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グリモワール・コード  作者: 一条信輝


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46話 書き上がり

五日目の朝は、塔からの呼び出しで始まった。


 まだ夜明け前。宿の扉を叩く音で全員が起きた。連絡兵の早口の伝言は短かった——「層に変化。観測室まで」。それだけで、昨日の帰路の予感が、現実の段階に進んだことが分かった。


 ミアが、起きた瞬間、自分の体の状態を確認していた。昨日の「読まれた」あとの摩耗は、ルーナの長い治癒で表面は整っていたが、深いところはまだ削られていた。


「行ける」


 短く言って、立ち上がった。


「行ける範囲で、行く」


 誰も止めなかった。今、解頁の精度を必要としているのは、層との対峙の場面だった。ミア自身の判断を、仲間が尊重した。


 ◇


 観測室は、夜明け前の薄暗さの中で、灯りが全部点いていた。


 観測班の助手たちが、机の周りを駆け回っている。地図の上に、新しい印が次々と書き加えられていた。だが、その印は、これまでの「歪み」とは違う種類のもの——層の周囲に放射状に伸びる、細い線だった。


 班長が振り返った。一晩で何度目かの徹夜の顔。


「層の縁から、線のようなものが伸び始めています」


 地図の北東を指す。


「岩塊B-7の方角と、その反対側、両方に。長さは今のところ二十歩程度。少しずつ伸びている」


「速度は」


「測定中ですが、午前中には岩塊に届く可能性があります」


 灰色の目が地図に近づいた。指で空気をなぞる速度が、いつもより慎重だった。「読まれた」あとの解頁を、過剰に使わないための制御。それでも、線の意味を読み取ろうとしていた。


「……書き上がりが、近い」


 短く言った。


「層の中で、何かが完成しつつある。線は、書き上がったものを外に出すための、通り道」


「何が出てくる」


「分からない。でも、岩塊の方角に伸びている以上、岩塊に向けて出てくる可能性が高い」


 班長が、地図の上で、長く息を吐いた。


「岩塊B-7は無人ですが、周囲の航路への影響が、読めません。書き上がる前に、何か手を打てますか」


「俺たちが行く」


 短く返した。


「層の前で、書き上がりの瞬間に立ち会う。出てきたものが何か、その場で見定める」


「危険ではありませんか」


「危険だ。だが、見ないと、対処も決められない」


 班長が、頷いた。それ以上の問いはなかった。前線指揮官のイルメアと既に擦り合わせは終わっている、という顔つき。第三小隊の支援待機は、昨日と同じ形で整えられていた。


 ◇


 桟橋に揃った時、東の空がようやく薄く明るんでいた。


 港には、第三小隊が普段より早い時刻から待機についていた。後方支援の体制が、昨日までと変わらない形で整えられていた。


 偵察艦の甲板に、六人が並ぶ。装備は昨日と同じだが、空気の張り詰めは段違いだった。「書き上がりの瞬間」という言葉が、各自の中で重く沈んでいる。


 艦が、北東に向けて舵を取った。


 甲板の前縁で、リーネが剣の柄に手を置いていた。手を置いているだけで、握ってはいない。臨戦の構えではなく、いつでも構えられるという待機の姿勢。昨日カイが教えた「武器を構えると誤った返事を返す」を、リーネは今日も守るつもりだった。


 ナミが、水袋を確認していた。今日は通常の戦闘用の水と、もう一つ、潮流で操る用の小さな水袋。書き上がったものが攻撃してくる場合に備えての装備だった。


 セリカは、補助刃を持ってきていた。今日は使う可能性がある——という判断。眼鏡の奥が、一日の間に組み直した手順を、頭の中で何度も確認している。


 ルーナが、ミアの隣に座り、治文の光を絶やさず保っていた。ミアの解頁を支えるための、継続的な治癒。「読まれた」あとの体への負担を、少しでも軽くする手の動き。


 六人の動きが、それぞれの役割の中で、自然に整っていた。三日間の待ちと、二日間の偵察で、各自の位置が、もう一度形になっていた。


 ◇


 目的地が見えてきた時、空気がはっきり変わっていた。


 昨日「布のざらつき」と感じた手触りが、今日は「布」というより「薄い膜」に近かった。空気そのものが、層の周囲で密度を上げている。風が艦の進行方向と逆に吹いている——層が、艦の方の空気を吸っている、という感覚。


 層の白さは、昨日より濃くなっていた。中央付近の青みが強まり、外縁の乳白色との対比が、鮮やかになっている。書き上がりが近い証拠——書き手の集中が、層の中で高まっている。


 艦が層の手前で停泊した。


 昨日と同じ距離。だが、空気の重みは段違いだった。


 ミアが、甲板の縁に立った。指先が、空気を慎重になぞる。


「……書き上がる、五分以内」


 短く言った。


「層の中の記述が、急速に統合されている。残り時間は、長くない」


「降りる」


 短く告げた。


 今日も、降りるのはカイとリーネの二人。セリカは艦の上で補助刃の発動準備、ナミは潮流の用意、ルーナはミアの治癒継続。書き上がりの瞬間に備える各自の役割は、艦の上でも前線でも、それぞれ別だった。


 甲板を離れる前、セリカが補助刃を差し出した。


「……必要になったら、これを」


「ああ」


 短く受け取った。眼鏡が、わずかに頷いた。今日は刃を持っていく——という判断だった。書き上がるものが何か分からない以上、最後の手段は備えておく。


 ◇


 空中の魔導板に、二人で立った。


 層からの距離、十歩。さらに近づくにつれて、層の中央の波打ちが、規則的になっていった。鼓動のような周期。何かが、層の中で「呼吸」を始めている。


 二歩の距離まで近づいた時——


 層の中央が、開いた。


 扉が開く、という比喩が一番近かった。白い表面が、中央から左右にゆっくり割れて、内側が見えた。割れる動きには、音がなかった。だが、空気の密度が一段、外に押し出された。二人の頬を、見えない圧が撫でた。


 内側は、白くなかった。


 歪み、だった。


 これまで岩塊で見てきた「形なきもの」の歪み——だが、それが、層の内側いっぱいに、密集していた。何十、いや、それ以上。互いに重なり合い、絡み合いながら、空間を埋め尽くしている。一つ一つの歪みは、小さい。だが、これだけの数が一箇所に集められている光景は、初めてだった。


 リーネが、息を呑んだまま、視線を半歩外した。「視線を吸われるな」と昨日言った言葉を、彼女は守った。だが、密集の前で、その意志を保つのは、簡単なことではなかった。


 その密集の中央から、何かが滲み出てきた。


 形は、まだ決まっていない。輪郭が揺れている。色も決まっていない——白とも黒とも灰色ともつかない、視覚が捉えにくい曖昧さ。だが、これまでの歪みとは違う何かが生まれようとしている——という気配だけは、はっきりと感じ取れた。


 リーネが、息を呑んだ。


「あれ、何だ……」


「歪みが、束ねられている」


 ミアの声が、艦から届いた。解頁の精度を慎重に保ちながら、層の中の記述の表面だけを読み取ろうとしている。


「これまで一つずつだった歪みが、層の中で組み合わさって、一つの大きな塊になっている。書き手が、新しい型を、試している」


 その瞬間、層の中央から滲み出ていた「形」が、輪郭を持った。


 大きさは、これまでの単独の歪みの十倍以上。だが、人間や獣の形ではない。複数の歪みが束ねられた、不定形の塊。視覚的には、漂う煙のようでも、流れる水のようでもあった。


 一塊になった歪みが、ゆっくりと空中で形を整えた。


 束ねられて、書き上がった。


 書き手の、新しい型——これまでの「形なきもの」を組み合わせた、進化版とでも呼ぶべきものだった。


 束ねられた歪みが、空中で、ゆっくりと脈打った。生きているとも、生きていないとも言いきれない、独特の振動。


 リーネが剣の柄を握った。だが、抜いてはいない。書き手が試した「新しい型」——それが、これまでの形なきものと同じように斬れるのか、それとも別の対処が必要なのか、まだ判断はつかなかった。


 艦の上で、セリカが補助刃の鞘に手を掛けたのが、視界の隅に映った。いつでも刃を発動できる準備。だが、こちらの判断を待つ姿勢。


 束ねられた塊は、こちらに向かって動こうとはしなかった。書き上がった直後で、自分の形を確かめているような、緩慢な動きを続けていた。


 観察する時間は、わずかに残されている。


 書き手の新しい型が、何をしてくるのか——その最初の動きを、見定めなければならなかった。

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