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グリモワール・コード  作者: 一条信輝


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44話 静かな層

四日目の朝、信号鏡の点滅は、はっきり連続に近づいていた。


 夜明け前、宿の二階の窓から北の空を見ると、点滅の光が、まるで会話しているような速度でやり取りされている。守備隊の信号兵が、観測室から各前線の見張り台へ、また見張り台から観測室へ、急いで情報を送り合っていた。


 昨夜の食卓で「明日の朝には何かが動いている」と言った——その通りになっていた。


 カイは身支度を整えて、宿を出た。塔への呼び出しは、おそらくすぐに来る。先回りして向かう判断だった。


 街路は、まだ薄暗かった。守備隊の早朝の動員が、街の各所で始まっている。短い号令、装備の擦れる音、馬の蹄。三日間の「待ち」で緩んでいた街の張り詰めが、今朝、一気に元の密度に戻っていた。


 石畳を踏むカイの足音だけは、いつもと変わらなかった。視界は完全に戻っていた。歩く速度に、迷いはなかった。だが、向かう先で何が待っているかは、まだ分からなかった。


 ◇


 観測室は、三日前の最初の偵察に出発する前と同じ密度に戻っていた。


 班長が机から振り返る。一晩で二度目の徹夜、らしい顔つき。だが目の奥は、三日前より澄んでいた。待ちの間に、観測のデータを整理し直す時間があったらしい。


「来てくれましたか」


「呼び出される前に、と思ってな」


「助かります」


 女性が、地図の前に立った。北の点群は、三日間の静止の間に、ほぼ同じ位置で固定されていた。だが、今朝から、その点群の動きが変わっていた。


「歪みの数は、ほぼ変わっていません。十九から二十一の間で揺れている。だが——」


 指が、地図の北東の一点を指した。


「ここ。岩塊B-7の隣接領域。新しい兆候が出ています」


 ミアが扉から入ってきた。塔への呼び出しが届く前に、自分から来ていた。三日間で解頁の摩耗が戻り、今日は精度が一段上がっている顔つき。指で空気をなぞる速度が、いつもより速い。


「見せて」


 短く言って、地図に近づいた。


 女性が、その指の位置に新しい印を打った。


「歪みではない、別の何か。観測班の判定では、書き換えのパターンが、これまでと違う。もっと、緩やか。広い」


「面じゃなくて、層」


 灰色の目が呟いた。


「歪みは点で、面で広がる。これは、層になってる。空気の中に、薄い膜が張ってあるような感触」


「読めるか」


「断片だけ。でも、これまでの歪みより、ずっと体系的。書き手が、別の手を出してきている、ような」


 別の手——という言葉が、観測室の空気を引き締めた。


 書き手が、こちらの「待ち」に対して、新しい試みで応じてきた。同じ手を続けるのではなく、別の方法を取り出してきている。三日間の静止の間に、書き手も準備をしていた。


 班長が、低く息を吐いた。


「偵察を出しますか」


 短い問いだった。前線指揮官のイルメアが既に判断を保留にして、こちらの返答を待っている、という顔つき。


「出す」


 短く返した。


「相手の新しい手を、早めに見ておきたい。先に動いた方が、観察される側に回らずに済む」


「了解しました。出航準備を整えます」


 ◇


 拠点に戻って、仲間に伝えた。


 ナミは台所で朝食を片付けている途中だった。手を止めて、振り返った。


「今日?」


「ああ。北東に新しい兆候が出てる。書き手が、別の手を出してきた」


「分かった。装備、準備するわ」


 反対の言葉はなかった。三日間の待ちが、各自の中で十分に消化されていた——という顔だった。


 セリカが工房から戻ってきたところだった。試作刀と、新しく作った補助刃を並べて見せる。


「補助刃、組み合わせ戦術の発動補助用です。試作刀の紋様の消費を、半分以下に抑えられるはず」


「いつから使える」


「実戦に持ち出す段階まで、調整は終わっています」


 眼鏡が頷いた。三日間の集中が、形になっていた。


 リーネは既に剣を背負っていた。慰霊碑から戻った後、宿で剣の手入れを終えていたらしい。


「行くんだろ」


「ああ」


「待ってた」


 短い遣り取り。


 ルーナは、医療所の朝の引き継ぎを済ませて、合流する手筈を整えていた。塔から走ってきた連絡兵が、出航時刻を伝えると、白衣がすぐに頷いた。


「医療所には、午前中で離れる旨、伝えてあります」


「準備が早いな」


「昨夜の信号鏡を見て、今朝のうちに調整しておきました」


 短い遣り取りで、十分だった。三日間の静止の意味を、各自が読み取っていた。


 ◇


 桟橋に揃ったのは、日が中天に届く前だった。


 偵察艦の甲板に、六人が並ぶ。第三小隊の伍長が、前回と同じ位置で待機の構えを取った。後方支援の備えは、三日前と変わらない形で整えられていた。


 艦が、北東に向けて舵を取った。


 甲板の前縁で、ミアが空気を読んでいた。指の動きが、出航時から既に何かを掴みかけている。


「……薄い。空気の組成が、目的地に近づくほど、わずかに変わっていく」


「組成?」


「比率。空気の中の、何かと何かのバランスが、ごく小さく揺らいでいる。普段の大気と違う」


 書き手が、これまでの「形なきもの」とは別の手を出している——という意味だった。歪みのように局所的に法則を書き換えるのではなく、広い範囲の空気を、ゆっくり書き換えている。同じ書き手でも、武器の種類を増やしてきた、ということ。


「呼吸できないほどじゃない」


 ミアが続けた。


「でも、長時間そこにいると、徐々に何かが起きる、可能性はある」


 仲間の表情が、一段硬くなった。


 ナミが、艦尾の水袋に視線を落とした。漁師の経験で、空気の質が変わる瞬間を肌で読む習慣がある。海上で潮の匂いが変わる時、その先に低気圧があることを、体で感じる。今、ミアが言っていることは、それと似た感覚だった。見えない変化が、徐々に体に積み重なる。


「滞在時間、決めておいた方がいいかも」


 短く言った。


「あたしの感覚だと、四半刻以上は危ない気がする。どう?」


 漁師の経験からの提案だった。


「それでいこう」


 カイが短く応じた。書き手の新しい手が「即効性のある攻撃」ではなく「徐々に何かを書く」種類のものなら、滞在時間の管理が、こちらの当面の備えになる。


 ◇


 目的地が見えてきた。


 岩塊B-7の隣接領域——岩塊そのものではなく、その北東側の何もない空中に、薄い霞のような層が広がっていた。光の屈折ではない。空気そのものが、わずかに白く濁って見える。


 艦が、その層の手前で停泊した。


 全員が、甲板の縁から層を見つめた。歪みのような攻撃性はない。動きもほとんどない。ただ、そこに「ある」だけだった。


 白く濁って見える層——だが、近づいて見ると、白の中に微細な階調があった。中央付近はやや青みを帯び、縁に向かって乳白色に薄れていく。陽光が当たっても影を作らず、しかし背後の空の色を完全には透過しない。半透明とも、不透明とも言いきれない、奇妙な視覚的曖昧さ。


 厚みは、距離にして二十歩ほど。形は正確な四角ではなく、ぼんやりとした楕円。岩塊B-7に向かって、層の縁が緩やかに伸びている。岩塊の方角に、何かを伝えようとしているような、配置だった。


 甲板の風が、層の方へ流れた瞬間、空気の手触りがわずかに重くなった。湿気でも温度でもない、別種の重み。指の先で布を撫でた時の、繊維のざらつきに近い感触が、空気そのものに乗っている。


 だが、それが何のためにそこにあるのか——その目的は、まだ誰にも見えなかった。


 書き手が、新しい手で書き始めた、その最初の動き。


 その意味を、これから読み取らなければならなかった。


 ナミが、低く呟いた。


「……静かすぎる」


 その通りだった。岩塊の歪みは、少なくとも揺らいでいた。今、目の前にある層は、揺らがない。固定された静けさが、別種の不安を呼ぶ。


 リーネが、剣の柄に手を置いた。


「敵か?」


「分からない」


 短く返した。


「斬っていいかも、まだ判断できない」


「触ったら、何が起きるかも」


 セリカが、補助刃を構え直した。眼鏡の奥が、未知の現象を前にして、職人の好奇心と戦闘者の警戒の間で揺れている。


 ルーナが、白衣の袖を一度だけ確認した。治癒の準備。何が起きるか分からない以上、最低限の備えだけは整えておく——という手の動き。


 ミアが、層に向けて指を伸ばし、空中の何かをなぞる仕草をした。指先が震えている。これまでの観察ではなかった種類の、抑え込みきれない反応だった。


「……書き手が、ここで何かを試している」


 灰色の目が、層から離れない。


「でも、敵意の記述じゃない。少なくとも、岩塊の歪みのような『書き換える』意図とは違う」


「じゃあ、何だ」


「……書こうとしている。何かを」


 短く言ってから、ミアは続けた。


「岩塊の歪みは、既存の法則を上から塗り潰すような書き方だった。今、目の前にあるのは——何もない場所に、新しい言葉を書き加える、そういう書き方」


「……何を書いてる」


「読めない。書きかけだから」


 灰色の目が、ようやく層から外れて、カイを見た。


「ただ、嫌な予感はある。書き上がった時、世界の何かが、書き換えられるんじゃなくて、増える」


「増える」


「うん。今までなかった何かが、ここから生まれる」


 その一言が、甲板の空気を、また一段引き締めた。


 書き手は、これまで「書き換える」存在だった。今、目の前にある層は、何かを「書こうとしている」。書き換えるのではなく、新しく書き加える——という別の手。


 カイが、刃の柄に手を置いた。視界は完全に戻っている。だが、戻った視界が、今日の戦場で何を映すのか——まだ、分からなかった。


「——降りる」


 短く告げた。


 その瞬間——層の中央が、ごく僅かに、波打った。


 水面に小石を落とした時のような、同心円状の揺れ。一度だけ、ゆっくりと。気のせいかと思うほど微細だったが、ミアが息を呑んだ。


「……反応した」


 灰色の目が、確信のある声で言った。


「『降りる』って言葉に、層が反応した」


 全員の動きが止まった。


 書き手は、書こうとしているだけではなかった。こちらの動きを聞いている。声を、言葉を、意図を——層を介して、読み取っている。


 まだ書き上がっていない一行が、すでにこちらに耳を傾けている。


 書き手の新しい手の、最初の現れを、こちらが読みに行く番だった。

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