41話 観察される側
偵察艦が北の岩塊に近づいた。
ヴァルトハインから北東に二刻、空路船で押し切った距離。岩塊そのものは、地図に「岩塊B-7」とだけ記された無人の浮遊岩。直径百歩ほどの楕円形で、植生はない。守備隊の経路の外側で、観測対象として記録だけは取られていた。
艦の上で、リーネが舷側に肘をつき、岩塊の方向を睨んでいた。装備の点検は朝のうちに終えている。あとは到着を待つだけ——海賊の娘にとって一番落ち着かない時間だった。
ナミは水袋を膝に置いて、結び目の状態を確認していた。今日は最初から戦闘前提。岩塊近くで使える水は艦に積んだ分だけ。漁の癖で、必要量と予備の比率を何度も計算し直していた。
セリカは試作刀の鞘を膝に置き、紋様の状態を記録し続けていた。昨日の戦闘で消費された分は、夜の間に半分ほど戻っていた。職人としては、追跡できるうちに記録を取りたい——そういう手の動きだった。
ミアは艦の中央で、帳面を広げたまま、何度か目を閉じていた。解頁の負担は昨日より軽い。だが、岩塊が近づくにつれて、術式の周波がざわつき始めている。
ルーナは艦尾近くに座り、治文の小さな光を指先に灯していた。練習というより、感覚の調整だった。
「あんた、昨日より調子どう?」
水使いの声が、誰に向けたものでもなく投げられた。
「悪くない」
短く返した。視界の白みは、昨日より薄れている。完全ではないが、刃を握る判断はできる程度には戻っていた。
「無理はしないでね」
「ああ」
赤い髪が舷側からこちらを振り返った。
「無理しろって言いたいのが本音だろ、お前は」
水使いがリーネを横目で睨んだ。
「言わないわよ。漁師は、引き際を見極めるのが仕事」
軽い掛け合いだったが、艦の空気が一段ほぐれた。
日が昇り切る頃、岩塊が視界に入ってきた。
石灰質の岩肌が、朝の光を白く反射している。普通の浮遊岩なら、ここで終わりだった。だが——岩肌の何箇所かが、薄く揺らいで見えた。光の屈折ではない。法則そのものが、箇所ごとに歪んでいる。
「数えます」
灰色の目が甲板の縁で、指を走らせ始めた。
「……岩塊の表面に、十一。岩塊の周囲の空気中に、八。合わせて十九箇所」
昨日までの観測の数と、ほぼ一致していた。書き手の手数が、ここに集まっていた。
◇
偵察艦が岩塊から五十歩ほどの距離で停泊した。距離を取った待機。これ以上近づくと、書き換えの干渉範囲に入る可能性があった。
カイが甲板の前縁に立った。視界の白みは、昨夜と比べて少し戻っていた。完全ではないが、戦闘判断はできる。試作刀の鞘が、腰で軽く揺れる。
「——一箇所ずつ確認する」
短く告げた。
「セリカ、刃の状態を見てくれ。一振りごとに紋様の消費が起きる。今日は、消費の度合いも記録したい」
「分かりました」
「リーネは前衛、ナミは中衛。ミアは観測。ルーナは後衛で待機」
全員が頷いた。配置は昨日の南と同じ。だが、相手が違う。
◇
最初の一箇所は、岩塊の手前、空中に浮かぶ歪みだった。
大きさは拳ほど。揺らぎ方が緩慢で、攻撃性は感じられない。書き換えが進行中だが、まだ何の法則を書こうとしているのか、外から読めない。
刃を構えて、前へ進んだ。船から降りて、岩塊との中間の空中の足場——魔導板を踏みながら、慎重に間合いを詰める。
刃を、振り抜いた。
歪みが、抵抗なく斬れた。
昨日、南の核を斬ったときの手応えと比べれば、まるで別物だった。あの時は刃の中の術式が共鳴し、柄を通して脈のように脳まで伝わる感触があった。今回は、何もない。空気の濃淡を撫でただけのような、軽い通過。
歪みが消え、辺りの法則が戻った。視覚的には「斬れた」が、感覚としては「斬った」と言いきれない。何かを叩いた手応えがないまま、結果だけが現れる——そういう違和感。
簡単すぎた。
「……あっけないな」
赤い髪が小さく呟いた。
セリカが帳面に書き込みながら、首を傾げた。
「紋様の消費は、ほぼゼロです。刃の術式が、起動すらしていない。——拍子抜けするくらい弱い」
刃の紋様を確かめた。昨日は一振りごとに線の密度が薄れていったのに、今回は減っていない。刃が「これは戦う相手じゃない」と判断しているような動きだった。
次の歪みに進んだ。同じ。
次。同じ。
四箇所目を斬った時点で、ミアが指の動きを止めた。
「……変」
灰色の目が、岩塊全体を見ていた。
「斬っても、減らない」
刃を握る指が、止まった。
「最初は十九箇所。今、四箇所斬った。残りは——」
「十九箇所。減ってない」
全員の動きが止まった。
◇
岩塊の表面で、新しい歪みが、すでに四つ生まれていた。
斬った数だけ、補充されている。書き手が、即座に同じ数を書き加えている。しかも、補充された四箇所は、最初とまったく同じ位置だった。同じ場所に、同じ大きさで——そういう正確さだった。
「……マジか」
赤い髪が、剣の柄から手を離して、岩塊を見直した。
「斬っても、書き直される。何度でも」
セリカの帳面を持つ手が、止まっていた。眼鏡の奥が、研究者の顔と動揺した顔の間で揺れている。
「これは……鍛魂で対抗できる相手じゃありません。一本の刃で削っても、書き手の方が早い」
白衣が艦尾から立ち上がっていた。治文の光は灯していない。だが、目が岩塊全体を捉えていた。
「……これは、戦闘ではないかもしれません」
「どういう意味だ」
「書き手が、戦うつもりがない、という意味です。ただ、私たちが何をするか、見ている」
「……試されてるんだ」
ナミが低く呟いた。海を読むときと同じ目で、岩塊全体を見渡していた。
「魚を釣り上げて、群れがどう逃げるか見るのと同じ。こっちが何箇所斬れるか、どう斬るか、書き手が観察してる」
「俺たちが、こっちが書き手を観察してるつもりで——逆に、観察されてた」
短く返した。
刃の握りが、わずかに緩んだ。手応えのなさの理由が、今、判明した。歪み一つ一つは、攻撃ではなかった。書き手が「こちらの動きを引き出すための餌」だった。何箇所斬れるか、どの順で斬るか——刃の使い手の癖を読み取るための、一種の質問だった。
──気づくのが遅かった。
その瞬間、岩塊の中央付近の歪みが、一斉に揺れた。
十九箇所が、同時に動いた。表面の十一箇所が岩塊の中心に向かって滑り、空中の八箇所が艦のほうへ流れる。形を持たない流れが、二方向に分かれる。
偵察艦の周囲が、書き換えの密度を一気に上げた。空気の屈折が乱れ、視界が二重になる。リーネの炎刃が、振るう前から立ち消える。ナミの水袋の水が、形を保てなくなって甲板に零れる。
「——下がれ!」
艦の操舵手が、舵を急に切った。
甲板が大きく傾いた。カイが片膝を突きながら、刃を握り直す。視界の白みが、また濃くなり始めていた。
◇
艦が後退する。
書き換えの密度が、艦の周囲から徐々に薄れていく。距離を取れば、書き手の干渉も届きにくくなる。だが、岩塊の表面では、十九箇所の歪みが、まだ動いていた。
白衣が、甲板でカイの隣に膝をついた。治文の光が、後頭部から首筋にかけて流れる。
「視界、また悪くなりましたね」
「ああ」
「治文は、傷ではないものには届きません。でも、循環を整えることはできます」
光の手応えは、昨日と同じく、本来の治癒よりも淡い。だが、息のリズムが整っていく感覚があった。視界の白みが、薄まりはしないが、それ以上濃くもならない。広がりかけた代償を、ルーナの治癒が縁で押さえている。
「ありがとう」
「……ご無理なさらず」
短い遣り取りの間に、少しだけ目が合った。銀色の目が、心配を表に出すまいとする抑制の狭間で揺れていた。視線は、すぐ離れた。
水使いが、甲板の縁で水袋を構え直した。
「あんた、ちょっと聞きたいんだけど」
カイに振り向く目だった。
「潮流って、空中の水蒸気でも届くのかな」
「お前の術式だろう」
「あたしも、雨で使ったことはない。でも、水分があれば原理的には行ける気がする」
「——それを改行で密度上げれば、いけるか」
「いけるかも」
眼鏡が帳面から顔を上げた。奥が、鋭く光る。
「鍛魂で、潮流の発動範囲を広げられるかもしれない。改行で空気中の水分密度を上げて、それをナミが操る——三つ組み合わせれば、複数箇所に同時に水が届く」
即興の戦術だった。検証はしていない。だが、論理は通っている。
ミアが頷いた。
「やってみる価値はある」
刃が、鞘に収まった。
「——一旦、戻る。今日は、書き手の出方を見た」
「同意」
短く応じる声が、複数重なった。
◇
偵察艦が南に舵を取り、ヴァルトハインへの帰路に乗った時——
艦の右舷、岩塊から離れた空中に、一瞬だけ、人影が見えた。
黒い外套。フード。長身。
昨夜の路地と同じ姿が、岩塊の方角から、こちらを見ていた。距離は遠い。声も届かない。だが、目だけは、確かにこちらに向いていた。
次の瞬間、人影は消えた。
ミアが、息を呑んだ。
「……ゼノも、見てた」
「ああ」
刃の鞘の上で、指がわずかに動いた。人影が見えた方角を、もう一度目で追ったが、空には何も残っていない。
「校正者が、北まで来てたのか」
リーネが、舷側を指で叩いた。苛立ちというより、警戒の表現だった。
「南の路地に出て、北の岩塊にも来る。あの男、どうやって動いてる」
「分からない。だが、観察はしている」
「で、何も言わなかった」
「ああ」
赤い髪が鼻から長く息を吐いた。
「気持ち悪い男だな、本当に」
水使いがリーネの背中に手を置いた。海賊の娘の警戒は当然だが、ナミの目は別のことを見ていた。
「……あの方、寒そうだったわ」
「は?」
「外套だけで、北の岩塊の風に当たって、ずっとこっちを見てたんでしょ」
その視点が、艦の上で一瞬、空気を変えた。校正者の長、改行に対立する削除の使い手——その肩書きの下にいる、ただの人間の体が、北の冷たい風に晒されていた事実。
ルーナが、小さく呟いた。
「……隈、まだ濃くなってましたね」
昨夜の路地で見た目元の隈。今朝の目には、さらに深くなっているはずだった。
校正者の長は、こちらを観察しながら、自分も疲弊している。その情報は、敵か味方かの判断を、また少しだけ揺らした。
次に会う時、あの男は、こちらに何を言うのか。あるいは、また、何も言わないのか。
◇
艦は南へ、ヴァルトハインへ向けて速度を上げていく。岩塊が遠ざかるにつれて、空気の歪みも薄れていった。だが、ミアの指先は止まっていた。視線は北の方角から外れない。
「あの場所、また誰かが見るかもしれない」
「ああ」
短く応じた。
帰路は追い風に乗った。日が真上に来る前には、桟橋に戻れる計算だった。
甲板の中央で、ナミが全員に湯気の立つ椀を配っていた。岩塊での緊張が、温かい液体で少しずつ緩んでいく。誰も口を開かなかった。今は、考える時間が必要だった。
リーネが、椀の縁を指で弾いた。
「……書き手って、人間なのかな」
ナミの問いと、同じ問いだった。観測室で誰も答えなかった問い。
今日も、答えは出なかった。
ただ、岩塊で見た「斬っても書き直される正確さ」は、人間の手の早さには見えなかった。少なくとも、一人の人間の手では。
北の空に、岩塊の歪みが、まだ残っていた。書き手の試みは、続いている。




