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王侯貴族に恋愛は必要ない  作者: 章槻雅希


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第四話 恋をしても、わたくしはわたくし

 王宮で開かれた茶会は、秋の午後の光に満ちていた。


 王妃の私的な催しであり、招かれた者も限られている。王族とその婚約者、親しい貴族家の夫人たちが、庭園に面した小広間で穏やかな時間を過ごしていた。


 エレノアは、王妃の隣で茶器を扱いながら、会話に耳を傾けていた。


 こうした場は、彼女にとって慣れたものだった。王妃の話題をさりげなく広げ、夫人たちの関心に気を配り、必要以上に目立つことなく、場の雰囲気を整える。幼い頃から学んできたことが、自然と身についている。


 その一方で、心の片隅には、別のことがあった。茶会のあと、レオナルトと少し話をしたい。


 それだけのことなのに、朝からずっと落ち着かなかった。


「エレノア嬢」


 声をかけられ、彼女は顔を上げた。


 レオナルトが、庭園へ続く扉のそばに立っていた。


「少し、外を歩かないか?」


「……はい、殿下」


 差し出された手に、自分の手を重ねる。その瞬間、胸が大きく鳴った。


 以前なら、婚約者として当然の所作だと考えただろう。けれど今は、彼が自分を誘ってくれたことが、素直に嬉しかった。


 嬉しい。そう思ってもいいのだ。


 エレノアは、そっと微笑んだ。








 庭園の小道には、秋の花々が咲いていた。


 侍従たちは十分な距離を保ち、二人の会話を邪魔しない。暫くは、学院の課題や王宮での出来事について話していた。


 いつもの会話。けれど、エレノアは、今までとは違う気持ちでレオナルトの隣を歩いていた。


 何かを話さなければならない。そう思うたびに、言葉が喉の奥で止まってしまう。


 彼を責めたいわけではない。ほかの令嬢に優しくしないでほしいわけでもない。ただ、自分がどのように感じているのかを、知ってほしい。


 そして、出来ることなら。自分もまた、彼にとって特別な存在でありたいのだと、伝えたい。


「エレノア?」


 レオナルトが足を止めた。


「何か話したいことがあるのではないかい?」


 彼の言葉に、エレノアは目を見開いた。


「……どうして、そうお思いになるのですか?」


「君が、何度も何かを言いかけているから」


 彼は、困ったように笑った。


「それに、最近の君は、以前より少しだけ遠く感じるんだ」


 胸が痛んだ。自分は、彼を大切にしたいと思っていた。けれど、その気持ちを隠そうとするあまり、彼との距離を広げてしまっていたのだ。


「申し訳ございません、殿下」


「謝らなくていい。私はただ、君が何を考えているのか知りたいんだ」


 レオナルトは、まっすぐに彼女を見つめた。


「君がいつも私を気遣ってくれていることは知っている。だが、私は君が何を感じているのか、きちんと理解できていなかったのかもしれない」


 エレノアは、息を吸った。今なら、言えるかもしれない。


 母の言葉が、胸の奥によみがえった。自分の気持ちを伝えるのは、相手を責めるためではなく、相手を理解し、自分を理解してもらうため。ならば、正直に話そう。


「殿下。わたくしは、殿下が皆様にお優しいことを、よく存じております」


「ああ」


「それは殿下の素晴らしいところだと思っておりますし、わたくしも、そのお心を尊敬しております」


 レオナルトは、静かに耳を傾けていた。


「でも、ときどき……わたくしだけを特別に思っていただけたらと、願ってしまうのです」


 言ってしまった。エレノアは、指先をぎゅっと握った。


「殿下が他の方に親切になさることが、嫌なわけではございません。殿下のお立場を考えれば、誰に対しても誠実であるべきだと存じております。けれど……」


 彼女は、顔を上げた。


「わたくしは、殿下のお役に立てることが嬉しいのです。殿下が笑ってくだされば、幸せなのです。殿下がお疲れのときには、少しでもお力になりたいと思います」


 声が震えた。


「そして、そのように思うからこそ……わたくしも、殿下にとって特別な存在でありたいと願ってしまうのです」


 沈黙が落ちた。


 レオナルトは、すぐには答えなかった。エレノアは、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 やはり、困らせてしまっただろうか。婚約者として、こんなことを言うべきではなかったのだろうか。


 けれど、言ってしまった言葉を取り消すつもりはなかった。それは、彼女が初めて、自分自身の心と向き合って選んだ言葉だったからだ。


 やがて、レオナルトが口を開いた。


「……私は、君に甘えていたのかもしれない」


「殿下?」


「君がいつも私を気遣ってくれることを、当然のように受け取っていた。君なら解ってくれる。君なら支えてくれる。そう思って、君自身がどう感じているのか、きちんと尋ねてこなかった」


 彼は、苦笑した。


「君はいつも立派だったから。私が弱音を吐いても、君は落ち着いて話を聞いてくれた。私が迷っていても、君は一緒に考えてくれた。だから、君が悩んでいるかもしれないということを、私は考えもしなかったんだ」


 エレノアは、彼を見つめた。


「……わたくしも、殿下に弱いところを見せるのが怖かったのです」


「怖かった?」


「はい。わたくしは、王太子妃になるために努力してきました。その努力を誇りに思っております。ですから、殿下の前では、いつも立派でありたいと思っていたのです」


 彼女は、少しだけ笑った。


「でも、立派であろうとするあまり、殿下に何もかもお話し出来なくなっていたのかもしれません」


 レオナルトは、深く頷いた。


「ならば、これからは私にも話してほしい。君が嬉しいときも、寂しいときも、何かに迷っているときも」


 彼は、少し照れたように視線を落とした。


「……私だって、君に頼りたいと思っているのだから」


 エレノアの胸が、温かくなった。


 それは、彼女がずっと望んでいた言葉だった。自分を必要としてほしい。自分の言葉を聞いてほしい。自分のそばで、安らいでほしい。


 けれど今、彼の言葉を聞いて、もう一つ気づいたことがあった。彼に頼られることだけが、二人の関係ではない。彼を信頼し、自分の心を伝え、彼の心にも耳を傾けること。その積み重ねこそが、これから二人で築いていくものなのだ。


「……ありがとうございます、殿下」


 エレノアは微笑んだ。


「わたくしも、殿下のお話をもっと聞かせていただきたいです。殿下が何をお考えになり、何に迷われているのか。わたくしに出来ることがあれば、ぜひお手伝いさせてください」


「勿論」


 レオナルトも微笑んだ。


「ただし、君が無理をしているときには、私にも教えてほしい」


「……努力いたします」


「努力だけでは困るな」


 彼は、少しだけ悪戯っぽく笑った。


「君が疲れているのなら、休んでほしい。私のために何かをしてくれることは嬉しいが、君が苦しんでまでしてほしいわけではないんだ」


 エレノアは、目を瞬いた。そして、くすりと笑った。


「……それは、わたくしも同じことを申し上げたいですわ。殿下も、ご無理をなさらないでくださいませ」


「これは一本取られたね」


 二人の笑い声が、秋の庭園に響いた。


 その日、二人は初めて、婚約者としての務めだけではなく、自分自身の気持ちについて話し合った。何もかもが解決したわけではない。


 エレノアは、これからもきっと嫉妬するだろう。レオナルトも、彼女の心を全て理解できるわけではない。


 けれど、二人は一つの約束を交わした。相手の気持ちを勝手に決めつけないこと。言わなければ伝わらないことは、勇気を出して言葉にすること。そして、相手を大切にするのと同じように、自分自身も大切にすること。


 それは、王太子とその婚約者としてだけではなく、これから夫婦となる二人にとっても、大切な約束だった。








 帰宅すると、エレノアは真っ先に母の部屋を訪れた。


「お母様!」


 扉を開けるなり声を弾ませた娘に、セレスティアは驚いたように顔を上げた。


「あら、エレノア。どうしたの?」


「今日、殿下とお話ししましたの」


「そう」


 母は、手にしていた本を閉じた。


「それで?」


 エレノアは、母の向かいに座った。


 そして、今日の出来事を話し始めた。庭園を歩いたこと。自分の気持ちを伝えたこと。レオナルトが、自分の心にも耳を傾けてくれたこと。彼が自分に頼りたいと思っていること。


 話しているうちに、エレノアの頬は自然と緩んでいった。


 セレスティアは、途中で口を挟むことなく、最後まで娘の話を聞いていた。やがて、エレノアが話し終えると、母は静かに微笑んだ。


「よかったわね」


「はい」


 エレノアは、幸せそうに頷いた。


「わたくし、今日、初めて解った気がするのです」


「何がかしら?」


「殿下を大切に思うことと、殿下に特別に思われたいと願うことは、必ずしも矛盾しないのだということです」


 セレスティアは、娘を見つめた。


「わたくしは、殿下のお心を独占したいわけではありません。殿下が王太子として多くの方を大切になさることも、必要なことだと理解しております」


 エレノアは、少し考えてから続けた。


「けれど、わたくしもまた、殿下を大切に思っております。殿下にとって、他の誰とも違う存在でありたいと願うことまで、否定する必要はなかったのですね」


 セレスティアは、ゆっくりと頷いた。


「ええ」


「そして、もし寂しいと思ったなら、その気持ちを認めればよい。殿下を責めたり、他の方を傷つけたりするのではなく、どうして寂しいのかを考え、必要ならば殿下にお話しすればよいのです」


「そうね」


 母の目元が、少しだけ潤んだ。娘は、母が教えた言葉を、そのまま繰り返しているのではない。自分自身の経験を通して、自分の考えとして語っている。そのことが、何よりも嬉しかった。


 エレノアは、母の手を取った。


「お母様。わたくし、まだまだ未熟です。これからも、きっと迷うことがあると思います」


「ええ。あるでしょうね」


「……そこは、もう少し優しく仰ってくださってもよろしいのではありませんか?」


 母は声を上げて笑った。


「ごめんなさい。でも、迷わない人間などいないのですもの。王妃陛下だって、国王陛下だって、きっと迷うことがおありになるわ」


「そうですわね」


「大切なのは、迷わないことではありません。迷ったときに、自分の心を見失わず、周りの人の声にも耳を傾けられることです」


 セレスティアは、娘の手をそっと握り返した。


「貴女は、もうその一歩を踏み出したのよ」


 エレノアは、微笑んだ。


 母に褒められたことが、嬉しかった。そして、これからも母に話を聞いてもらえるのだと思うと、心強かった。


「……お母様」


「なあに?」


「わたくし、王太子妃になりたいです」


 セレスティアは、娘を見つめた。


「ええ。知っているわ」


「殿下のお隣に立ち、国を支える務めを果たしたい。殿下をお支えし、民を慈しみ、いつか母となったときには、子どもを愛情深く育てたいと思います」


 エレノアは、ゆっくりと言葉を重ねた。


「そして……その務めを果たしながら、殿下をお慕いする気持ちも、大切にしていきたいのです」


 セレスティアは、娘の手を両手で包んだ。


「それでよいのですよ、エレノア」


 母は、優しく微笑んだ。


「貴女が自分で考え、自分で選んだ道なのですから」








 その夜、エレノアは久しぶりに、何も考えずに窓辺に座っていた。


 月明かりが庭園を照らしている。


 明日もまた、学院へ行く。講義を受け、友人と話し、レオナルトと顔を合わせるだろう。彼がほかの令嬢に親切にすることもあるだろうし、自分がそれを見て、少し寂しくなることもあるかもしれない。


 けれど、もう、その感情を抱いた自分を責めるつもりはなかった。自分の心を律することは、心を殺すことではない。感情に振り回されず、相手を尊重し、自分自身も大切にすること。その意味を、彼女は少しずつ理解し始めていた。


 王侯貴族に恋愛は必要ない。母が教えてくれたその言葉は、今も間違ってはいないのだろう。王族にとって、国を治める責務は重い。個人的な感情に支配され、周囲を顧みなくなることは許されない。


 けれど。恋をすることそのものが、罪なのではない。誰かを大切に思うこと。その人の幸せを願うこと。そして、自分もまた、その人にとって大切な存在でありたいと願うこと。それらを、どう扱うかが大切なのだ。


 エレノアは、窓の外を見つめたまま、そっと呟いた。


「……恋をしても、わたくしはわたくし」


 その言葉は、誰かに教えられたものではなかった。母の言葉を胸に、自分自身で考え、ようやく見つけた答えだった。


 これから先、彼女が王太子妃となり、やがて王妃となる日が来るだろう。国を支える責務は、今よりもずっと重くなる。思いどおりにならないことも、心を痛めることも、きっと増えるに違いない。


 それでも、彼女は忘れないだろう。自分の心を律することと、自分の心を捨てることは違うのだと。


 そして、誰かを愛することと、その人の全てを自分のものにしようとすることも、違うのだと。








 翌朝。


 エレノアが朝食の席に着くと、父のアルベルトが新聞から顔を上げた。


「おや。今日は機嫌がよさそうだね、エレノア」


「そうでしょうか?」


「うん。いつもより表情が柔らかい」


 エレノアは、少し恥ずかしくなって微笑んだ。


「昨日、殿下とお話しすることが出来ましたの」


 父は新聞を畳んだ。


「そうか。よい話が出来たのかな?」


「はい」


 それ以上は、尋ねなかった。父は、娘が自分の心と向き合い、何かを乗り越えたことを察しているようだった。


 その隣で、セレスティアが紅茶を口に運んでいる。ふと目が合うと、母は何も言わず、優しく微笑んだ。エレノアもまた、微笑み返した。


 それだけで、十分だった。王太子妃になる日が来ても。王妃となり、多くの責務を背負う日が来ても。母の前では、きっと、いつまでも一人の娘でいられる。その確信が、彼女の心を温かくしていた。


 そして、エレノアは今日も学院へ向かう。王太子の婚約者として。公爵令嬢として。いつか国を支える女性として。そして何より、誰かを大切に思う、自分自身として。


 恋をしても、わたくしはわたくし。その誇りを胸に、彼女は朝の光の中へと歩き出した。


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