終章 母から娘へ
数日後の午後。
セレスティアの私室には、穏やかな陽光が差し込んでいた。娘が学院から帰宅すると、母はいつものようにお茶を用意した。
「今日はどうだったの?」
「楽しかったですわ。ミレーヌと課題について話しましたし、殿下とも少しお話し出来ました」
「そう。それはよかったわね」
「はい。それから……」
エレノアは少しだけ言いよどみ、頬を染めた。
「殿下が、来週の学院の催しで、わたくしと一緒に回りたいと仰ってくださいましたの」
セレスティアは、カップを置いた。
「あら。それは楽しみね」
「ええ。とても」
娘の笑顔は、以前よりもずっと自然だった。けれど、母には解っていた。その笑顔の裏には、まだ少しの不安もあるのだろう。
これから先、二人の関係がどのように変わっていくのか。レオナルトがどのような王となり、エレノアがどのような王妃となるのか。誰にも、全てを予測することは出来ない。
ただ、セレスティアは願っていた。娘が、どのような立場に立とうとも、自分自身の心を忘れずにいてほしいと。
「エレノア」
「はい、お母様」
「これからも、悩むことがあったら、いつでも話しにいらっしゃい」
娘は目を丸くした。
「……よろしいのですか?」
「勿論よ。王太子妃になったからといって、母親がいなくなるわけではありませんもの」
エレノアは、笑顔のまま目を潤ませた。
「ありがとうございます、お母様」
セレスティアは、そっと娘の手を握った。
王侯貴族に必要なのは、民への慈愛、主君への敬愛、配偶者への親愛、家臣への信愛、そして、命をつないでいくための愛情。それらを果たすために、理性は必要だ。感情を律する力も必要だ。
けれど、誰かを大切に思う心まで、捨てる必要はない。自分の心を守ることは、責務を放棄することではないのだから。
セレスティアは、娘の手をそっと握り直した。いつか、この子が母となる日が来るだろう。そのとき、今日の言葉を思い出してくれればいい。
恋をすることと、恋に支配されることは違うのだと。誰かを愛することと、自分自身を失うことも違うのだと。
そして、何より。誰かを大切に思うなら、その人を大切にするのと同じように、自分自身の心も大切にしてよいのだと。
窓の外では、秋の風が庭園の花を揺らしていた。
母と娘は、いつものようにお茶を飲みながら、他愛のない話を続けた。王宮のこと。学院のこと。新しく仕立てるドレスのこと。そして、ほんの少しだけ、婚約者のこと。
その時間は、特別なものではない。けれど、きっと、何よりも大切なものだった。
――恋をしても、わたくしはわたくし。娘がそう思えるようになったことを、母は心から喜んでいた。
いつか王太子妃となり、王妃となるその日まで。そして、その先もずっと。母と娘の間には、変わらない愛情が流れ続けるだろう。
それは、誰かに命じられたものでも、義務として課されたものでもない。ただ、お互いを大切に思う心から生まれた、温かな愛だった。




