43話 待ちの三日目
待ちの三日目の朝が来た。
ヴァルトハインの空は、東の縁から薄い橙に染まっていた。北の信号鏡の点滅は、出航を止めて以来、ほぼ静止に近い間隔まで広がっていた。書き手も、こちらの動きが止まったことに対して、待ちで応じている——という解釈ができる状態。互いに、相手の出方を読み合う期間に入っていた。
宿の二階で、カイが先に目を覚ました。視界の白みは、戻っていた。完全に。一昨日の夜、ルーナが言った「明日の朝までには戻る」が、その通りに実現していた。三日目の朝には、最後に薄く残っていた白みも消えていた。
窓を少し開けると、街の朝の音が入ってきた。馬車の車輪、市場へ向かう商人の足音、子供の声。守備隊の動員命令が解除されてはいないが、日常の音が街に戻り始めていた。
◇
拠点の食堂で、ナミが朝食の支度をしていた。
パンを切り、果物を皿に並べ、塩漬け魚をほぐして混ぜる。手順は機械的だが、指先の動きには余裕がある。マリスティアの台所で覚えた、漁から帰った父と兄たちに食べさせた朝の支度。今は仲間に食べさせている。
台所の窓から、街路の朝の光が差し込んでいた。出汁の鍋が小さな音を立てる。三日間の待ちの間に、ナミの料理の手数は、戦闘期よりも一段細かくなっていた。塩の量、煮込みの時間、火の強さ——一つ一つに、戦闘期では省かれていた工程が戻ってきていた。これは贅沢ではなく、漁師の本来の仕事の形だった。
「おはよ」
「ああ」
「視界、戻った?」
「ああ」
「ルーナの治文、効いたわね」
水使いが、皿をテーブルに並べながら、少しだけ微笑った。仲間の体調を最初に確認するのは、いつもこの女性の習慣だった。
ミアが先に椅子に座っていた。帳面を開いて、何かを書き加えている。三日間の待ちの記録——書き手の動きの観測データ、信号鏡の点滅間隔、北の歪みの数の推移。解頁の摩耗も、三日休んだことで、かなり戻っていた。
「……今日、塔に行く」
短く言った。
「観測の助手たちと、データを整理する。書き手の振る舞いに、何か見えるかもしれない」
「頼む」
「夕方には戻る」
ミアが頷いて、また帳面に視線を落とした。
◇
セリカは既に工房に向かっていた。
昨日と一昨日、刃の修復と、組み合わせ戦術の精度を上げる工程に集中していた。三日目の今日は、新しい補助刃の試作に入る予定。一本の試作刀だけでは、複数の戦術を背負わせきれない——という判断で、補助役の刃を別途用意する構想だった。
工房に向かう途中、街の鍛冶ギルドの前を通った。看板の前で一瞬足が止まる。中から金属を打つ音と、職人たちの短いやり取りが漏れていた。フォルジアの工房とは違う、ヴァルトハインの前線都市らしい速度の打ち方。
立ち寄ろうかと、一瞬だけ思った。だが、すぐに視線を外して、また歩き出した。
他の鍛冶師の仕事に近づくのは、フォルジアの頃から不得手だった。職人同士は、互いの手の動きを観察しすぎるか、警戒しすぎるかのどちらかになる。中に入って気を遣うより、自分の工房で手を動かしている方が落ち着く。
軍の予備武具整備用の小さな施設の扉を開けると、昨日の鍛造の熱がまだ石の壁に残っていた。眼鏡が、ようやく安心したように頷いた。ここが、自分の場所だった。
◇
ルーナは、医療所の朝の引き継ぎを終えた後、街の慰霊碑に立ち寄っていた。
ヴァルトハインの北門近くに、前線で死んだ兵士たちの名を刻んだ石板が並んでいる。軍事都市らしい、簡素な慰霊の場。神殿でも祠でもなく、ただ石を立てて名前を刻んだだけの場所。それでも、毎日誰かが花を置いている。
花を一輪、置いた。
誰のため、というわけでもなかった。医療所で救えなかった兵士の名前を、何人か覚えていた。その名前のうちの一つがここに刻まれているのを、昨日見つけた。今日はその前で、短く目を閉じる。
石板の前で目を閉じていると、足音が近づいてきた。
「……何してるんだ」
リーネだった。剣帯を巻いた格好で、ルーナを見つけたらしい。
「祈っていました」
「巫女、辞めたんじゃなかったか」
「辞めていません。ただ、神殿を出ただけです」
「違いがあるのか」
「あります。たぶん」
白衣が、わずかに微笑った。リーネが鼻を鳴らして、隣にしゃがみ込んだ。
「私も、いいか」
「もちろんです」
「何をすればいい」
「リーネが、思うことを」
赤い髪が、しばらく石板を見ていた。
「祈ったこと、ないんだよ、こういうの」
ぼそりと言った。
「やり方、間違ってても許してくれよ」
「形は、ありません」
ルーナが小さく頷いた。リーネが、ふん、と鼻を鳴らしてから、両手を軽く合わせた。父のことか、故郷のことか、仲間のことか——口にしないまま、何かに向けて手を合わせていた。慣れない仕草で、指の組み方が左右で違っていた。それでも、合わせていた。
ヴァルトハインの慰霊碑は、セラフィームの大神殿に比べると、ずっと素朴だった。装飾のない石板、煤けた燭台、誰かが置いた花が萎れかけている。質素な作り。だが、ルーナの目には、この場所の方がむしろ、自分に合うものに見えていた。
大きな神殿の整った祈祷の形式より、誰かの名前の前に置く一輪の花の方が、自分の手の動きに近かった。
「……ルーナ」
しばらくして、リーネが目を開いた。
「お前、神殿に戻りたいか?」
「いいえ」
即答した。
「今は、ここにいたいです」
「ふうん」
赤い髪が、それ以上は訊かなかった。立ち上がって、ルーナに手を差し出した。
「行こう。みんな、待ってる」
「はい」
短い遣り取りだった。立ち上がるとき、ルーナの手が、リーネの手にしっかり預けられた。その重さだけが、二人の間で何か、温度のあるものに変わっていた。
◇
昼過ぎ、カイは街の市場を歩いていた。
ナミに頼まれた食材の買い出し——夜の汁物の根菜と、保存用の塩。普段は仲間の誰かが請け負う雑用だが、今日はカイが自分から名乗り出ていた。視界が完全に戻ったことの確認も含めて、街を歩いてみたかった。
市場の喧騒の中で、人の動きを観察する。守備隊の動員が続いているせいで、屋台の数は普段より少ない。だが、開いている店には、それなりの客が付いている。前線が動いていない期間に、街の人々は普通の生活を続けようとしていた。
香辛料の屋台で、年配の女性が値段を交渉していた。隣の魚屋で、若い男が塩漬け魚を選んでいた。子供が父親の手を引いて、果物の屋台に向かっていた。
誰一人、改行のことも、書き手のことも知らない。
「お兄さん、塩はどれだ」
屋台の老人に声をかけられて、視線を戻した。岩塩を選び、銅貨を渡す。手応えのある、現実の取引だった。
市場の奥に進むと、鍛冶屋の修理を待つ列に、軍人が混じっていた。前線から戻った装備の手入れだろう。装備を抱えた兵士の顔は、まだ若かった。十代後半か、二十歳になるかどうか。
その隣で、若い母親が、子供の靴を直すために順番を待っていた。前線が動かない期間に、内職を片付けようとしている顔。
兵士と、母親と、子供の靴。
書き手の存在も、改行のことも、何一つ知らないままで、街の人たちは並んでいた。
市場を出る頃には、買い物袋が両手にずっしりと重かった。塩、根菜、果物、保存食の干物。ナミに頼まれた以上の量を、つい買ってしまっていた。
◇
夕方、拠点に戻った。
水使いが昼間の市場で買った食材を確認し、セリカが工房から帰り、ミアが塔から戻ってくる頃には、日が傾きかけていた。ルーナと別れたリーネも、いつもより穏やかな顔で帰ってきていた。
六人で食卓を囲んだ。
ナミの汁物、街のパン屋で買った焼きたてのパン、市場で見つけた珍しい果物。普段の戦闘前の食事と違って、誰の手にも余裕があった。三日間の「待ち」が、各自の中の戦闘の重さを、少しずつ抜いていた。
ミアがパンを小さく千切って、汁に浸して食べた。普段は固形の食事を避けるミアが、湯気を立てるパンに手を出している——それだけで、解頁の摩耗が一段戻ったことが伝わってきた。
ルーナが、果物の皮を細かく剥いている。医療所で配るためかと思ったが、剥いた果実をリーネの皿に置いていた。リーネは一瞬目を丸くしてから、ぶっきらぼうに「……ありがと」と短く言った。
ナミがその様子を見て、声を出さずに笑った。
平和な夜だった。三日間の「待ち」が、ようやく仲間の中に染み込んでいた。
リーネが、果物を齧りながら、ふと窓の外を見た。
「……信号鏡、また点滅してる」
全員が窓に目をやった。
北の方角の信号鏡が、ゆっくり、しかし確実に、点滅の間隔を狭め始めていた。三日間の静止が、終わろうとしていた。
書き手が、待ちに対する答えを、出し始めていた。
夕食の手は、止まらなかった。だが、明日の朝には、何かが動いているのが見えるはずだった。
待ちの三日目の夜、街の灯りが、少しだけ早く点り始めていた。




