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グリモワール・コード  作者: 一条信輝


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42話 検証と待ち

桟橋に戻ったのは、日が真上に差しかかる前だった。


 偵察艦が桟橋に寄せられると、待機していた第三小隊の兵士たちが艦尾を固定した。指揮役の伍長が、無言で頷いて受け取りを完了させる。報告は塔で行う段取り——支援を呼ばずに済んだ事実だけが、伍長の肩から余分な力を抜かせていた。


 第三小隊は十名。再編成されたばかりで、まだ装備に名前が刻まれていない者もいる。だが、桟橋に整列して艦を迎える動きは、規律を崩していなかった。


 街の方角からは、出航時より人通りが少なかった。守備隊の動員命令の影響が、まだ街に残っている。


 艦から下りる順は、いつもと逆だった。


 最初にミアが下りた。続いてセリカ。次にナミとリーネ。最後にカイと、隣に付いたルーナ。視界の白みは戦闘中より薄まっていたが、足元の石畳の境目が、わずかにぼやけて見える。ルーナが手を添えるほどではなかった——が、添えようとした手の動きは、確かに二度ほどあった。


 石畳を踏むと、地面の硬さが視覚の代わりに足から伝わった。


「……塔、ですね」


「ああ」


「先に医療所に寄りましょう。視界の代償は、夕方までに薄まる目処を立ててから動いた方がいい」


「塔の報告が先だ」


 短く返した。ルーナの口元が、わずかに緊張した。だが、押し戻さなかった。


「分かりました。では、塔のあと、すぐに医療所へ」


「ああ」


 ◇


 観測室は、出航前と同じ密度で動いていた。


 助手たちの机の周りで、信号鏡からの最新情報を地図に書き加える作業が続いている。北の点群——いや、箇所の群——の数は、出航時より少しだけ増えていた。だが、増加速度は朝方より緩やか。書き手が、こちらの動きを見て、手を一段抑えたのかもしれなかった。


 班長が振り返った。一睡もしていない顔のまま、目だけが鋭く澄んでいる。


「岩塊の状況は」


 簡潔に報告した。十九箇所の歪み、刃の手応えのなさ、補充の正確さ、そして——観察されていたという事実。


 班長の指が、地図の上で止まった。


「観察、ですか」


「ああ。書き手は、こちらの戦い方を学習している。今日の偵察は、向こうから見れば実験だった」


「……それは、厄介ですね」


 地図の上で、班長の指が、北東の点群を辿った。


「規模は同程度のまま、配置の癖が変わってきています。最初は無作為に見えた配置が、今は——あなた方の昨日の南の動きを、模した形になっている」


 全員が地図に近づいた。


 確かに、北の箇所の散らばり方が、昨日の南で核から伸びていた筋の方向を、薄く反映していた。書き手は、こちらの動きを観察するだけでなく、観察した結果を即座に次の試みに組み込んでいる。


 観測班の助手の一人が、新しい点を地図に書き加えた。北西の追加報告だった。班長が小さく目を伏せ、それから顔を上げた。


「次の偵察は、いつ出されますか」


「未定だ」


 短く返した。


「向こうの学習速度を考えると、こちらが頻繁に動くほど不利になる。一度、間を置く」


 班長の眉が、わずかに上がった。だが、反対の言葉は出なかった。前線指揮官のイルメアと既に話を済ませている、という顔つきだった。


「了解しました。観測は継続します。動きがあれば、すぐに連絡を」


「頼む」


 ナミが、低く息を吐いた。


「……魚が、こっちの手を覚えて避けるようになる、みたいな」


「賢い魚だな」


 リーネが応じた。


「だが、当たってる気がする」


 ◇


 塔を下りて、街の工房に向かった。


 ヴァルトハイン到着初日にセリカが借り受けた、軍の予備武具整備用の小さな施設。そこに戻って、新しい戦術の検証を始める段取りだった。試作刀の紋様の状態を見ながら、改行と潮流を組み合わせる手順を組み立てる。


 工房に入る前、ルーナが立ち止まった。


「医療所に戻ります。夕方の引き継ぎまでに、何人か診たい方がいます」


「ああ」


「カイさん、視界の代償が深くなったら、無理せず呼んでください。少しでも、整えに来ます」


「分かった」


 白衣が、街の方角に向き直った。歩き出す前に、一度だけ振り返った。何も言わずに、ただ目を合わせた——銀色の目が、心配を抑えたまま、それでも頷いた。それから、街の路地に消えた。


 ◇


 工房の炉は、まだ温かかった。


 昨日の鍛造の熱が、石の壁に残っている。ナミが鞴の前に立ち、セリカが試作刀を作業台に置いた。リーネは扉のそばに腰を下ろし、ミアは工房の隅で帳面を広げる。


 検証は、最小単位から始めた。


 まず、ナミの潮流。水袋から少量の水を出して、それを空中で操る——通常の使い方。問題なし。水が指先の動きに沿って、半径一メートルほどの範囲で形を変える。マリスティアの海で覚えた基礎の動き。


 次に、空中の水蒸気だけを集める。


 ナミが目を閉じた。両手を胸の前で軽く構え、肩から力を抜く。漁の前に潮の流れを読むときの姿勢——故郷の港で、誰に教わるでもなく身につけた構え方。


 空気中の水分は薄い。ヴァルトハインの石造りの街では、海上の半分も湿度がない。それでも、ナミの集中で、わずかな粒が集まり始めた。十呼吸ほどで、小さな水滴が指先ほどの大きさに育つ。


「……重い」


 短く呟いた。


「あたしの感覚で言うと、海から離れた漁って感じ。手応えはあるけど、効率が悪い」


 セリカが帳面に書き込みながら、頷いた。


「数値で言うと、通常の三割程度の効率です。これだと使い物にならない」


「だから、改行で密度を上げる」


 カイが進み出た。


 半径三メートル、五秒。空気中の水分密度を、二倍に書き換える。


「——一行、増湿」


 改行が走った瞬間、工房の中央の空気が、わずかに湿った匂いに変わった。雨上がりの森に近い、緑の匂い。改行は法則を書き換えるが、書き換えられた法則は、その瞬間から自然な現象として振る舞う——だから匂いまで連動する。


 水使いの集中が一段速くなった。同じ十呼吸で、水滴が拳大まで育つ。先ほどの三倍以上の速度。


「——通る」


 水使いの目が開いた。


「これなら、漁に出られる」


 最後に、鍛魂。


 眼鏡が試作刀を握り、刃の中の術式を一時的に「潮流の媒介」として再構成し始めた。鍛魂で武器に術式を宿らせる——その応用で、刃そのものを、潮流の発動を補助する触媒に変える。


 眼鏡の奥が、検証の集中に入っている。指先が刃の紋様を一筋ずつなぞり、各筋を「潮流に対して開く」「潮流に対して閉じる」と分類している。職人としての見立てが、戦闘の応用に直結している瞬間だった。


「……これは、刃の紋様を消費する使い方です」


 眼鏡が帳面に書き込みながら、低く言った。


「次の戦闘で、刃の本来の機能と両立できるかは、未検証」


「だが、複数箇所に水を届ける手段は、これしかない」


「そうですね」


 短い遣り取りの後、三人で同時に発動した。


 空気の匂いが、また変わった。改行が水分密度を上げ、ナミが潮流で水を集め、セリカの刃が補助的な発動範囲を広げる。三つの術式が同時に走った瞬間、工房の中央に、人間ほどの大きさの水球が浮かんだ。


 水球は、ナミの意志で四つに分裂した。それぞれ、工房の四隅に同時に届いた。


 成立した。


 誰も、すぐには口を開かなかった。


 眼鏡が、帳面を持つ手をゆっくり下ろした。奥が、職人の確信と、戦闘者の高揚の間で揺れている。フォルジアで一人で刃を作ってきたセリカが、三人の術式が一つの戦術として組み合わさる瞬間を見ていた。


「……繋がりましたね」


 眼鏡が、低く呟いた。


 その一言の重みを、誰もが受け取った。


 ◇


 検証が終わった頃、医療所からルーナが戻ってきた。


 工房の扉を開けた瞬間、白衣の少女は、室内に残る術式の残光を一目で察した。神殿で多くの記述に触れてきた目が、空気中に薄く残る水分の動きと、改行の屈折と、鍛魂の青白い線を、同時に読み取る。


「……成功、しましたね」


「ああ」


「次の戦闘で、使える形まで持っていけそうですか」


「セリカの調整次第」


 眼鏡が頷いた。


「明日までに、刃の紋様の消費を最小限に抑える手順を組み立てます。今夜は、消費した分の回復に充てます」


 ルーナが、カイの隣に来た。


「失礼します」


 短く一言、断ってから、後頭部に手を添えた。治文の小さな光が、首筋に流れる。


 昨日と同じ、淡い手応え。だが、光の色は夕方の光に近い、温かい色だった。傷ではないものに対する治癒の限界の中で、ルーナができることを丁寧に積み重ねている——そういう手の動き。


 視界の縁に、本来の色彩が戻ってきていた。


「……薄まってきています」


「ああ」


「明日の朝までには、戻ると思います」


「分かった」


「夜、少しでも眠ってください。視界の代償は、休息で戻る部分が大きいです」


「分かった」


 短く頷くと、ルーナの口元が、わずかに緩んだ。普段の「ご無理なさらず」の柔らかい注意の奥に、安堵が一瞬覗いた表情。


 彼女自身の疲労は、銀色の目の奥に、薄く沈んでいた。だが、口にはしない。それが、この少女のやり方だった。


 ◇


 夜が来た。


 拠点の宿の二階で、六人が床に毛布を敷いて座っていた。ナミの料理が、湯気を立てている。今夜は具沢山の汁物——マリスティアの漁師流、温かいものをまず出すという流儀。


 ヴァルトハインの市場で買った塩漬け魚を出汁にして、根菜と豆を煮込んだ簡素な作り。だが、出汁の取り方に故郷の海の癖が出ていた。塩の使い方が、内陸の料理人とは違う。


「美味い」


 リーネが椀を半分空にしてから、短く言った。


「お代わり、いる?」


「いる」


「ばかね、あんた、いつも食いすぎるのよ」


 水使いが鍋を見ながら、微笑った。海賊の娘を妹のように扱う口調は、出会った頃から変わらない。同じ釜の物を食ってきた距離が、二人の間に厚みとして溜まっている。


 眼鏡が椀の縁を両手で包んで、湯気を顔に当てていた。湯気で曇った眼鏡を外して、布で拭く。検証の集中で固まっていた目元が、ようやく緩んでいる。


 ミアは小さな椀で、ゆっくり匙を動かしていた。解頁の摩耗が抜け切らないので、食事も少しずつ。だが、湯気を吸い込む息は深かった。


 ルーナは、椀を膝の上に置いたまま、まだ口をつけていなかった。視線が、何度かカイの方に向かい、視界の白みの戻り具合を確認しているような動き。


 赤い髪が椀を空にして、ふっと息を吐いた。


「……明日、また北に出るのか」


「いや」


 短く返した。


「しばらく、動かない」


 全員が顔を上げた。


「書き手は、こちらの動きを観察して学習する。動けば動くほど、向こうの精度が上がる。ここで、一度、こちらの手を止める」


「待ち」


「ああ。向こうが、待ちに対してどう動くか——それを見る」


 観察される側から、観察する側に戻る判断だった。


 リーネが、椀の縁を指で弾いた。


「俺は、動きたい派だ」


 短く言った。


「マリスティアの故郷を喰海に削られた身としては、待ってる時間が辛い。だが——」


 息を吸って、続けた。


「お前の判断に、文句はない。動いて精度が上がるなら、止まるのが正しい」


「ありがたい」


 水使いが、鍋から目を離さずに頷いた。


「漁も、待つ時間が大事よ。魚が来ない時に動き回ると、群れが散る。同じ」


「待ちの間に、刃の修復と、組み合わせ戦術の精度を上げます。技術的な前進は、止まりません」


 眼鏡を掛け直しながら言った。


 ミアが、匙を一度置いた。


「……解頁も、待ちの間に回復させる。次の戦闘で、もっと深く読めるように」


 ルーナは、最後に椀に口をつけてから、静かに言った。


「待ちの間も、医療所には通います。前線が動いていない時こそ、後方の手当てが進みます」


 全員の意志が、それぞれの位置で、待ちの方針に重なった。誰一人、無理に同意したのではない。各自の役割の中で、待ちの間にやるべきことが見えていた。


 誰も反論しなかった。湯気の立つ椀を、それぞれが自分の前に置いて、夜の静けさに身を預けた。


 窓の外で、北の信号鏡の点滅は、ゆっくり間隔を広げていた。一度動かすことを止めた書き手が、待ちに対して、どんな次の手を打つのか——見えるのは、明日以降だった。

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