揺れる心、言葉にならない気持ち
放課後の音楽室は、すっかり夕陽のオレンジに満たされていた。
今日のレッスンの余韻がまだ空気に残っていて、どこか切なく温かい。
紗良はピアノの前で楽譜を広げ、何度も同じフレーズを指でなぞる。
上手く歌えた。褒められた。でも、それだけでは胸に残るざわめきは消えなかった。
――綾人に見つめられた瞬間の、あの心臓の跳ね方。
――奏汰がそばにいてくれる安心感。
――そのどちらも嘘じゃないのに、どちらの気持ちにもはっきり名前がつけられない。
「…はぁ。」
小さく息をついた瞬間、音楽室のドアが静かに開いた。
差し込む廊下の光の向こうから、奏汰が顔を出す。
「紗良、まだ練習してたの?」
紗良は慌てて姿勢を正す。
「うん…なんか、落ち着かなくて。」
奏汰はふっと笑い、音も立てず紗良の隣に歩み寄った。
「わかるよ。紗良の声って、気持ちがそのまま出るからさ。」
彼の声は、夕陽よりあたたかい。
隣に立たれると、安心するのに、どこか切なくなる自分がいる。
「今日さ、綾人…珍しく真剣だったよな。」
その名前が出た瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
気づかれないように、紗良は笑ってみせる。
「うん。すごく…まっすぐで、ちょっとびっくりした。」
奏汰は少しだけ視線をそらして、小さく息をつく。
「…紗良、綾人のこと気になってるの?」
「え…?」
突然の問いに、胸が跳ねた。
答えようと口を開いたけど、言葉が出てこない。
気になってる?
そうかもしれない。
でも、それは恋なのか、それとも憧れなのかさえ、まだわからない。
紗良が黙ったまま俯くと、奏汰はそっと彼女の肩に触れた。
優しいけれど、どこか不安を隠した手。
「ごめん。答えなくていいよ。…紗良が苦しくなるなら。」
「苦しいわけじゃ…ないんだけど。」
紗良は目を閉じ、肩に置かれた温かさを感じながら言う。
「ちゃんと向き合わなきゃって思うの。でもそのたびに、声が迷うの。」
奏汰は微笑んだ。
それは、無理に強がる紗良を包むような、深い優しい笑みだった。
「迷ってもいいよ。紗良が歌をやめない限り、どこに行こうが…俺は隣にいるから。」
その言葉は、胸を熱くして、同時にどこか切なく刺さる。
紗良は息を吸い、ゆっくりと目を開けた。
「…ありがとう、奏汰。」
夕陽が沈みかけた音楽室。
影が長く伸びて、ふたりの距離が静かに近づく。
このぬくもりを大切にしたい気持ちと、綾人の存在が放つ光の強さ。
どちらも紗良の中で形を持ち始めて、揺れ続けていた。
歌の世界は、たった一つの声じゃ語りきれない。
でも、紗良はその揺れのすべてを、ステージに乗せようと決めていた。




