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第4話 初めての研究室

 翌朝。


 リリアは、いつもより早く目を覚ました。

 見慣れない天井をぼんやりと眺めたあと、昨夜の出来事を思い返す。


 王都アルディアへ移り、クラウゼル王立魔導技術研究院に迎えられ、研究員宿舎の一室まで与えられた。

 そして今日から、ここで研究を始める。

 その事実を実感すると、眠気など一瞬で吹き飛んだ。


「今日から……自由に研究できるんだ」


 思わず口元が緩む。


 これまで暮らしていたリューゼルでは、研究をするにも何かと制約があった。

 設備を借りるために申請を出し、試作品を作るための素材を揃え、実験のたびに他の研究室へ頭を下げる。

 それが当たり前だと思っていた。

 けれど、昨日案内された研究院には、必要なものがほとんど揃っている。

 自分の研究室まで用意されているのだ。


 リリアは身支度を整えると、胸を弾ませながら宿舎を出た。

 朝の研究院は、昨日とはまた違った顔を見せていた。

 まだ人の少ない廊下を歩いていると、どこからともなく香ばしい匂いが漂ってくる。

 それは最初の目的地。

 匂いを辿っていくと、研究棟とは別に設けられた食堂へ行き着いた。

 大きな窓から朝日が差し込む広々とした食堂には、すでに研究者や職員の姿がちらほら見える。

 食堂の奥には厨房があり、白い制服を着た料理人たちが忙しそうに動いていた。


「おはようございます」

「あら、おはよう。新しい研究員さんね?」


 配膳台の前にいた女性が、親しげに声をかけてくる。


「はい。昨日からこちらに……」

「リリア・エーデルさんでしょう? 話は聞いているわ。王子殿下が直々に迎えた研究者だって」

「えっ」


 リリアがつい声を出すと、女性は楽しそうに笑った。


「まあ、気にしなくていいわ。ここじゃ噂が広まるのは早いから」


 そう言いながら、彼女は朝食を盆に載せていく。

 焼きたてのパンに、野菜の入った温かなスープ。

 卵料理と果物、それに薄く切ったチーズまで添えられている。


「研究員は朝食と夕食が基本的に食堂で取れるの。昼は研究棟の食堂でも食べられるし、忙しい人には簡単な軽食を届けることもあるわ」

「そんなことまで?」

「研究者なんて、実験に夢中になると食事を忘れるでしょう?」

「……否定できません」


 リリアが苦笑すると、女性も声を上げて笑った。


「だから、この研究院では食事を抜かせないようにしてるの。倒れられたら研究どころじゃないもの」


 なるほど、とリリアは頷いた。

 研究者を大切にするというのは、設備を整えるだけではないらしい。

 温かな食事を用意し、研究に集中できる環境を作る。

 昨日エーヴァルトが言った「君には研究だけに集中してもらえればいい」という言葉を思い出し、リリアの胸がじんわりと温かくなった。


 朝食を終えると、いよいよ研究室へ向かう。

 中央棟から少し離れた開発部の区画。

 その一角に、リリアの名前が刻まれたプレートが掲げられていた。


『開発部 生活魔導具研究室 リリア・エーデル』


「……私の研究室」


 扉の前で、リリアはしばらく動けなかった。


 感動を胸にそっと扉を開ける。

 そこには、昨日までの自分からすれば夢のような光景が広がっていた。

 大きな作業台には魔導具の試作に必要な工具が整然と並び、壁際には素材を保管するための棚がある。

 魔力測定器や魔導回路の解析装置まで備えられていた。

 しかも、中央の机には真新しい紙と筆記具が用意されている。

 リリアは一歩、また一歩と室内へ進んだ。


「すごい……」


 思わず呟く。

 工具を一つ手に取ってみる。

 次に測定器へ近づき、その構造を眺める。

 どれも一流の研究者が使うための設備だった。


「これ、使っていいんだ……?」

「もちろんだよ」


 背後から声がして、リリアは慌てて振り返った。

 そこには、眼鏡をかけた青年が立っていた。


「おっと、失礼しました。開発部で補助研究員をしている、ノア・フェルゼンだ」


 年齢はリリアとそう変わらないように見える。

 整った顔立ちに柔らかな笑みを浮かべているが、その目には研究者らしい好奇心が宿っていた。


「君がリリアさんだね。君が発表した記録は見たよ」

「それはありがとうございます」

「特に殿下が注目された発表なら、なおさらだよ」


 リリアは少しだけ困ったように笑った。


「それと、発表会の記録も読ませてもらったよ。ハプニングもあったとか……」

「ああ、婚約破棄の……それは、その……」


 ノアが気まずそうに目を逸らす。

 リリアは慌てて首を振った。


「すみません。気にしないでください。それより、あなたはどんな研究をされているんですか?」


 その瞬間、ノアの表情がぱっと明るくなった。


「魔導回路の小型化がメインかなぁ。生活魔導具にも応用できると思ってる」

「本当ですか?」

「おう。リリアさんの研究とも相性がいいから俺が選ばれたのかも」


 二人はそのまま作業台を挟んで話し始めた。

 魔導回路の構造について意見を交わし、既存の魔導具の問題点を挙げていく。

 話しているうちに、リリアの目は次第に輝いていった。


「その回路なら、魔石の出力をもっと抑えられるかもしれません」

「やっぱりそうかな?」

「はい。ただ、その場合は魔力の流れが不安定になる可能性があるので……」


 気づけば、二人とも研究室に来てから一時間近く経っていた。


「リリア」


 扉の向こうから、聞き覚えのある声がした。

 扉が開くとエーヴァルトが立っていた。

 今日も隙のない身なりをしている。

 その手には研究資料らしき書類の束があった。


「殿下?」

「研究室は気に入ったか」

「はい。とても素晴らしいです」


 リリアが嬉しそうに答えると、エーヴァルトの表情がわずかに和らいだ。


「それならよかった」


 そのまま室内を見渡す。


「設備に不足はないか」

「今のところはありません」

「そうか。何か必要なものがあれば遠慮なく言え」

「分かりました」


 エーヴァルトは頷くと、リリアの机の上に視線を落とした。


「昼食は食堂で取るように」

「はい」

「研究に夢中になって食事を抜くな」

「……はい」

「睡眠も十分に取れ」

「……はい」


 まるで父親に生活習慣を注意されているようで、リリアは思わず苦笑した。


「殿下は、研究院がお好きなのですね」


 エーヴァルトが止まった。


「……なぜそう思う」

「昨日も案内していただきましたし、今日も様子を見に来てくださいましたから」

「……」

「研究院がお好きでなければ、こんなに頻繁には来られませんよね?」


 エーヴァルトは何かを言おうとして、口を閉じた。

 その横で、ノアは何とも言えない顔をしている。

 しばらくして、エーヴァルトが小さく息を吐いた。


「……そういうことにしておこう」

「?」


 リリアは首を傾げる。

 エーヴァルトはその顔をしばらく見つめたあと、視線を逸らした。

 本当は違う。

 研究院に来たいわけではない。

 ここに、リリアがいるから来ている。

 だが、その言葉を口にするには、まだ少しだけ勇気が必要だった。


「殿下」


 廊下の向こうから、リヒャルトが姿を現した。


「本日の執務がまだ三件残っております」

「……分かっている」

「でしたら、お戻りください」

「まだここで確認したいことがある」

「何をです?」


 エーヴァルトが黙る。

 リヒャルトは数秒待ってから、静かに告げた。


「設備については昨日、すべて確認されたはずですが」

「……」

「昼食についても、先ほど念を押されましたね」

「……」

「でしたら、仕事へ戻りましょう」

「リヒャルト」

「はい」

「もう少しくらい研究院にいても問題ないだろう」

「いけません。殿下の執務が滞ります」


 淡々とした応酬の末、結局エーヴァルトはリヒャルトに促され、研究室を後にすることになった。

 去り際、エーヴァルトは一度だけリリアを振り返る。


「何かあれば、すぐに知らせろ」

「はい」

「必ずだ」


 念を押すような言葉に、リリアは笑顔で頷いた。


「ありがとうございます、殿下」


 扉が閉まる。

 しばらくして、廊下からリヒャルトの声が聞こえた。


「だから殿下、仕事がありますと申し上げているでしょう」

「分かっている」

「でしたらちゃんと歩いてください」

「歩いている」


 声が遠ざかっていく。

 研究室には、静けさが戻った。

 ノアがぽつりと呟く。


「……すごいな」

「何がですか?」

「いや、殿下があんなに普通に話されるのを初めて見た」

「そうなんですか?」

「おう……」


 ノアは苦笑する。


「研究院でも、殿下はかなり近寄りがたい方として有名だからな」


 リリアは少し意外そうに瞬いた。


「そうでしょうか」

「そうだよ」


 ノアはしみじみと言った。


「でも、リリアさんといるときは……」

「?」

「いや、何でもない」


 リリアは首を傾げたものの、すぐに作業台へ視線を戻した。


「それより、さっきの回路ですが――」


 研究の話が始まれば、彼女の意識はすぐにそちらへ向かう。

 ノアもまた、楽しそうに議論へ加わった。

 こうしてリリアの研究院での最初の一日は始まった。


 昼になると、二人は食堂へ向かった。

 昼食も朝と変わらず、温かな料理がきちんと用意されている。

 研究員の中には食事をしながら本を読む者もいれば、同じ研究室の仲間と議論を続けている者もいた。

 研究院では、食事すら研究の一部なのかもしれない。

 そんなことを思いながら食事を終えたリリアは、午後になると再び研究室へ戻った。


 新しい設備。

 新しい仲間。

 そして、何よりも研究を邪魔するもののない環境。

 ここなら、自分の目指す魔導具を作れる。

 誰かの暮らしを少しだけ楽にする魔導具を、一つずつ形にしていける。


 リリアは新品の紙を一枚取り出し、そこへ最初の設計案を書き始めた。

 その表情には、久しぶりの迷いのない笑顔が浮かんでいた。


 そしてその日の夕方。

 執務を終えたエーヴァルトが、また研究室の前に現れた。

 リヒャルトは少し離れた場所で、深いため息をついている。


「殿下」

「何だ」

「本日の執務は、もう終わっております」

「そうか」

「では王城へ戻りましょう」

「……少しだけだ」


 エーヴァルトは研究室の扉へ手を伸ばした。

 その先にいるリリアの姿を思い浮かべながら。

 まだ本人は気づいていない。

 自分がこの研究院へ足を運ぶ理由が、職務ではなくなりつつあることに。

 そしてリリアもまた、まだ知らなかった。

 ここで始まる研究生活が、魔導具だけでなく、自分自身の人生まで大きく変えていくことを。

 その最初の一歩は、思いのほか穏やかに始まったのだった。


読んでいただきありがとうございます!


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今後ともよろしくお願いします。

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