第2話-2 冷徹王子
会場が静まり返った。
誰もが、リリアが泣き崩れるか、取り乱すと思っていた。
しかし彼女はゆっくり息を吸い、エドガーを見つめた。
「……それは、以前おっしゃっていた『発表会が終わったら話をする』とはこのことでしょうか」
エドガーがわずかに眉を動かす。
「察しがいいな。これであとから発表する手間が省けただろう?」
「そうですか」
リリアは静かに頷いた。
「理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「もちろんだ」
エドガーは一歩前へ出る。
「私は何度も君に忠告した。軍用魔導具の研究へ移り、国益を第一に考えろ、と」
「だが君は聞かなかった」
軍拡派の貴族たちが頷く。
「君の才能は認めている。しかし、その使い方が間違っている」
エドガーは冷たく言い放った。
「君は研究者としてだけでなく、伯爵家へ嫁ぐ人間としても失格だ。平民の暮らしばかり気にし、社交にも貴族としての務めにも興味を示さない」
「私は何度も歩み寄ろうとした。だが君は研究ばかりだった」
そして、勝ち誇ったように微笑む。
「価値観の違いだ。これ以上、この婚約を続ける意味はない」
もっともらしい言葉に、周囲から納得する声が漏れる。
エドガーはルイーゼへ視線を向けた。
「そして私は、私の考えを理解し、共に未来を歩める女性を見つけた」
ルイーゼが一歩前へ出る。
「皆様には、いずれ正式にご報告する予定でしたけれど……少し早くなってしまいましたわ」
扇の陰で、彼女は微笑んだ。
会場がざわめく。
「まさか……」
「以前から噂があったが、本当だったのか」
エマが怒りを露わにする。
「エドガー様! 発表会の前から、そのお話は決まっていたんですね? だったら、どうしてリリアに伝えなかったんですか!」
「伝える必要があるか?」
エドガーは平然と答えた。
「今日なら王子殿下も領主たちもいる。婚約解消を公に示すには、これ以上ない場だ」
「そんな……リリア……」
エマは言葉を失った。
その様子を、エーヴァルトは静かに見つめていた。
表情は変わらない。
だが、蒼灰色の瞳がわずかに冷淡さが込められている。
――研究成果を競う場を、私情で汚すか。
そして視線を向けた先にいたリリアは、泣いても怒ってもいなかった。
ただ静かに立っている。
――この女性は、何を口にするのだろう。
会場中の視線がリリアへ集まった。
だが彼女はゆっくりと一礼する。
「承知いたしました」
あまりにも穏やかな返答に、今度はエドガーが目を見開いた。
「……ずいぶんあっさりしているな」
「価値観の違いについては、私も感じておりました」
リリアは淡々と答えた。
「ですから、婚約の解消について異論はございません」
ルイーゼの笑みがわずかに引きつる。
思い描いていた反応とは違った。
リリアは恨み言すら口にしない。
「……ですが」
リリアは一度言葉を切り、会場を見渡した。
「一つだけ、申し上げてもよろしいでしょうか」
「構わない」
「ありがとうございます」
リリアは静かに続ける。
「婚約の解消については、私が口を出すことはありません」
「ですが、本日は研究成果発表会です」
リリアの語気が少し強くなり、会場の空気が変わる。
「ここには、何年も研究を重ね、この日のために準備してきた方々がいます。各地からお越しくださった皆様も、この国の技術をご覧になるために足を運ばれています」
そして深く頭を下げた。
「その大切な場を、私たちの個人的な事情でお騒がせしたことを、研究者の一人として心よりお詫び申し上げます」
会場が静まり返る。
エマは思わず目頭を押さえた。
謝るべきなのはリリアではない。
それなのに彼女は、自分よりもこの場を気遣っていた。
「何を言い出すかと思えば……」
エドガーが口を開いた、そのときだった。
「見事だ」
低く、よく通る声が響いた。
一斉に視線が集まる。
エーヴァルト第一王子が、静かに前へ歩み出ていた。
「この場で最も研究成果発表会を尊重していたのは、あなただ」
「殿下……」
リリアが礼をとろうとすると、エーヴァルトは手を上げた。
「そのままでいい」
そして視線をエドガーへ移す。
「ルークス伯爵家嫡男、エドガー・ルークス」
「はっ」
エドガーは深く頭を下げた。
殿下から声を掛けられたことで、どこか期待した表情を浮かべている。
しかし……。
「一つ、確認したい。この発表会は何のために開かれている」
「それは……王国の魔導具技術を披露し、優れた研究成果を共有するためです」
「そのとおりだ」
エーヴァルトは淡々と頷く。
「では、その場で私的な婚約解消を宣言した理由を聞こう」
エドガーの笑みが消えた。
「……多くの方々がお集まりですので、公にお伝えするには最適かと」
「なるほど」
エーヴァルトは一歩近づく。
「つまり君は、彼女が言ったように、研究者たちが努力の成果を示すこの日を、自らの婚約解消を発表する場として利用した」
「……」
「そういう理解で間違いないか」
エドガーは答えられない。
額に汗が浮かぶ。
先ほどまで彼を支持していた貴族たちも、口を閉ざした。
ここは社交の場ではない。
研究成果発表会なのだ。
「婚約を解消すること自体は、当人同士の問題だ」
エドガーの表情がわずかに緩む。
「しかし――」
その一言で、再び空気が張り詰める。
「公私の区別もつけられぬ者が、『国益』を語る資格があるとは、私は思わない」
静かな言葉だった。
だが、その一言は鋭くエドガーを刺した。
エーヴァルトは視線を外し、リリアの展示台へ歩み寄る。
そこにあるのは、一台の魔導具。
小規模農地向けの灌漑補助魔導具だった。
エーヴァルトは足を止める。
「これは、君が開発したものか」
リリアは一瞬戸惑いながら頷いた。
「はい。私が開発いたしました」
「説明を聞こう」
「かしこまりました」
その瞬間、リリアの表情が変わった。
婚約破棄を告げられた令嬢ではない。
研究者としての穏やかな眼差しだった。
「こちらは、小規模農地向けの灌漑補助魔導具です」
リリアは魔導具へ手を添える。
「水路に高低差がある場所でも、魔石の力で水をゆるやかに送り続けることができます」
「大規模農園には向きません。ですが、小さな村や個人農家でも扱えるよう、小型化と省魔石化を優先しました」
「魔石の消費量は?」
「従来の小型送水ポンプより、およそ三割少なく抑えています」
エーヴァルトの目がわずかに細くなる。
「なぜ、そこまで省魔石化にこだわった」
リリアは少し考えてから答えた。
「魔石は便利ですが、高価です」
「裕福な方々には問題なくても、農家にとっては大きな負担になります」
「だから、少ない魔石でも長く使えるものを作りたかったんです」
会場が静かになる。
「生活魔導具は、贅沢品ではなく、生活を楽にする道具であるべきだと思っています」
リリアは穏やかに微笑んだ。
「一つ便利になれば、その人が別のことに使える時間が少し増えるかもしれません」
「その積み重ねが、国を豊かにすると私は信じています」
エーヴァルトの瞳が、わずかに静かな光を宿した。
先ほどエドガーも「国益」という言葉を口にした。
だが、二人が見ているものはまるで違う。
エドガーが国力を語るのに対し、リリアは国民の暮らしを見ていた。
「……君は、誰のために研究をしている」
リリアはハッと息を呑んだが、迷いなく答える。
「この国に暮らす人たちのためです。私一人では国を変えられません。でも、一つの魔導具で誰かの暮らしが少し楽になるなら、その積み重ねはいずれ国を支える力になると信じています」
エーヴァルトは静かに息を吐いた。
「……そうか」
短い一言。
だが、その胸中で、リリアへの評価は確かな敬意へと変わっていた。
一方、エドガーの表情は強張っていく。
(なぜだ。なぜ殿下は軍用魔導具ではなく、こんな地味な研究に興味を持つ)
エーヴァルトはリリアを見つめた。
「リリア・エーデル」
「はい」
「この研究所で何年研究を続けている」
「五年になります」
「……五年か」
エーヴァルトはゆっくり振り返り、第一研究室主任ヴィルヘルムを見る。
「第一研究室主任」
「は、はい」
「リリア・エーデル研究員を、本日付でクラウゼル王立魔導技術研究院へ異動させる」
「……え?」
最初に声を漏らしたのはエマだった。
研究者たちも目を見開く。
クラウゼル王立魔導技術研究院。
それは王国最高峰の研究機関であり、選ばれた研究者だけが所属できる場所だ。
「はい。リリア・エーデル研究員の異動、心得ました」
ヴィルヘルムは迷うことなく答える。
エドガーは信じられないものを見るように王子を見つめた。
「お、王立研究院……?」
リリア自身も言葉を失っていた。
「殿下……」
「異論はあるか」
「……い、いえ」
突然のことに理解が追いつかない。
それでも王子からの命令に逆らう理由はなかった。
「光栄です」
深く頭を下げる。
エーヴァルトは小さく頷いた。
「ならば決まりだ」
そして、さらに告げる。
「なお、リリア・エーデルの今後の研究は、私が直接後援する」
会場が大きくざわめいた。
「殿下が直属で……?」
「そんなことが……」
王立研究院への異動だけでも大事であり名誉なこと。
そこに第一王子自らが後援者になるなんてことは前代未聞だった。
エドガーの顔から血の気が引いていく。
つい先ほど、自ら手放した婚約者。
その彼女が今、王国でもっとも強い後ろ盾を得ようとしている。
「殿下、お待ちください!」
エドガーが声を上げる。
「な、なぜリリアなのです!?」
エーヴァルトは静かに答えた。
「君は先ほど、国益を口にした」
「はい……」
「ならば問おう。国益とは何だ」
「それは……王国の軍事力を――」
「違う」
初めてエーヴァルトが言葉を遮った。
「軍事は国を守る力だ。だが、守るべき国とは城でも領土でもない」
王子は会場を見渡す。
「そこに暮らす民だ」
誰も言葉を発しない。
「民の暮らしを豊かにする研究もまた、国を支える力である」
その視線が、リリアの灌漑補助魔導具へ向く。
「私は、その価値を見誤るつもりはない」
先ほどまで誰にも注目されなかった魔導具へ、今や会場中の視線が集まっていた。
「魔石の節約という発想は面白い」
「生活魔導具にも、こんな考え方があるのか……」
研究者たちから声が漏れる。
エドガーは愕然とした。
自分が切り捨てた研究が、今この瞬間、王子によって評価され始めている。
ルイーゼも扇の陰で唇を噛んだ。
思い描いていた未来とは、まるで違う。
エーヴァルトは再びリリアへ向き直った。
「王立魔導技術研究院では、研究者は正しく成果で評価される」
声音がわずかに柔らかくなる。
「君が目指す研究を続けろ。必要な設備も、人員も、予算も用意しよう」
リリアは息を呑んだ。
欲しかったのは名誉でも贅沢でもない。
ただ、自分の研究を続けられる環境だった。
その願いを、目の前の王子は当然のように差し出している。
胸が熱くなる。
それでも涙をこらえ、リリアはまっすぐエーヴァルトを見つめた。
「……ありがとうございます」
「必ず、この国の人々の暮らしを豊かにしてみせます」
エーヴァルトは、ごく小さく頷いた。
「期待している」
その一言が、リリアの胸を不思議なほど温かく満たしていた。
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