第14話 若き公爵の誕生と、メイドの決意
人は、愛してやまない推しの『幸福と安寧』を願う。
ただ生きていてくれればいい、から始まって。
笑っていてほしい。
傷つかないでほしい。
理不尽な大人たちに踏みにじられないでほしい。
あたたかい部屋で眠って、安全でおいしいものを食べて、ちゃんと愛されて、ちゃんと圧倒的な勝利で報われてほしい。
そうやって限界オタクの魂を燃やして祈り続けて、気がつけば、私はここまで来ていた。
そして今。
「……えっ、終わった?」
私は公爵邸の誰もいない回廊で、ひとりポカンと小さく呟いた。
いや、もちろん全部が完全に終わったわけではない。
特大の親族会議を乗り越えたとはいえ、細かい後処理はまだ山ほどある。
継母派の残党と使用人の整理、不正で荒れた財務の立て直し、家中の権限再配分、領地側への通達、公爵本人の隠居段取り。
そういう現実的な“ざまぁのその後の実務”は、当然のようにうずたかく積み上がっている。
でも。
でも、だ。
レオン様の最大の『死亡フラグ』は、ほぼ完全にへし折れた。
継母は失脚し、異母弟も永久追放された。
公爵は実権を失い、親族たちももうレオン様を無能だと軽んじることは絶対にできない。
屋敷の空気は目に見えて、劇的に変わった。
誰もが今や、あの白銀の髪の若き冷酷令息を“逆らえば一瞬で首が飛ぶ、恐るべき次の当主”として扱っている。
つまり。
「私の推し救済ミッション、ほぼ完了では……?」
私はそこで、ぴたりと足を止めた。
胸の奥で、じわりと何かが広がる。
それは圧倒的な達成感であり、安堵であり、そして――ほんの少しの、穴が開いたような寂しさでもあった。
◇ ◇ ◇
大広間では、今日も朝から人の出入りが激しかった。
親族会議の後、公爵は正式に表舞台から退くことが決まり、家中の決裁権の大部分がレオン様へ移されつつある。
名目上は“次期当主としての補佐”だ。
だが実質はどう見ても、若き公爵の誕生前夜だった。
私は控えめに、厚い扉の陰からその様子を見ていた。
長机の向こう。
大量の地図と書類を前にしたレオン様が、静かに、けれど絶対の威圧感を持って指示を飛ばしている。
「北側の倉庫番はそのまま使え。だが、会計担当だけは王都から別の商会の者を入れろ」
「か、かしこまりました!」
「霊薬畑の採取量はまだ制限する。短期利益より、土壌の安定と俺たちの手札としての価値の保全が優先だ」
「承知いたしました」
「父上の私兵は三分の一を即時解体。残りは北側領地の警備へ再配置する」
「それでは古参の騎士たちから反発が――」
「反発する者から物理で切ればいい」
淡々と。
低く。
氷のように揺るぎなく。
その場にいる幹部たちの誰ひとりとして、彼を軽んじた顔をしない。
かつては“冷遇された可哀想な嫡男”として見て見ぬふりをしていた人間たちが、今では彼の一言一言を、冷や汗を流しながら真剣に受け止めている。
ああ。
すごいなあ。
私はこっそり胸を押さえた。
本当に、立派になった。
強くなった。
美しくなった。
賢くなった。
あの暗い地下室で、寒さと絶望に怯えて震えていた八歳の男の子が、今やこうして公爵家の未来を絶対者として決めている。
感無量である。
本当に感無量だ。
推しの圧倒的成長と勝利を見届ける限界オタクとして、これ以上の特大の栄養価があるだろうか。
いや、ない。
たぶんない。
もはや私は、今日この光景を見ただけで向こう五十年くらいは不老不死で生きる活力を得ている。
でも同時に、ふと、こうも思ってしまうのだ。
――もう、私がいなくても、彼は大丈夫なのでは?
その考えが明確に浮かんだ瞬間、胸の奥がひやりと冷たく縮んだ。
いやいや、待って。
待って待って。
何を急にセンチメンタルなことを。
私は別に、彼に見返りや依存を求めてここにいたわけではない。
ただ推しが幸せになってほしかっただけだ。
理不尽な死から救いたかっただけだ。
そして今、その悲願はちゃんと、完璧な形で叶い始めている。
なら、盛大に喜ぶべきだ。
むしろ、これ以上ないほどのハッピーエンド(クリア)である。
なのにどうして、こんなにも胸の奥がざわついて、痛むのだろう。
「クロエ」
不意に名前を呼ばれて、私ははっ! とした。
しまった。
またしても、扉の陰からだいぶ真顔で推しをガン見してしまっていたらしい。
顔を上げれば、すでに会議は一段落したようで、人払いされた大広間にレオン様だけが残っていた。
ああもう。
無理です。
会議明けで少し気怠げな推し、色気があって顔が良すぎるんですよね。
さっきまで冷徹に指示を飛ばしていた若き当主候補が、私を見るとほんの少しだけ、氷が溶けるように目元をやわらめる。
その落差が毎回ひどい。
周囲には絶対零度の冷たい美丈夫と、私の前でだけちょっと甘く温度が上がる最推し。
破壊力が高すぎる。
「どうされました?」
私は努めて平静なメイドを装い、微笑んだ。
レオン様は数歩近づき、静かに問う。
「何を見ていたんです」
「ええと……」
私は少し迷って、素直に答えた。
「たいへん立派になられたなあと」
「……」
「とても」
彼はしばらく黙っていた。
その沈黙が少しだけ長くて、私は内心そわそわした。
あれ、変なこと言ったかな。
でも本音だしな。
純度百パーセントの本音しか言ってないしな。
やがて、レオン様が低く言う。
「……それだけですか」
「え?」
「“立派になった”で終わる顔ではありませんでしたよ」
「うっ」
鋭い。
さすがに鋭い。
最近ほんとうに鋭い。
昔よりずっと、人の表情の機微や、言葉の裏の揺らぎを見抜くようになった。
推しの成長としてはすばらしく喜ばしい。
でもこういう場面では非常に困る。
私はこほんと咳払いした。
「……少し、感慨深くて」
「感慨」
「はい。だって、もう家中が完全にレオン様を認めています」
「俺が力で認めさせただけです」
「その“だけ”がすごいんです!」
私は思わず熱を込めてしまった。
「食事も、訓練も、領地のことも、家のことも。全部、レオン様が血の滲むような努力で積み重ねてこられたじゃないですか」
「……」
「だから今の圧倒的な勝利があるんです。誰かの気まぐれじゃなくて、ちゃんとレオン様ご自身の力で掴み取った場所です」
「クロエ」
「はい」
「あなたがそれを言うんですか」
私はぱちりと瞬いた。
レオン様は、どこか呆れたように、でもとろけるようにやわらかく言う。
「俺の体を守る食事を整えたのは誰です」
「それは、まあ、私が毒をバフへ変換しておりましたが」
「訓練の環境と時間を整えたのは」
「それも一応……」
「国家反逆の証拠を見つけ、敵を排除し、屋敷の空気を根底から変えたのは」
「いえあの、それは整理整頓魔法が結果的にそうなっただけで」
「全部、俺のクロエでしょう」
真っ直ぐだった。
ああ。
だめだ。
そのまっすぐさに、そんな熱を帯びた瞳で正面から見られると、胸が苦しく痛くなる。
違うのだ。
私は本当に、ただちょっとチートな魔法で支えただけだと思っている。
この人自身が強かったから。
立ち上がったから。
努力したから。
だからここまで来たのだ。
でも、彼にとっては違うらしい。
「俺ひとりでは、ここまで来られなかった」
静かに、断言するように言い切る。
「あなたがいなければ、俺はとっくに壊れて死んでいた」
胸の奥が、じわりと熱くなった。
嬉しい。
どうしようもなく嬉しい。
でも、その嬉しさの奥に、また別の焦燥が混じる。
ああ、やっぱり。
この人にとって私は、もう“いてもいなくてもいい都合のいい使用人”なんかではない。
だからこそ。
だからこそ、これ以上彼の重荷(弱点)になる前に、いずれは綺麗に身を引かなければいけないのではないか、と。
そんな考えが、ますます現実味を帯びてしまうのだ。
◇ ◇ ◇
その日の午後、私はひとりで北棟の裏庭にいた。
霊薬畑の手前、私が作った小さな菜園の横。
風は穏やかで、冬の終わりの匂いがした。
しゃがみ込み、土へそっと触れる。
土いじりをすると心が落ち着く。
……いや、私の土いじりは時々『伝説の聖剣』みたいな国宝級の何かを掘り当てるので、必ずしも穏やかな趣味とは言い切れないのだが。
それでも、こうして土に触れていると頭の中が少し整理されるのだ。
「……どうしようかなあ」
ぽつりと呟く。
言葉にした瞬間、胸がきゅっと痛く縮んだ。
どうしよう。
もう、ほとんどミッションは終わっている。
少なくとも“原作のバッドエンド直行ルート”は、かなり大きく崩れ去った。
性悪な継母もいない。
傲慢な異母弟もいない。
公爵も実質隠居。
最強の剣の師もいる。
領地の基盤もある。
国家予算レベルの霊薬畑まである。
そして何より――レオン様自身が、もう誰にも負けないくらい強い。
だったら、私は。
ここで、裏方としての役目を終えるべきなのではないか。
その考えは、ずっと薄く胸の奥にあった。
でも、今ほどはっきりと形になったのは初めてだった。
私は膝を抱え、空を見上げる。
だって、私はただのモブメイドだ。
たまたま前世のオタク知識があって、たまたま家事魔法が国家機密レベルでだいぶおかしくて、たまたま最推しの人生に深く関わってしまっただけの、ただの存在だ。
本来なら。
推しが無事に幸せなハッピーエンドルートへ入ったなら。
私は、そこでフェードアウトする側なのではないか。
それがいちばん綺麗だ。
いちばん平和だ。
いちばん、彼の将来のためにもいい気がする。
だってこの先、レオン様はもっともっと上へ行く。
華やかな社交界へも出るだろうし、政治の中枢とも関わるだろう。
若き公爵として、隣に立つべき人間も、もっと身分や釣り合いの取れた誰か(原作ヒロインのような存在)が必ず現れる。
その時、ずっとそばに“ただのモブメイド”である私が居座っていたら?
……うん。
だいぶ邪魔では?
物語的にも、現実的にも。
私は両手で顔を覆った。
無理。
考えたくない。
でもちゃんと考えなきゃいけない。
推し活というのは、本来こういうものではなかったはずだ。
遠くから幸せを願って、公式からの供給に狂喜乱舞して、尊さに泣いて、でも最終的には“推しが幸せならそれでいい”で完結する、そういう美しい営みのはずなのだ。
なのに現状、推しがすぐ隣で私が淹れた紅茶を飲み、私に食べさせろと言い、やたら重くて甘い視線を向けてくる。
おかしい。
だいぶおかしい。
供給の距離がバグっている。
「……でも」
私は小さく息を吐いた。
彼のもとからいなくなることを考えるだけで、息ができないくらい苦しい。
嬉しいのだ。
この人のそばにいるのが。
名前を呼ばれるのが。
安心した顔を見せてもらえるのが。
私の作る食事でほっとしてくれるのが。
全部、全部、うれしい。
だから離れたほうがいいのだと頭で理解しても、心が強烈に嫌がる。
ああもう。
本当に困る。
推し活ってもっと一方通行で安全なものではなかったか?
どうして私は今、人生を賭けて推しの隣にいるみたいな状況になっているんです?
その時、背後で足音がした。
「クロエ」
私はびくりとして振り返った。
レオン様がいた。
ああ、だめだ。
いまその顔はだめです。
真剣に考えていた相手が、そのタイミングで現れるのは反則でしょう。
しかも今日に限って、なぜかいつも以上に顔が良い。いや毎日国宝級に良いんですけどね!? でも今は私の心が弱っているので特効が強すぎる。
「どうされました?」
なんとか平静なメイドを装う。
レオン様は少し不機嫌そうに眉を寄せた。
「それは、こちらの台詞です」
「え?」
「探しました」
「……探した?」
「ええ。あなたの部屋にも、俺の執務室にもいなかったので」
低く、静かな声。
でもその奥にあるものは、わりと露骨に“焦り”と“不満”だった。
うわ、出た。
これだ。
私が少し視界から見えないだけで探しに来るやつ。
「大型犬の懐き」とか言って誤魔化していた過去の私、そろそろ現実見ようか。だいぶ犬の範疇を越えている。
私は無理やり笑った。
「少し、考え事を」
「何を」
直球だった。
私は一瞬黙る。
言えるわけがない。
“そろそろあなたのそばを離れるべきかもしれないと考えていました”なんて、言えるわけがない。
だが、その沈黙だけで、彼は何かを察したらしい。
空気が、ビリッ! と変わった。
ほんの少し。
でも確実に。
周囲の温度が絶対零度に下がる。
「……俺に言えないことですか」
静かな声だった。
私は慌てて首を振る。
「違います」
「では」
「その……」
言葉が詰まる。
そして、詰まった時点で、もう半分くらい答えを言ってしまっている気がした。
レオン様は数歩近づいてくる。
逃げ道を塞ぐような歩き方ではない。
でも、まっすぐだ。
視線も、足取りも、何もかも。
「クロエ」
「はい」
「最近、少し変です」
「そ、そうでしょうか」
「ええ」
「気のせいでは」
「俺の目を誤魔化せると思わないでください。気のせいではありません」
きっぱり。
逃がしてくれない。
私は内心で頭を抱えた。
鋭い。
本当に鋭い。
昔ならもっと遠回しだったのに、今のこの人は必要な時に必要なことをまっすぐ言ってくる。
成長が痛い。
でも好きです。
「会議のあとから」
彼は静かに続けた。
「何かを勝手に決めようとしている顔をしている」
「……」
「俺の知らないところで」
「……」
「何を考えているんです」
沈黙が落ちる。
風が吹いて、霊薬畑の花が揺れた。
甘い香りが、ふわりと漂う。
私はぎゅっと指先を握った。
言わなきゃいけない。
いつかは。
少なくとも、自分の中ではっきりさせなければいけない。
だから、震える息を吐いて、少しだけ笑った。
「……もう、十分かなって」
「何が」
彼の声が、少し低くなる。
「私の役目が、です」
その瞬間。
世界から音が消え、空気が止まった気がした。
言ってしまった。
ああ、言ってしまった。
私は逸らしかけた視線を、なんとか彼へ戻す。
「レオン様はもう、お強いです」
「……」
「家の中の悪意も消えました。領地も安定してきて、剣の師もいて、信頼してくれる人も増えて」
「……」
「だから、私は」
そこで言葉が詰まった。
だめだ。
喉が痛い。
うまく続けられない。
本当はちゃんと、もっときれいに言うつもりだったのに。
“私はただのメイドだから”
“これ以上そばにいてはご迷惑かもしれないから”
“遠くから幸せを願わせてください”
そういう、もっと理性的で聞こえのいい言い回しを。
でも、胸の奥がぎゅうっと縮んで、続きが出てこなかった。
レオン様は、しばらく何も言わなかった。
その沈黙が、ひどく怖かった。
やがて。
本当にゆっくりと。
彼が口を開く。
「……足りません」
低く、地を這うような声だった。
「え」
「全然、一ミリも足りない」
目を上げた彼の瞳は、ひどく静かだった。
静かなのに、その奥だけが暗い執着の炎で熱く燃えている。
「何をもって“十分”だと?」
「それは……」
「家が片づいたから?」
「……」
「敵が消えたから?」
「……」
「俺が強くなったから?」
言葉が刺さる。
どれも私が考えていたことだから。
彼は一歩、さらに近づいた。
「クロエ」
「はい……」
「あなたは、俺が強くなれば、もう俺から離れてもいいと思ったんですか」
「……っ」
違う。
違う、そうじゃない。
そうじゃないけれど、でも近い。
近いから苦しい。
私はぎゅっと目を伏せた。
「邪魔に、なりたくないんです」
かろうじて、それだけ絞り出す。
「邪魔?」
「だって私は、ただのモブメイドで」
「違う!!」
ぴしゃり! と。
はじめて、彼が明確に私の言葉を激しく切った。
私はびくりと肩を揺らした。
だがレオン様は怒鳴らなかった。
怒鳴らないのに、逆らえない。
「あなたはただのメイドなんかじゃない」
「……」
「最初から、一度も」
「……」
「俺の命を救い、俺をここまで連れてきた、俺のすべてです」
胸が痛い。
うれしくて、苦しくて、逃げたくて、泣きたくて、全部いっぺんに来る。
彼は、さらに低く、言い聞かせるように言う。
「それを今さら、“役目は終わったので失礼します”で済ませるつもりですか」
「わ、私はそんな軽くは」
「俺にとっては、命を絶たれるより重い」
はっきりと。
迷いなく。
その一言で、私はもう何も言えなくなった。
◇ ◇ ◇
しばらく、風の音だけがしていた。
霊薬畑の向こうで、陽が少し傾いていく。
金色の光が、白銀の髪をやわらかく照らしていた。
こんな緊迫した場面なのに、きれいだな、と思ってしまう。
どうしようもない。
私は本当に末期だ。
推しに激重な愛で引き留められて心が修羅場なのに、その顔がきれいすぎるとか考えている場合ではない。
でも、考えてしまう。
それが私だ。
「……クロエ」
「はい」
「あなたは、俺のそばにいたくないんですか」
その問いは、ひどく静かだった。
責めるようではなく。
試すようでもなく。
ただ、確認するみたいに。
だからこそ、ずるいと思った。
そんなふうに聞かれたら、嘘なんてつけない。
私はゆっくり息を吸った。
「……いたい、です」
「……」
「いたいに決まってるじゃないですか」
少しだけ、泣きそうに笑ってしまう。
だめだ。たぶん今の私は、うまく笑えていない。
「だって、うれしいんです」
「……」
「おそばにいられるのが。名前を呼んでもらえるのが。安心した顔を見せてもらえるのが」
「……」
「全部」
言いながら、目の奥が熱くなった。
ああ、もう。
本当にだめだ。
私はたぶん、自分で思っていた以上に、この人のそばにいることを幸せだと思ってしまっている。
レオン様は、長く息を吐いた。
それは深い安堵にも似ていた。
「なら」
彼は言う。
「勝手に終わらせないでください」
「……」
「俺の人生から、あなたが抜けることを」
「……」
「そんなふうに、一方的に決めないでほしい」
静かで、でも痛いほどまっすぐな声。
私は涙がこぼれそうになるのを、どうにか瞬きでごまかした。
それは、たぶん、すごくうれしい言葉だ。
でも同時に、ものすごく重い。
重いのに、嫌じゃない。
むしろ、その重さが胸の奥へじんわり沈んでいく。
ああ。
やっぱりこの人の中で、私はもう“役目を終えたら去る人”ではないのだ。
「……困ります」
私はかすれた声で言った。
「そういうことを言われると、ますます離れにくくなるので」
「離れればいいと思っている時点で、やはり困りますね」
「それはもう本当にそうなんですが」
「では、一生離れないでください」
「……」
だめだ。
これ以上は本当に、心が持たない。
私は目を伏せたまま、小さく言う。
「少しだけ……考える時間をください」
「……わかりました」
意外なくらい、すぐに返ってきた。
私は顔を上げる。
レオン様は私を見ていた。
まっすぐに。
強く。
けれど、ほんの少しだけ自分の中の『何か』を抑え込むみたいに。
「ですが」
彼は静かに続ける。
「俺は、ただおとなしく待つだけではありません」
「えっ」
「あなたがどれだけ“身を引くべきもっともらしい理由”を考えても」
「……」
「それを全部、物理と権力で徹底的に潰します」
「こわっ」
思わず本音が出た。
しまった、と思ったが、遅かった。
レオン様は一瞬きょとんとしたあと、ふっ、と笑った。
「ええ。でしょうね」
「自覚あるんですか!?」
「あなたのことになると、多少は理性が飛びますので」
「多少……?」
「かなり、かもしれません」
認めた。
認めてしまった。
この人、いよいよ隠さなくなってきた。
どうしよう。
うちの推し、最近とても重い。
でもその重さが、びっくりするくらいまっすぐで、あたたかくて、ずるい。
私はとうとう、両手で額を押さえた。
「……本当に、困ります」
「知っています」
「でも、少しうれしいです」
「……」
「今の、言わないでください。忘れてください」
「もう遅いですよ。一生忘れません」
「最悪です」
「俺は、最高に嬉しいですが」
「そうでしょうね!」
思わず少しだけ声が大きくなってしまった。
レオン様は、珍しくはっきり声を出して笑った。
その笑顔は、氷の公爵令息として外へ向けるものではない。
私だけが知っている、ずるくてあたたかくて、甘い笑顔だった。
ああ、もう。
そういう顔をするなら、本当に、離れられないじゃないか。
◇ ◇ ◇
その夜、自室へ戻った私は、ベッドの上で枕へ顔を埋めた。
「むり……」
小さく呟く。
推しの幸福を願って、身を引く覚悟をしようとした。
そこまではよかった。
いや、よくはないけど、理性的ではあった。
少なくとも“私はモブメイドなんだから、ここでフェードアウトが美しいのでは?”という発想自体は、かなり筋が通っていたと思う。
なのに。
なのに、本人が全力で、ちょっと重めの殺し文句で引き止めてくる。
しかも、ただ「行かないで」と甘えるのではない。
静かに。
まっすぐに。
理屈も感情も全部込めて、“勝手に終わらせるな。理由があるなら全部潰す”と言ってくるのだ。
あれはずるい。
本当にずるい。
あんな言われ方をして、何とも思わないわけがない。
私は枕へぐりぐり額を押しつけながら、深く息を吐いた。
嬉しかった。
たまらなく。
でも、同時に、やっぱり少し怖い。
この人の中で私は、どれだけ大きくなってしまっているのだろう。
それがうれしい。
でも、その激重な愛に応えられるのか、モブの私に自信がない。
それでも。
「……いたいんだよなあ」
ぽつりと漏れた本音は、静かな部屋に溶けた。
そう。
私は、そばにいたいのだ。
推しが笑ってくれるなら。
安心した顔を見せてくれるなら。
その隣に、まだ自分の居場所があるのなら。
だったらもう少し、悩んでもいいのかもしれない。
すぐに答えを出さなくても。
今はまだ。
この先のことを、ちゃんと考えるための時間をもらっても。
私は胸元へ手を当て、ゆっくり目を閉じた。
――そしてこの日を境に。
“役目を終えたら身を引く”というクロエの考えは、初めて明確にレオンへ知られることになる。
それは彼にとって、絶対に見過ごせない危機だった。
どんな敵よりも、どんな悪意の陰謀よりも、ずっと重大な。
だからこそ。
彼はもう、待つだけではいない。
一方の私はというと、
「推しが立派に育った喜び」と
「その推しに全力で引き留められた動揺」と
「でもやっぱりそばにいたい本音」の三重奏で、
かなり見事に情緒が大渋滞していた。
本当に困る。
困るのだけれど。
……困るくらい、うれしかったのだ。




