第20話 君の研究を守る
近頃、王立魔導技術研究院ではリリアの研究について語らない日はなかった。
彼女の魔導具は急速に普及し、現在取り組んでいる灌漑補助魔導具も、実用化を目前に控えている。
しかし……。
「問題は、魔導具そのものではない」
研究院の会議室で、年配の研究員が静かに口を開いた。
長い机を囲んでいるのは、魔導技術研究院の研究員たちと、王宮から派遣された官僚、それに軍務に関わる部署の代表者たちだった。
今日の議題は、リリアの研究成果に使われている魔導回路についてである。
「エーデル研究員が開発した魔導回路は、魔石から取り出せる魔力の変換効率が極めて高い。これは生活魔導具だけに使うには、あまりにも価値が大きい」
「軍用魔導具に応用できれば、同じ量の魔石でこれまで以上の出力を得られる可能性があります」
「ベルグラン帝国に対抗する必要がある以上、利用できる技術を生活魔導具だけに限定するのはいかがなものか」
リリアは黙って話を聞いていた。
反論するためではない。
相手の言葉を理解しようとしていた。
「エーデル研究員」
軍務部の官僚がリリアへ視線を向ける。
「あなたの研究成果は、王国の軍事力を大きく向上させる可能性がある。もちろん、生活魔導具への利用も継続する。ただ、軍事研究への転用について、協力してもらえないだろうか」
リリアは少しだけ考え、静かに口を開く。
「軍事研究そのものを否定するつもりはありません」
会議室が静まる。
「国を守るために必要な研究があることも理解しています」
それから、机の上に置かれた自分の研究資料へ目を落とした。
「ですが、私が研究しているのは、人の暮らしを良くするための技術です」
顔を上げる。
「ですから、私の研究成果が、私の知らないところで別の目的に使われることを前提にはできません」
「国益よりも、ご自身の研究方針を優先するということですかな?」
「いいえ」
リリアは首を横に振った。
「必要な場所に、必要な技術を使うべきだと思っています」
穏やかな声音だった。
だからこそ、その言葉は会議室にいる全員へまっすぐ届いた。
「魔石にも限りがあります。そして研究者にも、使える時間にも限りがあります」
リリアが魔導具を作るとき大切にしてきたのは、魔石を無駄にしないこと。
魔導具を使う人の金銭的な負担を小さくすること。
「だからこそ、何に使うのかを考える必要があると思います」
「つまり、軍事利用を認めないと?」
「そうは申し上げていません」
リリアはきっぱりと答えた。
「軍事利用が必要なら、その必要性をきちんと判断していただきたいんです」
そのときだった。
「この会議、私も参加させてもらう」
低く落ち着いた声が響いた。
全員が一斉に振り向く。
そこには、エーヴァルトが立っていた。
「殿下……」
「続けてくれ」
エーヴァルトは空いている席へ腰を下ろす。
王子が参加することで、会議の空気が一段引き締まった。
「エーデル研究員の魔導回路は、軍事利用を全面的に禁止する必要はない。ただし、生活魔導具として開発された技術を、無条件に軍事転用することも認めない」
エーヴァルトは資料へ目を通しながら続ける。
「軍事利用については、別途審査を設ける。必要性、費用、魔石消費量、そして生活分野への影響を確認した上で判断する」
「しかし殿下、それでは軍事研究の進展が遅れる可能性が――」
「急ぐことと、無計画に進めることは違う」
反論を遮る声は静かだった。
「エーデル研究員本人の成果を無断で転用することは禁止する。公開済みの技術と未公開の技術も整理し、研究成果の取り扱いについて明確な規定を設ける」
エーヴァルトはさらに別の資料へ手を伸ばした。
「そして今まで通り生活魔導具に対する研究予算も確保する」
軍務部の官僚が眉をひそめた。
「今まで我々は、生活魔導具なしでも国を維持してきた」
エーヴァルトの視線が鋭くなる。
「ならば問おう」
静かな声だった。
「今まで必要なかったから、これからも必要ないと?」
「……」
「魔石資源を軍事に優先して回すべきだという意見は理解できる。だが、生活を豊かにする研究をすべて無駄とする理由にはならない」
エーヴァルトは会議室にいる研究員たちを見渡した。
「豊かな産業があれば税収が増える。農業の生産性が上がれば食料が安定する。商業が発展すれば魔石を含む物資の流通も増える」
そして、淡々と結論を告げた。
「国力とは、剣の数だけではない」
誰も口を挟まなかった。
「私は軍事研究を軽視するつもりはない。だからこそ、生活研究も軽視しない」
その言葉には、王子としての揺るぎない意思があった。
「必要なものを、必要なだけ。国全体の利益を見て判断する」
会議は、それ以上大きく荒れることなく終わった。
◇
しかし、会議室を出た途端。
「殿下は、ずいぶんと一人の研究員を大切にされる」
背後から声がした。
振り返ると、軍務部の官僚が数人立っている。
「一人の研究員の研究方針を守るために、軍事利用へ制限を設けるとは」
「誤解するな」
エーヴァルトは足を止めた。
「私は一人の研究員を特別扱いしているのではない」
蒼灰色の瞳が、まっすぐ相手を捉える。
「王国に必要な研究を、必要な形で守っているだけだ」
「ですが――」
「それとも君は、生活魔導具によって利益を得る商人や、保存魔導具によって商品を守れるようになった農家や酪農家まで、国益ではないと言うのか?」
言葉に詰まった相手を残し、エーヴァルトはその場を離れた。
公平な判断。
それが王子としての彼の立場だった。
リリアの研究だから守ったのではない。
王国に必要な研究だから守った。
そうでなければならなかった。
そうでなければ――
自分の中に生まれた感情を、説明できなくなるから。
◇
研究室へ戻ったリリアは、一人で設計図を整理していた。
会議では平静を保っていた。
自分の研究について問われても、必要なことを答えただけだ。
それなのに指先が、わずかに震えている。
軍事転用。
自分の知らないところで、研究が別の目的に使われるかもしれない。
それが怖かった。
自分が積み重ねてきたものが、誰かを傷つけるために使われるかもしれないと思うと、胸が苦しくなる。
「……リリア」
扉が開いた。
エーヴァルトだった。
「殿下」
いつものように立ち上がろうとしたリリアだったが、エーヴァルトは手で制した。
「座っていていい」
「はい……」
エーヴァルトは彼女の向かいに座った。
しばらく、二人の間に沈黙が流れる。
「今日は……ありがとうございました」
「礼を言われるようなことではない」
「でも、私の研究を守ってくださいました」
リリアはそう言ってから、少しだけ視線を落とした。
「……正直に言うと」
声が小さくなる。
「怖かったです」
エーヴァルトは胸が締め付けられた。
会議中、彼女は一度も弱音を吐かなかった。
自分の信念を堂々と語り、相手の意見を否定することなく、それでも譲れないところは譲らなかった。
だから、平気なのだと思っていた。
けれど違った。
怖くても、震えそうでも、研究者として立っていたのだ。
「……そうか」
エーヴァルトは静かに言った。
「すみません。殿下の前でこんなことを……」
「謝る必要はない」
エーヴァルトは立ち上がった。
そして、リリアのすぐそばまで歩み寄る。
「怖いときに、怖いと言っていい」
「……」
「君は十分に戦った」
その言葉に、リリアの目が潤んだ。
「私は、研究しかできません」
「知っている」
「政治のことも、軍事のことも分かりません」
「それも知っている」
「だから……また誰かに研究を奪われたら、私は何もできないんじゃないかって」
エーヴァルトは、しばらく彼女を見つめた。
そして、はっきりと言った。
「私がいる」
「……殿下」
「君の研究を守る」
その言葉は、会議で発したものとは違っていた。
王子としての命令でもない。
政治的な宣言でもない。
一人の男として、目の前の女性に向けた言葉だった。
「だから、君は君の研究を続ければいい」
リリアの胸が、大きく鳴った。
その瞬間、彼女はようやく気づき始めた。
自分は、この人に守られることが嬉しい。
王子だからではない。
自分の研究を評価してくれるからだけでもない。
この人が、自分を見てくれていることが嬉しいのだ。
「……殿下」
「なんだ?」
「どうして、そこまでしてくださるんですか?」
エーヴァルトは答えられなかった。
“王国に必要な研究だから”
それは間違いではない。
だが、それだけではなかった。
会議で彼女が毅然として立っていた姿を見たとき、その姿を誇らしいと思った。
研究の話をするときに目を輝かせる姿を見ると、もっと見ていたいと思う。
疲れているのに無理をしていれば、止めたくなる。
誰かに傷つけられれば、腹立たしくなる。
そして今、目の前で不安そうに自分を見つめている彼女を、どうしても放っておけない。
「……分からない」
エーヴァルトが正直に答える。
「ただ、君が困っているなら、私は力になりたいと思う」
リリアの頬が赤くなる。
「それは……」
言葉が続かない。
エーヴァルトもまた、彼女から視線を逸らせなくなっていた。
近い。
以前なら、これほど近くにいても何も感じなかった。
だが今は違う。
彼女の吐息まで感じられそうな距離にいるだけで、心臓が妙に騒がしい。
「……リリア」
「はい」
「少し、顔を上げてくれ」
リリアがゆっくりと顔を上げる。
視線が重なる。
蒼灰色の瞳と、澄んだ瞳。
二人とも、しばらく動けなかった。
やがてリリアが、小さく笑った。
「……ありがとうございます」
その笑顔を見た瞬間、エーヴァルトは思った。
“この笑顔を、守りたい”
研究を守るためだけではない。
この人自身を。
その気持ちをはっきりさせてしまうことを、彼はまだ躊躇っていた。
けれどもう、ただの興味や研究者への評価ではないことだけは分かっていた。
リリアもまた、胸に手を当てる。
そこには、以前とは違う鼓動があった。
誕生日の夜、踊ったときにも感じたもの。
自分の研究を認めてもらったときとは、まるで違う感情。
もしかして……これが、恋というものなのだろうか。
そんな考えが浮かんでしまって、リリアは慌てて視線を逸らした。
「……研究の続きをします」
「ああ」
「暖房魔導具を、冬までに完成させたいので」
「無理はするな」
「はい」
そう答えながら、リリアは笑った。
エーヴァルトもまた、わずかに笑う。
研究室に二人。
以前とは違う何かが、確かにそこにあった。
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