第19話 かつての婚約者
その日、王立魔導技術研究院の会議室には、いつもとは少し違った顔ぶれが集まっていた。
研究員だけではなく、王都の商務を管轄する官僚や、各地の商人組合の担当者、保存魔導具の製造に携わる工房の代表までが席を連ねている。
その中央に、リリアも座っていた。
「それでは、保存魔導具の地方導入状況について報告します」
商務担当官が手元の資料をめくる。
「まず、王都における大型モデルについてですが、商人からの注文は当初の予測を大きく上回っています」
リリアの目がわずかに輝いた。
「特に肉、魚、乳製品を扱う商人からの需要が高く、長距離輸送を行う商隊では、すでに標準的な設備として導入する動きが出ています」
「標準的……ですか?」
思わずリリアが聞き返す。
「はい」
担当官は笑った。
「これまでは、肉や魚の長距離輸送は加工品しかできませんでしたから。しかし保存魔導具を使えば、以前なら王都まで運べなかった商品も扱えるようになります」
別の官僚が資料を引き取る。
「地方からも報告が届いています。酪農家からは牛乳や乳製品の廃棄が減ったという声が多く、肉屋からも好評です。農家からは収穫した作物の鮮度の保持に使えるという報告が上がっています」
「農家の方々も……」
リリアの顔に、嬉しそうな笑みが浮かんだ。
保存魔導具を作ったとき、彼女が思い描いていたのは、王都の裕福な商人だけではない。
収穫した野菜を売り切るまでの間、少しでも長く保存したい農家。
朝搾った牛乳を、できるだけ新鮮な状態で届けたい酪農家。
獲れた魚や肉を無駄にしたくない人たち。
そうした人々の暮らしだった。
「王都では、小型の家庭用モデルにも変化が出ています」
「家庭用も?」
「はい。まだ貴族や裕福な商家が中心ですが、購入を検討する平民も増えています。実際に使っている商店などから評判が広がっているようです」
「よかった……」
リリアは、思わず小さく息を吐いた。
魔導具は高価なもの。
貴族や金持ちだけが使うもの。
そんなイメージが、少しずつ変わり始めている。
一人の研究者が作った魔導具が、人から人へ伝わっていく。
それが嬉しかった。
「さらに、灌漑補助魔導具についても、実用試験が順調に進んでいます」
別の資料が机の上に置かれる。
「現在、量産に向けた最終調整に入っていると聞いています」
「はい」
リリアが答えた。
「実地試験では問題らしい問題は出ていません。あとは製造工程を整理して、できるだけ価格を抑えられる形にしたいと思っています」
「こちらも地方の農業関係者から問い合わせが来ています」
「もうですか?」
「保存魔導具の評判が先に広がっていますからね。『あの研究員が次に作ったものなら使ってみたい』という声もあるようです」
リリアは照れたように笑った。
「……そう言っていただけるのは、嬉しいです」
研究成果が認められる。
それだけでも研究者として幸せなことだ。
けれど、自分の作ったものが誰かの役に立ったと知る喜びは、それとは少し違っていた。
自分の計算した数字が、自分の組んだ回路が、誰かの暮らしの中で実際に役立っている。
それが何より嬉しい。
会議室に穏やかな空気が流れた、そのときだった。
「ずいぶんと景気のいい話ですな」
低い声が響いた。
扉のほうへ視線が集まる。
そこには数人の男たちが立っていた。
先頭にいるのは、軍服に近い意匠を取り入れた正装の男性。
その胸には、王国軍との関係が深い家系であることを示す紋章が付いている。
後ろには、ルークス伯爵家の紋章を身につけた使者たちがいた。
そして、その中に――。
「……エドガー様」
リリアの口から、名前が漏れた。
かつての婚約者。
エドガーもリリアを見た。
一瞬だけ、その目が揺れた。
だが、すぐに何事もなかったような顔へ戻る。
「ルークス伯爵家より、王国の魔石資源運用について意見を申し上げたいとのことで、私どもも同席させていただきました」
軍拡派に属する貴族の一人が説明する。
研究院と商務関係者だけの会議に、なぜ軍事関係者がいるのか。
リリアは少し不思議に思った。
その疑問を察したのか、商務担当官が小声で説明する。
「生活魔導具が地方へ普及するにつれて、魔石の需要が増えていますから」
「魔石の需要……」
「ええ。保存魔導具だけではありません。灌漑補助魔導具や浄水設備など、生活関連の魔導具が増えれば、それだけ魔石の消費も増えます」
つまり、これは商務だけの問題ではない。
魔石は王国の重要資源だ。
その用途が増えれば、当然、軍事用に確保できる量にも影響する。
だからこそ軍拡派が口を挟んできた。
「クラウゼル王国は、豊富な魔石資源に恵まれています」
軍拡派の貴族が言った。
「しかし、その資源を狙っている国があることを忘れてはならない」
軍備拡張を進めるベルグラン帝国に対抗して、王国も軍備を増強している。
だから軍拡派にとって、魔石は何よりも優先して確保すべき戦力なのだ。
「生活魔導具が多少売れているからといって、国の産業構造が変わったわけではありません」
エドガーが口を開いた。
「むしろ、魔石を生活用途へ大量に回せば、軍用の資源が圧迫される可能性があります」
会議室が静かになる。
「魔石は軍事に優先して使うべきです」
エドガーの言葉には、以前と同じ自信があった。
けれど、リリアはもう昔の彼女ではない。
反論しようとは思わなかった。
軍事が必要だということも理解している。
ベルグラン帝国の脅威が現実のものである以上、国を守るための力を削るべきだとも思わない。
だから、静かに答えた。
「必要な場所に、必要なだけ使うべきだと思います」
「……何?」
エドガーの眉が動いた。
「軍事を否定するつもりはありません。国を守るために必要な研究があることも理解しています」
リリアは落ち着いた声で続けた。
「でも、生活に必要な魔導具まで一括して無駄だと考える必要はないと思います」
「根拠は?」
「保存魔導具を例にすれば、魔石を使うことで食料の廃棄が減りました」
「それが?」
「食料が無駄にならなければ、その分だけ生産されたものを有効に使えます。輸送できる距離も伸びます。商人の利益が増えれば商取引も増え、農家や酪農家の収入にも繋がります」
リリアは淡々と説明する。
「魔石を使うことだけを見るのではなく、その結果として何が生まれるのかを見る必要があると思います」
誰も口を挟まなかった。
「魔石を一つ使うことで、十の価値が生まれるなら、それは無駄ではありません」
リリアは一度、資料へ目を落とした。
「逆に、軍事であっても必要以上に使えば、それは無駄になります」
エドガーの顔が強張った。
かつてのリリアなら、こんな言葉を自分に返してくることはなかった。
いや、返せなかった。
彼女はいつも自分の言葉を聞き、黙って頷いていた。
だから自分のほうが正しいと思っていた。
◇
「君は、以前とはずいぶん変わったな」
会議が終わったあと、廊下でエドガーが声をかけてきた。
リリアは足を止めた。
「……そうかもしれません」
振り返る。
「今は、自分で決められることが増えましたから」
その答えに、エドガーは言葉を失った。
恨みもない。
怒りもない。
ただ事実を述べただけ。
そこに元婚約者の影響は微塵もない。
それが、かえって彼には腹立たしかった。
「君は昔から――」
「昔の話なら、もう終わっています」
リリアは穏やかに遮った。
「今は私の研究がありますので」
そう言って歩き出そうとする。
「待て」
エドガーが腕を伸ばしかけた、その瞬間――。
「何をしている」
冷たい声が廊下に響き、声の方へリリアは振り返る。
「殿下……」
エーヴァルトが立っていた。
その後ろにはリヒャルトもいる。
エーヴァルトの視線が、エドガーの伸ばしかけた手へ向けられた。
「王子殿下」
エドガーはすぐに手を下げ、礼をとる。
「会議に軍拡派が乗り込んできた聞いていたが、まさか君まで来ているとは思わなかった」
「資源に関わる話でしたので」
「そうか」
エーヴァルトは淡々と答えた。
「それで、会議が終わったあとにリリアへ何の用だ?」
「……元婚約者として、少し話を」
「元婚約者として、か……?」
エーヴァルトの声は穏やかだった。
穏やかだからこそ、エドガーは背筋に冷たいものを感じた。
「はい。私と彼女は、以前婚約関係にありました」
「知っている」
短い返答。
「だが、それがどうした?」
「いえ……」
エドガーは言葉を濁した。
「少し、昔とは変わったものだと思いまして」
エーヴァルトがリリアを見る。
彼女は静かに立っていた。
「そうだな」
「殿下?」
「人は変わる」
エーヴァルトはエドガーへ視線を戻した。
「成長もする。新しい環境に身を置けば、新しい考え方も身につけるだろう」
そして、静かに告げる。
「過去の婚約関係は、現在の彼女を縛るものではない」
エドガーの顔が歪んだ。
「……もちろん、承知しております」
「ならば問題ない」
エーヴァルトはそれ以上、何も言わなかった。
けれど、リリアの隣へ立つ。
それだけで十分だった。
「行こう、リリア」
「はい」
二人が並んで歩き始める。
少し離れたところで、リヒャルトも続いた。
エドガーはその背中を見つめていた。
王子と、リリア。
並んで歩く二人の距離は近い。
以前のリリアにはなかった、柔らかな表情がある。
エドガーは思わず呟いた。
「……君は、そんな顔で笑う女性だったか?」
その声は、誰にも聞こえることはなかった。
◇
「殿下」
廊下を歩きながら、リリアが声をかける。
「どうしました?」
「先ほどは、ありがとうございました」
「礼を言うほどのことではない」
「でも……」
リリアは少し迷ったあと、微笑んだ。
「殿下が来てくださると、やっぱり安心します」
その言葉に、エーヴァルトの心が少しだけ揺れる。
以前も聞いた。
研究室で、リリアが無意識に口にした言葉。
“自分が来ると安心する”
その意味を考えるたびに、胸の奥が妙に温かくなる。
そして今。
彼女が他の男の前で傷つけられることを、ひどく不快に感じた。
「王子として」、「研究者を守る立場として」、そう説明することはできる。
けれど、それだけではない気がした。
リリアが困っていれば助けたい。
笑っていれば嬉しい。
自分のそばにいると安心すると言われれば、もっとそばにいたくなる。
そして、彼女を自分から遠ざける存在を考えると、胸の奥に苛立ちが生まれる。
エーヴァルトは、自分の胸にある感情を静かに見つめた。
ただ一つだけ、はっきりしている。
王子として彼女を守りたいのではない。
一人の男として、リリアを守りたい。
「殿下?」
「……何でもない」
エーヴァルトはそう答えた。
隣ではリリアが不思議そうに首を傾げている。
その顔を見て、彼はわずかに口元を緩めた。
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