第11話 届いた手紙
王都に春の気配が濃くなり始めた頃。
リリアの研究室には、いつものように朝の光が差し込んでいた。
窓を少し開けると、冬の冷たさを残しながらも、どこか柔らかな風が入ってくる。
研究院の中庭では、早咲きの花がいくつか蕾を開き始めていた。
リリアはその様子を眺めてから、机の上へ視線を戻した。
動力機構研究部から頼まれた回路の設計をする。
次の研究に進みたいところだが、他部署の手伝いもまた仕事のうち。
「リリア・エーデル研究員。手紙が届いています」
扉の向こうから声がした。
「手紙?」
リリアが扉を開けると、事務員が一通の封書を差し出してきた。
「リューゼルからです」
その地名を聞いた瞬間、リリアの胸が跳ねた。
「リューゼル……」
封筒に書かれた文字を見れば、差出人はすぐに分かった。
懐かしい、見慣れた筆跡。
「エマ……」
思わず、顔がほころぶ。
「ありがとうございます」
手紙を受け取ると、リリアはすぐに机へ戻った。
封を切る手が、いつもより少しだけ速い。
便箋を開く。
そこには、懐かしい友人の文字が並んでいた。
『リリアへ。
王都へ行ってから、もうずいぶん経ちましたね。
最初に聞いたときは、本当に驚きました。
まさかあの発表会で、王子殿下の専属研究員になるなんて思いもしませんでした。
正直に言えば、しばらく心配していました。
王都で無理をしていないか、研究を取り上げられていないか、あのときのことを思い出して、また一人で我慢していないか。
でも、研究院の噂がこちらにも少しずつ届いていました。
どうやら、毎日とても楽しそうに研究しているみたいですね。
安心しました。
本当に、安心しました。
今のあなたが幸せなら、それが一番嬉しいです。』
そこで、リリアは一度手紙から目を離した。
胸の奥が、じんと温かくなる。
婚約破棄騒動のとき、エマは誰よりも心配してくれた。
何も聞かずに味方でいてくれた、大切な友人だ。
リリアは便箋を撫でるように指先で押さえ、それから続きを読んだ。
『それから、私の研究のことですが、もちろん続けています。
こちらも相変わらず、思うようにいかないことばかりです。
でも、不思議なもので、リリアがいなくなってからのほうが「負けていられない」と思うようになりました。
あなたが王都で頑張っているなら、私もこちらで頑張ろうと思います。
いつか、お互いの研究成果を見せ合えたら素敵ですね。
それと、王都の食事はどうですか?
研究に夢中になって食事を忘れていないでしょうね。
あなたは昔から、研究を始めると食事も睡眠も忘れるので、とても心配です。
ちゃんと食べてください。
エマより』
「……エマまで」
リリアは思わず苦笑した。
どうして皆、私が食事を忘れることを知っているのだろう。
けれど、その心配が嫌ではなかった。
むしろ嬉しい。
リリアは便箋をもう一度読み返した。
王都に来てから、毎日が目まぐるしく過ぎていった。
研究院の仲間。
新しい研究。
そして、エーヴァルトとの時間。
そのどれもが、以前の自分には想像できなかったものだ。
だからこそ、今の自分をエマにも知ってほしいと思った。
「返事を書こう」
リリアは新しい便箋を取り出した。
まず、王都での生活について書く。
研究院の設備がどれほど素晴らしいか。
食堂の料理が思った以上に美味しいこと。
ノアやミレーネと研究について話すようになったこと。
そして――。
少し迷ってから、保存魔導具のことを書いた。
ふと、先日の夜を思い出す。
公園のベンチ。
冷たい夜風。
そして、二人で飲んだ温かなスープ。
思い出すだけで、胸の奥がほんのり温かくなる。
けれど、それを手紙に書くのはなぜか少し恥ずかしくて、リリアはその部分をそっと省いた。
代わりに、最後にこう綴る。
『エマも研究を続けていると知って安心しました。
いつか本当に、お互いの研究を見せ合いましょう。
その日を楽しみにしています。』
書き終えた便箋を見つめ、リリアは微笑んだ。
「元気そうでよかった」
遠く離れていても、大切な友人との繋がりは消えない。
そのことが、何より嬉しかった。
◇
午後。
研究室で実験をしていたリリアのもとへ、ミレーネがやって来た。
「リリア、ちょっといい?」
「はい。どうしました?」
「あなた宛ての手紙が届いてたって聞いたよ?」
ミレーネはニヤニヤしながら顔を覗いてくる。
「リューゼル研究所の友人からです」
「へえ……」
ミレーネは机に置いてある返事を書いた封筒を見る。
「ねえ、リリア」
「はい?」
「その友人って、もしかして男性?」
「女性です」
「あら、残念」
「何がですか?」
「だって、王子殿下があれだけ頻繁にここへ来ているのに、実は恋人がいるのかもと思って」
「……?」
リリアは本気で意味が分からないという顔をした。
「恋人? それに殿下になにか関係が……?」
「最近の殿下、明らかにリリアのところへ来る回数が多いでしょう?」
「研究の様子を確認しに来てくださっているんだと思います」
「それだけ?」
「はい」
あまりにも迷いのない返事だった。
ミレーネはしばらくリリアを見つめ、それから小さく笑った。
「……リリアって、本当に鈍いのね」
「何のことでしょう?」
「なんでもないわ」
そのとき、扉が開いた。
「リリア」
「あ、殿下」
エーヴァルトだった。
いつものように研究室へ入ってきた彼は、リリアとミレーネを見てから、机の上に置かれた封筒へ視線を止めた。
「手紙か?」
「はい。リューゼルにいる友人への返事です」
「そうか」
それだけ言ったものの、エーヴァルトの視線が一瞬だけ封筒へ戻った。
ミレーネは、そのわずかな変化を見逃さなかった。
「殿下」
「なんだ?」
「リリアのたーいせつな“友人”らしいですよ」
「ミレーネ」
リリアが困ったように名前を呼ぶ。
エーヴァルトの表情が固まった。
「……まさかそれは、想い人か?」
「違います」
リリアは慌てて首を振った。
「エマは確かに大切な友人です。研究仲間でもありますし、昔からずっと仲良くしているだけで……」
「そうか」
エーヴァルトの返事は静かだった。
けれど、ほんの少しだけ肩の力が抜けたように見える。
ミレーネはそれを見て、口元を隠した。
「なるほどね」
「ミレーネ?」
「いえ。何でもないわ」
エーヴァルトはリリアへ向き直った。
「その友人は、研究をしているのか?」
「はい。今もリューゼルで研究を続けているそうです」
「そうか」
「いつか、お互いの研究成果を見せ合おうって約束したんです」
「……それは、いい約束だな」
エーヴァルトの声は穏やかだった。
けれど、リリアには少しだけ不思議に思えた。
なぜだろう。
さっきまでより、殿下の機嫌が良くなったような気がする。
「殿下も、エマの研究成果をご覧になりますか?」
「機会があるなら見てみたい」
「では、エマにもそう伝えておきます」
「ああ」
エーヴァルトは頷いた。
そして何気ない顔で、リリアの机に置かれた研究資料へ目を向ける。
「ところで、昼食はもう済ませたか?」
「……まだです」
「では、食堂へ行こう。研究の続きは、そのあとでもできるだろう」
「はい」
リリアは素直に頷いた。
ミレーネは「もうお昼は食べちゃいました」と断り、研究室を出ていく二人の背中を見送る。
「……本当に、これで気づいてないのよね」
誰にも聞こえないよう呟いて、笑った。
廊下を歩くエーヴァルトは、隣のリリアをちらりと見る。
先ほどまで胸にあった、説明のつかない落ち着かなさは消えていた。
リューゼルにいる友人。
大切な友人。
その言葉を思い出すだけで、なぜか安心する。
理由は分からない。
ただ――。
「エーヴァルト殿下?」
「なんだ?」
「どうかされましたか? 少し嬉しそうに見えます」
「……そうか?」
「はい」
エーヴァルトは答えず、前を向いた。
自分でも、なぜ嬉しいのか分からない。
けれど、リリアが誰かを「大切な友人」と呼ぶ声を聞いて、胸の奥が軽くなったことだけは確かだった。
そして、その理由を考えることを――今はまだ、やめておくことにした。
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