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グリモワール・コード  作者: 一条信輝


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45話 読み取られる側

艦から降りるのは、リーネとカイの二人だけだった。


 空中の魔導板に足を置く。残りの仲間は艦に残し、層に近づくのは最小限。万一の時、艦から信号を送って一斉撤退できる体制を取る。ナミが「四半刻」と提案した滞在時間も、二人で計っていた。


 甲板を離れる前、セリカが補助刃を差し出した。眼鏡の奥が、迷いの色をしている。


「……持っていきますか」


「いや」


 短く返した。


「斬る相手か分からない以上、武器を構えると、誤った返事を返す可能性がある」


 眼鏡が頷いて、補助刃を引いた。職人として、自分の作った道具を持っていってほしい——という気持ちと、状況を読んだ判断との間で、わずかに折り合いをつける顔つきだった。


 層までの距離、十歩。


 近づくほど、空気の手触りが変わっていく。布のざらつきに近い感触が、強くなる。リーネが、剣の柄から手を離して、指で空気を撫でた。


「……これ、なんだ?」


「分からない」


 短く返した。


「気をつけろ。声を出すな。さっき、層が言葉に反応した」


 頷いた赤い髪が、口を結んだ。剣を抜く構えはしていない。攻撃が無効と分かっている以上、まず観察する。


 二人で、層から二歩の距離まで近づいた。


 空中の魔導板の上は、艦の甲板より風が通る。普段ならその風が頬を撫でるはずだったが、今日は違う。風が、層に近づくにつれて、空気そのものに吸われるように勢いを失っていく。半透明の白い壁に向かって、風がゆっくり消えていく感覚。空気の流れまで、何かに「集められている」ような気配。


 ◇


 層の表面は、近くで見ると、奇妙に整っていた。


 遠目には不規則な楕円に見えていた縁が、細かく見ると、なめらかな曲線だった。波の縁ではなく、定規で引いたような滑らかさ。空気中に「線」が引かれている、という錯覚を起こすほどの、人工的な整い方。


 カイが、指先を層に向けて伸ばした。触れる前に、止める。


 空気の手触りが、もう一段重くなっていた。指先に、抵抗を感じる。実体ではない。だが、空気そのものが、わずかに「読み取ろう」としている——そんな感覚。


 もう少し近づくと、視界の中で、層の表面に細い線のような揺らぎが見えた。最初は気のせいかと思ったが、目を細めると、確かに線が走っている。垂直方向に、ごく細い光の筋が、何本も並んでいた。動いてはいない。だが、注視すると、視野の中の何かが、その線を追いそうになる。指先を引いた。


 不用意に視線を吸われたら、こちらの認識ごと、層に引かれる気がした。


 リーネが、艦の方を一度確認してから、囁いた。


「カイ……これ、こっち見てる」


「ああ」


「層が、目を持ってるみたいに、感じる」


 短く頷いた。リーネの直感は、戦闘の場で何度も外れたことがない。今、その直感が「見られている」と告げている以上、それは事実として扱うべきだった。


「お前も、視線を吸われるな」


 囁き返した。


「目を、層の中の細い線に長く合わせるな。引かれる」


「分かった」


 赤い髪が、視線を層から少しだけ逸らした。剣の柄に手を戻すが、握りはしない。臨戦の構えではなく、いつでも下がれる構えだった。


 ミアが、艦から指で合図を送ってきた。緩慢な手の動き——「もう少し近づいて、何が読み取れるか試したい」という意味。


 カイが、リーネに目で合図した。


 二人で、もう一歩近づく。


 ◇


 その瞬間、層の中央が、また小さく波打った。


 今度は、声には反応していない。動き——足音、空気の押し出し、二人の存在そのものに反応した。層は、視覚も持っているのか、あるいは視覚と聴覚を区別しない別種の知覚を持っているのか。判別はつかなかった。


 艦の上で、ミアが急に手を止めた。それから、ゆっくり、片手で頭を抑えた。


 遠目にも、ミアの顔色が変わったのが分かった。


「——下がれ!」


 短く叫んだ。


 二人で、すぐに後退した。魔導板を蹴って艦に戻る。甲板に戻った時、ミアは膝を折って座り込んでいた。ルーナがすぐに駆け寄り、治文の光を頭部に当てる。


「何があった」


「……読まれた」


 短く言った。


「層が、私の解頁を、逆に読み取ろうとした」


 全員が、息を呑んだ。


「私が層を読んでいたんじゃない。層が、私を、読み取ろうとしていた。あの中に、書き手の——『目』のような何かがある」


 灰色の目が、自分の指先を見つめていた。


「……解頁の記述が、向こう側に流れた」


 短く言った。


「引っ張られた、のとは違う。差し出されてしまった、ような」


 ナミが、ミアの肩に手を置いた。漁師の声が、低くなる。


「あの子、もう休ませて。これ以上の観察は、無理よ」


 ルーナの治文の光が、いつもより深く流れていた。傷を治すのではなく、削られた記述の縁を整える、という手の動き。ミアの感情の摩耗は、戦闘で受けた負荷とは別種のものだった。「読まれた」ことの後遺症が、まだ続いている。


「同意」


 短く返した。


「艦を引き上げる」


 ◇


 帰路の艦上で、ミアは横になって眠った。ルーナの治癒が、解頁の摩耗をいつもより深く整えている。ミアの感情の摩耗が、戦場のあと、こんなに深く出たのは久しぶりだった。


 甲板の縁で、リーネがカイの隣に立っていた。


「……あれ、放っておけないだろ」


「ああ」


「書き上がるまでに、何かしないと」


「分かってる」


 言葉が、続かなかった。


 書き手は、これまで「攻撃する敵」だった。今、その認識が、わずかにずれた。攻撃してこない敵が、攻撃してくる敵と同じくらい厄介になりうる——そういう実感が、艦の風の中で形になっていた。


 セリカが、補助刃を布で拭きながら、近づいてきた。


「……今日、刃は使わずに済みました」


「ああ」


「武器を使わない日も、あるんですね」


 眼鏡が、低く言った。声には、戦闘の不発を悔やむ響きはなかった。むしろ、職人として現場の判断を尊重した、という静かな受け入れ。


「次の機会に備えて、補助刃の調整を続けます。今日の観察で、改良の方向は見えました」


「頼む」


 短く応じた。眼鏡が頷いて、自分の場所に戻っていく。一日の戦場で、武器を使わなかった——その事実を、職人として、データとして受け止める背中だった。


 ◇


 ヴァルトハインの桟橋に戻った時、日は西に傾いていた。


 第三小隊の伍長が、艦尾を固定しながら、報告を待つ顔をしていた。今日は支援の発動はなかった。だが、伍長の目には、何かが起きたことが伝わっていた。


「無事の帰還、何より」


「ああ」


「塔への報告は」


「明朝にする。今日は、皆を休ませたい」


 伍長が頷いた。それ以上は何も訊かず、艦の固定作業に戻っていく。前線指揮官の指示通りに動く軍人の、無駄のない反応だった。


 ミアは、ナミとルーナに支えられて艦を降りた。意識ははっきりしているが、足元が定まらない。三日間の待ちで戻った解頁の精度が、今日の一度の接触で、また深く削られていた。


 拠点までの道で、リーネがカイの隣を歩きながら、ぽつりと言った。


「……あの男、また来るかな」


 校正者の長のことだった。


「来るだろう」


「今日のあれを、見届けに来るのか」


「分からない」


「あいつ、何を考えてるんだろうな」


「分からない」


 短く返した。


 校正者の長は、書き手の存在に、こちらより先に気づいていた——それは、宿の路地での出現と、岩塊で見た姿から、推測できる事実だった。だが、なぜそれだけ追っていたのか、何を見たのか、どこまで読んでいるのか。それは、本人に訊くしかない。


 リーネが、夕暮れの空を一度だけ見上げた。


「……あいつにも、休む時間ってあるのかな」


「あるだろう」


「人間なら」


 短い遣り取りだった。リーネの口調に、これまでの「校正者の長」を見るときの、警戒と侮蔑だけの音色とは違う、何かが混じっていた。漁師の長女のナミが昨夜「寒そうだったわ」と言った時から、リーネの中で何かが、わずかに動いていたのかもしれない。だが、その動きを、リーネ自身も、まだ言葉にしないままだった。


 夜が、また街に降り始めていた。


 北の信号鏡は、点滅を続けている。だが、書き手の層は、まだそこにあった。書き上がるのを、待っている。


 拠点の二階に戻った時、ミアはすぐに毛布の上に横になった。ルーナがその傍らで、長い時間、治文の光を当てていた。普段の戦闘後の治癒よりも、ずっと長く。「読まれた」ものを取り戻すのは、傷を治すよりも難しい——という手の動きだった。


 窓の外で、北の空に、層の白い影が、夜になっても消えずに残っているのが見えた。月の光を、わずかに反射している。書き上がるまでの時間が、どれくらい残っているのか——それは、書き手しか知らない。


 書き上がった時、何が「増える」のか——その答えだけが、まだ分からないままだった。

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