第17話 王子殿下の誕生日
夏の盛りを迎える頃には、灌漑補助魔導具の改良も最終段階へ入っていた。
「この調整なら、実用化できそうですね」
以前の試作品に比べ、魔石の消費量は大幅に抑えられている。
水量の変化にも対応できるよう魔導回路を組み直し、農地の規模に応じて出力を調整できる仕組みも整えた。
あとは実際の農地で試験を行い、問題がなければ量産へ進める。
そんな研究者として、充実した日々を送っていた。
「リリア。今日はもう帰りなさい」
背後から声をかけられても、リリアは設計図から目を離さなかった。
「あと少しだけ確認したいところが……」
「その『あと少し』を何回聞いたと思ってるの?」
ミレーネが呆れたように腰へ手を当てる。
「明日は王宮で殿下の誕生日パーティーでしょう?」
「……」
そこでようやく、リリアの手が止まった。
「……そうでした」
「忘れてたの?」
「少し」
「少しじゃないでしょう」
ミレーネは盛大にため息をついた。
明日はエーヴァルト・アインベルク第一王子の誕生日。
王子の誕生日ともなれば、王宮では各地の有力貴族を招いた盛大な祝宴が開かれる。
そして、その場へリリアも招待されていた。
「殿下から直接招待状が届いたんだから、ちゃんとしなさいよ?」
「はい」
「ドレスは?」
「実家から届いています」
「髪は?」
「……」
「まさか、何も考えてないの?」
リリアは黙って設計図へ視線を戻した。
「リリア」
「……考えておきます」
「絶対に今、研究のことを考えたでしょう」
図星だった。
◇
翌日。
王宮は、普段とはまるで違う顔を見せていた。
大広間には無数の燭台が並び、色とりどりの花が飾られている。
楽団の音色が響き、各地から集まった貴族たちが華やかな衣装をまとって談笑していた。
その中へ足を踏み入れたリリアは、思わず立ち止まった。
「……すごい」
研究院とは、あまりにも違う世界だった。
今日のためにエーデル男爵家から届けられた淡い青のドレスは、派手すぎないながらも上品な刺繍が施されている。
髪もいつもより丁寧に整えられていて、鏡の中に映った自分を見たときには、少しだけ落ち着かなかった。
そして、その姿を見た者たちもまた、リリアへ視線を向けていた。
「まあ……あの方が?」
「エーデル男爵令嬢でしょう。新型保存魔導具を開発したという」
「各地で整備されている浄水魔導具まで手がけたと聞きましたわ」
「まだあんなに若いのに……」
小さなざわめきが広がる。
リリアは居心地が悪そうに視線を泳がせた。
その一方で、大広間の反対側からは、さらに大きな歓声が上がっている。
「エーヴァルト殿下……!」
「今日も本当に素敵ですわ」
「どなたと踊られるのかしら」
その視線の先にいるのは、今日の主役だった。
濃紺の正装に身を包んだエーヴァルトは、研究院で見るときとは別人のようだった。
冷静で隙のない表情。
王族としての威厳。
周囲の貴族たちから次々と祝辞を受けても、淡々と応じている。
ふと、彼の視線がこちらへ向いた。
その瞬間だった。
わずかに、その表情が和らいだ。
「……来てくれたか」
貴族たちの間を抜け、エーヴァルトがまっすぐリリアのもとへ歩いてくる。
「お誕生日、おめでとうございます。殿下」
「ああ。ありがとう」
それだけのやり取りだった。
なのに、周囲から小さなどよめきが起こる。
「よく似合っている」
エーヴァルトが彼女のドレスへ視線を落とす。
「ありがとうございます。実家から贈ってもらったものです」
「そうか」
一度視線を戻し、それから改めて彼女を見る。
「……とても綺麗だ」
「……」
リリアの思考が止まった。
「ありがとうございます」
どうにか返事をしたものの、頬が少し熱い。
研究の難しい計算をしているときよりも、よほど落ち着かなかった。
そんな彼女を見て、エーヴァルトは満足したようにほんの少しだけ目を細める。
◇
「それでは皆様。国王陛下、王妃陛下のご入場です」
侍従の声が響き、大広間の空気が一変した。
全員が一斉に姿勢を正す。
やがて大扉が開き、国王レオンハルト・アインベルクと王妃アマーリエ・アインベルクが姿を現した。
二人が壇上へ進むと、エーヴァルトも王族としてその前へ立つ。
「エーヴァルト。誕生日おめでとう」
レオンハルト国王が穏やかに笑い、息子の肩へ手を置く。
「ありがとうございます、父上」
王妃アマーリエも微笑んだ。
「今年も無事に誕生日を迎えられて嬉しいわ」
「ありがとうございます、母上」
エーヴァルトには弟のルードヴィヒがいる。
しかし、第二王子ルートヴィヒは留学中のため、この場に姿はない。
そのときだった。
エーヴァルトが振り返った。
「父上、母上。紹介したい者がいます」
大広間が、静かになった。
エーヴァルトが自然にリリアへ手を差し出す。
突然のことにリリアは目を瞬かせる。
「……私、ですか?」
「ああ」
リリアは戸惑いながら、その手を取った。
二人が並んで国王夫妻の前へ進む。
その光景を見て、今度こそ会場の空気が明らかに変わった。
国王と王妃の前に、自ら女性を連れてくる。
それが第一王子エーヴァルトであるなら、ただの研究者の紹介では済まない。
まして、普段から女性との噂がほとんどない「冷徹王子」と呼ばれる男なのだ。
貴族たちの視線が、一斉に二人へ集まった。
「こちらはリリア・エーデル嬢です」
エーヴァルトが紹介する。
「新型保存魔導具、浄水魔導具の開発に携わり、現在は灌漑補助魔導具の研究も進めています」
レオンハルト国王が興味深そうにリリアを見る。
「君が噂の研究者か」
「はい。リリア・エーデルと申します」
リリアは深く頭を下げた。
「王国の役に立つ研究をしているそうだな。実に頼もしい」
「ありがとうございます」
アマーリエ王妃も優しい笑みを浮かべる。
「保存魔導具のおかげで、地方の商人たちもずいぶん助かっていると聞いています。浄水についても、これから各地で整備が進むのでしょう?」
「はい。現地の状況に合わせた施設が必要になりますので、まだ時間はかかりますが……」
研究の話になった途端、リリアの表情が少し明るくなる。
アマーリエはそんな彼女を微笑ましそうに見つめ、それから隣にいる息子へ視線を移した。
「エーヴァルト」
「はい」
「あなたが研究院へ頻繁に足を運んでいる理由が、少し分かった気がするわ」
「母上」
今度こそエーヴァルトが困ったような顔をした。
けれど、否定はしない。
それが余計に周囲をざわつかせた。
「……大切にされているのですね」
アマーリエがリリアへ微笑みかける。
「はい。殿下には、研究をする環境をとてもよく整えていただいています」
「まあ」
「必要なものがあれば、すぐに用意してくださいますし、食事を忘れると注意してくださいます」
アマーリエの笑顔が、さらに深くなった。
「そうなのね。ねぇ、エーヴァルト」
「……何でしょう、母上」
「あなたも随分と面倒見がよくなったのね」
「彼女の研究には目を見張るものがあります」
「それだけかしら?」
王妃は嬉しそうに微笑む。
リリアは二人の会話を聞きながら、ただ不思議そうにしていた。
自分とエーヴァルトの関係が、周囲からどのように見えているのだろうか。
◇
祝宴が進むにつれ、リリアの周囲には多くの貴族たちが集まった。
「保存魔導具は我が領でも利用されております」
「灌漑補助魔導具も、完成すればぜひ相談したい」
「研究院では、ほかにも新しい生活魔導具を?」
研究について尋ねられるのは、リリアにとってありがたいことだった。
社交辞令や世間話より、ずっと話しやすい。
そんな中。
「リリア」
聞き覚えのある声がした。
振り返る。
そこには、エドガー・ルークスが立っていた。
かつて、自分へ婚約破棄を突きつけた男。
「久しぶりだな、リリア」
エドガーが言う。
そして、その隣には淡い金髪の令嬢がいる。
「お久しぶりですわ、リリアさん。覚えてらっしゃるかしら。ルイーゼ・グランセルですわ」
彼女は優雅に頭を下げた。
軍拡派の重鎮でもあるグランセル侯爵家の令嬢であり、婚約破棄の中心人物のひとり。
「……お久しぶりです、エドガー様、ルイーゼ様」
以前なら、胸の奥が痛んだかもしれない。
けれど今は、驚くほど何も感じなかった。
もうあの頃とは違う。
仲間たちと研究をして、成果を積み重ねて……そして、エーヴァルトとたくさんの時間を過ごしている。
過去はもう、遠い話。
「以前とは随分と雰囲気が変わったじゃないか」
エドガーが強めの語気で言ってくる。
そこにルイーゼが微笑む。
「研究に打ち込んでいると聞いています」
「はい。とても充実しています」
「それは素晴らしいことですわ」
柔らかな声音。
しかし、その目の奥には何かを探るような光があった。
「エドガーから聞いてますわ、生活魔導具のために魔石を浪費しているとか。何に使うかは、慎重に考える必要があるでしょう」
「それは……」
リリアは答えようとして――やめた。
ここは研究政策を議論する場所ではない。
その代わり、静かな声が横から入った。
「その話は、また別の機会にしよう」
エーヴァルトだった。
「今日は私の誕生日だ。政策の議論をするために、君たちを招いたわけではない」
「……失礼いたしました、殿下」
エドガーとルイーゼが頭を下げ、離れていく。
エーヴァルトは、その背中を見送ってからリリアへ視線を戻した。
「大丈夫か?」
「はい」
「無理をしていないか?」
「していません」
「ならいい」
そう言って、エーヴァルトは彼女の隣に立った。
まるで、それが自然なことのように。
リリアはその横顔を見上げる。
なぜだろう。
ただ隣にいてくれるだけで、少し安心する。
◇
やがて楽団の演奏が始まった。
最初の曲が終わり、続いてゆったりとしたワルツが流れる。
会場の中央へ、次々と男女が進んでいく。
リリアは壁際からその様子を眺めていた。
すると……。
「リリア」
「はい?」
エーヴァルトが目の前に立った。
「踊ってくれるか?」
「……私で、よろしいのでしょうか」
「君がいい」
あまりにも迷いのない返事だった。
リリアの胸が、どくんと鳴る。
「……はい」
差し出された手に、自分の手を重ねる。
温かい。
大きな手に包まれた瞬間、また心臓が跳ねた。
二人が中央へ進むと、周囲から一斉に視線が集まる。
誰もが見ている。
第一王子エーヴァルト・アインベルクが、誰をパートナーに選んだのかを。
「緊張しているか?」
「少しだけ」
「踊りは?」
「子供の頃に習いましたので」
「なら大丈夫だ」
音楽が始まった。
エーヴァルトが手を引く。
一歩、続いて、もう一歩。
身体が自然に動く。
研究ばかりしているリリアだが、彼女もまた男爵家の令嬢だ。
最低限の社交教育は受けている。
そしてエーヴァルトは、さすが王子というべきか、彼女の動きを先回りするように自然に導いていく。
「……上手ですね」
「君が上手いからだ」
「そんなことは……」
「本当だ」
静かな声だった。
けれど、その声が妙に近い。
普段なら気にならない距離なのに、今日はどうしても意識してしまう。
手を握られている。
腰へ添えられた手がある。
すぐ目の前に、エーヴァルトの顔がある。
研究室で話しているときとは、何もかもが違って見えた。
「リリア」
「はい?」
「今日、来てくれて嬉しい」
胸がまた、大きく鳴った。
「……私も、来てよかったです」
「そうか」
エーヴァルトが微笑む。
その笑顔を見た瞬間、リリアは思った。
――もっと、この人の近くにいたい。
そんな考えが浮かんだことに、自分自身が驚く。
研究なら、もっと知りたいと思うことはある。
新しい魔導回路なら、完成するまで何度でも試したいと思う。
けれど人に対して、こんなふうに思ったことはなかった。
曲が終わり、拍手が広がった。
二人は足を止める。
「ありがとうございました」
リリアが微笑む。
「こちらこそ」
エーヴァルトも微笑み返す。
けれど、すぐには手を離さなかった。
ほんの一瞬、互いの視線が重なる。
リリアは、その瞳から目を逸らせなくなった。
エーヴァルトもまた、彼女を見つめていた。
研究室で見る彼女とは違う。
今日の彼女は華やかなドレスをまとっている。
けれど、エーヴァルトが惹かれているのは、その姿だけではない。
誰もが成功だと評価する研究成果に満足せず、その先にいる人々の生活まで考えるところ。
研究に夢中になると周囲が見えなくなるところ
食事を忘れて叱られると、素直に反省するところ。
そして、今こうして自分に向けて笑っているところ。
全部が気になる。
もっと知りたい。
もっとそばにいてほしい。
――これは、何なのだろう。
エーヴァルトは初めて、自分の中にある感情へ疑問を抱いた。
リリアもまた、同じだった。
婚約していた頃でさえ、エドガーと一緒にいることでこんな気持ちになったことはない。
胸が高鳴る。
顔を見ると嬉しくなる。
離れると、少し寂しい。
そして今、繋がれていた手が離れることを、ほんの少し残念に思っている。
――もしかして、これが恋というものなのだろうか。
そんな考えが、二人の胸に同時に浮かんだ。
けれど、どちらも口にはしなかった。
まだ、それを確かめる勇気はない。
「リリア」
「はい」
「……今日は、楽しんでいってくれ」
「はい。殿下も」
互いに微笑む。
王宮の大広間では、華やかな音楽が響き続けていた。
その喧騒の中で、二人だけの空間がそこにあった。
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