第二話 王侯貴族に恋愛は必要ない
アシュフォード公爵家の夕食は、いつも穏やかだった。公爵アルベルトは、王都での公務を終えると、出来る限り家族と食卓を囲む。食事中に仕事の話をすることはあっても、それが家族の時間を占領することはなかった。
その日も、父は領地の収穫について語り、母は冬に向けた孤児院への支援について話し、エレノアは学院で学んだ歴史学の内容を報告した。
いつもどおりの夕食。けれどエレノアの心は、別のところにあった。食事を終え、父が執務室へ向かったあと。
「お母様。今夜、少しお時間をいただけますか?」
セレスティアは、娘の顔を見つめた。
「ええ、勿論よ。わたくしの部屋でお茶にしましょう」
それ以上は尋ねなかった。娘が何かを話そうとしていることを察しながらも、自分から答えを急がせることはしない。それが母のいつもの姿だった。
母の私室には、淡い薔薇の香りが漂っていた。
窓辺には季節の花が飾られ、暖炉には小さな火が灯っている。セレスティアは侍女に茶器を用意させると、娘と二人きりになるために人払いをした。
「さあ、エレノア。何があったのかしら」
優しい声だった。エレノアは、用意された紅茶に視線を落とした。自分の好きな茶葉だ。母はいつも、娘が疲れている日には香りの柔らかな茶を選ぶ。幼い頃から変わらない、ささやかな気遣いだった。それだけで、胸が詰まりそうになった。
「……お母様。わたくしは、王太子妃に相応しい女性になれているでしょうか」
セレスティアはすぐには答えなかった。
「どうして、そう思うの?」
「わたくしは、殿下をお支えしたいのです。殿下のお力になりたい。殿下が健やかで、笑顔でいられるように、出来る限りのことをしたいと思っています」
「ええ」
「けれど……」
エレノアは、指先を重ねた。
「殿下が他の令嬢に優しくなさっていると、胸が痛むのです。その方に非がないことも、殿下が何も間違ったことをなさっていないことも、解っております。それなのに、わたくしだけを特別に思っていただきたいと願ってしまう」
言葉にすればするほど、自分の心の狭さが明らかになるようだった。
「そのような気持ちは、王太子妃となる者には必要ないのでしょう? わたくしは、もっと冷静であるべきなのです。殿下のお心を独占したいなどと考えてはいけないのに……」
そこで、声が途切れた。セレスティアは、娘の話を遮らなかった。ただ、静かに聞いていた。
やがて、紅茶のカップをソーサーに戻すと、母は穏やかに口を開いた。
「王侯貴族に必要なのは、国民・領民を導き、我が子を育むための慈愛、主君へと向ける敬愛、配偶者への親愛、忠実なる家臣に向ける信愛、そして、子を生すための性愛」
エレノアは顔を上げた。聞き覚えのある言葉だった。王族教育の初期に、母から教わったものだ。
「恋愛など、王侯貴族には必要ありませんのよ。寧ろ、心を狂わせ理性を失う恋愛など王侯貴族には害でしかありませんわ」
母の声には、揺らぎがなかった。
エレノアは唇を結んだ。やはり、そうなのだ。王族に嫁ぐ以上、個人的な感情に振り回されることは許されない。自分はそれを理解していたはずだった。
けれど、理解していることと、実際に自分の心を抑えられることは違った。
「……では」
声が震えないように、エレノアは努めた。
「この気持ちは、害でしかないものでしょうか」
セレスティアの表情が、ほんの僅かに変わった。娘は、叱られる覚悟をしている。自分の感情が間違いだと告げられることを、受け入れようとしている。それが母には、痛いほどわかった。
「エレノア」
セレスティアは手を伸ばし、娘の手を包んだ。
「それを律することが出来ず、妬心のままに動けば、害のあるものになるわね」
エレノアは、俯いた。
「でも貴女は、殿下のお側に寄り添い、笑顔にして差し上げたいと思ったのでしょう? 少しでもお疲れを癒せるように、お苦しみが少ないように、お側でお支えしたいと思ったのでしょう?」
「……はい」
「その気持ちは決して間違いではないわ」
母の手は温かかった。
「誰かを大切に思えば、その人の幸せを願うものです。苦しんでいれば助けたいと思うし、笑っていれば自分まで嬉しくなる。そうした気持ちを、王侯貴族だからという理由で捨てる必要はありません」
「ですが、わたくしは……」
「殿下に、自分を一番に思ってほしいのでしょう?」
エレノアは、息を呑んだ。
母は微笑んでいた。その笑みは、娘の願いを幼いと笑うものでも、困ったものだと呆れるものでもなかった。ただ、理解しているのだ。
「誰かを特別に思えば、自分もまた特別でありたいと願うことがあるわ。それは、決して不思議なことではありません」
「……それでも、殿下は王太子です。わたくしだけを特別扱いすることが、いつも正しいとは限りません」
「ええ。そのとおりよ」
母は頷いた。
「殿下は、王太子として多くの方に慈悲を示すべきお立場です。貴女も、未来の王妃として、それを支えなければなりません。殿下の優しさを自分だけのものにしようとして、他の方の正当な助けを妨げるようなことがあれば、それは慎まなければならないわ」
その言葉は、甘くはなかった。娘の望みを全て肯定することは、母には出来ない。エレノアがいつか王妃となることを、セレスティアは誰よりも真剣に考えているからだ。
「けれどね、エレノア」
母は続けた。
「殿下が他の方に親切になさったからといって、貴女が寂しいと感じることまで、禁じる必要はないのよ」
「……寂しいと感じることも?」
「ええ。感じることと、その感情に従って行動することは違います」
セレスティアは、娘の手を軽く握り直した。
「貴女は、寂しいと思った自分を責めている。でも、本当に考えるべきなのは、その気持ちが生まれたあと、どう振る舞うかではないかしら」
エレノアは、母を見つめた。
「相手を責めるのか。他の方を不当に扱うのか。それとも、自分が何を望んでいるのかを理解し、相手を尊重しながら伝えるのか」
母の声は静かだった。
「王太子妃に必要なのは、何も感じない心ではありません。感じた心を、正しく扱う力です」
エレノアの瞳に、じわりと涙が浮かんだ。
自分は、恋心を抱いたことそのものを恥じていた。そんな自分は未熟で、王太子妃になる資格がないのではないかと。けれど母は、感情が生まれることと、その感情に支配されることを分けて考えていた。
「お母様……わたくしは、殿下をお慕いしているのでしょうか」
尋ねてから、エレノアは頬を染めた。あまりにも答えの明らかな問いだった。セレスティアは、くすりと笑った。
「それを決めるのは、わたくしではありませんよ」
「……そうですわね」
「ただ、貴女が殿下を大切に思っていることは、よく解ります。幼い頃から、貴女はいつも殿下のことを考えていたもの」
母は懐かしそうに目を細めた。
「初めて王宮に上がった日のことを覚えている? 帰宅して真っ先に、殿下がきちんとお昼を召し上がったかどうかを尋ねたのよ」
「そ、それは……殿下が朝から何も召し上がっていないと伺っておりましたから」
「ええ。そう言っていたわね」
母の目元に、優しい笑みが広がった。
「そのときから、貴女は殿下を気にかけていた。けれど、今の貴女は、殿下を気遣うだけでは満たされなくなったのでしょうね」
エレノアは、何も言えなかった。
「貴女は、殿下のお役に立ちたい。そして、殿下の心にも触れたい。……そういうことではないかしら」
その言葉に、とうとう涙がこぼれた。 悲しいからではなかった。自分でもうまく説明できなかった感情に、母が言葉を与えてくれたからだ。
セレスティアは、娘の涙を拭おうとはしなかった。ただ、そばにいた。娘が自分で涙を拭き、再び顔を上げるまで、静かに待っていた。
「お母様」
「なあに?」
「わたくしは、王太子妃になりたいのです」
それは、改めて口にするまでもないことだった。けれど今夜は、どうしても伝えたかった。
「殿下の隣に立つことを、誇りに思っております。これまで学んできたことも、努力してきたことも、全て無駄にしたくありません。殿下をお支え出来る女性になりたいのです」
「ええ」
「ですから……この気持ちを理由に、務めを果たせない自分にはなりたくありません」
セレスティアは、娘をまっすぐに見つめた。
「ならば、果たせるように考えればよいのです」
「……はい」
「恋心を消す必要があるかどうかを、今すぐ決めることはありません。貴女が殿下をお慕いしているのなら、その気持ちとともに、立派な王太子妃を目指せばよいのです」
母は少しだけ身を乗り出した。
「ただし、忘れないで。王太子妃になることは、貴女が自分自身を失うことではありません」
エレノアは、息を呑んだ。
「貴女の誇りも、努力も、思いやりも、大切なものです。そして、貴女自身の心もまた、大切なものなのですよ」
暫くの間、二人は何も言わなかった。
窓の外では、夜風に揺れた木々がかすかな音を立てていた。
やがて、エレノアは母の手を握り返した。
「……ありがとうございます、お母様」
「いいえ」
セレスティアは微笑んだ。
「母親というのは、娘の話を聞くためにいるのですから」
その夜、エレノアは初めて、自分の恋心を消すことではなく、恋心とどう付き合っていくかを考え始めた。
答えは、まだ出ていない。明日になれば、きっとまた嫉妬するかもしれない。殿下の何気ない言葉に喜び、会えない時間を寂しく思うかもしれない。
それでも。自分の心を恥じる必要はないのだと、少しだけ思えた。
そして、いつか。自分自身の言葉で、この気持ちを語れるようになりたいと思った。




