第三話 一番大切な人
恋心を自覚したからといって、翌朝から何かが劇的に変わるわけではなかった。エレノアはいつもどおりの時間に起床し、身支度を整え、朝食を済ませ、学院へ向かった。講義を受け、友人と昼食をとり、午後には王太子と次の課題について話し合った。
何も変わらない。
……はずだった。
「エレノア、君はどう思う?」
「えっ?」
レオナルトの声に、彼女ははっとした。
学院の図書室。二人は課題のために資料を広げていたのだが、エレノアはいつの間にか、向かいに座る婚約者の顔を見つめてしまっていたらしい。
「すみません、殿下。もう一度お聞かせいただけますか?」
「勿論。少し疲れているのかい?」
「いいえ、問題ございません」
エレノアは慌てて資料に目を落とした。レオナルトは不思議そうに首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。
問題があるのは、明らかに自分だった。これまでなら、彼がこちらを見つめても、落ち着いて言葉を返せた。微笑まれれば自然に微笑み返し、意見を求められれば自分の考えを述べることが出来た。
けれど今は、彼の何気ない仕草さえ気になってしまう。自分の名前を呼ぶ声。資料を渡すときに触れそうになる指先。考え事をするとき、ほんの少し眉を寄せる癖。
知っていたはずのことが、急に特別な意味を持ち始めていた。そして、その特別さを彼に知られてしまうのが、どうしようもなく恥ずかしかった。
「最近、殿下と何かあった?」
昼食の席で、ミレーヌが尋ねた。
「どうしてですの?」
「どうしてって……あなた、殿下とお話しするとき、以前よりずっと緊張しているもの」
エレノアは、危うく紅茶を零しかけた。
「そんなことはありませんわ」
「そう?」
「ええ」
「では、殿下が今朝、あなたの髪飾りを褒めたとき、どうして耳まで真っ赤になったの?」
「ミレーヌ!」
思わず声を上げると、友人は楽しそうに笑った。
「ごめんなさい。でも、少し安心したのよ」
「安心?」
「あなたが殿下のことを、ちゃんと一人の男性として意識しているんだなって」
エレノアは、言葉を失った。
ミレーヌは頬杖をついた。
「だって、あなたはいつも立派な婚約者だったでしょう? 殿下の予定を把握して、必要な資料を揃えて、疲れていれば気遣って。私から見ても、本当にすごいと思うわ」
「それは、わたくしの務めですもの」
「そうね。でも、あなた自身はどうなの?」
「……わたくし?」
「殿下のために何かをすることだけじゃなくて、殿下と一緒にいるとき、あなたは楽しい?」
エレノアは、目を瞬いた。
楽しいか。そんなことを、考えたことがなかった。
王太子の隣に立つために必要なこと。将来のために身につけるべき知識。彼を支えるために果たすべき役割。そうしたことは、いつも考えていた。
けれど、彼と過ごす時間そのものが楽しいかどうかなど、改めて問われたことはなかった。
「……楽しいですわ」
やがて、エレノアは小さく答えた。
「殿下とお話しするのは、とても楽しいのです。殿下が何を考えていらっしゃるのか知ることも、わたくしの知らないことを教えていただくことも。殿下が、わたくしの話を覚えていてくださるのも……嬉しいです」
「うん」
「でも、それを認めると、もっと欲しくなってしまうのです」
声が掠れた。
「殿下ともっと一緒にいたい。わたくしの話を、もっと聞いていただきたい。殿下が何かを思ったとき、最初に相談する相手がわたくしであればいいと……そう願ってしまう」
ミレーヌは、笑わなかった。
「そっか」
それだけ言って、友人はエレノアの皿に菓子を一つ置いた。
「じゃあ、今度は殿下と一緒にいて楽しいと思ったら、ちゃんと楽しんでみたら?」
「……どういう意味ですの?」
「そのままの意味よ。あなた、いつも正しいことをしようとするでしょう。だから、楽しいと感じたら、そのあとすぐに『これは婚約者として正しい感情かしら』って考えてしまうんじゃない?」
エレノアは、黙り込んだ。
「勿論、殿下の立場もあなたの立場も大切よ。でも、楽しいものは楽しいでいいじゃない。嬉しいものは嬉しいでいい。そこから先、どうするかは、また別の話でしょう?」
その言葉は、母の教えとよく似ていた。感情そのものと、感情に従って取る行動は違う。解っているつもりだった。けれど、自分の心に関しては、まだうまく出来ない。
その午後、レオナルトはエレノアに声をかけた。
「エレノア。少し話せるだろうか」
「はい、殿下」
二人は学院の回廊を歩いた。 窓から差し込む午後の光が、磨かれた床に長い影を落としている。
「最近、君は少し元気がないように見える」
エレノアの心臓が跳ねた。
「そうでしょうか」
「うん。以前よりも、私と話すときに気を遣っているように感じるんだ。何か、私が気づかないうちに君を困らせるようなことをしただろうか」
「いいえ! そのようなことは決してございません」
思った以上に強い声が出てしまった。レオナルトが足を止める。エレノアも立ち止まり、慌てて頭を下げた。
「申し訳ございません。わたくしが少し、考え事をしていただけなのです」
「そうか……」
彼は心配そうに彼女を見つめた。
「もし私に話せることなら、聞かせてほしい。君が一人で悩んでいるのなら、力になりたいんだ」
優しい言葉だった。いつもと同じ、彼らしい言葉。
だからこそ、エレノアは苦しくなった。彼は自分を気遣ってくれている。それなのに、自分はその優しさの奥に、もっと特別な意味を探そうとしてしまう。
この言葉は、婚約者だから? それとも、自分だから? 彼にとって、自分はどれほど特別なのだろう。そんなことを考えている自分が、ひどく嫌だった。
「ありがとうございます、殿下。でも、本当に何もございません」
エレノアは微笑んだ。完璧な婚約者として、何の問題もない笑顔だった。けれど、レオナルトの表情から、心配が消えることはなかった。
「……そうか。なら、いいのだけれど」
彼はそれ以上、尋ねなかった。
二人は再び歩き始めた。けれど、先ほどまでの会話の温かさは、どこかへ消えてしまっていた。
帰宅したエレノアは、夕食のあと、母の部屋を訪れた。
セレスティアは娘の顔を見ると、手元の刺繍を置いた。
「おかえりなさい、エレノア。今日は少し早かったのね」
「はい、お母様」
「お茶にしましょうか」
その一言に、エレノアは泣きそうになった。母は、何も聞かずにお茶を用意してくれる。
自分がどんな顔をしていても、何を言おうとしていても、ここでは急いで立派な人間である必要がない。それが、どれほどありがたいことなのか。
最近になって、漸く判るようになった。
「……お母様。わたくし、殿下を大切に思うほど、殿下の一番でありたいと願ってしまうのです」
セレスティアは、静かに頷いた。
「そう」
「殿下にとって、最も信頼できる相手になりたいのです。お疲れのときに頼っていただきたい。嬉しいことがあったときには、わたくしにも教えていただきたい。殿下が何かを考えるとき、わたくしの意見も聞いていただきたい」
エレノアは、膝の上で手を握った。
「でも、殿下には殿下のお考えがあります。他にも信頼できる方がいらっしゃるでしょう。わたくしが一番でありたいと願うのは、やはり身勝手なのでしょうか」
「いいえ」
母は、穏やかに答えた。
「ただし、少し考えてみましょうね」
セレスティアは娘の正面に座り直した。
「貴女が殿下の一番でありたいと思うのは、どうしてかしら」
「それは……殿下をお慕いしているからです」
「ええ。それは解っているわ。では、殿下が貴女以外の方を信頼なさるとしたら?」
「……寂しいと思います」
「殿下が、貴女に相談する前に別の方へ相談なさったら?」
「それも、寂しいと思います」
「では、その寂しさを理由に、殿下を責めたいと思う?」
エレノアは、考え込んだ。母は答えを急かさなかった。
「……いいえ」
やがて、彼女は首を横に振った。
「殿下が誰を信頼なさるかは、殿下がお決めになることですもの。わたくしがそれを制限するべきではありません」
「そうね」
「でも……寂しいものは、寂しいのです」
最後の言葉は、かすかな吐息のようだった。セレスティアは微笑んだ。
「ええ。そうでしょうね」
否定されなかった。それだけで、エレノアは胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
「誰かを特別に思えば、自分も特別に思われたいと願うものです。自分が大切にしているものを、相手にも大切にしてほしいと思う。それは自然なことでしょう」
「……はい」
「ただ、その願いが叶わないかもしれないという不安から、相手を責めたり、自分自身を見失ったりしてはいけないのです」
母の声が、少しだけ厳しくなった。
「殿下が貴女を大切に思うかどうか。それは、貴女が他の方より優れているかどうかで決まるものではありません」
エレノアは顔を上げた。
「そして、貴女が殿下にとって特別な存在であるかどうかを、毎日の振る舞い一つひとつで確かめようとする必要もないのですよ」
「……どういうことでしょうか」
「殿下が別の令嬢に微笑んだからといって、貴女の価値が下がるわけではありません。殿下が別の方の意見を聞いたからといって、貴女が信頼されていないと決まるわけでもありません」
母は、娘の手を取った。
「貴女は、貴女自身の努力によって、王太子妃に相応しい女性になろうとしているのでしょう?」
「はい」
「ならば、殿下に愛されているかどうかだけで、自分の価値を決めてはいけません」
エレノアの瞳が揺れた。
「貴女には、貴女自身が積み重ねてきたものがある。それを誇りに思いなさい。殿下をお慕いする気持ちも、大切にしてよいのです。でも、殿下のお心がどうであれ、貴女自身の心まで手放してはいけません」
母の言葉は、静かに染み込んでいった。
自分は、殿下にとって特別な存在でありたいと願っていた。けれど、その願いが強くなるほど、殿下の一挙一動に振り回されていた。彼が笑えば安心し、他の誰かに笑いかければ不安になる。
そんな自分では、彼の隣に立つことなど出来ないと思っていた。けれど、母が言いたいのは、感情を消すことではなかった。寂しさを感じてもいい。嫉妬してしまってもいい。
ただ、それを理由に、相手を傷つけたり、自分を見失ったりしないこと。それが、今の自分に必要なことなのだ。
「……お母様」
「なあに?」
「わたくし、殿下に、自分の気持ちをお話ししてみようと思います」
セレスティアは、目を細めた。
「そう。貴女がそうしたいと思うのなら、そうなさい」
「でも、殿下を困らせてしまうかもしれません」
「その可能性はあるわね」
母は、あっさりと答えた。エレノアは目を丸くした。
「お母様……」
「気持ちを伝えれば、必ず望む答えが返ってくるとは限りません。相手には相手の心がありますもの」
セレスティアは、娘の髪をそっと撫でた。
「それでも、自分の気持ちを伝えたいと思うのなら、相手を責めるためではなく、相手を理解し、自分を理解してもらうために話してごらんなさい」
「……はい」
「それから、忘れないでね。貴女は、完璧な婚約者を演じるために殿下と婚約したわけではないのですよ」
エレノアは、目を見開いた。
「殿下とともに、国を支えていくためでしょう。ならば、いつも正しい答えを用意することだけが、支えるということではありません。自分の考えを伝えることも、時には相手の言葉に耳を傾けることも、大切な務めです」
母は微笑んだ。
「殿下もまた、一人の人間なのですから」
その夜。
自室に戻ったエレノアは、机に向かいながら、今日一日の出来事を思い返していた。レオナルトが心配そうに自分を見つめたこと。自分が笑顔で「何もございません」と答えたこと。
あのとき、もし少しだけ勇気を出していたら、何かが変わっていたのだろうか。答えはわからない。
けれど、少なくとも一つ、気づいたことがあった。彼を困らせたくないと思うあまり、彼を信頼することさえ忘れかけていたのだ。
自分の気持ちを伝えたら、彼は困るかもしれない。自分の弱さを見せたら、失望されるかもしれない。そんなふうに考えて、勝手に答えを決めつけていた。それは、彼を大切にすることとは違うのではないか。
エレノアは、窓辺に置かれた小さな鏡を見つめた。鏡の中には、いつもどおりの自分がいた。
公爵令嬢としての誇りを持ち、王太子妃となるために努力を続ける自分。そして、誰かを好きになり、その人に特別に思われたいと願う、一人の娘。
どちらか一方を捨てる必要はない。そう思えたことが、今夜の一番の収穫だった。
「……明日は、きちんとお話ししてみましょう」
誰に聞かせるでもなく、エレノアは呟いた。
恋をしても、務めを忘れない。務めを果たしても、自分の心を忘れない。
その二つを両立させる方法を、これから探していけばいい。
そうして彼女は、明日、レオナルトに会うことを楽しみに思いながら、眠りについた。




