第21話 無効化される魅了と、初めての嫉妬
人は、推しを見て胸が『ぎゅっ』と苦しく締めつけられた時、その感情をだいたい「尊い」という便利な言葉で片づけようとする。
うん。わかる。
私もずっとそうやって、オタクとしての自我を保ってきた。
推しの笑顔に胸が熱くなるのも「尊い」。
推しが最強の騎士に成長して誇らしいのも「尊い」。
推しが至近距離で甘く名前を呼んでくるのも「尊い」。
推しが「一生逃がしません」とか監禁一歩手前のことを言い出すのも……「尊い」。たぶん。いやだいぶ怖いし愛が重いけど。
だから今日も私は、いつも通りに「推しが今日も顔面国宝で尊いな」と拝むだけで済むはずだったのだ。
「……え?」
それが、胸の奥を鋭い爪で引っ掻かれたみたいに『ズキリ』と痛んだ瞬間。
私の中の“限界オタクとしての平穏”は、いとも簡単に崩れ去った。
場所は王立学園の優雅な中庭。
午後の講義が終わったあと、光のよく差す回廊。
そこで。
腹黒原作ヒロインのアリア・ベルフォードが、私のレオン様へ話しかけていた。
◇ ◇ ◇
「レオン様……ごきげんよう」
その声は、可憐で、控えめで、そして男の庇護欲をそそる“上品な男爵令嬢”として百点満点だった。
アリアは両手を胸の前で重ね、少しだけ上目遣いがちに微笑む。
目線を上げるタイミングも、物理的な距離の詰め方も、息の吸い方すら計算され尽くしているのが見て取れる。
うわあ。手慣れてる。
あまりにも手慣れた逆ハーレム構築の初動ムーブだ。
私は回廊の太い柱の陰から、半分息を潜めてその光景を観察していた。
いや、覗き見しているつもりはない。たまたまだ。
たまたま中庭の噴水がきれいで、たまたまそこに推しと原作ヒロインが現れただけだ。全部たまたま。うん、そういうことにしておこう。
その“たまたま”の中心で、レオン様は静かに立っていた。
いつもの学園制服。いつもの絶対零度の冷たい気配。
周囲の空気を薄く凍らせるような、あの完成された覇王の圧。
近づく者は自然と歩幅を緩め、畏怖して道を譲る。
だがアリアは違った。
彼女は“怖がっていないふり”が恐ろしく上手い。
いや、怖さを“けなげな魅力”へすり替えるのが上手いのだ。
危険なハイスペック相手ほど落とす価値がある、とでも言わんばかりに。
「先日、歓迎会でお見かけして……その、とてもお強そうで……」
「……何か用ですか」
レオン様の返答は、あまりにも淡々としていた。
優しくない。温もりがない。社交的でもない。
いっそ清々しいくらいに“路傍の石に興味がない”という塩対応の極み。
普通なら心が折れて引く。
でもアリアは引かない。
「はい。実は、学園生活が不慣れで……レオン様にお話を伺えたらと」
「お前の学園生活の不慣れを、俺が解決してやる理由は一ミリもない」
「……えっ」
アリアの完璧な微笑みが、ほんの一瞬だけピキッと引きつった。
でも、すぐ戻す。
完璧に可憐なヒロインの顔へ。そのリカバリーの速さが、逆に腹黒さを物語っていて怖い。
「そう、ですわよね……。失礼いたしました」
そう言いながら、彼女はわざとらしく半歩近づいた。
その瞬間、空気がわずかに甘く揺れる。
来た。
チートスキル、『魅了』。
目に見えない、でも確実に“感情の向き”だけを強制的に書き換えてくるアレだ。
甘い媚薬の香りみたいに広がって、周囲の男子生徒たちが、またしてもふわっと目をゆるめる。「あの子、守ってあげたいな」という洗脳の気配がにじむ。
でも。
レオン様は、微動だにしなかった。
視線の温度も、呼吸の間も、指先の力も。何も。
アリアが一瞬、驚愕に目を丸くする。
効かない。
一ミリも効いていない。
ああ、よかった。
うちの推しには魅了なんて通じない。よかった、んだけど。
……なんで私、こんなに深くほっとしているんだろう?
胸の奥がじわりと熱くなる。
それが安心なのはわかる。
でも、安心の裏に、もっとドロドロとした『得体の知れない棘』みたいな感情があるのもわかる。
アリアは、それでも諦めずに強引に距離を詰めた。
「レオン様……お噂は、たくさん伺っておりますの」
「……」
「とてもお強くて、とてもお美しくて……皆さま、憧れていらっしゃるのです」
そう甘く囁きながら、アリアの白い指先が、レオン様の制服の袖口へ伸びた。
彼に、触れるつもりだ。
私はその瞬間、呼吸が止まった。
やめて。
気安く、触らないで。
頭の中では、限界オタクの冷静な理性が警鐘を鳴らしている。
『別に触られたくらいでフラグは立たない。推しは推しだ。私はただのモブメイドで、これはただの推し活だ。落ち着け』と。
でも、胸の奥が、一切言うことをきかない。
痛い。苦しい。
なぜか、奪われるのが無性に怖い。
その感情の本当の名前を、私は知っていた。
オタクの壁で必死に隠してきたけれど、知っていたはずだった。
「……うそ」
私の喉から、震える声が漏れる。
これ。
これって――
◇ ◇ ◇
次の瞬間、私の身体は理性を置き去りにして勝手に動いていた。
柱の陰から一歩踏み出し、レオン様のすぐ隣のパーソナルスペースへ滑り込む。
そして、気づけば私は――
レオン様の袖を、無意識に『ぎゅっ!』と強く掴んでいた。
「……」
布地が、震える指の中でしわになる。
自分でも驚いた。
そんなことをするつもりなんてなかった。
「私は落ち着いておりますよ、モブですから」みたいな顔で状況を見守るつもりだったのに。
私の指は勝手に力を込めていた。
『私の推しだ。誰にも渡したくない』と、叫ぶみたいに。
レオン様が、ゆっくりこちらを見る。
氷のように冷たかった蒼い瞳が、私の震える指先と、私の泣きそうな顔を、静かに確かめる。
「クロエ」
低い声。
甘い。先ほどまでの塩対応が嘘のように、熱を帯びた、私にだけ向ける極上の温度だった。
私は言葉が出ない。
ただ、胸が痛い。呼吸が浅い。
自分が何をしているのか、半分パニックなのに――この手を離したくない。
アリアが、その光景を見て驚愕に目を見開いた。
「……あなた、は」
上品な声が、ほんの少しだけ苛立ちでひび割れた。
「噂の、婚約者待遇の……」
私は反射で口を開きかけた。
『違います! 私はただのモブメイドで――』
そこまで考えた瞬間、さらに胸がぎゅっと痛んで、言葉が詰まった。
違う。
今の私は、違う。
この人の隣にいる。
この人の袖を独占欲丸出しで掴んでいる。
掴んでしまった。
これは、たぶん――いや、絶対に。
『嫉妬』だ。
私が、推しを他の女に取られそうになって、苦しくなった。
推し活という言い訳のメッキが剥がれ落ちた。
その理解がすとん、と落ちた瞬間、足元がふわっと揺れた。
「……」
私は自分の情緒が崩れそうになるのを必死にこらえた。
だってここ、学園の中庭だ。生徒たちがいっぱいいる。
でも、もう遅かった。
私が袖を掴んで、不安そうな顔をした、その“たった一瞬”。
レオン様の空気が、激変したのだ。
温度が下がる。一段ではない。
息が白くなりそうなほど、場が絶対零度に凍りつく。
私の背中を撫でる風が止み、周囲の喧騒が嘘のように消え去る。
レオン様が――ゆっくりと、アリアへ向き直った。
その視線は、冷酷そのもの。
底の方で、私を不安にさせた存在への『明確な殺意の炎』がドス黒く燃えている。
「……触るな」
声は低い。静かだ。
なのに、研ぎ澄まされた刃物みたいに鋭い。
アリアが恐怖に息を呑む。
「レ、レオン様、私はただご挨拶を……」
「触るなと言った」
二度目の言葉は、一度目よりさらに冷えて、死の宣告のようだった。
アリアの笑顔が完全に崩れかける。
だが、彼女は引けない。逆ハーレムを作るために、ここで引き下がるわけにはいかないのだろう。
「……クロエ様、でしたかしら」
アリアは、私へ視線を向けた。
上品な笑みを貼り付けているが、その目の奥は憎悪で真っ黒だ。
「ご安心なさって。私はただ、レオン様と少しお話を――」
そこで、レオン様が一歩前へ出た。
たった一歩なのに、空気が重圧で押し潰される。
「お前のような汚物が」
低い声。
魔力と殺意を限界まで含んだ、覇王の声。
「俺のクロエの視界に入るな」
次の瞬間。
『どんっっ!!』と。
目に見えない爆発的な衝撃波が走った。
まるで巨大な鐘を内側から叩いたみたいに、空気が激しく震える。
噴水の水が大きく跳ね上がり、木の葉が一斉に舞い散り、周囲の生徒たちが悲鳴を上げてしゃがみ込む。
威圧――いや、ただの魔力放出による物理的な衝撃波だった。
「きゃああっ!?」
アリアの身体が、紙くずのようにふらりと揺れた。
魅了スキルの甘い気配が、一瞬で跡形もなく吹き飛ぶ。
洗脳されていた男子生徒たちが、我に返って尻餅をつく。
そして、アリアは。
そのまま白目を剥いて、その場に崩れ落ちた。
「……もう、無理」
倒れるというより、精神的な重圧に耐えきれず、糸が切れたように意識が落ちた。完全なる気絶だ。
辺りが、『しん……』と恐ろしいほど静まり返る。
私の手は、まだレオン様の袖をぎゅっと掴んだままだった。
指が震えている。
でも、今一番怖いのは――
レオン様の“殺意”が、まだ完全に消え去っていないことだった。
◇ ◇ ◇
「レ、レオン様……」
私はかろうじて、蚊の鳴くような声を出した。
その呼びかけに、レオン様の肩がわずかに揺れる。
ゆっくり、こちらを振り向く。
蒼い瞳が、私を見る。
その瞬間、氷のような冷気と殺意が、『スッー』と春の雪解けのように溶けた。
レオン様の表情が変わる。
さっきまでの冷酷な顔が嘘みたいに、甘く、とろけるようにやわらかくなる。
でも、そのやわらかさの中にも、捕食者のような熱が残っている。
「……大丈夫ですか、クロエ」
「だ、大丈夫……です!」
私は震える息で答えた。
「その……衝撃波にびっくりしました」
「俺もです」
え?
今、俺もですって言いました?
レオン様は私の掴んだ袖へ目を落とす。
そこに刻まれたしわに、大きな手でそっと自分の指を重ねる。逃がさないように。
「あなたが」
低い声。少し掠れた、歓喜に満ちた声。
「そんなふうに、他の女から俺を守るように、袖を掴むなんて」
私は顔がカッと熱くなるのを感じた。
しまった。
しまったしまったしまった。
学園の中庭で、原作ヒロインの前で、推しの袖を独占欲丸出しに掴んだ。
しかも自覚してしまった。『嫉妬』だと。『恋心』だと。
終わった。
私の推し活、いよいよ“ただの推し活”という言い訳が通じない領域へ突入した。
私は慌てて言い訳しようとした。
「ち、違うんです! これは、その、反射で……!」
「反射」
「はい! 危ないと思って……!」
「危ない」
「レオン様に変な害虫がつきそうだったので……!」
「害虫」
レオン様の口元が、ほんの少しだけ弧を描いて上がった。
笑ってはいない。
でも、最高に満足そうに見える。
最悪だ。
この人、私の嫉妬を“自分への愛の証明”として完全に受け取っている。
「クロエ」
「はい……」
「あなたが俺を誰かに取られるかと、不安そうな顔をした瞬間」
彼は静かに、でもひどく甘く囁いた。
「俺は嬉しさと怒りで、理性が完全に吹き飛びました」
『こわっ』
本音が漏れた。
でも、漏れて当然だ。
さっきの衝撃波、明らかにやりすぎだ。ここは学園だ。
公共空間で男爵令嬢を気絶させるとか、騒ぎにならないほうがおかしい。
周囲を見ると、生徒たちは完全に固まっていた。
ただ、恐怖と畏敬の混じった目でこちらを見ている。
「……あの」
私は震える声で言った。
「この状況、対外的にまずいのでは……」
「全然大丈夫です!」
「いや、絶対まずいです!」
「あの女が、あなたに嫌な思いをさせた」
「いや、私は嫌な思いというより、びっくりして」
「あなたが不安になった。なら、あの女は万死に値します」
あっ。だめだ。
この人の中で、倫理と秩序の優先順位が完全に『クロエ至上主義』で固定化されている。
いまさらだが、この人は“ヤンデレ”だった。
その時、遅れて教師らしき人物が駆け寄ってきた。
「な、何事だ!」
「アリア嬢が倒れているぞ!」
「早く医務室へ!」
ざわめきが戻る。
だが、そのざわめきはもう、“アリアがかわいそう”ではなく、“冷酷公爵に逆らうな”の方向へ急速に統一されていく。
今の衝撃波を浴びて、なお彼に逆らう勇気がある学生なんていない。
医務係がアリアを運び、周囲が散り始める。
その隙間で、私はレオン様の袖を、そっと離そうとした。
推し活の境界線に戻らなければ、と。
でも。
離せなかった。
指が、離したくないと、私の本音が叫んでいる。
「……クロエ」
レオン様が、ひどくやわらかな、甘い毒のような声で私を呼んだ。
「離さないでください」
「……」
「俺の手を離そうと、平気なふりをする必要ありません」
心臓が跳ねた。
そんなところまで見抜くのか。
この人、怖い。でも、怖いのに、どうしようもなく安心してしまう。
私は小さく息を吸って、真っ赤な顔でようやく言った。
「……離しません」
「……」
「少なくとも、今は」
その答えに、レオン様の目が、とろけるように甘く細まった。
「ええ」
低い声。熱い声。
「今は、それで十分です。……いずれ一生、離れられなくしてさしあげますから」
いや十分じゃないし、後半のセリフが重すぎる!
でも、今はそれを突っ込む余裕がなかった。
私はただ、自分の胸の痛みの正体を、何度も頭の中で反芻していた。
嫉妬。
恋心。
私が、推しを『誰にも取られたくない』と思ってしまったのだ。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
学園中に、凄まじい勢いで噂が爆発していた。
「見た!? 中庭で……!」
「見た!見た! アリア様を衝撃波で気絶させたって……!」
「こわ……」
「つまり、あの子に手を出したら終わりってこと?」
「完全な終わりだよね」
「エルグラン公爵令息に跡形もなく消されるって……」
噂は、あっという間に絶対のルールとして広がった。
『クロエ様に手を出した者は、エルグラン公爵令息に消される』
……様?
私は寮の自室で、その噂を耳にして白目を剥いて固まった。
「様……?」
いや待って。
私は平民の元モブメイドですけど?
様付けされるような高貴な立場ではないんですけど?
でも、たぶん、今日の一件で“そう呼ばざるを得ない”絶対的な恐怖の空気が完成してしまったのだろう。
私はベッドに座り込み、真っ赤な頬を両手で押さえた。
どうしよう。
やってしまった。
私が嫉妬したせいで、アリアが気絶して、学園中にとんでもない不可侵条約が定着してしまった。
推しの『激重な護衛圧』が、公式に伝説化してしまった。
そして何より、問題はここからだ。
私は今日、自分の限界を超えた感情を知ってしまった。
推しを見て、胸が痛くなる。
推しが誰かに触れられそうになると、許せない。
私だけのものにしたい。
それはもう、推し活の範疇ではない。
私は枕に顔を埋めた。
「……終わった……モブとしての私が終わった……」
その時、控えめなノックがした。
「クロエ。入りますよ」
レオン様の声だった。
私は心臓を跳ねさせながら扉を開ける。
そこに立っていた最推しは、昼間と変わらず顔面国宝の整った顔で、でも瞳の奥だけが妙に甘く熱い。
「……大丈夫ですか」
「大丈夫、です」
レオン様は私の顔をしばらく見て、それから部屋に入り、扉をカチャリと閉めて低く言った。
「今日のこと、後悔していますか」
私は息を止めた。
アリアが気絶したことは、さすがにやりすぎだと思う。
学園中にヤバい噂が広まったのも困る。
でも――
私は、ゆっくり首を振った。
「……後悔は、していません」
「……」
「ただ」
胸が痛む。だから、正直に言う。
「自分が、あんなふうに取り乱すなんて……びっくりして」
言葉が詰まる。
レオン様は、私の震える手元を見る。
そして、一歩距離を詰め、静かに、確信を持って言った。
「嫉妬したんでしょう」
「……!?」
言われた。
はっきりと言葉にされてしまった。逃げ場がない。
私は耳まで沸騰するように熱くなるのを感じながら、どうにか小さく頷いた。
「……たぶん」
「たぶん、ではありません」
レオン様の声が、ひどくやわらかく、狂おしいほどの歓喜を帯びる。
「あなたは俺に嫉妬しました」
「……」
「俺が、頭がおかしくなるくらいに嬉しくなるほどに」
ああ、だめだ。
だめだこの人。
こんな密室で、そんなふうに甘く重く言うな。
自分の胸がショートして壊れそうになる。
レオン様はさらに一歩近づいて、私の耳元で低く囁いた。
「もう二度と、あなたにあんな不安な顔はさせません」
「……」
「誰にも」
「……」
「俺に、指一本触れさせません。俺のすべては、あなたのものですから」
その言葉は、甘い永遠の愛の誓いのようでいて、逃亡を許さない絶対の宣戦布告みたいでもあった。
私は小さく限界の息を吐いた。
「……レオン様」
「はい」
「愛が重いです。ほどほどに」
『無理です!』
私は、思わず真っ赤な顔で苦笑した。
そうだろうね。
知ってました。
でも――
私はきっと、もう本当の意味で“ただの限界オタク”には戻れない。
その事実だけが、今日の夜、静かに私の中へ沈んでいった。
そして同時に、学園中にも沈んでいったのだ。
『クロエ様に手を出すな』という、絶対ルールが。




