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グリモワール・コード  作者: 一条信輝


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49話 工房の半刻

層が消えた翌日は、塔から特に呼び出しがなかった。


 書き手の動きは、夜明けから観測されていない。完全に止まったのか、別の場所で別の手を組み立て始めているのか——その判別は、もう少し時間が必要だった。一日、こちらが動かなくても、状況は変わらない。観測班の判断は、そういう含みのものだった。


 午前中、ナミが朝食の片付けを終え、ミアが帳面を抱えて塔へ出かけた後、宿には数人だけが残った。リーネは剣の手入れに集中している。海賊の娘の習慣で、戦闘がない日でも刃の点検は欠かさない。柄の革紐を巻き直し、鞘の内側を確認する一連の動作を、誰にも声をかけずに続けていた。


 ルーナは医療所の引き継ぎに向かった。書き手の動きが止まっている期間こそ、医療所の手当てを進めたい——という判断。ヴァルトハインの軍医たちと共有する症例の確認や、薬草の備蓄の調整。前線が動かない期間が、後方の手当てを進める時期になる、というのは、第一に医療所の感覚だった。


 セリカは、いつも通り工房だった。


 カイは、自分の補助刃を手に取って、工房に向かった。今日は、調整を見ておきたかった。書き手の新しい型を一度倒したことで、刃に何が起きているのか、職人本人と確認しておく必要があった。


 工房までの道は、ヴァルトハインの北門に近い、小さな路地を抜ける。守備隊の宿舎が並ぶ区域で、軍兵士が朝の点呼を終えて出てくる時刻だった。すれ違う兵士の何人かが、こちらに視線を向けてから、すぐに逸らした。冒険者でも軍人でもない、奇妙な立場の集団——カイたちの位置付けが、街の人にも、軍にも、まだ整理されていなかった。


 ◇


 工房の扉を開けると、炉の温度が顔に当たった。


 ヴァルトハインの軍が貸してくれている工房は、フォルジアの石造りの本格工房と比べると、ずっと小ぶりだった。炉は中型一つ、作業台は二つ、壁の棚に工具と薬品が並ぶ。武具修繕用に整えられた施設で、新しい刃を一から打つには手狭。それでも、補助刃の調整には十分な広さだった。


 炉の火は、朝から焚き直されていた。煙突から逃げる煙の量で、作業の時間の長さが分かる。今朝は、もう半刻以上、火を保っている計算だった。


 窓は北向きに一つだけ。職人が刃の色を確認する時、北からの安定した光を使う——フォルジアの工房と同じ流儀だった。セリカは、その窓の前に作業台を寄せて、紋様を引いていた。


 眼鏡が、作業台の前で、補助刃の試作品を置いて、何かを書き留めていた。振り向かずに気配だけで反応する。


「カイさん」


 短い挨拶。手は止めない。


「邪魔をしないなら、見ていていい」


「見ているだけだ」


 短く返した。


 工房の隅に置いてある木の腰掛けに座って、作業台の手元を見た。セリカは、昨日の戦闘で消費した分の紋様を、薄い銀の粉と何かを混ぜた液で、慎重に描き直していた。粉の混ぜ方、筆の運び、紋様の角度——どれも、フォルジアで身につけた手の動きが、そのまま続いている。


 筆の先は、髪の毛ほどの細さだった。銀の粉を含んだ液を、刃の表面の決められた線に沿って、息を止めて引く。一筆目から最後の一筆まで、止めずに引き切る——それが鍛魂の紋様の基本だった。途中で筆が止まると、術式が線の中で途切れる。線の連続性が、術式の宿る器を作る。


 刃の表面には、十数本の細い線が、互いに平行・直交・斜交しながら、複雑な格子を作っていた。一本一本が、別の役割を持つ。あるものは衝撃に対する耐性、あるものは術式を通す通り道、あるものは発動の起点。すべての線が組み合わさって、初めて鍛魂の刃が機能する。


「束を崩す時の手応えは、どうでしたか」


 眼鏡が、紋様を引きながら訊いた。


「想定より、軽かった。重力に乗せて崩す時より、束ねていた力を解除する方が、刃が通りやすい」


「やはり」


 眼鏡が、わずかに頷いた。


「鍛魂で武器に宿す術式の方向を、書き換え型から解除型に変える調整を進めています。次の戦闘では、もう少し効率がいいはずです」


「頼む」


 短く応じた。


 ◇


 しばらく、工房には炉の音だけが残った。


 炉の前で、薄い銀の粉を温める作業が続く。セリカの手の動きは、戦闘の余韻を抜くための作業にも見えた。書き手の新しい型と対峙する緊張は、職人にとっても、軽くはない。手を動かすことで、心の中の緊張が、少しずつ刃に移っていく。


 工房の壁には、いくつかの工具が並んでいた。ヴァルトハインの軍が貸してくれている設備で、ほとんどが武具修繕用の標準品。セリカが持参した工具は少ない。フォルジアから持ち出せた分だけ、作業台の隅に並べてある。長年使い込んだ柄の擦り減りが、それぞれの工具に固有の形で残っていた。


 その中に、一つだけ、明らかに古いものがあった。


 錆びかけた、細い金属の工具。柄は、何度も巻き直された麻紐で覆われている。普段の作業では使われないが、捨てる気配もない。隅に置かれて、他の道具と一緒に並んでいる。


 半刻ほど、無言の時間が続いた。


 不意に、セリカが手を止めた。


 眼鏡が、紋様の途中で、わずかに震える。


「……すみません」


 短い言葉だった。


「ぼーっとしてしまいました」


「疲れてるんだろう」


 短く返した。


 眼鏡の手が、再び動き始めた。だが、先ほどより、わずかに筆の運びが慎重になっている。今、彼女の中で、何かが動いていることが、手の動きの微細な違いから、伝わってきた。


「カイさん」


 眼鏡が、紋様を引きながら言った。


「フォルジアで、私が一人で鍛冶をしていた頃、最高の刃を作ろうとしていました」


 手は止めない。


「でも、最高の刃を、一人で作っても、それは置物になるだけだった。誰かに使ってもらえる場所が、なかった。フォルジアの他の鍛冶師は、私の刃を、買わなかった」


 短い沈黙。


「私の鍛魂が、他の鍛冶師の作る刃と、合わなかったんです。鍛魂で武器に術式を宿す——その性質が、他の刃の構造と、相性が悪い。だから、自分で刃から作るしかなかった。でも、それは、商売としては難しいやり方でした」


 短い沈黙が続いた。


「だから、ヴァルトハインの工房で、補助刃の調整をしている今が、嬉しいんです。私の刃が、戦場で意味を持つ。それは、フォルジアではなかったことです」


「ああ」


 短く返した。


「だから、無理はしてほしくない。お前の刃は、お前のために、作ってる」


「カイさんのために、作っています」


 眼鏡が、紋様の最後の一筆を引きながら、低く言った。


「でも、その私自身を支えているのは、カイさんが、私の刃を持って戦ってくれることです」


 短い言葉だったが、その重みが、工房の中で、長く残った。


 返す言葉が、すぐには出なかった。


 セリカの言葉は、職人としての告白だった。武器を作る側として、使い手に向けての感謝。だが、それだけでもなかった。「私自身を支えている」という言葉の中に、職人を超えた重さが、わずかに混じっていた。それを正面から受け止めて、答えるべき言葉が、すぐには見つからない。


 いま改行で何かを書き換えたところで、この沈黙の意味は変わらない。法則を書き換えても、人の手の中で生まれている思いまでは、書き換えられない。


 炉の音が、しばらく続いた。


 セリカが、作業台の隅に並んでいた使い古した工具に、視線を一度だけ向けた。


「あれは、母の工具です」


 訊く前に、答えていた。


「もう使えません。錆びすぎていて。でも、フォルジアを出る時、これだけは持ってきました」


「ああ」


 短く応じた。それ以上は、訊かなかった。母の工具。それだけで、セリカの過去のいくつかが、輪郭を持って伝わってきた。フォルジアの工房で一人で鍛冶をしていた女が、なぜそうなったのか——その背景の一部が、錆びた金属の中に、残っているのが分かった。


「いつか、また使えるように、手入れしようと思っているんです」


「使えるようになるか」


「分かりません。でも、手入れはできる」


 眼鏡が、わずかに微笑んだ。職人として、道具に対する向き合い方の答えだった。錆びた工具を、もう一度使えるようにすることが目的ではない。手入れを続けること自体が、母との繋がりを保つ手段になっていた。


 ◇


 炉の音だけが、また続いた。


 眼鏡が、紋様の点検を終えて、補助刃を作業台の上に置いた。完成品ではない。まだ調整の途中。だが、紋様の半分は、明日までに戻る見込みになっていた。


「ありがとう」


 返した。


「次の戦闘で、また使う」


「使ってください」


 眼鏡が、わずかに頷いた。眼鏡の奥が、職人の冷静さに戻っている。だが、その奥に、先ほどの少しだけ素を出した瞬間が、まだ残っていた。


 工房の扉を出る前に、もう一度振り返った。


 眼鏡が、また紋様の続きを書き始めていた。手の動きは、入る前と同じ慎重さだった。だが、何かが、わずかに違っていた。同じ手の動きでも、その手の中にあるものが、少しだけ重くなっている——そんな違い。


 扉を閉めて、街路に出た。


 日が高くなっていた。守備隊の交代の鐘が、塔の方角から響いてくる。


 書き手の動きは、まだ止まっている。だが、こちらの手の中で、武器が、また少しだけ整えられていた。母の錆びた工具も、補助刃も、手入れする時間の中で、それぞれの意味を保っている。


 次の戦闘までに、こちらが何を整えられるか。それは、書き手との時間との競争でもあり、仲間一人一人の中で続いている、別種の作業でもあった。

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