第10話 ひと仕事を終えて
新型保存魔導具の完成から、数日が過ぎた。
研究院では量産に向けた準備が始まり、リリアもそのための資料整理や追加試験に追われていた。
けれど、ひとつだけ。
どうしても片づけておきたいものがあった。
リューゼル研究所にいた頃から、研究を続けていた携帯保温容器である。
保存魔導具の研究を進めるうちに、リリアは以前よりもずっと効率よく温度を維持する方法を思いついていた。
新しく得た知識を使えば、途中で止まっていたあの研究にも、もう一度向き合える。
「……これなら、使えそう」
これまでのノウハウと研究院の資材があれば、小さな容器を完成させるのも簡単だった。
まだ改良できるところはある。
けれど、今の自分ならここまで作れる。
そう思えただけで、長い間胸の奥に残っていた小さな心残りが、ようやくほどけていく気がした。
「一度、実際に使ってみないと」
リリアはそう呟くと、性能試験のため、食堂でスープを分けてもらった。
その容器を鞄にしまう。
研究者としては、少々行儀の悪い方法かもしれない。
けれど、実際に持ち歩いて温度を測らなければ分からないこともある。
◇
その日の夕方。
研究院の一室で、エーヴァルトがリヒャルトから書類を受け取っていた。
「殿下、新型保存魔導具の量産準備について、各部署との調整が進んでおります」
「ああ」
「それにしても、さすがリリアさんと言ったところです。研究院に来て間もないのにもうこれほどの成果を挙げていらっしゃる」
「そうだな……」
その一言だけだったが、リヒャルトは主君の目が少しだけ柔らかくなったことを見逃さなかった。
「殿下」
「魔導具の完成祝いをなさってはいかがですか」
「祝い?」
「はい。ここ数週間、殿下もお忙しかったでしょうが、リリア嬢もほとんど研究室に籠もっておられました。せっかく成果が出たのですから、研究院の外へお誘いしてはいかがでしょう」
エーヴァルトは黙った。
「……それは、必要か?」
「必要かどうかではなく、誘いたいかどうかではありませんか?」
「……」
「私としては、ぜひとも誘っていただきたいところです……殿下のためにも(小声)」
エーヴァルトは渋い顔をした。
だが、しばらくしてから静かに頷いた。
「分かった」
「では、ちょうど今夜は時間が空いているので――」
「今日、誘う」
「……それがよろしいかと」
リヒャルトは深々と頭を下げた。
そして心の中で、ようやく一歩進んだ、と密かに安堵した。
◇
「リリア」
研究室を訪れたエーヴァルトが、いつものように静かな声で彼女を呼んだ。
「はい。どうされましたか?」
「今夜、予定はあるか?」
「今夜、ですか?」
「ああ。もし空いているなら、食事に付き合ってほしい」
一瞬、リリアは目を瞬いた。
「……私と、ですか?」
「他に誰がいる?」
「なぜ私と……?」
「完成祝いだ」
あまりにも自然に返されて、リリアは少しだけ頬を緩めた。
「それなら、ぜひ」
「そうか。では、行こう」
そうしてリリアは、何の疑問も持たずに鞄を肩へ掛けた。
◇
エーヴァルトが連れてきてくれたのは、王宮から少し離れた場所にある落ち着いた店だった。
王族が利用するような格式張った店ではなく、ほどよく賑わい、料理の評判もいい店。
「ここは初めてです」
「そうか。なら、よかった」
「殿下は、よくこういうお店をご存じですね」
「王宮の中にいるだけでは、王都のことは分からないからな」
そんな話をしながら食事をしていると、リリアは不思議なくらい肩の力が抜けていくのを感じた。
研究院では、どうしても研究の話が中心になる。
けれど今夜は違った。
王都で最近人気になっている菓子の話や、研究院の食堂で出る料理の話など、他愛のない話をする。
リリアが食堂で見かけた研究員の失敗談を話せば、エーヴァルトが珍しく声を立てて笑う。
「それは気の毒だな」
「本人は真剣だったんです。でも、魔導具を動かした瞬間に研究室中が煙だらけになってしまって」
「君の研究室は大丈夫なのか?」
「私のところでは、最近はそこまでひどいことにはなっていません」
「最近は?」
「……以前は、少しだけ」
「少しだけ、か」
エーヴァルトの目が細くなる。
リリアは慌てて料理へ視線を戻した。
「今はもう大丈夫です」
「ならいい」
そんな会話さえ楽しかった。
◇
食事を終えた二人は、すぐに王宮へ戻らず、少し遠回りをして近くの公園へ向かった。
冬の名残を残す夜風はまだ冷たかったが、木々の枝には小さな芽が膨らみ始めている。
「もうすぐ春ですね」
「ああ」
「研究院へ来たときは、まだ冬だったのに」
「そうだったな」
ベンチに腰を下ろし、並んで夜空を見上げる。
研究室ではない場所で、こうしてエーヴァルトと二人きりでいる。
それだけなのに、リリアは妙に落ち着かなかった。
「王都へ来て、どうだ?」
「とても楽しいです」
すぐに答える。
「研究院の皆さんも親切ですし、設備も素晴らしいです。それに、以前より研究に集中できるようになりました」
「そうか」
エーヴァルトは満足そうに頷いた。
「君がそう思ってくれているなら、私も嬉しい」
その言葉に、リリアは横顔を見る。
「……殿下も、嬉しいんですか?」
「君がこの場所を好きになってくれたことがな」
何気ない言葉だった。
けれど、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「ありがとうございます」
そう答えたとき、冷たい風が二人の間を通り抜けた。
「……少し寒くなってきましたね」
「ああ。そろそろ戻るか」
「そうですね」
立ち上がろうとした、その瞬間。
リリアは何かを思い出した。
「あ」
「どうした?」
「……スープがあります」
「……スープ?」
エーヴァルトが怪訝そうに彼女を見る。
リリアは慌てて鞄を開いた。
「これです」
取り出したのは、完成したばかりの携帯保温容器だった。
「これは?」
「保温容器です。今日、完成したので性能を試していて……」
そこで、リリアはようやく気づいた。
自分が今どこにいるのか。
そして、何をしているのか。
「……」
「……」
エーヴァルトも、容器とリリアを交互に見ている。
「リリア」
「はい」
「今日は何をしに来た?」
「……食事、です」
「ならばなぜ研究道具を持ってくるんだ」
呆れた声だった。
けれど、エーヴァルトの口元には笑みが浮かんでいる。
「すみません。持ってきたことを忘れていました」
「忘れていたのか」
「はい。鞄に入れたときは、あとで温度を確認しようと思っていたんですが……」
リリアは容器を見つめた。
「せっかく完成したので、どうしても試してみたくて」
エーヴァルトはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……君らしいな」
「呆れていますか?」
「少しな」
そう言いながら、エーヴァルトは容器を受け取り眺める。
「だが、それほど自分の研究を大切にできることは、悪いことではない」
「殿下……」
「それに」
蓋を開けた。
中から、まだ温かな湯気が立ち上る。
「せっかくだ。試験に付き合おう」
「ありがとうございます」
「ただし、私にも飲ませてくれ」
「もちろんです」
二人で容器を囲み、交代でスープを口にする。
時間が経っていたにもかかわらず、スープはまだ十分に温かかった。
「……温かい」
リリアが嬉しそうに呟く。
「ああ。これなら成功と言っていいのではないか?」
「そう、ですね」
リリアは笑った。
その笑顔を見て、エーヴァルトも自然と表情を和らげる。
冷たい夜だった。
けれど、不思議と寒くは感じなかった。
温かなスープのせいなのか。
それとも、隣にいる相手のせいなのか。
ただ、もう少しだけこうしていたいと思った。
研究のことも、王宮のことも、明日の仕事のことも考えずに。
ただ、隣にいる人と過ごす時間を。
「……殿下」
「なんだ?」
「今日は、ありがとうございました」
リリアが微笑む。
「とても楽しかったです」
エーヴァルトは一瞬だけ言葉を失った。
そして、いつもの落ち着いた表情に戻る。
「ああ。私も楽しかった」
それだけ告げて、二人は再び温かなスープを口にした。
春を目前にした夜の公園で。
二人の距離は、ほんの少しだけ近づいていた。
けれど、その温かさが何なのか、リリアもエーヴァルトも分からなかった。
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