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グリモワール・コード  作者: 一条信輝


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51話 古い歪み

艦が、浮遊岩の手前で停泊した。


 白っぽい岩肌が、夕方の光を受けて、わずかに茜色に染まっている。北西の風は、艦の後方から来ていた。岩の周囲を、風が薄く撫でて、その流れの中に、書き手の歪みが揺らいでいる。


 甲板の前縁で、ミアが指で空気をなぞっていた。


 灰色の目が、岩の周囲の空気の流れを、最初に確かめている。解頁の精度を最大に上げる前に、まず空気の動きを掴む——「読まれた」あとの体に、最低限の負担で観察を進めるための手順。三日間の休息で、解頁の摩耗は表面まで戻っていた。だが、書き手の手が複雑に絡んだ層を読み取った時の深い摩耗は、まだ完全には戻りきらない。


 今日は、慎重な観察に徹する——という、本人なりの判断が、指の動きに乗っていた。


「……一つ。北東で見たのと、ほぼ同じ性質」


 短く確認した。


「ただし、こちらの方が、書き換えの密度が薄い。手の入り方が、最近のものではない可能性がある」


「最近のもの、ではない?」


 リーネが、剣の柄に手を置きながら訊いた。


「書き手が、別の場所で同じ手を新しく出してきた、というよりも——前から、ここに置かれていたものが、観測網にようやく入ってきた。そういう感触」


 灰色の目が、岩の表面の歪みを見続けた。


「書き換えの記述が、薄れている。古くなって、消えかけている。これは、書き手が今動かしているものではなくて、過去の何かの残り」


 その指摘は、観測室での班長の見立てと、ある程度合っていた。北西の歪みが、書き手の新しい手なのか、別の意図なのか——判別がつかなかったのは、観測網の縁という距離の問題だけでなく、歪みそのものの性質が、これまでと違っていたから。


 北東のヴァルトハイン近辺で見てきた歪みは、書き手が「今、書いている」最中のものだった。北西の歪みは、書き手が「いつか、書いた」もの。同じ書き手の手であっても、その性質が、わずかに違う。


 その違いを、各自が、それぞれの位置で受け止めていた。声には出さない。今日の対処に集中する——という、暗黙の合意があった。


 ◇


 艦の中央で、セリカが補助刃の握りを確認していた。


 北東で発動準備を整えていた手順を、乾いた空気の条件下で組み直した形。鍛魂の発動時に、刃が空気から術式を引き出す効率が、湿気の多い場所と違う。眼鏡の奥が、その差を細かく計算している顔つき。


「カイさん」


 短く呼びかけた。


「歪みが古いものなら、改行と刃の組み合わせで、十分対処できると思います。新しい手を出す必要はない」


「同感だ」


 短く応じた。


「書き手に、新しいパターンを記録させない。古い対応で済むなら、それで済ませる」


「降りますか」


「降りる」


 短く告げた。


 今日も、降りるのはカイとリーネの二人。セリカは艦の上で補助刃の発動準備、ナミは潮流の状態確認、ルーナはミアの治癒継続。北東で確立した役割分担を、北西の条件下でもそのまま使う。


 空中の魔導板に二人で立った。岩までの距離、十歩。


 歩き始める前に、ナミが艦の縁から声をかけた。


「気をつけてね」


 漁師の声。短いが、含みのある声色。


「乾いた風だから、潮流の届く範囲が、北東より狭い。困ったら、すぐ戻って」


「ああ」


 短く応じて、岩に向かって歩き出した。


 ◇


 北西の風は、北東の風と、肌で感じる違いがあった。


 北東のヴァルトハイン近辺は、喰海の湿気が空中まで上がってくる地帯で、肌に薄く水分が乗る感覚があった。北西は、それがない。空気が、肌の上を素通りしていく。湿気がないだけで、ここまで違うのかと、改めて感じる。


 歩いていると、足元の魔導板の浮力が、北東より、わずかに頼りなく感じられた。空気の密度が低い分、魔導板を支える空気の層が薄い。慣れない感覚に、二人とも、無意識に体重移動を慎重にしていた。


 歩く速度が、自然に落ちる。


 歪みまでの距離、五歩。


 近づくにつれて、歪みの揺らぎが、はっきり見えてきた。北東で見てきた歪みより、輪郭が薄い。空気中で消えかけている、という印象。古い記述が、時間に削られている、という感触が、視覚的にも確認できた。


 歪みの周囲の空気だけは、わずかに重く感じた。古い書き換えの跡でも、その場所の空気の動きには、痕跡が残る。風が、歪みの周辺だけ、微妙に流れを変えていた。完全には消えていない、書き手の手の影。


 赤い髪が、隣で囁いた。


「斬っていいか」


「待て」


 短く返した。


「先に、改行で性質を確認する。古い歪みが、斬って完全に消えるのか、それとも書き換えで対処すべきなのか」


「分かった」


 赤い髪が、剣の柄から手を離した。臨戦の構えを、半分解いた姿勢。


 代わりに、リーネは、歪みの周囲の空気を、自分の感覚で確かめ始めた。海賊の娘の習慣で、剣を抜く前に、敵の周りの空気を読む。書き手の歪みは、生き物ではない。だが、空気の流れの読み方は、共通する部分があった。


「……空気が、歪みの方に少しだけ吸い寄せられてる。古いやつでも、まだ周りに何か影響を残してるんだな」


「気づいたか」


「うん」


 短い遣り取り。


 歪みまで二歩の距離で、止まった。


「——歪みの輪郭、薄める」


 短く宣言した。


 半径三メートル、五秒。古い歪みの輪郭——空気中で消えかけている記述の縁——を、「より薄い」状態に書き換える。書き手の過去の手を、消滅の方向に押す改行。


 空気が、一瞬、息を止めたような静けさになった。改行が走った瞬間特有の、世界が一拍だけ「書き換えられる」前後の停止。それから、書き換えられた法則が、自然な現象として動き出した。


 歪みが、ゆっくりと消え始めた。


 崩れる、というより、薄れる、という言い方が近かった。空気の中に「あった」歪みが、改行の効果で、少しずつ「なかったこと」になっていく。視覚的には、淡い霞が日の光に溶けていく、そんな消え方。


 古い歪みは、もともと「消えかけ」の状態だった。改行が、その消えるという方向に、力を貸す形になっていた。書き換えるというより、自然な消失を加速させる、というのが近かった。


 五秒の改行の効果が切れた時、歪みは、半分以上消えていた。


「……効いてる」


 赤い髪が、低く呟いた。


「でも、まだ残ってる」


「ああ」


 短く返した。改行のクールタイムは三十秒。その間、残った歪みを刃で処理するか、もう一度の改行を待つか。


 残った歪みは、薄い揺らぎだけになっていた。攻撃性はない。古い記述が、自然に消えるのを待つ段階に近い。


「斬る」


 赤い髪が、剣を抜いた。


 炎刃が、夕方の光の中で、青白く立った。乾いた空気でも、刃の温度は十分に上がる。炎刃の発動条件は、空気の湿気にあまり依存していない——という事実が、リーネの剣を握る手の中で、確認されていた。


 乾いた空気の方が、むしろ酸素が回りやすい部分もあった。湿気のない空気は、燃焼を妨げない。炎刃にとって、北西の条件は、必ずしも不利ではなかった。


 残った歪みに、炎刃を一閃。


 歪みは、炎の熱で完全に消えた。空気中に何も残らない。改行で半分にしてから、刃で残りを処理する——北東で確立した手順の、簡略版だった。


 炎が消えると、夕方の風が、また肌を撫でた。歪みがあった場所には、空気の薄い揺らぎだけが残り、それも、数秒で消えた。完全に「何もない空中」が、そこに戻っていた。


「終わり、か」


 赤い髪が、短く言った。


「ああ」


「思ったより、簡単だったな」


「古い歪みだったからだ」


 短く返した。新しい歪みなら、ここまで簡単にはいかない。北西の歪みが古いものだったことが、今日の対処を簡単にした最大の要因だった。


「でも、簡単に消せるってことは——」


 赤い髪が、剣を鞘に戻しながら続けた。


「古い跡なら、こちらで処理できそうだな」


「そうだ」


 短く応じた。


 歪みが消えた空中を、もう一度見た。空気の中に、何も残っていない。


 今日の対処は、これで終わり。次の戦闘がいつ来るかは、まだ分からなかった。


 ◇


 艦に戻ると、ミアが甲板で帳面を開いていた。


 歪みが消える瞬間を、艦の上から記録していたらしい。指先が、まだわずかに震えている。だが、書く動作は止めない。今日の観察で得たデータを、書き留めておくことの優先度は、本人の中で高かった。


 灰色の目が、こちらを見て、わずかに頷いた。


「……記録、取れた」


 短く言った。


「古い歪みを、改行と刃で処理する手順。北西の条件下での所要時間と、効果範囲」


「ありがとう」


 短く応じた。


 ミアの帳面には、細かい記号と図が、整然と並んでいた。解頁で読み取った歪みの構造、改行が入った瞬間の変化、刃が通った時の反応——一つの戦闘の中で起きたことを、複数の側面から記録する習慣が、最近の戦闘で確立されつつあった。書き手という相手に対して、こちらの手の引き出しを増やすには、戦闘ごとの細かい記録が、必要不可欠だった。


 ナミが、艦尾で水袋の状態を確認していた。今日も、潮流は使わずに済んだ。乾いた空気の条件下では、潮流の効率が落ちることが事前に分かっていたため、最初から使わない判断だった。それでも、水袋の準備は怠らない。次の戦闘で、どこで使うことになるかは、分からない。


 水袋の口を結び直しながら、ナミがふと顔を上げた。


「……乾いた空気って、長くいると、喉が渇くわね」


 短く独り言。漁師の感覚で、空気の質を肌で読む癖が、今日も働いている。


「マリスティアの海風は、ずっといても、喉は渇かなかった。塩分は乗ってるけど、湿気もあるから。北西は、息するだけで、体の水分が減ってる感じ」


 その観察は、戦闘条件としても重要だった。長時間、北西で活動するなら、水の補給を、北東より頻繁にする必要がある。漁師の現場感覚が、また一つ、戦闘の指針として通っていた。


 ルーナが、ミアの隣に座って、治文の光を肩に当てていた。今日のミアは、観察の負担が、北東の時より軽かった。「読まれた」あとの摩耗が深いところで残っていた分、慎重に観察を制御していた成果だった。


 白衣の袖が、わずかに動く。治文の光が、いつもより短く、柔らかく流れていた。深く整える必要が、今日は少ない——そういう手の動き。


 セリカが、補助刃を布で拭きながら、近づいてきた。


「今日、刃を発動せずに済みました」


「ああ」


「次の戦闘でも、刃を発動せずに済むなら、紋様の消費は最小限で抑えられます」


「お前の刃を温存できるのは、こちらにとっても有利だ」


 短く応じた。眼鏡が頷いて、補助刃を鞘に収めた。


「ただ——」


 眼鏡が、付け加えた。


「次に、新しい歪みと対峙した時、紋様の十分な備えが必要になります。今日の温存は、次の戦闘のための備蓄、と捉えています」


 職人としての論理が、戦闘の戦略にも、自然に繋がっていた。今日使わなかった分は、次に使う分。武器の運用は、長期戦の視点で組み立てる、という習慣だった。


 ◇


 艦が、ヴァルトハインに向けて、舵を切った。


 風向きが変わり、艦の進行方向に逆らう形になった。操舵手が舵を細かく調整しながら、遠回りの航路を選ぶ。北西から戻る時は、風の関係で、行きより時間がかかる、というのが操舵手の説明だった。


 艦の速度が、行きの三分の二ほどに落ちる。雲の層を抜けて、雲の上の空を進む。夕方の光が、雲の表面を金色に染めて、その上を艦の影が走っていた。


 行きとは違う、ゆったりした時間が、甲板に流れた。


 甲板の前縁で、リーネがカイの隣に立っていた。


 夕方の光が、雲の隙間から差し込んで、二人の前に長い影を作っていた。風が、行きより穏やかに、二人の頬を撫でていた。


「……今日のは、書き手の手というより、書き手の『古い跡』を処理した感じだな」


「ああ」


「これからも、こういう古いやつが、各地にあるってことか」


「分からない。だが、可能性は高い」


 書き手の手が、ヴァルトハイン近辺だけでなく、北西、あるいは他の方角にも広がっているかどうか——その確認は、これからの観察と探索に委ねられていた。


 赤い髪が、低く言った。


「マリスティアを出てから、もう三ヶ月か」


 短い独白。


「あの島が今どうなってるか——書き手の手が、あそこにも届いてるのか、まだ分からない」


「ああ」


「いつか、戻る」


「ああ」


 風が、二人の前を通り過ぎた。雲の表面の金色が、わずかに濃さを増している。日が、そろそろ完全に沈む時刻だった。


 短い遣り取りだったが、リーネの声には、これまでなかった種類の落ち着きが乗っていた。書き手との戦いに引きずられている時間が長くなる中で、自分の戻るべき場所を、忘れずに保っている——そういう声色。


 戻る先がある者と、戻る先のない者。カイには、戻る先がなかった。だが、リーネが戻る先を口にすることで、カイの中にも、ある種の場所が生まれていた。


 「いつか戻る」——リーネがそう言った時、その「いつか」の中に、自分も含まれている、と感じた。リーネが故郷に戻る時、自分も一緒にいるかもしれない。それは、約束ではない。だが、可能性として、確かにそこにあった。


 その感覚を、声には出さなかった。今は、まだ。


 短い遣り取りだった。だが、リーネの中で、書き手との戦いが、故郷との繋がりを取り戻す道とも重なり始めていた。父の遺した金属板を海底から引き上げた、あの戦闘から、もう何ヶ月も経っていた。


 艦が、雲の層に入った。視界が、白く霞む。


 しばらく、二人で黙って雲の流れを見ていた。


 ◇


 ヴァルトハインの桟橋に戻ったのは、日が完全に沈んでからだった。


 第三小隊の伍長が、いつもの位置で艦尾を固定する作業を進めていた。今日は支援の発動はなかった。報告は明朝に回す段取り。それでも、伍長の目には、何かを察した気配があった。


「今日は、軽い対処で済んだ」


 カイから、短く伝えた。


「了解しました。詳細は明朝に」


 伍長が頷いて、艦の固定作業に戻っていく。前線指揮官の指示通りに動く軍人の、無駄のない反応だった。


 拠点までの道で、ナミがカイの隣を歩きながら、ぽつりと言った。


「あの古い歪み、いつ書かれたんだろうね」


「分からない」


「書き手の手が、いつから動いてるのか——それも、まだ分からない」


「ああ」


 短い遣り取りだった。書き手の手が、いつから動いているか——その問いは、今の段階では答えのないものだった。だが、問い自体を出しておくことに、意味があった。


 拠点の二階に戻り、毛布の上で休息に入った。今日の戦闘は、確かに軽かった。だが、得られた情報は、決して軽くなかった。


 ◇


 夜が更けた。


 ミアが先に横になり、ルーナが治文の光を絶やさず保っていた。今日の観察で、ミアの解頁の摩耗は、これまでより少なかった。だが、深いところに残っている分は、まだ戻りきらない。


 ナミは、台所で夜食用の汁物を温め直していた。今日の戦闘は軽かったが、戦闘の余韻を抜くには、温かいものが要る——という習慣。仲間が眠るまでの間、火を絶やさず、いつでも温かい汁を出せる状態を保つ。マリスティアの台所で身につけた、世話を焼く側の手の動きが、今も続いていた。


 セリカは、テーブルの端で帳面を開いていた。今日の戦闘の手順——古い歪みに対する改行と刃の組み合わせ、紋様の消費の少なさ、北西の風の条件——を、細かく書き留めている。書き手という相手は、こちらの戦闘ごとに学習する。だからこそ、こちらも戦闘ごとに学習する必要があった。職人としてのセリカの仕事は、刃を打つだけではなく、戦闘の記録を整理することにも、自然に広がっていた。


 赤い髪が、毛布の上で剣の手入れをしていた。今日、刃を抜いたのは一度だけ。それでも、手入れは欠かさない。海賊の流儀で、戦闘がない日でも、戦闘があった日と同じ手間で、刃を整える。それが、次の戦闘で命を預ける道具に対する、敬意だった。


 カイは、窓の傍に立って、北西の空を見ていた。


 月のない夜だった。北西の方角に、もう歪みの影はない。今日処理した分は、確実に消えていた。だが、それは「今日見つけた一つの古い歪み」を消しただけで、書き手の手の全体像は、何一つ見えていなかった。


 北東に視線を向けた。書き手の手が、最も活発に動いている方角。今夜、その空に新しい兆候はない。だが、それは「今夜は」というだけのことだった。


 窓の外で、街路の灯りが、夜遅くなっても消えない。前線都市の夜は、平時より遅くまで動く人々の声が、街の各所から響いていた。守備隊の交代の鐘、医療所の引き継ぎの足音、市場の片付けの掛け声——いつも通りの夜の音が、夜の空気の中で混ざり合っていた。


 書き手は、どこかで、また別の手を準備している。


 その手が、いつ、どこで、どの形で出てくるのか——それは、こちらの観測網が捕らえるのか、捕らえ損ねるのか、分からなかった。


 今日処理した古い歪みは、書き手の過去の手が残した跡。新しい手の手がかりにはならなかった。それでも、対処は確実に積み上がっていた。


 窓の外の街は、いつも通りに動いている。明日以降、また何が観測されるか——その答えは、まだ書き手の側にあった。

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