ユニオン
大陸統一ギルド、通称【ユニオン】。
それは、各国の軍事権を実質的に凍結し、一人の青年「リアム」の意思によって大陸の運命を決定する、人類史上最大の超国家的組織である。
かつて王都の象徴であったギルド本部の最上階執務室は、今やリアムの「玉座」へと改装されていた。だが、その部屋に漂う空気は、権力の香気ではなく、濃厚な「雌の匂い」と、リアムの絶望的な溜息であった。
「……報告は以上じゃ。現在、大陸全土から『総帥への献上品』という名の、山のような陳情書が届いておる。付随する美女、財宝、そして呪物まがいの魔道具が王都の港に溢れ返り、物流が麻痺。もはや王国一国の経済圏では処理しきれん段階に入ったわい」
ムドーは、かつての威厳をどこへやら、やつれ果てた顔で報告書を読み上げていた。彼の肩書きは今や「ユニオン事務局長」。聞こえはいいが、実態は「リアムが引き起こした不祥事と国際問題の火消しに奔走する、世界一給料の低い奴隷」である。
(……ホッホッホ。かつてワシは世界を裏で操ろうとした。だが今は、あやつらの愛欲の余波で壊れた王宮の修繕費を計算し、リアムの寝室から漏れ聞こえる悲鳴を『神の啓示』として民衆に翻訳する毎日。……これが、神を飼おうとした代償か)
ムドーはふと、部屋の隅で怪しげな紫色の煙を上げているアクアに目をやった。アクアはかつてムドーの忠実な右腕であったが、今やその忠誠の対象は完全にリアムへとスライドしている。
「……アクアよ。お主、リアムの『疲労回復薬』に、こっそり『他国への執着を消す記憶阻害薬』を混ぜておらんか? エルドラドの特使が、リアム様に会わせてもらえないと門前で三日三晩泣き崩れておるぞ」
アクアは、琥珀色の液体をフラスコで揺らしながら、狂気を含んだ艶やかな笑みを浮かべた。
「……あら、ムドー様。それは誤解ですわ。私はただ、リアム様が『余計な雑音』に惑わされず、この部屋で私たちが捧げる愛だけに集中できるように、五感を少ぉしだけ……繊細にしているだけ。……調合の楽しみに比べれば、外交なんて退屈な遊戯、リアム様には不要でしょう?」
ムドーは胃を押さえた。アクアにとって、世界がどうなろうと知ったことではない。彼女は今、リアムという「無限の生命力を持つ究極の検体」を、この閉鎖空間でどう料理し、どう愛でるかに全ての知性を注いでいた。このマッドサイエンティストは、調合さえ楽しめれば、誰に加担するかなどその日の気分次第なのだ。
「……ム、ムドーさん。……僕、もう限界だよ」
玉座でぐったりとしていたリアムが、消え入るような声で呟いた。
その膝の上には、今や「総帥の影」として公式に認められたカエデが鎮座している。彼女は剣聖としての「静かなる狂気」を湛えた瞳で、リアムの首筋に冷たい刃を当てるかのような鋭い愛撫を繰り返していた。
「……総帥。お疲れでしたら、このまま私が貴方を……『永遠に動かなくていい場所』へお連れしましょうか?」
「ひ、ひぃ! 結構です! 間に合ってます!」
リアムは、ムドーに縋るような視線を向けた。
(……そうだ。このままじゃ、アクアさんの変な薬と、みんなの愛で、僕の体は文字通り溶けてなくなる! どこかへ行かなきゃ、仕事っていう名目で、この部屋から脱出しなきゃ!)
「ム、ムドーさん! 大陸統一ギルドの初仕事として、僕は……そう、領土の検分に行くべきだと思うんだ! 自分の目で、世界の平和を確かめるために!」
リアムの瞳には、かつてないほどの決意が宿っていた。もちろん、その本心は「一刻も早く、この女たちから逃げて、どこか遠くの村で一人になりたい」という切実な逃亡欲求である。
ムドーは眼鏡を上げ、冷徹に答えた。
「……ほう。領土検分か。……それは奇遇じゃな。現在、旧ガリア王国の北方領土で、原因不明の『大穴』が発生し、そこから未知の魔物が溢れ出しているという報告が入っておる。……各国の軍は解体されたばかりで動けん。……総帥自らが出向けば、士気は最高潮に達するじゃろうな」
「……えっ、魔物? 穴? ……いや、僕はもっと、のどかな、例えば温泉街とかを……」
「――『私がその穴を、リアム様への捧げ物として埋め尽くしてあげましょう』。……リリーとイブがそう申しております」
アクアが、リアムの耳元で甘く囁いた。リアムの逃亡計画は、その瞬間に「聖伐」という名の軍事遠征へと書き換えられた。
翌日。王都の民衆に見送られながら、リアム一行は移動式要塞【マスターピース号】に乗り込んだ。
ムドーがリアムを王都から遠ざけるために(そして自分の胃を休めるために)総力を挙げて建造させた最新鋭の魔導飛行艦である。
(……よし。飛行艦なら、いざとなったら夜中にパラシュートで逃げられる。……あの大穴っていうところに着く前に、なんとか脱出するんだ!)
リアムは希望を抱いて艦内に入ったが、そこは彼にとっての「移動する檻」であった。
「リアム様。……この艦の寝室は、外部の音を一切遮断する特殊な結界が張られています。……移動中の数日間、思う存分、私たちを『検分』してくださいね?」
イブが、露出度の高い軍服を脱ぎ捨てながら、リアムをベッドへと押し倒す。
「さあ、リアム様。……北方の寒さに備えて、私の体温で……芯まで温めてあげます……っ!」
エレーナが、聖女の皮を完全に剥ぎ取った欲望の瞳で、リアムを包み込む。
出発して五分。マスターピース号の揺れとは異なる激しい振動が、リアムの寝室から漏れ始めていた。
数日後。一行は北方の「絶望の大穴」に到着した。
そこには、数万の魔物と、それを食い止めようと必死に防衛線を張る旧ガリア軍の残党がいた。彼らは、空から降りてきた黄金の飛行艦を見て、救世主の到来に涙を流した。
だが、大穴から現れたのは、これまでの魔物とは一線を画す「古の守護者」だった。
体長100メートルを超える岩石の巨躯。魔法を吸収し、あらゆる刃を跳ね返すその怪物が、咆哮と共に地上を砕く。
「……あ、あはは。……あんなの、勝てるわけないじゃないか……」
リアムは艦のデッキで腰を抜かし、その場に座り込んだ。
その時、これまで静かにリアムの背後に立っていたマリーが、無造作に一歩前へ出た。
「……リアム様。……あんなガラクタのせいで、貴方の顔が曇るのは、我慢できません」
マリーは、特に構える様子もなく、ただゆっくりと右拳を握り込んだ。
彼女の周囲の空気が、その圧倒的な「質量」に耐えかねて悲鳴を上げる。
「マリー! 魔法支援は必要――」
リリーの言葉が終わるより先に、マリーが動いた。
ドォォォォォォォォン!!!
踏み込みの一歩で、マスターピース号の甲板がひしゃげ、空気が爆発する。
マリーの姿が消えたと思った瞬間、100メートルの巨躯を誇った「古の守護者」の胴体に、巨大な風穴が開いた。
「……せ、いッ」
マリーの放ったただの一撃。
魔法も、聖力も、小細工も一切ない。ただ純粋に「筋肉」と「速度」を極限まで練り上げた物理の衝撃が、守護者の核を粉砕し、背後の山脈までをも一文字に削り取った。
巨像は悲鳴を上げる暇もなく、塵となって霧散する。
「……ふぅ。……リアム様、お怪我はありませんか?」
返り血すら浴びていないマリーが、何事もなかったかのようにリアムの元へ戻り、その逞しい腕で彼を優しく、しかし逃がさない強さで抱きしめた。
「「「……は?」」」
ガリア軍の兵士たちも、そして大穴から這い出ようとしていた数万の魔物たちも、等しく絶句した。
「……パンチ一発で、概念守護者が……消えた……?」
魔物たちが恐怖に凍りついている中、リアムはマリーの腕の中で、連日の「検分」による疲労と、目の前の非現実的な光景に、深い深い溜息をついた。
「……はぁ。……もう、嫌だ……。……帰り……たい……」
その「溜息」を、側近たちは聞き逃さない。
「――お聞きなさい、愚かな魔物ども。リアム様は仰ったわ。『生き恥を晒すな。今すぐ塵になれ』と」
イブの紅蓮の炎が空を焼き、リリーの世界樹の根が大穴を物理的に埋め立て、カエデの剣気が残党を塵に変える。
わずか数分。
ガリア軍が数ヶ月かけても解決できなかった「絶望の大穴」は、リアムの「溜息一つ」で、美しい森へと作り変えられた。
「……おお……! これが、総帥の……神の力か……ッ!」
兵士たちが跪き、大地が震えるほどの歓声が上がる。
リアムは、その熱狂の中で、自分がまたしても「平和な引退」から遠ざかったことを悟り、マリーの腕の中で白目を剥いた。
王都に残されたムドーは、遠隔水晶でその光景を見ながら、そっと新しい胃薬の蓋を開け、そのまま瓶ごと飲み干した。




