世界の終焉
人類の歴史とは、生存領域の拡大と、それを阻む脅威との絶え間ない境界線の引き合いであった。
冒険者ギルドが創設され、魔物の脅威が「等級」という記号によって管理されるようになって久しい。だが、人類は忘れていた。この世界の地下深く、魔素の潮流が交わる「世界の胃袋」とも呼ばれる最深部には、人類の歴史が始まる以前――神々が世界を創り損ねた時代の「不要物」が、今なお脈動を続けているということを。
大陸中央部に位置する、かつて肥沃な大地として知られた穀倉地帯「オルフェン大平原」。
その中央が、音もなく陥没した。
地震ではない。地殻の変動でもない。ただ、そこにあった空間そのものが、何か巨大な存在に内側から喰い破られたかのように、完璧な球体状の漆黒の「虚無」へと変貌したのだ。
「……ア、ア、……ァ……」
陥没の底から響いてきたのは、生物のそれとは到底思えない、世界の軋みそのもののような、くぐもった「音」だった。
次の瞬間、平原を覆っていた青々とした作物が、一瞬にして黒く変色し、塵となって風に消えた。半径数十リリーに及ぶ生命の気配が、ただの「呼吸」一つで絶滅したのだ。
虚無の穴から這い出てきたのは、これまでに人類が目撃したあらゆる魔獣、巨獣、古龍のどれとも異なる「異形」であった。
体長は数千メートルに及び、その輪郭は常に陽炎のように歪んでいる。不定形の肉体には、数千、数万という「人間の泣き顔」に似た紋様が浮かび上がり、そこから世界の理を狂わせる純黒の魔素が、絶え間なく噴き出していた。
ギルド本部が、過去数百年分の文献をひっくり返して割り出したその怪物の名は、――【創世の残滓】。
ただ存在するだけで周囲の環境を物質ごと「消滅」させ、歩を進めるだけで大陸の形状を変えてしまう、文字通りの「世界を滅ぼす厄災」であった。
「オルフェン平原に、測定不能の魔力源を感知! 周辺の三つの街が、交信を絶ちました……! いえ、街そのものが、地図から消失しています!」
王都のギルド本部に飛び込んだその報告は、連盟の事務局長室にいたムドーの、残り少ない寿命をさらに縮めるに十分な絶望であった。
ムドーは、ガタガタと震える手で眼鏡を直しながら、世界中の通信水晶へと魔力を流し込んだ。
「……全冒険者、全国家の軍隊に告ぐ……。これは、防衛戦ではない。……人類という種の、存続を賭けた、最後の抵抗じゃ……ッ! 各国に眠る『遺物』を解放せよ! 動ける者はすべて、オルフェン平原へ集え!」
ムドーの悲痛な叫びは、全大陸の国家、ギルド、そして隠棲していた英雄たちを動かした。
旧ガリア王国の鉄甲魔導騎士団、五万。
エルドラドから派遣された、神聖魔術師の精鋭部隊、三万。
さらには、普段はそれぞれの地域で「生ける伝説」として君臨していた高位の冒険者パーティが、百以上。
かつてこれほどまでの戦力が、一つの場所に集結したことはなかった。
平原の周囲を取り囲むように布陣した軍勢の総数は、三十万を超えていた。空は魔導飛行艦の船体で覆い尽くされ、大地は騎士たちの放つ闘気で黄金色に染まっている。
「……勝てる。これだけの戦力があれば、いかに神代の怪物と言えど、塵にできるはずだ」
最前線で指揮を執るガリアの老将が、自らを鼓舞するように剣を抜いた。
だが、その希望は、怪物が「一歩」を踏み出した瞬間に、完膚なきまでに打ち砕かれることになる。
怪物が、ただ前足を一歩、前に進めた。
それだけで、大気が爆発的な衝撃波となって周囲の軍勢を襲った。
「な……魔法障壁を展開せよ! 防御陣形だ!」
魔術師たちが必死に唱えた最上級の防御魔法は、怪物の放つ黒い霧に触れた瞬間、パリンとガラスのように割れ、霧に呑まれた兵士たちは、悲鳴を上げる暇さえなく「存在そのもの」を消去されていった。
鉄の鎧も、鍛え抜かれた肉体も、誇り高き信仰も、その圧倒的な虚無の前には、ただの「有機物の塵」に過ぎなかった。
「化け物め! 喰らうが良い、我が国に伝わる古代兵器の威力を!」
魔導飛行艦の一斉射撃が、怪物の頭部に降り注ぐ。山をも穿つ光の奔流が怪物を包み込み、平原は閃光に満たされた。
だが、爆煙が晴れた後に現れた怪物の姿は、傷一つ付いていなかった。それどころか、怪物の背面に浮かぶ数万の「顔」が一斉に歪み、光の粒子を逆に吸い込んでしまったのだ。
「……嘘だろ。最大火力の魔導砲が、……ただの『食事』にされたというのか……」
空中要塞が、怪物の放つ漆黒の光線によって一撃で両断され、墜落していく。
戦場は、わずか数分で、三十万の精鋭が逃げ惑う「屠殺場」へと変貌した。
「……救世主はいないのか。……ユニオンの、あの『神々』は、どこにいるんだ……ッ!」
老将が血を吐きながら天を仰いだ。全人類が、今や唯一の希望となった「あの男」の名を、心の中で、あるいは叫びながら求めていた。
全人類が滅亡の危機に瀕し、その名を叫んでいたその頃。
当のリアムは、オルフェン平原から遥か数千リリー離れた、南方の鬱蒼とした未開の密林の中にいた。
「……あ、あはは。……おかしいな。……ムドーさんからは、ここに『世界を揺るがす重大な不調和の種』があるって聞いてたんだけど……」
リアムは、手にした地図(ムドーが適当に渡した、適当な密林の白地図)を見つめながら、困り果てた顔で呟いていた。
彼の周囲には、今日も今日とて、世界最強の側近たちがぴったりと張り付いている。
実は、ムドーの意図はこうだった。
(……オルフェン平原の件は、まずは世界の軍隊に当たらせる。あそこに最初からリアムを行かせたら、またアクアたちが何を調合して、世界がどう書き換わるか分からん。……よし、リアムには適当な密林の『生態系調査』でも押し付けて、数日間足止めしておこう!)
賢者ムドーの「リアム遠ざけ作戦」は見事に成功していた。
成功しすぎて、世界が滅びかけているという本末転倒な状況を除けば、だが。
「……リアム様。……この森の奥から、確かに『不快な羽音』が聞こえます。……これが、リアム様の安眠を妨げる、世界の害獣の正体に違いありません」
リリーが冷徹な瞳で魔導書を開き、周囲の巨木を次々と「自律型の戦闘植物」へと変異させていく。
「……リリー。……たかが虫。……私が、……巣ごと、……一撃で消してくる」
マリーがドレスの袖をまくり上げ、右拳を軽く引いただけで、密林の木々が風圧で一文字に薙ぎ倒された。
「あ、いや、待ってマリー! 虫を退治するのに、森を消さないで! 僕はただ、ちょっとのどかなピクニックだと思って来ただけなんだから!」
リアムが必死にマリーの腕を掴んで制止する。
その横では、アクアが新しく採取した密林の毒キノコをフラスコに入れ、怪しい色の液体を完成させていた。
「……ふふ、リアム様。このキノコの成分、リアム様の『夜の持久力』をさらに高める、素晴らしい触媒になりそうですわ。……王都に戻ったら、さっそく試作してみましょうね?」
「……それ、……私も、……興味、ある」
カエデが、刀の柄に手をかけたまま、アクアの薬瓶をじっと見つめている。
「ひ、ひぃぃぃ! 薬の話はいいから! サオリさん、これ本当に重要な任務なの? 僕、早く王都の安全な部屋に帰りたいんだけど……」
サオリは眼鏡を指先で押し上げ、冷静に書類をチェックした。
「……総帥。事務局長からの命令書には『南方の不調和を完全に除去するまで帰還を許さず』とあります。……ですが、先ほどから王都の通信水晶が、異常なほどの魔力過負荷で『爆発』を繰り返しており、定時連絡が途絶していますね」
「……えっ? 爆発? ……それって、なんかヤバいんじゃ……」
リアムが冷や汗を流したその瞬間、イブが空を見上げ、その紅い瞳を細めた。
「――リアム様。……どうやら、向こうの空が、少し『騒がしい』ようですわ」
イブが指差した遥か北方の空は、真昼だというのに、不気味な「紫黒の雲」に覆われ、世界の魔素のバランスが完全に崩壊していることを示していた。
「……あ、……あはは。……これ、僕が一番関わっちゃいけないタイプの、やつだよね……?」
リアムの直感が「全力で逃げろ」と告げていた。だが、彼が拒否権を行使する前に、エレーナがその手を優しく、しかし万力のような力で握りしめた。
「……行きましょう、リアム様。世界が貴方の『救済』を求めて、泣き叫んでいます。……我がユニオンの威光を、あの愚かな雲の向こうまで届かせるのです」
「……よし。……マスターピース号、……全速前進。……邪魔な雲は、……私が全部殴り飛ばす」
マリーの宣言と共に、最強の7人を乗せた黄金の飛行艦は、ようやく「本物の厄災」が待つ地へと向けて、舵を切ったのだった。
オルフェン大平原。
かつて三十万を誇った全人類の精鋭部隊は、今や一万人にも満たない生存者が、怪物の前でただ震えるだけの「肉の山」と化していた。
「……終わりだ。……世界は、今日ここで、無に帰る……」
老将が、両膝を地面につき、迫り来る怪物の巨大な前足を見上げた。怪物の背面に浮かぶ数万の顔が、人類の絶望を嘲笑うかのように、一斉に「歪んだ歓喜」の表情を浮かべる。
怪物の足が、生き残った兵士たちを踏み潰そうと、ゆっくりと振り下ろされた。
その時。
戦場の分厚い紫黒の雲が、まるで巨大な刃で一刀両断されたかのように、一文字に切り裂かれた。
割れた雲の隙間から降り注いだのは、圧倒的な、まばゆいばかりの「黄金の光」――。
――ドオォォォォォォォォン!!!
突如として空から飛来した、超重量の魔導飛行艦【マスターピース号】が、怪物の振り下ろした前足と地面の間に、強引に「楔」のように割り込んで着陸したのだ。
着陸の衝撃波だけで、周囲に残っていた黒い霧が一瞬で吹き飛ぶ。
「な、……なんだ……!? あの黄金の船は……ッ!」
生き残った兵士たちが、目を開けた。
硝煙と光の粒子が舞い散る中、マスターピース号の最前面、一番高いデッキの上に、一人の青年が立っていた。
青年――リアムは、あまりの移動の激しさと、目の前にそびえ立つ「数千メートル級の異形」のグロテスクさに、顔面を完全に蒼白にし、膝をガクガクと震わせながら、消え入るような声で呟いた。
「……あ、……あはは。……何これ。……ムドーさん、聞いてないよ……。……帰りたい……本当に、帰りたい……」
リアムは、あまりの恐怖に、今にもその場に泣き崩れそうだった。
しかし、戦場に響き渡った彼の「震える声」と、その背後に一列に並んだ、世界を数回は滅ぼせるレベルの側近たちの姿を見た生存者たちは、一斉に歓喜の涙を流した。
「お、おおお……! リアム様だ! ユニオンの総帥、リアム様が、我々を見捨てず、ついに来られたぞ!!」
「見ろ、あの落ち着き払った(恐怖で固まった)態度を! あの巨大な厄災を前にして、一歩も引いておられない!」
怪物の数万の「顔」が、初めて明確な「警戒」の色を湛えて、リアムの一行へと向けられた。
世界を滅ぼす「真なる厄災」と、世界を既に(色んな意味で)変え終えた「最強のパーティ」。
大陸の運命を賭けた、本当の戦いの幕が上がる直前、リアムはただ、目の前の現実に深い深い、絶望の溜息をつくしかなかった。
「……はぁ。……もう、笑うしか、ないよね……」
その溜息が、戦場に集った全てのものに、終わりの、あるいは始まりの合図として響き渡った。




