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グリモワール・コード  作者: 一条信輝


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50話 北西の風

層が消えてから、三日が経った。


 書き手の動きは、その三日間、観測されなかった。北東の空は静かなまま、信号鏡の点滅も最小限の運用に戻っていた。守備隊の動員規模が一段落とされ、街の張り詰めも、わずかに緩んでいた。


 拠点の二階では、各自が、それぞれの時間を取り戻していた。


 ナミは台所で、毎朝の朝食の手数が少しずつ細かくなっていた。汁物の出汁を取る時間、根菜を切る厚さ、塩の加減——戦闘期に省いていた工程が、また戻ってきている。マリスティアで覚えた本来の料理の流儀に、戻りつつあった。


 ミアは、毎朝早く塔に出かけ、観測の助手たちとデータ整理を進めていた。解頁の摩耗は、三日の休みでかなり戻っていた。だが、完全には戻りきらない。「読まれた」あとの後遺症が、まだ深いところに残っているのが、本人にも分かっていた。


 リーネは、剣の手入れと、街の中での体力作りを続けていた。書き手との戦いは、刃を振らない時間が長い。だからこそ、振る瞬間に最大の力を出せる体を、維持する必要があった。


 セリカは、工房で「解除型」の鍛魂の調整を、ほぼ完成させていた。三日間の静かな時間を、職人として最大限に活かしていた。


 ルーナは、医療所と拠点を行き来しながら、ミアの解頁の継続的な治癒と、自分自身の休息を、慎重に交互に進めていた。


 だが、四日目の朝、塔から呼び出しが来た。


 夜明け前ではない。日が昇り切って、市場が開く時刻。緊急の伝令ではなく、通常の連絡兵が、いつもの足取りで宿の扉を叩いた。


「観測室まで、ご都合のつく時に」


 短い伝言。それだけで、これまでとは違う種類の呼び出しだと分かった。緊急ではないが、無視できない情報がある——という呼び方だった。


 ◇


 観測室に入ると、班長が地図の前に立っていた。


 徹夜の顔ではなかった。久しぶりに、ある程度休めた後の顔。だが、地図を見る目には、新しい緊張が乗っていた。隣で、観測の助手が新しい印を地図に書き加えながら、班長の指示を待っている。


「動きがありました」


 短く告げた。


 地図の上に、新しい印が打たれていた。今度は北東ではなく、北西。これまでの観測領域から、外れた場所。


「北西、フォルジア寄りの空域。観測の信号鏡で、ごく小さな歪みが報告されています。一つだけ。サイズも小さい。だが、書き手の手の特徴と一致します」


「フォルジア寄り、ですか」


 ミアが指で地図を辿った。


「ヴァルトハインの観測網の、ほぼ縁。境界に近い場所」


「そうです。観測の信号兵が、いつもより遠距離からの目視で確認しました」


 班長が、地図の北西の点を指で押さえた。


「規模は小さいですが、無視できません。書き手が、新しい場所で同じ手を始めたのか、別の意図があるのか——判別がつきません」


 短い説明だったが、観測のデータだけでは結論が出ない、という含みがあった。北西の歪みが、これまでの北東と同じ書き手のものなのか、それとも別の何かなのか——その判別すら、現段階ではついていない。


 地図の上で、ミアの指が、北東と北西の両方の点を行き来した。


「見に行く必要があります。同じ手か、違う手か、現場で確認しないと、何も言えない」


「同意です」


 班長が、低く頷いた。


「我々の観測網では、北西の現場まで信号鏡の細かい情報は届きません。実地の確認が、最も早い」


 ◇


 拠点に戻り、仲間に伝えた。


 ナミが、台所から振り返る。


「フォルジア寄り、ね」


 水使いの目に、わずかな含みが乗った。マリスティアの隣島であるフォルジアは、セリカの故郷。書き手の手が、今度はそちらの方角に伸びている、という事実は、各自の中で、別々の重みを持っていた。


「セリカ、知ってるか」


 リーネが、剣の手入れの手を止めて訊いた。


「まだ。これから工房に伝える」


 短く返した。


 工房に向かうと、セリカは新しい補助刃の調整を続けていた。三日前に話した「解除型」の鍛魂が、ようやく形になりつつあるところだった。眼鏡が、いつもより集中して、紋様を引いている。


 扉を開ける気配で、振り返らずに反応した。


「カイさん、何か」


「書き手の動きが、北西で観測された」


 眼鏡の手が、止まった。


「北西」


「フォルジア寄り。観測網の縁の近く」


 しばらく、沈黙が続いた。眼鏡の奥が、職人の冷静さと、故郷への気がかりの間で、揺れている。だが、表に出した表情は、わずかに変わっただけだった。


「フォルジアの街は、観測されていますか」


 短く訊いた。


「街自体は、まだ。観測の信号兵が見たのは、フォルジアと観測網の間の空域。街までの距離は、確かに離れています」


「分かりました」


 眼鏡が、補助刃に視線を戻した。一拍だけ目を閉じてから、また紋様の続きに戻る。


「補助刃の調整、午後までに終わらせます」


「無理はするな」


「無理ではありません。準備が、こちらに追いついてきました」


 眼鏡が、また紋様の続きに戻った。だが、筆の運びの速度が、入る前より、わずかに速くなっていた。職人として、今日のうちに完成させるべき道具がある——という手の動きと、故郷の方角への気がかりを、同時に処理している筆だった。


 ◇


 午後遅くに、桟橋に揃った。


 第三小隊の伍長が、いつもの位置で待機の構えを取った。今回は、後方支援の部隊を、北西の中継拠点まで派遣する手配が、軍の側でなされているらしい。普段の北東への偵察と違って、距離が遠い分、後方の備えも厚くなっていた。


 桟橋には、いつもより多くの装備が積まれていた。長距離偵察用の予備食料、追加の水袋、医療所からの治癒薬の小箱。普段の北東への偵察と違って、目的地が遠い分、艦の積載が増えていた。ルーナが医療所と最後の確認をしながら、白衣の袖で薬箱を点検していた。


 空路船の甲板に、六人が並んだ。


 風向きは北西から。普段の航路と違うため、艦の操舵手が舵の調整に時間をかけている。北東への偵察と違って、北西は守備隊の常用航路から外れている。守備隊の予定外の航路を取る、という判断だった。


 艦が、北西に向けて、ゆっくり舵を切った。


 甲板の前縁で、ナミが空を読んでいた。漁師の習慣で、風と雲の動きから、目的地までの所要時間と、空気の質の変化を予測している。


「……普段の北東より、空気が乾いてる」


 短く言った。


「フォルジアの方角は、海から離れてるから、湿気が少ないのよ。マリスティアの海風とは、まったく違う」


 短い解説だったが、それは、目的地に着いた時の戦闘条件にも関わる情報だった。空気が乾いていれば、潮流の効率が落ちる。書き手との戦いで、ナミの能力を最大限に使うのは難しくなる可能性があった。


「組み合わせ戦術は、調整が要るかも」


 眼鏡が、補助刃を握りながら言った。


「乾いた空気の中で、ナミさんの潮流の効率が落ちるなら、刃の補助の比重を上げる調整が要ります」


 即興の戦術検討だった。新しい場所、新しい条件——書き手の手の様子に応じて、こちらの組み合わせも、その都度組み直す必要があった。


 艦が高度を上げて、雲の層を抜けた。普段の北東航路と違って、この高さでは、見える範囲の地形がまったく違う。北東の岩塊群は背後に小さく見え、前方には、フォルジア方面の岩の島々が、点々と霞んで見えていた。


 ◇


 日が傾きかけた頃、目的地が視界に入ってきた。


 北西の空域。フォルジア寄りの境界。岩塊B-7のような特徴的な地形はない。空中に、小さな浮遊岩が一つだけ、ぽつんと存在していた。直径二十歩ほどの、白っぽい岩肌。守備隊の航路から外れた、ほとんど立ち寄られない岩。


 その岩の周辺に、薄い揺らぎが見えた。


 ミアが、指で空気をなぞる。


「……一つ。確かに、書き手の手」


 短く確認した。


「規模は小さい。形なきものの、初期型に近い。これまでの北東で見てきたものと、ほぼ同じ性質」


「攻撃するか、観察するか」


 リーネが訊いた。


「観察する。今までと同じ手なら、対処できる。だが、今までと違う場所で、なぜ同じ手を出してきたのか——その意図を、先に読みたい」


 艦が、岩の手前で停泊した。


 風の向きが、ヴァルトハインの北東で感じたものとは、明らかに違っていた。乾いた風が、岩塊の表面を撫でて、こちらに届く。書き手の歪みも、この乾いた空気の中で、これまでとは少し違う色を見せていた。


 書き手は、北西で何を始めようとしているのか。


 その答えを、これから読み取る必要があった。

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