロリと変わった。
◇ ◇ ◇
『魅了』スキル、というのは、もっと派手なものだと思っていた。
光るとか。魔法陣が出るとか。わかりやすく怪しいピンク色のエフェクトがつくのかと。
でも違った。
アリアはただ、控えめに、恥じらうように微笑んだだけだった。
それだけだ。
それだけなのに。
周囲にいた高位貴族の男子生徒たちの目の色が、じわり、と濁るように変わる。
「……え?」
私は思わず瞬きをした。
いきなり操り人形みたいになるわけではない。
でも、さっきまで普通に友人と話していた男子が、会話の途中でふと口を止め、アリアを見る。
その表情がゆるむ。声の調子がやわらかくなる。
理由もなく、“彼女を助けてあげたい”“優しくしたい”という方向へ、感情だけが強制的に傾いていく。
うわ。
生々しい。思ったよりずっと生々しい。
「大丈夫?」
「ひとりなの?」
「何か困っていることはない?」
そんなふうに、自然な顔で男子生徒たちが彼女の周囲へ群がり始める。
気持ち悪いほど自然だ。
だって本人たちは、自分が“魅了スキルで洗脳された”なんて露ほども思っていない。自分の意志で可憐な少女へ親切にしているつもりなのだ。
性格が悪い。
本当に悪い。アリア本人の腹黒さもそうだが、このスキルの仕様そのものが悪質すぎる。
私はぞわりとした背筋を押さえるように腕を組んだ。
「……チャーム、強っ」
思わず漏れる。
「クロエ?」
レオン様がすぐに声を潜めた。
「何か見えましたか」
「見えたというか」
私は周囲の男子たちを示すように小さく目配せした。
「空気ごと、じわっと脳を塗り替えるタイプの洗脳です」
「……」
「無自覚に効く分、かなり嫌ですね」
レオン様は黙ってアリアを見ていた。
その完璧な横顔が、すっ……と絶対零度に冷たくなる。
「なるほど」
ひどく静かな、虫けらを見るような声だった。
「たしかに、害悪だ」
私はその声音に、ほんの少しだけ安堵する。
よかった。レオン様には一ミリもかかっていない。
まあ、そりゃそうだろう。
この人の頭の中身、私のことで九割九分くらい埋まってそうな勢いである。
そこへ入り込む余地なんて、チート魅了スキルにもそう簡単にはないに違いない。
……いや待て。
それはそれでだいぶヤンデレみがあって怖いな?
でも今は見なかったことにしよう。私は推しのメンタルリハビリ担当であって、その激重感情の総量を逐一測定していたら私の心臓が持たない。
その時。
中庭の奥から、ざわりと別の、より大きなざわめきが走った。
「殿下が……」
「王太子殿下よ」
「あちらへ……?」
私は反射的に顔を向けた。
来た。
カスティエル・ド・ヴァロア。
この国の王太子。
原作攻略対象のひとりにして、傲慢で、自意識過剰で、立場と権力で何でも押し切れると思っている、いわゆる“バカ王子”である。
金髪。整った顔立ち。高価な制服の装飾。
王族特有の、他者に道を譲る気のない高慢な雰囲気。
顔だけなら華やかだ。
だが、私にはもう、“ああ、一番面倒くさいのが来た”という限界オタクの感想しかない。
カスティエル殿下は、まっすぐアリアの方へ視線を向けた。
その瞬間だった。
アリアが、ほんの少しだけ顔を上げ、上目遣いで控えめに微笑む。
まるで、偶然目が合ってしまったことを恥じるみたいに。
でも、その笑みの奥に、どす黒い計算がある。
きた。
やる気だ。
完全に王太子を落としにきている。
次の瞬間。
王太子の目が、明確にトロンと変わった。
「……あの愛らしい娘は誰だ」
低い、けれどはっきり欲情と興味を帯びた声。
側に控えていた取り巻きの男子生徒が、少し戸惑いながら答える。
「男爵家のご令嬢かと……」
「名は」
「アリア・ベルフォード、と」
「……アリア」
王太子は、その名をひどく甘く口の中で転がすように繰り返した。
うわあ。
出た。完全なる即落ち。
早い。思った以上に初速がえぐい。カップ麺より早い。
魅了スキル、おそるべし。
王族だろうと貴族だろうと、根っこの欲望と自尊心が強い相手ほど、むしろ気持ちよく沈むのかもしれない。自分が“選んだ”つもりで落ちるからだ。
「あれは、俺の前へ出すべきだろう。俺にふさわしい」
王太子が、さも当然のようにそう言い放った。
うわあ。最悪だ。
もう言った。出会って数秒で言った。
原作でもだいぶ短絡的だったけど、現実で見るとバカさ加減の破壊力がすごい。
本当に権力と欲望の塊みたいな人だな、この人。
私が思わず顔をしかめていると、すぐ横から、ひどく低い声がした。
「……随分と、愚かでわかりやすい」
レオン様だった。
その声音には、絶対的な軽蔑がきれいに混じっていた。
氷みたいに冷たいのに、底のほうで不快感の炎が静かに燃えている。
私は慌てて小声で返す。
「だ、だから言ったでしょう、厄介なんです」
「ええ」
「しかもバカ王太子まで巻き込まれると、面倒が段違いです」
「なら、なおさら」
レオン様の蒼い瞳が『スッー』と細まる。
「今のうちに二人まとめて消したいですね」
「だめです」
「まだですか」
「まだです!」
物騒。
あまりにも物騒。
この人、学園二日目で「王太子ごと物理で抹消プラン」へ思考が飛ぶの、本当にやめてほしい。
でも止めないと本当にやりかねないので、こちらも必死である。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
私は学園の回廊を歩きながら、深く考え込んでいた。
原作ヒロインのアリア、エンカウント完了。
チート魅了スキル、確認。
王太子カスティエル、初手で即陥落。
うん。かなりよくない。
シナリオ通りなんだけど、いざ現実で目の前にすると、嫌さの解像度が段違いだ。
あの空気の塗り替え方。あの媚びた笑顔の作り方。
あれは本当に、確信犯だ。
高位貴族の男子を落として、周囲を固めて、逆ハーレムの盤面を整える気満々だ。
「性格が悪い……」
ぽつりと呟く。
だが同時に、私は別の意味でも頭を抱えていた。
レオン様のほうである。
この人、今の一件でアリアに対する危険認定(殺意)をだいぶ上げた。
そして王太子に対しても、すでにかなりの低評価(ゴミ認定)を固めた。
うん。知ってる。わかる。私も同意見です。
でもこの人の場合、その評価がそのまま“俺のクロエのために消しておきたいですね”に直結するのが最大の問題なのだ。
学園生活って、もっとこう、平和な授業とか友人作りとか、穏やかな日常イベントがあるはずでは?
私が『ふーっ』と深い息を吐いた、その時。
「クロエ」
すぐ背後から、甘く低い声が落ちた。
私は『びくっ!』とした。
近い。
本当に近い。
この人、学園へ来てからも距離感が一切変わらない。
いや、むしろ周囲の目があるぶん、“俺のものだ”というマーキング的な接近が増していないだろうか。
「はい」
「また、考え込んでいますね」
「ええ、まあ……」
私は少し迷ってから、正直に言った。
「あのアリア嬢のことを」
その瞬間、レオン様の目が、ほんのわずかに冷たく濁った。
「……気になりますか」
「かなり」
「……そうですか」
その返答に、妙な重い含みがあった。
あれ?
なんだろう。
今の、“警戒対象として気になりますよね”という流れの返事ではなかった気がする。
私は首を傾げた。
「レオン様?」
「いえ」
彼は淡々と視線を前へ戻した。
「あなたが、ああいう類の人間をどう見るのか、少し気になっただけです」
「どう見るも何も」
私は顔をしかめる。
「表向きの可憐さの作り方が上手すぎて、だいぶ腹立たしいですね」
「腹立たしい?」
「だって、あれで中身は逆ハーレム構築に全振りなんですよ?」
「……」
「努力の方向性が最悪すぎます。あんなのに騙されるなんて」
そこで、レオン様が『ふっ』と息を漏らした。
笑ったのだ。
ほんの少し。でも、たしかに。
「よかった」
「え?」
「何でもありません」
いや、あるだろう。
今のは明らかに「俺以外の存在に興味を惹かれていないか」という嫉妬と安堵が混ざっていただろう。
でも問い返す前に、彼は歩幅を緩め、私のすぐ隣へぴったりと並んだ。
「それより」
「はい」
「今後、あの汚らわしい女には一歩も近づかないでください」
「……」
「できれば、あなたの視界にも入れたくありません」
「そこまで?」
「ええ」
彼は低く、甘く拘束するように続ける。
「俺の大切なあなたに、指一本触れさせたくない」
胸が『どくん!』と激しく鳴る。
だめだ。
そういう、静かで本気なヤンデレボイスは反則である。
重い。すごく重い。
でも、その重さの全部が私への純粋な保護と独占欲でできていることがわかるから、やっぱり抗いにくい。
私は小さくうなずいた。
「わかっています」
「本当に?」
「はい」
「……」
「私だって、ああいうタイプは生理的に苦手です」
すると、レオン様は少しだけ目を細めた。
心底満足したように。
でも同時に、まだ足りないとでも言いたげに。
「なら、いい」
その言い方に、また少しぞくりとする。
この人、最近ほんとうに私への執着を隠さないな、と、私は真っ赤になりながらぼんやり思った。
◇ ◇ ◇
その日の放課後。
私は寮室の机に頬杖をつきながら、今日一日を振り返っていた。
(レオン様、私に夢中すぎるだろっ!! それにしても、王太子、見事に陥落したな……)
華やかで。騒がしくて。きらきらしていて。
でもその下で、感情と欲望と権力が、ものすごく面倒な形で絡み始める。
そして、私はそのど真ん中にいる。
本来なら。
原作のモブである私は、たぶん背景にも映らない。
でも今は違う。
公爵の婚約者待遇として学園へ入り、原作ヒロインと王太子の初動まで特等席で見てしまった。
「ああもう……」
私は机に突っ伏した。
「波乱の予感しかしない……」
けれど、嫌ではなかった。
怖いし、面倒だし、できれば平和でいてほしい。
それでも、この激重な推しのそばにいて、この先の未来を一緒に変えていけるのなら。
たぶん私は、まだまだ頑張れる。
だって私は、最推しの幸せのためなら、何度でも世界と戦う覚悟がある限界オタクなのだから。
――そして、この日。
アリア・ベルフォードは、王立学園における最初の一手を打った。
可憐な笑顔の裏で、男子たちの心へ爪を立て、逆ハーレムの土台を築き始めたのだ。
一方、バカ王太子カスティエルは。
その魅了の餌食となり、原作通り、きわめて順調に面倒な方向へ傾き始めていた。
そして、レオンは。
そんなすべてを見ながら、クロエへ近づく危険を、静かに、一つずつ「排除リスト」へ数え始めている。
この時の私はまだ、
「原作ヒロイン、やっぱり厄介だな……」
くらいの感想で済ませていたけれど。
残念ながら。
この学園で本当にいちばん危険なのが、魅了スキルを使うアリアなのか。
それとも、“クロエのためなら王族すら平然と消しかねない”うちの最推しなのか。
その答えは、たぶんまだ、誰にもわかっていなかったのである。




