第19話 王立学園入学式
人は、最推しの晴れ舞台を目の当たりにすると、わりと簡単に人間の語彙を失う。
たとえば、王立学園の豪奢な正門前。
春の眩しい朝の光に照らされながら、白亜の美しい校舎を背に立つ最推しを見た瞬間とか。
「……だめ。尊い」
私はそう呟いて、思わず動悸のする胸元を両手で押さえた。
だって見てほしい。
見てください。
今日のレオン様、あまりにもビジュアルの完成度が高すぎる。
王立学園の制服は、貴族の子弟らしい気品と実用性を兼ね備えた、実に嫌味のない上等さでまとめられている。
深い紺の上着に銀糸の縁取り。
高位貴族だけに許される肩章。
白い手袋に、チリ一つなく磨き上げられた革靴。
そこへ、あの光を弾く白銀の髪と、冷ややかな氷の蒼い瞳が乗るのである。
強い。
あまりにも強い。
十八歳になった最推し、ただでさえ顔面偏差値がカンストしている冷酷公爵令息なのに、そこへ「王立学園新入生」という、人生で最も制服が似合う青春の概念が追加されてしまった。
こんなのもう、王立学園の広報ポスターにして国中にばら撒くべきでは?
いや駄目か。全校生徒の情緒が死ぬし、王都の治安が悪化する。
「クロエ」
低く美しい声が降ってきて、私は「はっ!」と顔を上げた。
しまった。
またしても、だいぶ真顔で穴が開くほど見つめてしまっていたらしい。
「はい」
「どうしました」
「いえ、その……」
私は小さく、オタクの深呼吸を吸う。
「学園という青春の舞台における推しの破壊力に、私の心臓が少々耐えきれていないだけです」
「……また、よくわからないことを」
「ですが事実です。眼福です」
すると、レオン様はほんのわずかに、私にだけ向ける甘い目元へやわらげた。
その無自覚な表情の変化だけで特大の追加ダメージを受けるのだから、本当に困る。
なぜこの人は、学園へ来てもなお、私の前だけ温度差で殴ってくるのだろう。
私は、自分の制服の裾をそっと整えた。
かわいい。
ほんとうにかわいい。
昨夜から鏡の前で何度も思っているが、やはりかわいい。
レオン様が直々に見繕ってくださった特注の女子制服は、上品で、清楚で、それでいてちゃんと私に似合うように仕立てられている。
かわいい制服の私と、顔面国宝の推しの並び。
最高である。
公式からの供給としては完璧だ。
ただし問題は、その“完璧な並び”が周囲に与える影響だった。
正門から入学式の講堂へ向かう道の途中、すでに貴族令嬢たちの突き刺さるような視線がこちらへ集まり始めていた。
「あの方が……」
「あの冷酷と噂の、エルグラン公爵家の……」
「聞いた? 隣の娘、婚約者待遇で入学なさったとか」
「でも、ただの平民のメイド上がりだと……」
「平民? あのお方が? まさか」
「でしたら、どうしてあのように大切に……」
ひそひそ。
ひそひそ。
好奇と嫉妬の視線と囁きが、まるで春先の虫の羽音みたいにそこかしこで鳴っている。
うん。
まあ、そうなるよね。
だってそうだ。
ただでさえ誰もが遠巻きにする、圧倒的な美貌と覇気を放つ若き公爵令息がいる。
しかもその隣にぴったりとエスコートされているのは、出自のはっきりしない女子生徒。
さらに“特例の婚約者待遇”という爆弾つき。
最悪の噂が立たないほうがおかしい。
私は小さく肩をすくめた。
「……だいぶ見られていますね」
「当然です」
レオン様は、有象無象を一瞥もせずに淡々と言った。
「俺があなたをここへ連れてきた時点で、こうなることはわかっていました」
「もう少し、こう……穏便な身分の方法はなかったのでしょうか」
「ありません」
「迷いがなさすぎませんか」
「あなたを付き人のような曖昧な立場に置くほうが、害虫が寄ってきて危険です」
その返答は、ひどく静かで、ひどく自然な独占欲に満ちていた。
ああ。
この人は、やっぱり一歩も引く気がない。
私を曖昧な立場に置かない。
誰にも軽んじさせない。
その一点に関して、まるで迷いがないのだ。
愛が重い。
すごく重い。
でも、その重さが嫌ではない自分もいて、私はまた少しだけ困るのだった。
◇ ◇ ◇
講堂での入学式そのものは、ひどく厳かで、ひどく華やかだった。
高い天井。
重厚な王家の紋章。
壇上に並ぶ威厳ある教師陣。
整然と並ぶ新入生たち。
そしてその中で、レオン様はやはり異常なほど目立っていた。
目立つ、という言葉では足りないくらいに。
姿勢が違う。
纏う空気が違う。
ただ立っているだけで、周囲の誰もが畏怖して無意識に距離を取ってしまうような、完成された絶対者の威圧感と美しさがある。
ああ、好きです。
知ってましたけど。
でもこうして客観的に見ると、改めて好きだなって再認識する。推しというのは、何度見ても好きが限界突破で更新されるから怖い。
式典が終わり、新入生たちが歓迎会の会場へ移動し始める。
その流れの中で、私ははっきりと肌で感じた。
空気が、変わったのだ。
さっきまでの遠巻きな囁きが、今度はもっと露骨な悪意の形になる。
「あの子、やっぱり平民のメイドなのよ」
「エルグラン様がお優しいからといって、同列に振る舞うなんて身の程知らずだわ」
「婚約者待遇なんて、いったいどんな卑しい手を使ったのかしら」
「使用人あがりの分際で」
「本当に、学園の品位が落ちるわね――」
ほら来た。
乙女ゲームお約束のテンプレである。
貴族社会というのは、外から見ている分にはレースと宝石で飾られた華やかな世界だが、その実かなり陰湿で排他的だ。
ましてやここは、若くてプライドの高い令嬢たちの集まりである。
自分たちの秩序へ、どこの馬の骨とも知れない女が、最上位の男と並んで入ってきたら。
そりゃ面白くないだろう。
歓迎会の会場へ入る頃には、私は見事に“目に見えない令嬢たちの輪”の外へ追いやられていた。
令嬢たちは私の周りだけ、きれいに空間を空ける。
話しかけもしない。
こちらが近づけば、ひどく上品な顔で嫌悪を隠さず半歩下がる。
直接暴言を吐くほど露骨ではないが、“あなたは私たちとは違う卑しい側だ”と全身で示してくる、いじめの基本スタイル。
うん。
わかりやすい。
私は会場の片隅で、しみじみ思った。
「なるほど、これが学園貴族社会の洗礼……」
ちょっと感心すらしてしまう。
いや、感心している場合ではないんだけど。
でもあまりにも教科書通りで、“おお、これが前世の噂に聞くやつか”という謎の感動体験になってしまったのだ。
そして、正直に言うと。
別にそこまで一ミリも傷ついていなかった。
いやもちろん、歓迎されているわけではないのはわかる。
あえて輪の外へハブられているのもわかる。
でも、だからどうしたという話でもある。
私はもともとモブメイドだ。
壁際、片隅、背景、脇役、むしろそこがホームポジションである。
プライドの高い令嬢たちの中心に立ってきらきらと気を遣いながら交流するより、会場の隅で全体を見渡しながら、おいしそうなお菓子の位置を把握するほうが、オタクの性に合っている。
そう。
お菓子である。
私はふと、歓迎会の中央テーブルへ視線を向けた。
そこには、色とりどりの菓子が宝石のように並んでいた。
小さなベリーのタルト。
ふわふわのスポンジケーキ。
艶やかなフルーツを飾ったゼリー。
焼き菓子の山。
さらに、黄金の蜂蜜をふんだんに使ったらしい小ぶりなパイまである。
「……えっ、すごい」
思わず小声が漏れた。
いや待って。
歓迎会ってこんなに本気なんです?
貴族社会の社交って、こういう見栄の張るところで本気を出してくるから侮れない。
見た目も美しいし、香りもいい。
しかも会場の規模からして、料理人も王都の超一流だろう。
原作本編の不穏とか、令嬢たちの冷たい視線とか、一瞬でどうでもよくなるほど魅力的な甘味群である。
あっ、だめだ。
私いま、完全にテンションが上がっている。
◇ ◇ ◇
「クロエ」
少し低い声で呼ばれて、私は振り返った。
そこには、やや不機嫌そうなレオン様がいた。
うわ。
来た。
たぶん、令嬢たちの私に対する露骨なハブり態度を見ていたのだろう。
蒼い瞳が、静かに、でもひどく冷たく沈んでいる。
「どうしました?」
私は首を傾げた。
レオン様は一歩近づき、周囲の令嬢たちへ一瞥だけくれた。
その殺気を孕んだ絶対零度の視線を浴びた瞬間、何人かが明らかに青ざめて顔色を変え、目を逸らす。
そりゃそうだ。
私でもあの温度の冷たさにはちょっと怯む。
「何か、言われましたか」
ひどく抑えた声だった。
ブチギレているのが、むしろよくわかる危うい声。
私はきょとんとした。
「え?」
「あのゴミ共に、のけ者にされていたでしょう」
「まあ、そうですね」
「……」
「でも、プライドの高い貴族令嬢の皆さまからすれば、メイドが混ざればそりゃそうかなと」
「クロエ」
「はい」
「そういう身分の話をしているんじゃない。俺が潰す」
ああ、だめだ。
完全に推しを心配させている。しかも物理で排除しようとしている。
でも、私は本当にそこまで気にしていなかったのだ。
むしろ、ありがたいくらいである。
無理に話しかけられて、腹の探り合いの令嬢社会の会話へ参加させられるほうがしんどい。
私はもともと、推しを遠くから拝みつつ、隅でお茶と菓子を楽しむタイプのオタクなので。
「大丈夫です」
私は素直に笑った。
「本当に」
「……」
「こういうの、わりと平気です」
「平気」
「はい。むしろ」
私はちらり、と中央のテーブルを見る。
「あのお菓子がすごくおいしそうなので、今かなり心が満たされています」
「……」
「だから、大丈夫です」
数秒の沈黙。
それから。
レオン様は、ほんの少しだけ、信じられないものを見る顔をした。
「今、その状況で」
「はい」
「菓子の話を?」
「重要では?」
「……」
「歓迎会の質は、甘味の完成度に出ると私は思っております」
「初耳です」
「今、私が提唱しました」
すると、レオン様は一瞬、呆れたように息を吐いた。
でも、そのあとすぐに、ほんの少しだけ口元をやわらげる。
あっ。
いま笑った。
よかった。
ちょっと空気が戻った。
「あなたは本当に」
彼は低く、静かに言った。
「ぶれませんね」
「お褒めに預かり光栄です」
「褒めてはいません」
「でも半分くらいは呆れながら許してくださっている甘い顔です」
「……よく見ていますね」
「推しの表情筋の動きは最重要項目ですので」
そう返した瞬間、彼の目が少しだけ細くなった。
その変化が、どうにも甘い。
この人、こういう瞬間にさりげなく距離を詰めてくるから油断ならない。
「……でしたら」
レオン様は小さく息を吐いた。
「せめて、俺がそばにいる時くらいは」
「はい?」
「無理に平気なふりをしないでください」
その言葉に、私は少しだけ目を見開いた。
ああ。
そうか。
この人は、私が“気にしていない”と言っても、それをそのまま楽観視はしないのだ。
強がりかもしれない。
我慢かもしれない。
そういう可能性まで含めて、私を守ろうとしてくれている。
優しい。
でも、重い。
やっぱり重い。
私は少し考えてから、正直に答えた。
「……平気なふり、ではないです」
「……」
「本当に、そこまで傷ついていないんです」
「本当に?」
「はい」
私は少しだけ笑った。
「だって、ほら」
視線を、またお菓子のテーブルへ向ける。
「見てください。あの蜂蜜タルト、ものすごくおいしそうです」
「……」
「たぶん今の私は、令嬢たちにのけ者にされていることより、あのタルトを取り損ねることのほうが百倍つらいです」
「それはどうなんです」
「限界オタクの健全な食欲です」
「違う気がします」
その返しに、私は思わず吹き出した。
ああ、よかった。
これで少しは、レオン様の警戒が和らげばいい。
そう思ったのだが――。
「では」
彼は静かに言った。
「ここで待っていてください」
「え?」
「取ってきます」
「えっ」
「あなたが食べたいのでしょう」
「そ、それはそうですが」
「なら、座っていてください」
ひどく当然の口調だった。
「あなたがあそこへ行けば、また害虫の余計な視線が集まる」
そう言い残し、彼は中央テーブルへ向かって歩き出す。
うわあ。
やめてほしい。
いや、やめてほしくはない。
普通にうれしい。
でも、学園歓迎会の真っ最中に、最強の顔面国宝公爵令息が、婚約者待遇の平民娘のために自らお菓子を取りに行くのは、嫉妬の噂が爆発するに決まっている。
案の定、会場のあちこちでざわめきが起こった。
「えっ、まさか」
「ご自分で……!?」
「メイドなんかのために、どれほど大切になさっているの……」
「信じられないわ」
「本当に婚約者なの……?」
ひそひそひそ。
ざわざわざわ。
うん。
そうなるよね。
私は片隅で小さく肩をすくめた。
でもその一方で、どうしようもなく胸の奥があたたかい。
だって、この人は。
周囲の視線も、貴族令嬢たちの牽制も、ぜんぶ承知のうえで、私のために真っ直ぐ動いてくれるのだ。
やがて戻ってきたレオン様の手には、銀の小皿があった。
そこに載っていたのは、私が気になっていた蜂蜜タルトに、木苺の焼き菓子、クリームを挟んだ軽いパイ、さらに甘さが重なりすぎないよう果実入りの小さなゼリーまで完璧なバランスで添えられている。
完璧か?
「どうぞ」
「……すごい」
私は目を丸くした。
「私の気になっていたもの、ほとんど全部入ってます」
「俺があなたを見ていればわかります」
「こわ」
思わず本音が漏れた。
すると、レオン様は少しだけ目を細めた。
「今さらでしょう」
「それはそうかもしれませんが……」
「あなたが何を見て目を輝かせるか」
彼は静かに続ける。
「俺が見逃したことはありません」
胸が、きゅっ、と鳴った。
だめだ。
その激重な台詞は歓迎会のど真ん中で言ってはいけないやつだ。
甘さが強い。
重さも強い。
しかも本人は大真面目な本気なので、ごまかしが利かない。
私はどうにか平静を装い、小皿を受け取った。
「……ありがとうございます」
「ええ」
「では、遠慮なく」
「どうぞ」
私は蜂蜜タルトをひと口いただいた。
「……おいしい」
思わず、ほうっ、と息が漏れる。
さくり、とした生地。
やわらかな甘み。
蜂蜜の香りが上品で、くどくない。
すごい。
さすが学園歓迎会。
全体予算が潤沢な特注菓子は違う。
「そんなにですか」
レオン様が、少しだけおかしそうに問う。
私は真顔で頷いた。
「はい。かなり」
「そうですか」
「幸せです」
「……」
「この四面楚歌の状況でも、おいしいものがあると人はかなり立て直せるんですよ」
「それは知りませんでした」
「今後の参考にしてください」
「すでにしています」
「え?」
彼は私を見つめて、低く言った。
「だから、あなたのために取りに行ったんです」
ああ。
そうか。
お菓子をくれたのは、私が食べたがっていたからだけじゃない。
私が、少しでも機嫌よくいられるように。
少しでも、この場を嫌な思い出にしないように。
そう思ってくれたからなのだ。
どうしよう。
うれしい。
すごくうれしい。
◇ ◇ ◇
歓迎会が終わる頃には、噂はさらに尾ひれをつけて広がっていた。
公爵令息レオン・ヴァン・エルグランの婚約者待遇の女。
平民出身らしい。
なのに誰よりも大切に扱われ、あの冷酷公爵自らが給仕をしている。
本人は令嬢たちに囲まれずとも平然としており、むしろ歓迎会の菓子に夢中だった。
うん。
間違ってはいない。
だいぶ間違っていない。
むしろ正確まである。
会場を出る前、私は小さく息を吐いた。
そして、手元に残っていた最後のひと口のパイをそっと食べる。
「……おいしかった」
ぽつりと呟く。
「満足しましたか」
レオン様が問う。
私は、にっこり笑った。
「はい。とても」
「そうですか」
「歓迎会のお菓子、予想以上でした」
「そちらですか」
「重要ですよ?」
「ええ、もう理解しています」
「学園生活、案外なんとかなるかもしれません」
その言葉に、レオン様が静かにこちらを見る。
「なんとか、では済ませません」
「え?」
「あなたがここで少しでも嫌な思いをしないように」
「……」
「全部、俺が整えます」
その声は低く、静かで、そしてひどく真剣な愛に満ちていた。
私は少しだけ目を見開いた。
それから、ふっ、と笑ってしまう。
重い。
本当に重い。
でも、その重さが頼もしいことも、もう知っている。
「では」
私は小さく肩をすくめた。
「私はお菓子担当を頑張りますね」
「何です、それは」
「学園の甘味事情の把握は重要任務です」
「……」
「推しの学園生活を、食のメンタルケアの面からも支える必要がありますので」
すると、レオン様は、ほんの少しだけ呆れたように、でもやわらかく笑った。
「好きにしてください」
「はい!」
「ただし」
「はい?」
「何かあれば、必ず俺のところへ」
「わかっています」
「絶対に」
「はい」
「約束ですよ」
その“約束”という言い方が、妙に甘くて重くて、私は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
でも、ちゃんと頷く。
「……約束します」
その返事に、レオン様は満足そうに目を細めた。
――こうして、王立学園での最初の一日は終わる。
入学式。
歓迎会。
令嬢たちの噂。
のけ者扱い。
そして、予想以上においしかった蜂蜜タルト。
表面だけ見れば、華やかで、少し意地悪で、でもまあよくある学園デビューかもしれない。
けれどその実。
この日から、王立学園の空気は少しずつ変わり始めていた。
レオンのそばにいる、正体不明の女性。
その女性を、誰にも渡す気のない公爵令息。
そして、そんな騒ぎの中心にいながら、本人だけが平然とお菓子を楽しんでいるという事実。
この時の私はまだ、
「歓迎会のお菓子、思ったより本気だったな……」
と、かなり素直に感動していたわけですが。
残念ながら。
学園生活の波乱は、そんな平和な感想で済むほど、甘くはなかったのである。




