第5話 最初の依頼
クラウゼル王立魔導技術研究院での生活が始まって、五日が過ぎた。
リリアにとって、その五日間は夢のようだった。
朝は食堂で食事を取り、研究室へ向かう。
昼になれば実験の途中でも食堂へ足を運べるし、夕食には研究員たちが成果や失敗について語り合う声を聞きながら、一日の研究を振り返る。
料理は日替わりで用意されており、研究者が一日を過ごすには十分だった。
何よりリリアが気に入ったのは、そこに集まる人々だった。
「また失敗したのか?」
「失敗じゃない。予想と違う結果が出ただけだ」
「それを世間では失敗って言うんだよ」
そんな軽口を叩きながら食事をする者もいれば、料理が冷めるのも構わず設計図を広げて議論する者もいる。
研究のことばかり考えている自分が、ここでは少しも浮いていない。
むしろ、ようやく自分の居場所を見つけたような気がしていた。
そんな五日目の朝、研究室へ向かっていたリリアは、中央棟から続く廊下で声を掛けられた。
「リリア・エーデル研究員ですね。院長がお呼びです。これから少し、お時間をいただけますか」
「院長が……?」
思わず背筋が伸びる。
設備を壊した覚えも、規則に反した覚えもない。
ただ、昨日の魔導回路試験で少し煙が出たことくらいだ。
「何か問題でもあったのでしょうか?」
「ご心配なく。院長は、あなたと一度話してみたいとおっしゃっていました」
「そうですか……」
胸を撫で下ろしたリリアは、促されるまま院長室へ向かった。
◇
中央棟最上階にある院長室の扉を叩くと、すぐに落ち着いた声が返ってきた。
「入ってくれ」
「失礼いたします」
室内には、六十代ほどの男性がいた。
銀髪を後ろへ撫でつけ、細い眼鏡の奥から鋭い瞳を向けているものの、そこに威圧感はなく、知的な落ち着きが感じられる。
「初めまして、リリア・エーデル君。私がクラウゼル王立魔導技術研究院院長、アドルフ・グランツだ」
「初めまして、グランツ院長。お目にかかれて光栄です」
「そう畏まらなくていい。王子殿下が君をこの研究院へ迎え入れたときから、一度ゆっくり話してみたいと思っていた」
アドルフに勧められ、リリアは向かいの椅子へ腰を下ろした。
「まずは聞かせてほしい。ここで、どのような研究をしたいと思っている?」
「どのような研究、ですか……?」
「ああ。殿下から、君が生活に役立つ魔導具を研究していたとは聞いている。そしてここには、リューゼル魔導技術研究所よりも優れた設備があり、多くの予算も用意できる。君自身が何を目指しているのか、改めて知っておきたい」
リリアは少し考えてから、ゆっくり答えた。
「できるだけ多くの人が使える魔導具を作りたいと思っています。貴族だけではなく、農村で働く方や町で商売をする方、毎日の家事をしている方たちにも役立つものを」
「なるほど」
「一つの魔導具で暮らしが大きく変わるとは思っていません。でも、毎日の小さな不便を一つずつ減らしていけば、その積み重ねがいつか大きな変化になるはずです。私は、そういう研究を続けたいんです」
アドルフはしばらく考え、それから机の上の書類を一枚取り上げた。
「では、まずこれを見てほしい」
「これは……?」
「王国内の食料生産に関する資料だ」
収穫量、王都までの輸送日数、季節ごとの廃棄量、食料価格の変動。
目を通すほどに、リリアの表情が真剣になっていく。
「……夏場の廃棄量が、こんなに多いんですか?」
「特に肉や魚、乳製品は傷みやすい。野菜や果物も、長距離輸送になるほど品質が落ちる」
アドルフは静かに続けた。
「いくら農家が収穫量を増やしても、消費者へ届く前に傷めば意味がない。廃棄が増えれば価格にも影響する。そこで、君に最初の研究を依頼したい」
リリアが顔を上げる。
「食料を、今より長く保存できる魔導具を開発してほしい」
「保存魔導具……」
「ああ。保存期間が延びれば廃棄を減らせるだけでなく、これまで難しかった遠方の農村から王都への輸送も可能になる」
リリアは頷きながら資料を読み進めた。
「現在の保存魔導具には、問題があるんですね?」
「既存のものでも冷却自体は難しくない。しかし、一定の温度を長時間維持しようとすると、大量の魔石を消費する。大型化すれば、その問題はさらに深刻になる」
「魔石が高価だから、一般家庭には普及しない……」
「その通りだ。輸送用ともなれば、食料そのものより魔石代のほうが高くなりかねない」
アドルフは苦笑した。
「技術としては成立している。だが、国民が使えなければ実用化したとは言えない。私は、その壁を越えてほしいと思っている」
その言葉に、リリアの目が輝いた。
「……やってみたいです。保存魔導具の研究を、ぜひ私にやらせてください」
リリアは資料を胸に抱く。
「魔石を大量に使わなくても食料を保存できれば、家庭でも使えるかもしれません。それに、農村から王都へ運べる距離が伸びれば、今まで捨てられていたものを誰かに届けられるようになります。食べ物を長持ちさせるだけじゃなく、作った人の努力を無駄にしない魔導具にしたいです」
アドルフは満足そうに頷いた。
「分かった。君に任せよう。ただし、一つだけ条件がある」
「条件、ですか?」
「研究に夢中になるのは構わないが、食事と睡眠の時間を削らないでくれ」
「……はい?」
首を傾げるリリアに、アドルフは苦笑する。
「君が研究に熱中しすぎることは、すでに聞いている。殿下からも、その点については何度か念を押されているからね」
「殿下が……?」
「ああ。どうやら殿下は、君が研究を続けることより、君が無理をして倒れることのほうを心配しているらしい」
「そ、そうですか……」
リリアの頬が、ほんのり赤くなった。
◇
その日の午後から、リリアはさっそく既存の保存魔導具を調べ始めた。
仕組み自体は単純だ。
魔石から供給された魔力を冷却の魔導回路を通じて内部を冷却し、一定の温度を保つ。
しかし、その維持に必要な魔力が多い。
「これでは確かに高すぎる……」
測定器を確認しながら、リリアは眉を寄せた。
冷却された状態を維持するために、失われた分を延々と補っている。
「だったら、失わせなければいい」
容器の構造を変える。
外部から熱が入りにくい素材を試す。
魔導回路も常に最大出力で動かすのではなく、温度の変化に応じて必要な分だけ働かせる。
試しては失敗し、それでもまた別の方法を試す。
気づけば、窓の外はすっかり暗くなっていた。
「あと少し……」
新しい回路を組み込み、魔石を接続する。
淡い光が魔導回路を走った。
「……動いた」
測定器を確認すると、以前よりわずかに消費魔力が減っている。
劇的な成果ではない。
それでも、確かな一歩だった。
「やった……! 1日目にしては上出来」
思わず笑みがこぼれる。
そのとき、背後から低い声が響いた。
「リリア」
「……殿下?」
振り返ると、エーヴァルトが研究室の入口に立っていた。
「君は、まだ研究をしていたのか」
「はい。もう少しで魔力の消費量を抑えるヒントがわかりそうなんです」
「それは結構なことだ。それで、夕食は?」
リリアは答えに詰まった。
「……あとで食べるつもりでした」
「何時に?」
「研究が一段落したら……」
「一段落するのは、いつだ?」
「それは、その……」
エーヴァルトは小さく息を吐き、持っていた包みを机へ置いた。
「君は研究に夢中になると時間を忘れるからな。研究に熱中するのは構わない。だが、食事を抜くことは許可しない」
包みを開くと、まだ温かな食事が入っていた。
「食堂に用意させた。まだ温かいはずだ」
「……殿下が、これを?」
「君が食事を取っていないと聞いたからだ」
「どうして、そこまで……」
「君には研究に集中してもらいたい。そのために必要なことをしているだけだ」
あまりにも自然に言われ、リリアの胸がじんわりと温かくなる。
「ありがとうございます。……いただきます」
リリアが食事を口に運ぶのを見届け、エーヴァルトはようやく満足したように頷いた。
すると、廊下からの声がする。
「殿下、そろそろお時間です」
「リヒャルト……」
そこには困った顔の側近が立っていた。
「今夜は執務が二件残っております。そろそろお戻りください」
「分かっている」
「そうおっしゃってから、もう十分経っています」
エーヴァルトは渋々リリアを見る。
「食べ終わったら、今日はもう休め。明日も研究はできる」
「はい。殿下も、お仕事頑張ってください」
「ああ」
エーヴァルトが廊下へ出ると、すぐにリヒャルトの声が聞こえてきた。
「殿下、今夜は絶対に研究室へ戻らないでください」
「……分かっている」
「本当でしょうね?」
思わずリリアは笑ってしまった。
「ふふ……」
研究室に残る温かな食事の香りに包まれながら、リリアはもう一度、設計図へ目を向ける。
新しい研究は始まったばかりだ。
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