見えない線、近付く影
夏海は家に戻ってきたものの、
玄関で靴を脱ぐ手が止まり、
心のどこかがふわふわと浮いたままだった。
(灯……なんであんな顔したん?)
寂しそうで、諦めたようで、
でもどこか優しかった——
あの笑顔が頭から離れない。
ソファに座ってスマホを見つめたけれど、
陸からのメッセージを開く気になれなかった。
(……今、誰のこと考えとるん?)
自分に問いかけた瞬間、胸がぎゅっと掴まれた。
(灯じゃん……)
認めてしまった途端、涙がこぼれそうになる。
***
その頃、灯は自室でベッドに倒れ込んでいた。
部屋の天井を見つめ、
右手に残る“話したかった感触”がまだ消えていない。
「……夏海、泣きそうな顔して……なんで陸からの連絡でああも動揺するんじゃ」
言葉にしてしまった瞬間、
胸の奥でずっと押し込めてきた気持ちが暴れ出す。
(分かっとる。分かっとるんじゃ。
わしは夏海に、また惹かれとる)
でも——
(今さら寄っていって、また夏海を苦しめたらどうするんじゃ)
自分の気持ちを抑え込もうとすると、
胸の痛みが余計に膨らんだ。
「……わし、何しとるんじゃろ」
灯は両手で顔を覆い、
深く深く息を吐いた。
***
その夜。
里奈は自分の机に広げたノートに目を落としながら、
何度もスマホを見ては閉じていた。
(夏海ちゃん……灯くんと、あんなに自然に並んで歩くんだ)
胸にざわりと波が立つ。
里奈は夏海を嫌いなわけじゃない。
むしろ、あの素直さが羨ましいくらいだった。
だけど——
(灯くんが……あんな顔するなんて。
やっぱり……夏海ちゃんのこと、特別なんだ)
認めたくない“答え”が、
はっきりと形になって胸に刺さった。
「……だからって、何もしないで見てるだけなんて、できない」
そっと唇を噛みしめながら、
里奈は決意を固めていく。
(わたしにも……チャンスはあるはず)
その目は静かだけど確かに強かった。
***
翌日。
レッスン前のスタジオに入ると、
夏海は灯の姿を探している自分に気づく。
(……どしたん、あたし)
分かってる。
昨日の続きが気になって仕方ない。
けれど灯は、
いつも通り笑って、いつも通り仲間と話していた。
ただ——
夏海にだけ、目を合わせない。
胸がズキッと痛む。
(……避けられとるん?)
気づいた瞬間、心臓の奥が冷たくなる。
***
美月はその変化を逃さない。
「んー……またなんか進展あったんやな?」
にやっと笑うと、
美月は夏海の肩をポンと叩いた。
「夏海、あんたさぁ……
想い伝えんと、ほんまに誰にも取られるで?」
夏海はびくっとして顔を上げた。
「だ、誰に……?」
美月は唇の端をつり上げる。
「例えば……里奈とか?」
「っ……!」
一瞬で心が乱れた。
美月は肩をすくめる。
「だってあの子、昨日あんたのこと見てたし、
灯のことも見とったし……
動き出す気満々の顔してたで?」
夏海は手が震えているのに気づいた。
(やだ……里奈に、灯……とられたくない)
胸の奥に、初めて“怖さ”が宿る。
***
スタジオの扉が開く音。
夏海が顔を上げた瞬間——
そこには灯と里奈が並んで入ってきた。
距離は近くない。
でも、ふたりは自然に笑っている。
里奈は灯に何かを渡し、
灯はそれを受け取って軽く笑った。
そのたった数秒のやり取りだけで
夏海の心臓は大きく揺れた。
(……嫌だ)
初めて、自分の心がハッキリ叫んだ。
(灯が、誰かの特別になるの……嫌なんや)
そんな夏海を、
美月はあきれたように、でも優しく見つめていた。
「やっと気づいたんやね。
夏海、あんた……灯が好きなんやろ?」
夏海は——
涙がにじむ瞳のまま、
自分でも声にならないほど小さく頷いた。




