第15話 退職願と夜逃げ(ファンとしての卒業)
人は、愛してやまない推しの『圧倒的な幸福』を願う。
それはもう、理屈ではない。限界オタクのDNAに刻まれた本能みたいなものだ。
見返りなんて一ミリもいらない。
モブである自分が報われなくてもいい。
ただ、最推しが笑って、生きて、誰にも脅かされない最高に幸せなハッピーエンドの未来を掴んでくれたら。
それだけで、私がこの世界に転生してきた意味はすべて報われる。
……と、ずっと思ってきた。
本当に、魂の底からそう信じていた。
だからこそ。
「……よし」
私は、簡素な机の上に置いた一枚の真っ白な便箋を見下ろしながら、絞り出すように小さく呟いた。
ついに書いてしまった。
手が震えそうになるのを必死に堪えて、書き上げてしまったのだ。
『退職願』を。
胸の奥が、ぎゅうっ……と雑巾みたいに痛む。
書いている最中もずっと痛かったし、書き終えた今も息が詰まりそうに痛い。
何なら、昨日の親族会議が終わった夜からずっと痛い。
でも仕方ない。
これは、推しの完璧な未来のために必要な痛みだ。
たぶん。
おそらく。
できればそうであってほしい。
便箋には、精いっぱいの丁寧な字で、こう記してある。
――今まで本当にありがとうございました。これからは遠くから、ただのファンとして応援しております。
うん。
簡潔。
実にシンプルかつ簡潔。
我ながら、ひどく聞こえのいい、綺麗な立つ鳥跡を濁さず的な文章だ。
だが、私の心の中身はだいぶぐちゃぐちゃである。
“いろいろ考えた結果、モブの私は推しの輝かしい将来のためにここで身を引くことにしました。どうかこれからは、私なんかよりずっとふさわしい、身分の合う美しい令嬢たちに囲まれたまっとうな世界で、最高に幸せになってください。なお、私のオタク心はすでに未練でだいぶ死にかけています”
という重すぎる本音を、かなり無理やり薄く平たく伸ばしてまとめた結果が、このたった二行である。
いや、でも仕方ないだろう。
だってあの人、昨夜の会議のあとに、真正面から言ってきたのだ。
『勝手に終わらせないでください』
『離れないでほしい』
『ただおとなしく待つだけではありません』
……って。
無理である。
そんな激重なセリフを、あの顔面国宝の顔で、あの低く甘い声で、あの逃げ場のない瞳の重さで言われて、平常心でいられる人間がこの世にどれだけいるだろう。
少なくとも私には無理だった。
うれしかった。
とても。
胸がいっぱいになって、息ができなくなるくらいに。
でも、うれしいからこそ、思ってしまったのだ。
ここで甘い誘惑に流されては、だめなのではないか、と。
レオン様は、もう十分に立派だ。立派すぎる。
家の中で完全な実権を握り、領地を動かし、親族を恐怖と利益で黙らせるだけの圧倒的な力を持った。
剣の腕も、魔力も、人を従える王の才もある。
これからもっと遠くへ行く。
公爵として、きっともっと大きな、世界の中心の舞台に立つ。
その時。
ただの平民のモブメイドである私が、ずっとその隣に居座り続けていいのか。
……いや、よくないだろう。
どう客観的に考えても。
うれしさと、寂しさと、諦めと、重すぎる未練。
その全部をぐちゃぐちゃにないまぜにしたまま、私は小さなトランクへ荷物を詰めていく。
数着の着替え。
最低限の生活用品。
少しばかり貯めたお給金。
あとは、どうしても、どうしても捨てられなかった、小さな宝物(思い出)たち。
たとえば、初めてレオン様が「おいしい」と言ってくれた時に使った銀のスプーン。
たとえば、あの暗い地下室でともした、古いランプの小さな部品。
たとえば、裏庭の土いじりで聖剣を掘り当てたとき、鞘に付着していた細かな砂を大切に包んだ布切れ。
我ながらだいぶ重症である。完全に過激派オタクの祭壇グッズだ。
でも仕方ない。
オタクは、推しとの尊い思い出の品を捨てられない生き物なのだ。
「……はあ」
深い深いため息が漏れる。
もう、ここまで来たら行くしかない。
中途半端にぐずぐずしていたら、私はきっとこの屋敷に残ってしまう。
あの人の顔を見て。
あの声で甘く名前を呼ばれて。
私にだけ向ける、あのやわらかい笑顔を見せられたら、一秒で決意が爆発四散する絶対の自信がある。
だから、やるなら今日だ。
深夜。
みんなが完全に眠ったあと。
小さなトランク一つ持って、ひっそりと屋敷を出る。
誰にも見つからず。
誰にも引き止められず。
遠くの町で、小さなカフェか何かを開いて。
レオン様の大躍進と幸せを、遠くから祈る。
うん。
完璧な計画である。
実に鮮やかなフェードアウトだ。
……完璧なはずである。
たぶん。
きっと。
その時点で、私の平和ボケした脳はまだ気づいていなかった。
“誰にも見つからずに出ていく”という前提条件が、今のこの公爵邸において、もはや『Sランク魔物討伐』より難易度の高いミッションになっていることに。
◇ ◇ ◇
その日一日、私は“いつも通りの有能メイド”を完璧に装った。
朝食を運び、
絶品の紅茶を淹れ、
執務の書類を整え、
使用人たちへテキパキと指示を回し、
北棟の絶対防御結界の具合まで念入りに確認した。
いつも通り。
本当に、寸分の狂いもないいつも通り。
そうしているうちに、何度も何度も心が揺らぐ。
レオン様が私を見て「ありがとう」と言うたびに。
私の作った食事を口にして、心底ほっとした顔をするたびに。
視線が合って、氷の公爵令息の表情が、ふわりとやわらぐたびに。
ああ、やっぱり夜逃げとか無理では?
いやでも、だからこそだろう。
今ここで情に流されて残ったら、私はもう一生、彼の鳥籠から出ていけなくなる。
推しの輝かしい未来を願うオタクとして、それはどうなんだ。
いや待て、でも本人が「そばにいてほしい」と引き止めてくれたなら、残ることもひとつのハッピーエンドでは?
いやいやいや、だからそれは私の強欲な発想であって、推しの将来の身の丈に合った伴侶を考えたら――
「クロエ」
はっ! として顔を上げる。
昼下がりの執務室。
書類から目を上げたレオン様が、静かに、けれど逃げ場のない蒼い瞳でこちらを見ていた。
「はい」
「今日は、ずいぶんと落ち着きませんね」
「えっ」
「何かありましたか」
鋭い。
鋭すぎる。
お願いだから、私に対するそういう変化にだけは本当に鋭くならないでほしい。
いや、当主としての成長としては素晴らしいんですが! でも今は私の逃亡計画に支障が出るので非常に困る!
私はどうにか、営業スマイルを浮かべた。
「いえ、少し寝不足なだけです」
「……」
「昨日、今後のことについて考え事をしすぎまして」
「また、俺の前から身を引くことでも?」
「うぐっ」
変なカエルのような声が出た。
だめだ。
ストレートすぎる。剛速球だ。
しかもその話題、本人からわざわざ掘り返してきます!?
普通、もう少し空気を読むとか遠慮とかないんですか?
ないんでしょうね、この人には。
少なくとも私に対してだけは。
レオン様は、ゆっくりと書類を閉じた。
その仕かな仕草だけで、執務室の空気がビリッと変わる。
「クロエ」
「はい」
「俺は、あの夜の話を終わらせたつもりはありません」
「……」
「あなたに少し、無駄な抵抗を考える時間を与えただけです」
「はい……」
「つまり」
彼は静かに、長身を揺らして立ち上がった。
「俺はまだ、一ミリも諦めていません」
知ってた。
なんとなく知ってた。
でも改めて本人からド直球で言葉にされると、破壊力が桁違いだ。
私は思わず一歩引きそうになり、しかしここで露骨に逃げ腰になったら怪しまれると思い直して、ギリギリで踏みとどまった。
偉いぞ私。
情緒はかなり危ういが、物理的にはまだ踏ん張っている。
「……それは、たいへん光栄です」
「光栄で済ませる気ですか」
「済ませませんけど」
「では?」
「……今は、お仕事中ですので。失礼いたします!」
私は完全に逃げた。
だが、レオン様は意外にもそれ以上は追及しなかった。
ただ、逃げる私を見つめる視線だけが、絡みつくように妙に深い。
「そうですね」
背中に低く落ちる声。
「では、夜の仕事が終わったら、ゆっくり話しましょう」
心臓が止まりかけた。
夜逃げを決意している日の昼間に、それはだめである。
フラグの回収が早すぎる。
もはや“今夜は絶対に捕まえます”と看板を立てて宣言されているようなものだ。
私はぎこちなく、顔を引きつらせて笑った。
「ええと……その」
「逃げないでくださいね」
「…………ッ」
「今、逃げる算段をしましたね」
「してません!」
「なら、安心です」
にっこり。
……いや、にっこりではない。
表情としてはごく薄い美しい微笑みなのだが、その奥にある黒い圧がちょっと怖い。
本当に怖い。
最近のレオン様、私に対してだけ『笑顔で絶対包囲網』を敷いてくるの、やめてもらえないだろうか。
でも好きです。
くそう、顔が良い。
◇ ◇ ◇
夜は、思ったより静かに来た。
私は時計代わりの砂時計を見つめ、深く、深く息を吐く。
もう深夜だ。
北棟の使用人たちもほとんど引き、屋敷はすっかり寝静まっている。
行くなら今しかない。
私は何度も最終確認をした。
退職願は机の上。
トランクは手元。
貴重品も持った。
服も目立たない町娘のようなものに替えた。
完璧。
うん、完璧だ。
……本当に?
鏡に映る自分と目が合う。
そこにいるのは、焦げ茶の髪の、少し青白い顔をしたモブメイドだった。
私は鏡の中の自分へ、小さく笑いかける。
「大丈夫」
誰に言うでもなく、呟く。
「ただの、ファンとしての卒業よ」
推しの人生へ深く関わるフェーズは、これで終了。
ここからはもう、本来の『遠くからひっそり見守る側』へ戻るだけ。
そう。
ただ、それだけ。
なのに、胸はこんなにもちぎれそうに痛い。
私はトランクの持ち手を強く握りしめ、部屋の扉を音を立てずにそっと開けた。
廊下は暗い。
静かだ。
遠くで冬の終わりの風が鳴る音だけが、かすかに聞こえる。
よし。
行ける。
たぶん行ける。
私は忍び足で歩き出した。
北棟の廊下。
裏階段。
使用人用の細い通路。
そこを抜けて、裏庭へ出る。
事前に何度も確認しておいた、完璧な逃走ルートだ。
あまり人目がなく、深夜の見回りも比較的少ない。
もちろん、普通の屋敷なら、だ。
だがこの公爵邸には、現在ひとつ特大の問題がある。
“北棟の絶対防御結界の主(私)が、たぶんレオン様の異常な気配探知能力に引っかかる可能性”だ。
いや、わかってる。
自意識過剰みたいで嫌だ。
でも実際、最近ちょっとそういうヤバい気配がある。
結界の魔力が、レオン様の重い感情と連動している節があるのだ。
そしてレオン様は、私が少しでも視界から見えないと気づくと、匂いを追う猟犬のように必ず探しに来る。
つまり、今のこの“深夜にトランク持って静かに移動する不審なクロエ”が、あの人の異常な警戒網へ引っかからない保証がどこにもない。
……うん。
考えるほどに無謀だな、この夜逃げ。
でももう戻れない。
戻ったら終わりだ。
明日の朝になれば、私は絶対に「おはようございます」と普通の顔で朝食を運んでしまう。
そうなったら、たぶん一生彼の鳥籠から出ていけない。
私はきゅっと唇を結び、そのまま裏口へ向かって足を速めた。
使用人通用口の鍵は、昼間のうちに油を差して確認しておいた。
音を立てないよう、そっと回す。
かちり。
開いた。
「……っ」
思わず息を呑む。
いける。
本当に、いけるかもしれない。
私はそっと外へ出た。
夜気が火照った頬を撫でる。
冷たい。
でも、それが妙に心地よかった。
裏庭を抜けると、小さな馬車小屋がある。
そこに、夜明け前に町へ向かう商人の荷馬車が一台だけ出ることを知っていた。
御者には、なけなしの金を握らせて少しだけ口利きをしてある。
“遠縁の者が重い病で”“どうしても今夜中に向かわなければ”という、だいぶ定番の苦しい言い訳をした。
でも通った。
使用人ネットワークの融通は時に強い。
荷馬車の影が見えた時、私は本気でほっと肩の力を抜いた。
「よかった……」
ここまで来れば、もう。
本当に出ていける。
胸の奥が、ずきずきと痛んだ。
でも、前へ進むしかない。
私は荷台へ上がり、小さなトランクを抱え込んだ。
あとは夜明け前まで身を潜めて、屋敷から離れるだけ。
さようなら、レオン様。
私は心の中で、静かにそう呟く。
あなたが幸せになるところを、もっと近くで見ていたかった。
ずっとそばで、おいしい紅茶を淹れて、バフ飯を作って、立派な公爵になっていく姿を見ていたかった。
でも、それはたぶん、モブの私が望みすぎていい未来じゃない。
だから、ここで卒業します。
限界オタクとして。
メイドとして。
あなたの最初の味方だった、一人のモブとして。
そう、心の中で言い聞かせた、その時だった。
――ぞわり、と。
空気が、異様に重く変わった。
私はぴたりと動きを止めた。
なに?
今の。
風、じゃない。
もっと濃くて、重くて、暗い何か。
ぞくりと背筋を撫でるような、圧倒的で凶悪な魔力の気配。
次の瞬間。
ばさあっっ!! と。
どこか頭上で、空気を強烈に裂く音がした。
「……え?」
私は反射的に顔を上げる。
夜空。
冷たい月明かり。
そして。
こちらをまっすぐ見下ろす、目を血走らせた蒼い瞳。
「……クロエ」
その地を這うような声が落ちてきた瞬間、全身の血の気が引いた。
うそ。
うそでしょ。
なんで。
なんで空にいるんですか!?
いや待って、違う。
違わないけど落ち着け私。
そうだ、この人、もうだいぶ人間離れしたチートな強さだった。
剣聖の修練と、私のSランクバフ飯と、本人の天賦の才覚と、たぶん私の生活魔法の長年の補助もあって、もはや“18歳の公爵令息”の枠に収まっていない。
でもだからって、夜逃げの現場に『空から降臨』してくるのは聞いてない! ジャンルが違う!
「…………」
声が出ない。
レオン様は、音もなくふわりと地面へ降り立った。
黒い外套が夜風をはらむ。
表情は静かだ。
静かすぎる。
むしろその静けさが、いちばん恐ろしい。
ああ。
終わった。
私の完璧な夜逃げ計画、ここで完全終了である。
レオン様は数歩進み、荷馬車の前で立ち止まった。
その視線が、私が抱きしめているトランクへ落ちる。
次に、置き去りにするつもりだった屋敷の方角へ向く。
そして、また私へ戻る。
「……なるほど」
低い声だった。
すべての感情を無理やり押し殺したような、冷たくて、きれいな声。
「本当に、俺から逃げるつもりだったんですね」
私はごくりと唾を呑んだ。
やばい。
これはだいぶやばい。
怒っている。
しかも、ふつうの怒り方ではない。
静かに怒っている時のレオン様は、たぶん一番だめな、逃げ場のないやつだ。
「その……」
かろうじて絞り出した声は、見事にガタガタと震えていた。
「は、話せばわかるといいますか……」
「ええ」
「いえ、わからないかもしれませんが……」
「聞きましょう」
彼は微笑んだ。
ごく薄く。
でも、まったく目が笑っていない。
ひい。
無理。
こわい。
でも顔が良い。
なんなんだこの状況。恐怖と萌えで情緒が完全に迷子である。
私は荷台の上で固まったまま、ようやく気づいた。
たぶんこれ。
私、自分で思っていたよりずっと。
“身を引く”ことを絶対に許されない、逃げ場のない位置まで来てしまっていたのでは?
月明かりの下。
空から降りてきた推しが、夜逃げ中の私を見上げている。
その蒼い瞳は、ひどく静かで、ひどく熱く、そして私を永遠に逃がす気が一切なかった。
――どう考えても。
ここから『遠くから見守るファン』として穏便に卒業できる未来が、一ミリも見えなかった。




