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第10話 10年後、顔面国宝の冷酷公爵令息が爆誕

 人は、愛してやまない推しの健やかな成長を願う。


 健やかであれ。

 幸せであれ。

 誰よりも強くあれ。

 理不尽な大人たちに負けるな。

 二度と暗闇で泣かされるな。

 いっぱい食べて、いっぱい眠って、光あふれる未来を自分の手で掴み取れ。


 そう、私は確かに願っていた。

 心の底から、誠心誠意、限界オタクの魂と命を懸けて毎日祈っていた。


 ……祈っていたのだが。


「ちょっと待ってください」


 私は屋敷の二階、大広間へ続く豪華な回廊の陰で、片手を壁について額を押さえた。


「推しの成長って、こういう方向でしたっけ?」


 いや、方向性としては間違っていない。

 まったく間違っていないのだ。

 最推しが理不尽なバッドエンドへ転がり落ちる未来のフラグをへし折り、強く、誇り高く、美しく、誰にも舐められない最強の騎士へ成長してほしいと願っていたのは、間違いなくこの私である。


 でも、限度ってものがあるだろう。


 回廊の先。

 磨き上げられた大理石の床を、音もなくゆっくりと歩いてくる長身の青年がいた。


 光を吸い込むような白銀の髪。

 凍てつく湖面のように澄みきった、冷たく鋭い蒼い瞳。

 すらりと高い背に、剣士として極限まで鍛え抜かれた引き締まった体躯。

 無駄を削ぎ落としたような漆黒の礼装は、むしろ彼の暴力的なまでの美貌と、息もできないほどの威圧感をいっそう際立たせている。


 ただそこを歩いているだけで、空気がビリビリと張りつめる。

 すれ違う使用人たちは恐怖で息を潜め、回廊の壁際へ深くひざまずき、誰もがその歩みを一ミリも邪魔しないよう道を完全に開けていた。


 冷たい。

 美しい。

 強い。

 そして、圧倒的だ。


 18歳になったレオン様は、もはや“将来有望な美少年”などという生易しい言葉で括れる存在ではなかった。

 完成している。

 文句なしの顔面国宝である。

 いや顔だけではない。雰囲気がもう駄目だ。危険なほど完成されている。こんなの乙女ゲームの攻略対象どころではない。もはや人の情緒を選択肢ごとなぎ払う、美しき歩く災害である。


「無理」

 小さく、かすれた声で呟いてしまった。


 本当に無理だった。

 この10年、毎日間近で見ているはずなのに、たまにこうして少し離れた場所から客観視すると、その破壊力が私の許容量キャパシティを軽々と限界突破してくる。

 どうしてこんなに立派で、冷酷で、完璧に育ってしまったのだろう。

 いや知ってる。私が育てた。正確には狂ったように支え続けた。

 食を整え、環境を浄化し、絶対結界を張り、毒を煮沸バフへ変換し、霊薬畑を爆誕させ、伝説の剣聖まで招聘して、本気で最強育成ルートをひた走った。

 でもだからって、この仕上がりは私の想定の三段階上を行っている。


 顔が良すぎる。

 背が高すぎる。

 強すぎる。

 そして、あまりにも冷たい。


 レオン様は、ひざまずく者たちを一瞥もせず通り過ぎながら、向かいから足早に来た年配の執事へ視線だけを向けた。


「報告は」

 低く、静かで、氷のように絶対的な声だった。


 執事が震えながら一礼する。

「は、はい! 北側領地の視察結果でございます。収穫量は前年よりさらに二割増加し、税収も完全に安定しております」

「余剰分は王都の商会へ流せ。だが、霊薬畑の分配は第三倉庫経由に限定しろ」

「か、かしこまりました」

「情報管理を怠るな。あの畑は、まだ俺の駒として伏せておきたい。嗅ぎ回るネズミがいれば、処理しろ」

「承知いたしました……!」


 会話が終わる。

 ただ、それだけ。

 怒鳴りもしない。

 感情を荒げもしない。

 なのに、逆らえば一瞬で首が飛ぶような、有無を言わさぬ絶対者の空気がそこにあった。


 ひええ。

 強い。

 強すぎる。


 私は物陰からこっそりそのやりとりを見守りつつ、内心で一人わたわたとパニックを起こしていた。


 なんだろう。

 こう……すごく、ちゃんと『冷酷公爵令息』だ。

 当たり前なんだけど。

 いや、彼が周囲からゴミのように扱われていた地下室時代を知っているからこそ、余計にその変化が眩しすぎて目が潰れそうになる。

 かつてあの暗闇で怯えて震えていた八歳の男の子が、今や屋敷全体どころか、公爵領の経営にまで冷徹で的確な指示を飛ばしているのだ。

 感無量である。

 本当に感無量。

 もう実質、一人前の息子を見守る保護者の気分だ。

 ああ、私の推しが立派な覇王になってしまった。泣く。


 ただし、私の情緒を狂わせる問題がひとつだけある。


 ――私の前でだけ、彼の様子が著しくおかしいのだ。


 ◇ ◇ ◇


「クロエ」


 低く、けれど先ほどとは打って変わった甘く美しい声が、すぐ耳元で響いた。


 私はゴム鞠のように跳ねて振り返った。


「ひゃいっ!?」

 盛大に噛んだ。


 だって無理だろう。

 さっきまで向こうの回廊で冷酷な指示を飛ばしていたはずの推しが、気配もなく一瞬で私の背後へ回り込んでいるのだから。

 しかも、近い。

 近すぎる。

 顔が良いものが至近距離にあると、それだけで人は正常な判断力と語彙力を失うのだ。


 レオン様は、わずかに目を細めた。

 その整いすぎた暴力的な顔面に、ほんの少しだけ、とろけるような柔らかな色が差す。


「……また、俺のことを隠れて見ていましたね」

「い、いいえ!? 隠れてなど! たまたまそこに立派な壁があり、その陰に私がいただけで!」

「それを世間では、隠れて見ていたと言うのでは?」

「言い方ァ……ッ」


 しまった。

 つい限界オタクの素のツッコミが出た。


 だがレオン様は咎めるどころか、むしろ心底楽しそうに私を見下ろしている。

 こわい。

 いや、正しくは嬉しい。嬉しいんだけど、心臓に悪い。


「そんなところで、俺を見つめて何をしていたんです」

「ええと……」

 私は視線を明後日の方向へ逸らした。

「その……少々、成長の尊さに打ちのめされておりまして」

「そんちょう?」

「いえこちらの話です」


 危ない。

 最近、ほんとに本音がダダ漏れになりやすい。

 だが仕方ないのだ。

 18歳に成長した推しの破壊力は、私の理性の防波堤を日常的に削り取ってくるのだから。


 レオン様は一歩、さらに距離を詰めてきた。

 ひっ、と心の中だけで悲鳴を上げる。


「クロエ」

「は、はい」

「俺の顔を見て、どうしてそんなに挙動不審になるんです?」

「挙動不審ではありません」

「なっています」

「それはたぶん、レオン様の顔があまりにも国宝級に良すぎるせいです」

「……」


 数秒、沈黙が落ちた。


 やってしまった。

 完全にやってしまった。

 いや事実なんですよ!? 揺るぎない事実なんですけど、本人に真顔で普通に言うな私。


 だが、レオン様は怒らなかった。

 代わりに、ゆっくりと、ひどく甘く目元を和らげる。


「そうですか」

「……はい」

「クロエにそう言われるのは……悪くないですね」

「ぐっ」


 駄目だ。

 会話の応酬で毎回こちらが致命傷を負うの、そろそろどうにか法律で規制されないだろうか。

 しかも本人はたぶん無自覚ではない。

 最近、自分の顔の良さをわかってやってる節が確実にある。

 怖い。

 推しが大人の男へ成長していく過程、あまりにも色気が怖くて尊い。


 私はどうにか気を取り直して、話題をずらそうと試みた。


「そ、それより、お仕事お疲れさまでした」

「ええ。ですが、まだ終わっていません」

「まだ?」

「あなたとお茶をするまでは」


 さらりと、呼吸をするようにそう言われた。


 私は数秒停止した。


 ……はい?


「お茶」

「はい」

「私と」

「ええ。他に誰が?」


 レオン様は、心底不思議そうに首を傾げる。

 いやこっちが聞きたい。

 今の報告のやり取りのどこに“当然これからメイドのクロエとお茶をする”という文脈があったのか。


 だが、彼にとっては本当に当然のルーティンなのだろう。

 それが最大の問題だった。


 ここ数年で、レオン様は屋敷の誰もが認めざるをえないほどの実力と絶対的な立場を手に入れた。

 剣の腕は言うまでもなく、領地経営にも早くから関わり、父である公爵すら恐れて無視できない影響力を持ち始めている。

 冷酷で隙がなく、敵に回せば一族ごと破滅させられる恐ろしい若君。

 そんな評価が、もうすでに屋敷中へ完全に定着していた。


 ――なのに、私の前でだけ、距離感が著しくバグっている。


「行きますよ」

「え、あっ、ちょ、ちょっと待ってください」

「待ちません」

「いや待ってください! 心の準備が!」


 レオン様は、ほんの少しだけ口元を持ち上げた。

 その微笑みは、外で見せる氷のような冷ややかなものではなく。私だけが知っている、やわらかく甘い、熱を帯びたものだった。


「準備なら、今さらでしょう」

「なにがですか!?」

「俺と二人きりでいることに」


 心臓が、ドクンッ! と大きく跳ねた。


 勘弁してほしい。

 そんな台詞、そんな顔で、そんな至近距離で言うな。

 こっちはただでさえ推しの成長を見守るオタク心でいっぱいいっぱいなのに、そこへ突然“大人の男の妙に色気のある圧”をかけられると、脳の処理能力が限界を迎える。


 私は内心で頭を抱えた。


 どうしよう。

 最近のレオン様、距離が近い。

 ものすごく近い。

 でもたぶんこれは、あれだ。

 長年そばにいた私への絶対の信頼とか、安心感とか、あとたぶん少し重めの『分離不安』的な何かである。

 うん。

 そうだ。

 きっとそう。

 決してそれ以上の、危うい恋愛感情的な何かではない。

 だって私はただのモブメイドだし。

 相手は将来この国を背負って立つレベルの最強公爵令息であり、しかも顔面国宝。

 釣り合いとか身分とかそういう以前に、物語的な立ち位置が根本的に違いすぎる。


 ……うん、知ってる。

 今の言い訳、自分でもだいぶ苦しい。


 でもそれ以外にどう解釈しろというのだ。

 こういうのはきっと、“ずっと一緒にいた専属メイドへの極端な懐き”とかそういうやつだ。

 大型犬が、大好きな飼い主にだけべったりと甘えるのと同じ。

 そう、たぶん大型犬。でかくて強くて顔が良くて外では猛獣みたいに怖いけど、私の前ではちょっと甘えるタイプの大型犬。

 うん、だいぶしっくりくる。これで行こう。


「クロエ」

「は、はい」

「今、俺に対して何か失礼なことを考えましたね」

「一ミリも考えておりません」

「では、素直に来てください」

「はい……」


 私は抵抗を諦め、静かに敗北した。


 ◇ ◇ ◇


 北棟の最奥にある小さな応接間は、数年前とは比べものにならないほど美しく整っていた。


 私のチート浄化魔法と整理整頓、そして絶対防御結界が日々かかっているので当然である。

 もはや北棟は、屋敷の中でもっとも清潔で快適で、どんな暗殺者も入れない安全な空間と言っていい。

 継母派の人間が恐怖で不用意に近づきたがらない程度には、完全に“レオン様(と私)の不可侵領域”と化していた。


 丸いテーブルの上に、私が用意した焼き菓子と紅茶が並ぶ。

 それを前に、レオン様は向かいの席ではなく、なぜか当たり前のように私の『隣』に座っていた。


 なぜ。

 普通、身分的に向かいでは?

 いやいいけど。

 よくないけど。

 近いんですよね、距離が。腕が触れそうなんですけど。


「クロエ」

「はい」

「今日の焼き菓子は?」

「林檎と蜂蜜のタルトです」

「あなたが作った?」

「もちろんです」


 それを聞いた瞬間、レオン様の機嫌が、目に見えて急上昇する。


 ……ほんとうに、わかりやすい。


 外では冷徹で隙のない最強の公爵令息。

 誰もが怯え、畏れ、遠巻きにその機嫌を必死に窺う存在。

 なのに私の前では、私の作った菓子かどうかだけで、表情の温度が劇的に変わる。


 かわいい。

 いや、かわいいで済ませていい存在ではなくなってきているんですけど。

 でも根っこのところはやっぱり、あの日のレオン様だ。

 困る。

 情緒が。


 レオン様はひとくち食べて、静かに目を細めた。


「……うまい」

「よかったです」

「クロエの作るものは、安心する」

「……」

「味も、匂いも。全部」


 私は胸の奥が、じんわりとあたたかくなるのを感じた。


 ああ。

 そうだ。

 この子にとって、私の作る食事は、ただおいしいだけではないのだ。

 毒も悪意もない、安全なもの。

 心から安心して口にできる、裏切らないもの。

 それを初めて与えられた夜から、ずっと。


 だったら、どれだけ依存されたって、いくらでも作る。

 だって私は、それが嬉しい。

 この子の“安心”の一部になれていることが、たまらなく嬉しいのだから。


「もっと召し上がりますか?」

「あなたが食べさせてくれるなら」

「……………………は?」


 時が止まった。


 いま、何とおっしゃいました?


 私はぎぎぎ、と首の音を立てるように顔を向けた。

 レオン様は、涼しい顔で優雅に紅茶を口にしている。

 だがその蒼い瞳は、明らかにこちらの反応を面白がるように見ていた。


 こ、こいつ……!

 絶対わかってて言ってる!

 昔のあどけない「クロエ、あしたも来てくれる?」の延長みたいな無垢な顔をして、時々こういう特大の爆弾を投げてくるようになったのだ。

 成長が恐ろしい。

 青年期の推し、あまりにも危険すぎる。


「……レオン様」

「はい」

「それは、どういう」

「文字通りですが?」

「文字通りが一番困るんですが!?」

「なぜ?」


 本当に不思議そうな顔をするな。

 こっちは困る。

 本当に困る。


 だが、彼は少しだけ身を寄せてきて、低い、耳元をくすぐるような声で続けた。


「昔は、よくしてくれたでしょう」

「そ、それは、幼少期の看病や保護の文脈であってですね!」

「今は駄目ですか」

「駄目とかそういう問題ではなく!」

「俺は、俺のクロエにしてほしいんですが」


 無理。

 本当に無理。


 私は勢いよく顔を背けた。

 耳が熱い。

 絶対に赤い。

 やめてくれ。

 そんなふうに言われて平常心でいられるメイドがこの世に存在するなら、ぜひ会って教えを乞いたい。


 でも――。


 ちらり、と横を見れば、レオン様はどこか期待するような、でも拒まれたら少し傷つきそうな、捨てられた子犬のような顔をしている。


 ずるい。

 その顔はずるい。

 そんな、計算し尽くされた大型犬みたいな眼差しを向けられたら、限界オタクの私が断れるわけがない。


 結局私は、観念して小さくため息をついた。


「……ひと口だけですよ」

「はい」


 即答。

 しかも、ものすごく満足そうな、悪い顔。


 ああもう。

 本当に、この人は。


 私は震える手でフォークを持ち、小さく切り分けたタルトを持ち上げた。

 手が震える。

 仕方ない。

 だって今、18歳の顔面国宝の青年公爵令息に対して、“あーん”をしようとしているのだ。

 状況の破壊力が高すぎる。


「……あの」

「はい」

「笑わないでくださいね」

「笑っていません」

「目が完全に笑ってます」

「嬉しいだけです」


 さらりと言うな。

 本当にやめてほしい。

 寿命が縮む。


 私は覚悟を決めて、そっとフォークを差し出した。


「……どうぞ」

 レオン様は、まっすぐ私を見た。

 それから、ゆっくりと口を開ける。


「……ん」

「…………」


 食べた。

 推しが。

 あーんで。

 私から。

 食べた。


 終わった。

 私の情緒が終わった。

 これはもう、何かのご褒美イベントでは?

 しかも美麗スチル付きでは?

 運営はどこですか。特典ディスクはありますか。ない? 現実? これ現実なの!? 無理です。


「……うまい」

「そ、そうですか」

「いつもより」

「気のせいでは?」

「俺のクロエが食べさせてくれたので」

「因果関係が雑!」


 だがレオン様は、明らかに機嫌がよかった。

 声を出して笑うほどではない。

 でも目元がやわらかい。

 外で見せる絶対的な冷たさはどこにもなく、ただ静かに甘い熱だけがそこにある。


 私は胸を押さえたくなった。


 これはたぶん、いけない。

 いや、何がいけないのかはよくわからない。

 でも、この狂った距離感に慣れたらたぶん駄目だ。

 絶対に勘違いする。

 私はただのモブメイドで、彼は未来ある最強公爵令息で、しかもいずれ社交界の花のような令嬢たちから山ほど言い寄られるに決まっているのだから。


 そう。

 だからこれは、ただの信頼と甘えだ。

 幼い頃から一緒にいた私への、ちょっと重めの懐き。

 そういうもの。

 きっと。


「クロエ」

「はい?」

「何か、変なことを考えていませんか」

「考えておりません」

「では、どうしてそんなに遠い目を?」

「人生について少々」

「俺の隣で?」

「だからこそですよ……」


 レオン様は、くすりと笑った。


 あ。

 今、笑った。


 終わりである。

 完全に終わり。

 冷酷公爵令息が私の前でだけ見せる、柔らかな笑み。

 そんなものを至近距離で浴びたら、理性の防波堤などティッシュペーパーみたいなものだ。


 私はどうにか崩れ落ちずに済んだ自分を褒め称えた。


 ◇ ◇ ◇


 その夜、北棟の廊下を一人で歩きながら、私は深く深くため息をついた。


「これは……まずいのでは?」


 もちろん、屋敷で何か事件があったわけではない。

 レオン様は順調に成長している。

 強く、美しく、聡明で、着実に周囲を掌握しつつある。

 これ以上ないほど順調だ。

 そう、順調すぎるほどに。


 問題は、私の前でだけ『甘えん坊の大型犬化』することだった。


 いやもう、大型犬というには少々語弊があるかもしれない。

 外では完全に氷の冷酷公爵令息なのだ。

 冷酷だし、容赦ないし、視線だけで大の大人を黙らせる。

 でも私の前では距離が近い。

 やたら近い。

 お茶に当然のように同席させるし、食べさせろとか言うし、隙あらば名前を呼ぶ声が甘い。

 それはもう、犬というより“飼い主にだけ懐く大型の肉食獣”寄りでは?

 いやだいぶ物騒だなその表現。


 私は頭を抱えた。


 違う。

 きっと違う。

 これは恋愛とかそういう話ではない。

 長年そばにいた反動で、分離不安とか、依存とか、そういう精神的な拠り所が強く出ているだけ。

 うん、たぶん。

 そうであってほしい。

 そうでないと私の心臓がもたない。


 でも、ふと思い出す。


 “俺は、クロエにしてほしいんですが”

 “俺のクロエが食べさせてくれたので”

 “準備なら、今さらでしょう”


 ……だめだ。

 やっぱり大型犬の懐きの範疇を越えている気がする。

 でも認めない。

 私は絶対に認めないぞ。

 認めたら最後、いろいろな意味で私の平穏が吹き飛ぶ気がするから。


 その時、背後から低い声がした。


「クロエ」

「ひゃっ!?」


 本日何度目かの飛び上がりである。

 振り向けば、案の定レオン様がいた。


「……どうしてそんなに驚くんです」

「近づく気配が暗殺者より薄すぎるんです!」

「クロエを守るために鍛えていますので」

「鍛えて解決していい方向ではありません!」


 レオン様は少しだけ笑って、それから私の前へ立った。


「まだ起きていたんですね」

「レオン様こそ」

「あなたが廊下で難しい顔をしていたので」

「……見られてました?」

「ええ」

「最悪です」

「何を悩んでいたんです?」


 私は一瞬、迷った。

 もちろん本当のことなど言えるわけがない。

 “あなたが私の前でだけ甘すぎて、私はどう受け止めればいいのかわからず困っています”などと言った日には、その場で私が爆発四散する。


 だから私は、やや曖昧に答えた。


「少し……考えていただけです」

「何を」

「推しの成長は時に眩しすぎるな、と」

「……またそれですか」

「またです」


 レオン様は呆れたように息を吐いた。

 でも、その顔はほんの少しやわらかい。


「クロエ」

「はい」

「俺がどう成長しても、あなたの前では俺ですよ」

「…………」


 それは、反則だろう。


 18歳の、顔面国宝で、冷酷公爵令息で、領地を掌握しつつある強く美しい推しが。

 そんなふうに、まっすぐこちらを見て言うのは、あまりにも反則だ。


 私はしばし言葉を失い、それからようやく、小さく息を吐いた。


「……知っています」

「なら、そんな顔をしないでください」

「どんな顔ですか」

「遠くへ行かれそうなものを、諦めて見送る顔です」


 その言葉に、胸がきゅっと痛んだ。


 ああ。

 違うのだ。

 遠くへ行きそうなのは、むしろ彼の方だと思っていた。


 立派になって。

 強くなって。

 美しくなって。

 やがて私なんか必要なくなるくらい、完璧な公爵になっていく。

 そうなった時、私はきっと身を引くべきなのだろう、と。

 そんなことを、最近ずっと考えていた。


 でも、この人はたぶん、それを少しも望んでいない。


 私は目を伏せて、そっと笑った。


「……難しいですね」

「何がです」

「推し活というのは」

「また、わからないことを」

「わからなくていいんです、これは」


 レオン様は少しだけ沈黙して、それから不意に手を伸ばした。

 ひやりとした長い指が、私の頬へかかる髪をそっと払う。


「少なくとも」

 低く、やわらかな声。


「俺は、あなたに遠くへ行ってほしくない。絶対に」


 呼吸が止まった。


 だめだ。

 これはだめ。

 そんな顔で、そんな切実な声で、そんなことを言うな。


 だって私は、あなたが幸せになるなら、それでいいとずっと思ってきたのに。

 なのにそんなふうに“行ってほしくない”なんて言われたら、嬉しくなってしまうではないか。


 私はなんとか笑おうとして、でもたぶん少しだけ失敗した。


「……それは、分離不安ですかね」

「違います」

 即答だった。


 あまりにも即答で、逆に思考が止まる。


 えっ。

 違うんだ。

 じゃあ何なんだ。

 いや待て待て、今そこを掘り下げるのは危険な気がする。私の安全のためにも、心の平穏のためにも。


 だが、レオン様はそれ以上は言わなかった。

 ただ静かに、熱を帯びた瞳で私を見て、それから手を離す。


「夜は冷えます」

「……はい」

「もう休んでください」

「レオン様も」

「ええ。あなたが眠るなら」


 私は思わず額を押さえた。

 もう駄目だ。

 この人、本当に、外では冷酷なのに私の前では甘さの加減がおかしい。


 でも、その甘さを拒みきれない自分がいることも、私はもう知っていた。


「……おやすみなさい、レオン様」

「おやすみ、俺のクロエ」


 その声が、どこまでもやさしくて、重くて。

 私は胸の奥に残る熱をごまかせないまま、自室へ戻るしかなかった。


 ――そしてこの頃にはもう。

 屋敷の者たちは誰もが知っていた。

 若き冷酷公爵令息は、クロエの前でだけ明らかに態度が違う、と。

 誰もそれを口にはしない。

 しないが、視線の端に浮かぶ理解と恐れは隠せない。


 一方の私はというと、

「いやこれはきっと重度の懐き! 大型犬! 大型肉食獣案件!」

 などと、かなり無理のある自己暗示を続けていたわけだが。


 残念ながら。

 外から見れば、もうだいぶ答えは出ていたのかもしれない。


 ただ――この時の私はまだ。

 推しが立派に育ちすぎて情緒が追いつかないことと、

 その推しが自分へ向ける視線の熱量が、もはや“懐き”の一言で片づかない『激重な執着』であることを、

 本当の意味では理解できていなかったのである。


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