第一話 婚約者への想い
王侯貴族に恋愛は必要ない。
エレノア・フォン・アシュフォードは、幼い頃からそう教えられてきた。
公爵家の長女として生まれた彼女は、物心つく頃には既に、自分がどのような人生を歩むことになるのかを理解していた。
王太子の婚約者。それは、将来の王妃となることを意味する。
国王陛下を敬い、王太子を支え、臣下を慈しみ、民の暮らしを案じる。王宮のしきたりを学び、外交の作法を身につけ、いずれ国母となるための教養を積み重ねる。
それらは全て、彼女にとって誇るべき務めだった。だからこそ、エレノアは努力した。誰よりも優秀であろうとしたわけではない。ただ、いつか王太子の隣に立つ日が来たとき、彼が安心して背中を預けられる女性でありたかった。
そして、婚約者であるレオナルト王太子は、彼女の努力に相応しい人物だった。穏やかで、誠実で、身分の上下に関わらず人の話を聞く。公務の合間にも学院で学び、将来国を背負う者として、自分に何が出来るのかを真剣に考えている。
彼が疲れているときには、好みの紅茶を用意した。講義が立て込んでいると知れば、必要な資料を調べておいた。彼が政務について悩んでいるときには、意見を述べるだけでなく、まずは最後まで話を聞くようにした。
どれも婚約者として当然のことだと思っていた。
「エレノア、先日の歴史学の課題だが、君の考察は実に見事だった」
昼休み。学院の庭園に設けられた東屋で、レオナルトが微笑んだ。
「恐れ入ります。殿下のご指摘があったからこそ、考えを深めることが出来ました」
「またそうやって謙遜する。君はもっと自分を誇っていい」
彼が笑う。それだけで、エレノアの胸の奥が温かくなった。自分の言葉が彼の役に立った。彼の負担を少しでも軽く出来た。その事実が、何よりも嬉しかった。
けれど。
「殿下、こちらにいらしたのですね!」
弾むような声に、エレノアは顔を上げた。
駆け寄ってきたのは、同じ学院に通う伯爵令嬢だった。講義で扱った課題について尋ねたいことがあるらしい。
「先ほどの講義で、どうしても理解できない箇所がございまして……。もしお時間があれば、教えていただけませんか?」
「勿論。私に答えられることなら構わないよ」
レオナルトは、ごく自然に席を立った。
「どの部分かな?」
「こちらなのですが……」
彼は令嬢の差し出したノートを覗き込み、丁寧に説明を始めた。
その横顔はいつもと変わらない。相手の理解を確かめながら、難しい部分を噛み砕いて伝える。令嬢が納得して笑顔になれば、彼もまた嬉しそうに笑う。エレノアの知る、優しい王太子の姿だった。
何もおかしなことはない。彼は誰に対しても誠実で、困っている者を見過ごさない。それは王太子としても、一人の人間としても、彼の美点だった。
エレノアだって、そんな彼を好ましく思っている。だから、喜ぶべきなのだ。それなのに。胸の奥が、ちくりと痛んだ。
彼があの令嬢に向ける笑顔を、自分だけのものにしたい。そんな考えが、ほんの一瞬、頭をよぎった。
エレノアは息を止めた。――何を考えているの、わたくしは。
彼が誰にでも優しいことなど、初めから知っていたではないか。それを美点だと認め、尊敬していたのは自分自身だ。それなのに、自分以外の女性に親切にしているというだけで、心が痛むなど。
「エレノア?」
気がつけば、友人のミレーヌが隣に座っていた。
「どうしたの? さっきから、随分難しい顔をしているわ」
「そうかしら」
「ええ。今にも哲学の講義を始めそうなくらい」
エレノアは思わず笑った。
「そんなつもりはありませんわ」
「ならいいけれど。……殿下のこと?」
その言葉に、笑顔がわずかに揺らいだ。ミレーヌは、からかうような笑みを引っ込めた。
「何かあった?」
「何もありません。殿下は、いつもどおり親切になさっているだけですもの」
「うん」
「わたくしも、それが殿下の素晴らしいところだと存じております」
「うん」
「ですから、わたくしがこのような気持ちになるのは、おかしいのです」
最後の言葉は、思いのほか小さくなった。ミレーヌはすぐには答えなかった。
庭園の向こうでは、レオナルトが令嬢の質問に答えている。彼女が礼を述べると、彼は穏やかに頷き、また別の講義の話題を口にした。
その姿を見つめながら、エレノアは膝の上で手を握った。
「……わたくし、殿下にとって特別でありたいのです」
口にした瞬間、顔が熱くなった。あまりにも幼く、身勝手な願いに思えた。
「わたくしは婚約者です。将来、殿下を支え、王妃として務めを果たす立場にあります。ですから、殿下を大切に思うのは当然ですし、殿下が健やかでいらっしゃることを願うのも当然です」
「そうね」
「でも、それだけではないのです」
エレノアは、唇を引き結んだ。
「殿下がお疲れのとき、わたくしのそばで安らいでくだされば嬉しい。わたくしの言葉で笑ってくだされば、幸せです。……そして、殿下がほかの方に同じように微笑まれると、寂しくなってしまう」
言葉にしてしまえば、それはもう、否定できない感情だった。
「こんな心では、王太子妃に相応しくないのではないかしら」
ミレーヌは暫く考え込んでいたが、やがて静かに言った。
「私は、相応しくないとは思わないわ」
「ミレーヌ……」
「でも、私にはあなたがどんな気持ちで殿下の隣に立とうとしているのか、全部は解らない。あなたがずっと努力してきたことも知っているけれど、王太子妃になるというのは、私が想像するよりずっと大変なのでしょうね」
友人は、エレノアの手にそっと触れた。
「だから、お母様に相談してみたら?」
その提案に、エレノアは目を伏せた。
母。公爵夫人セレスティアは、エレノアにとって最も尊敬する女性だった。優雅で、聡明で、どのような場でも決して取り乱さない。公爵夫人としての務めを完璧に果たしながら、家庭では夫を敬い、娘を慈しむ人だ。母なら、きっと正しい答えを持っている。
けれど、だからこそ、怖かった。もし母に、この感情を未熟だと言われたら。もし、王太子妃となる者にそのような心は必要ないと告げられたら。自分は、この気持ちをどうすればよいのだろう。
エレノアは庭園を見渡した。
陽光に照らされた花々は、何事もなかったかのように揺れている。
「……そうですわね」
やがて、彼女は顔を上げた。
「今夜、お母様にお話ししてみます」
その決意が、どのような答えにつながるのか。このときのエレノアには、まだ解らなかった。
ただ一つ、確かなことがあった。彼女は初めて、自分の心を、務めを果たすための教育だけでは扱いきれなくなっていた。
そして、その心を無視することも、もう出来なくなっていたのである。




