33、あの娘は物語の先を行く
※ 不快な描写があります。お気を付けください。※
「帰ろうか、チッタ。いったん出直そう。」
ガチョウの姿のまま顔を上げ、声もないまま動けないでいるチッタさんの傍にしゃがみこんだブワイヨさんが声をかけるのを聞いて我に返ったわたしも辺りを見回して、馬車の気配などない静かな霊園の墓石碑ばかりの寂しい光景に日が陰っているのを見て、今はいつ頃なのかどれ程立ち尽くしていたのかを思い知った。
本音を言えば、調べ足りない。ただ、この街のどこかにある妖の道を探し出して、王都へ戻らないといけない。その前に、シクストおじさんとマハトのお父さんの情報をどうにかして集めたい。薬売りのチャイカにネクロマンサーの情報だってほしい。ブワイヨさんは、日を改めるつもりらしい。突然現れたわたしの都合に振り回されるでもなく、当初の計画通りには行動するようだ。
別行動が最善なのかな。太陽神ラーシュ様の下さった加護の印のあるおでこを撫でて、こんなところで立ち止まっている場合じゃないって気持ちを切り替えると、自然に顔が上を向いていく。太陽はまだ出ている。わたしだけでも調べよう。
「旦那、」
「ここにいたって仕方ないだろ、帰って作戦会議だ。」
決めかねているといった様子のチッタさんを励ますでもなく、ぶっきらぼうに言い放つとブワイヨさんは歩き出した。
いつか貰った近道の地図を思い出して、この墓地のどこかに地下への入り口があるのを思い出す。
「お嬢様、」
虚ろな目のガチョウなのに、人間の姿の時のチッタさんが重なって見えて、思わず頭を振ってそんなわけないって思い直す。
「チッタさん、どうするつもりですか?」
皇国へ逃げるのか、ブワイヨさんと行動を共にするのか。
「お嬢様、旦那は関係ないんですよ。関係ない人に、とんでもない相手から本を取り返すのを手伝ってほしいって、言えますか?」
月を見る塔の秘密を死者の魂を召喚してからくり部屋から脱出するようなネクロマンサーを相手に、先に持ち出された本ともども取り返すのは容易いことじゃないだろうなってわたしにだって想像がつく。
ただ、項垂れるチッタさんの気持ちはわからなくもないけど、ブワイヨさんの気持ちは固まっているんじゃないかなって思えたのもあって、つい言葉が滑ってしまう。
「言ってみたらどうですか?」
「お嬢様?」
「ブワイヨさん、チッタさんと一緒に行くつもりがあるから作戦会議をしてくれるんですよね?」
「あ、」
「チッタさんのこと、一番よく知ってくれているのがブワイヨさんなんですよね? 彼以上に頼もしい見方っていないんじゃないですか?」
瞳をキラキラさせ始めたチッタさんの背中を押すつもりで、「案内、頼めそうですか、」と声をかけてみる。下手に慰める言葉よりも気持ちを切り替える言葉の方が適切な気がしていて、あなたが必要なのだと伝えたい気持ちをこめられそうで選んだ言葉だった。
「もちろん。お嬢様のお願い事なら何なりと、」
ガアガアと景気よく喚きながら助走をつけ、チッタさんはブワイヨさんに飛び掛かるようにして勢いよく飛び出した。
「おまっ、お前、さっき何を踏んだ足で俺を蹴るつもりだ?」
「そんなの、決まっているじゃないですか、旦那っ、」
「止せ、飛び蹴りをするな、」
他に誰もいない寂れた墓地にアハハハと笑う声は空元気にしか聞こえなくても、作り笑いしかできなくても今なら重い課題だって取り組めそうでなんでも笑い飛ばしてしまおうって思えていた。
※ ※ ※
ほどなくして、街に近いきちんと区画が整えられ手入れされた墓地を進んで続く旧墓地へと入る。芝生の生い茂る昔からあったと思われる小さくていつしか刻まれた文字すら風化してしまった墓石が目立つような丘を抜けて、さらに奥まった管理区画らしい柵に囲まれた場所へと入った。黒い剥き出しの土の上にいくつかの白く目立つ飛び石があっても無視してブワイヨさんとチッタさんは歩いて大樹に囲まれた石造りの納骨堂までやってくると、後へとついて行きながら飛び石の上を飛んでいたわたしを振り返って小さく頷いてみせてくれた。
「ここですか?」
積み上げた石の隙間には苔が生えていて、天辺を覆うのはすぐ傍の木々の枝葉だ。
黙って頷くと、ブワイヨさんが扉を開けて中へと手招きしてくれる。中は石造りの外見のままに石天井に石壁に、棚にみっちりと納められただけでは間に合わず前にも積まれた骨壺の山、石造りの床と丸い古ぼけて模様が判らない程の汚れた灰色の絨毯があるばかりで、どこにも地下迷路へと続く入り口など見えなかった。
どこからか黴の匂いがして、骨壺の中ではなさそうなので骨壺の棚の後ろでも腐っているのかなって首を傾げたくなる。さて、どうしようか。このままついていってガルースに行ってみる?
「あの骨壺の山を移動させるんですか?」
思いついたままに尋ねると、ガチョウのチッタさんが勢いよく中に入り、棚前のあふれるように積みあがられている骨壺を駆けあがって天井付近の壁をひと蹴りした。建物自体も、骨壺も揺れた。
驚いてブワイヨさんを見るけど、何も動きがない。どうして?
「わっ…!」
天井が崩れる?と一瞬思ったほどに、天井から細かな粉上の黒い何かが落ちてきた。
黴?
吸い込まない様に屈んだ瞬間、絨毯は消え、骨壺の積まれている前の床には真っ暗に深い穴が開いていた。ひんやりとした風が上がってきて、思わず身震いしてしまう。
もしかして、これが仕掛けなんですか?
尋ねたいのに、先にブワイヨさんに「ここから降ります、」と告げられてしまった。
このまま一緒に行くと、地下迷路を抜けて滝の裏側に出て、川沿いに領都ガルースへ戻ることになる。
ここで別れますと言い出そうとした瞬間、チッタさんが器用に嘴を使って骨壺のひとつの蓋を開けて首を突っ込んだかと思うと、中から細い棒状の何かを引っ張り出した。
「チッタさん?!」
骨を咥えて何をするつもりですか?
さすがに墓守と言えども見捨てておけない行動を咎めようとした瞬間、チッタさんは棒状の何かを穴に向かって放り投げた。
空中に広がるように落ちていくのは、縄梯子だ。
「さ、行きますよ?」
手際が良さ過ぎて絶句しているわたしに、ブワイヨさんが声をかけてくれる。
「アンシ・シ側から降りる時って、いつもこんな感じなんですか?」
「いいえ?」
ブワイヨさんは肩を竦めて、「ビア様が御一緒だから特別ですよ? いつもは飛び込みます。たいしたことないですから、」と気軽な口調で教えてくれる。
地下の街について実態を知ってしまっている現在、そんなに浅い穴だとは思えないのもあって、「大丈夫なんですか?」と確認したくなってしまう。
「なあに、大丈夫です。たいしたことはありません。血のなせる業です。」
野に棲む精霊の血を引く者という自負もあってのことだと思う。かといって、それならわたしも大丈夫なんて思えないのが実情なので、自分の手足に『強化』の魔法をかけておくことにする。ついでにもちろんブワイヨさんにも魔法をかける。
「先に行きますよ、」
「これ持って行け、」
ブワイヨさんは魔石で明るくしたランタンをチッタさんの嘴に咥えさせた。
穴は、チッタさんが灯りを共に飛び込んだので一瞬空に向かって光った。だんだん消えていく光と共に地に降りたのかと思った瞬間、黒い細かな物体が穴から放出されてきた。
幾千という硬質な、黒い水でも石でもなく、部屋の中一杯に広がってどんどんまだ地下から湧いてくる轟音は、数えきれない小さな生き物の羽の音だと判った瞬間、わたしは、わたし達は自分が虫に襲われているのだと思い知った。
「な、」
ブンブンという音でブワイヨさんの声が聞こえなくなる。視界が黒くもあり様々な色が溶けて混じる光る何かが流れるような渦のようなものに邪魔されて見えなくなる。飛び回る渦は肌に羽が当たってどんどん接近してきている虫の群れの集合で、納骨堂の入り口は開いているのに散らない現状から明らかにわたしとブワイヨさんに対して敵意があのが判る。
立っていると興奮を刺激して危険を呼びそうだ。地属性のわたしができる魔法は地面を揺らして石天井を壊して虫の侵入口を塞ぐしか思いつかなくて、先に行ったチッタさんにもブワイヨさんに危害が及ぶどうしようもなくダメな方法だ。水属性の魔法を使うとしてもやはり、地下にいるチッタさんを生き埋めにしてしまう。何をするにもここは狭すぎる。
とりあえずやり過ごして待つ他ないと判断して、鼻や口を守るために服に虫がつくのを払い除けながら身を屈めて蹲ってみる。
羽の音が怖いとか、齧られてしまうとかいった妄想はやめて、ひたすらに、羽音が去るのを待ってみる。
あれ?
少しずつ、音が減る。
わたしに集まっていた虫が距離を取り始め、次第にブワイヨさんへと向きを変えて飛び掛かっていっている…?
どうして、わたしから虫は去ったの? 好かれたいと思わないけど、突然すぎて戸惑ってしまう。
ブワイヨさんの方が背が高いから? おいしそうだから?
試しに虫に集られるブワイヨさんへと近付き、片腕で口周りを隠したまま、あいた方の手で払ってみる。
直接触ったわけでもなく風をまったく無防備な手刀で切っただけなのに、虫がわたしを避けて散る。
これはもしかして携帯版の退魔煙である練り香を持っているからなのだとしたら、わたしなら勝てるかもしれない気がしてきた。
「ブワイヨさん、ブワイヨさん、今助けます、ブワイヨさん、」
虫に襲われているブワイヨさんとわたしの違いって何だろうって考えても答えが見えないので、僥倖と割り切ることにする。
「あっちに行け、あっちに行け、」
払い除ける時に運悪く薙ぎ払って触れてしまった無数の虫が、力を失ったように床に転がる。虫はすべて同じ種で、腹が黒く羽も体も細長く、赤くもあり緑色にも見えていた。
これって、塔のからくり部屋で見た虫と同じ種だ。
光が地から転がった。チッタさんが咥えて持って行ったランタンが放り投げだされたのだ。
「罠だ、罠です旦那、」
地下への穴から虫まみれのガチョウのチッタさんが飛び出してきた。追尾する虫が合流してブワイヨさんへ集まる虫が増えているのに、またしてもわたしには寄ってこない。
嬉しいけど複雑でもあり訳が分からない気分のまま手刀で払う度に気を失ったように落ちる虫は、床に転げてもすぐに起き上がると、攻撃したわたしではなくブワイヨさんたちに襲い掛かる。
「旦那、」
懸命に羽ばたいてブワイヨさんを助けようとしてもなかなかうまくいかず自分が虫に襲われているチッタさんと目が合った。驚愕しているチッタさんは嘴の中にまで突っ込んで来ようとする虫たちに負けそうになっている。
そうだよね、おかしいよね、わたしだけ無事なんて。なんだか腹が立ってきて、わざと触れるように腕を振り回してみる。落ちる虫が、コロコロと転がっていく。
「今だ!」
ブワイヨさんの声が聞こえたかと思うと、ボンッという破裂音がして、部屋いっぱいに白い粉が充満した。
※ ※ ※
ガアガアと咽ながらガチョウのチッタさんがペタペタと床を鳴らしながら納骨堂を飛び出すと、すべての虫は追いかけるように一斉に飛び出していった。
ゴホンゴホンと咽るブワイヨさんは手さぐりに床を這って外へ出て行こうとするので、そっと肩を触り、「もう大丈夫ですよ、」と声をかけてみる。
「ビア様、ご無事で、」
わたしを見上げたブワイヨさんに「立てますか?」と手を差し伸ばすと、「大丈夫です、」と言うなり自力で立ち上がられてしまった。
「ご無事で何よりでした。」
理由も身の覚えもないけど虫が襲ってこなかったから、なんて答えようがないので肩を竦めて誤魔化して、わたし達は一緒に墓地の湿気た黒い土へと踏み出した。
寂れた古い墓地から、赤くもあり緑色にも見える虫の大群が流れて去っていった。
「もういいと思いませんか、チッタ?」
墓地の丘で立ち止まるチッタさんは、息を呑むような緊張感を持って手招きするブワイヨさんとわたしを見ていた。
ブワイヨさんはしげしげをわたしを観察した後、首を傾げ、チッタさんに手招きした後、わざとらしく咳払いをした。
「ビア様、少し失礼します。」
「どうかしましたか?」
ブワイヨさんが何度かわたしの背後に回り、やっぱりじっくりと観察した後、「そうですか、そうか、そうだったんですね?」と言い出した。
「旦那、」
「どうかしたのですか?」
駆けてくるチッタさんの険しい表情も気になるけど、ブワイヨさんの納得した理由も気になる。
「あの虫の罠、刺激に反応して虫が襲撃するように仕組まれていたのだと思います。以前ここを使った際にはいなかったので、最近にここに来た誰かが仕掛けたのではないかと思われます。」
「あの塔にも同じ虫が転がっていたので、あの塔にも行ったことがある誰かですよね?」
「そうだと思います。」
死霊使いと使役する人形、虫を使う魔法使いと、もうひとりの誰か。
指を折りながら、わたしは小さく唇を噛んだ。相手は、わたし達がここへ来ることを予見していたのなら、相当慎重で計算高い。
「こんなところに罠を仕掛けられるなんて…。」
「地下の入り口に人の手で虫を休眠状態にして配置してあったのだと思います。異物が彼らの生息域に飛び込めば引き金となるよう、あらかじめ仕込まれていたのではないでしょうか。」
「何のためにですか?」
「恐らくですが、下降中に虫に襲われたら手で追い払おうとしますよね? 縄梯子ではなかったとしても、手を離せば落ちてしまいます。自分で手を下さなくとも勝手に侵入者が自らを殺してしまう結果となっても、事故と言えば事故です。誰かが見つけても何の疑いも持ちません。」
墓守で死体の扱いに慣れているチッタさんにとっては、特に疑問もない誰かの死となってしまうのだ。底知れない悪意を感じて、見知らぬ犯人に嫌悪が募る。
「チッタがいなかったら、今頃、我々はどうなっていたかわかりません。」
ガアガアと喚きながらやってきたチッタさんにも聞こえるようにはっきりと言ったブワイヨさんは、手に握っていた小さな黒いボタンを見せてくれる。一見ボタンなのに親指で側面をずらすと蓋が勢いよく割れたので、中身が飛び散った後なのだと判る。
「さっきの爆発はこれですか? 威力がすごかったですね、」
まんざらでもない顔つきで、ブワイヨさんは小さく頷いた。
「あ、呼びました? 旦那? もっと感謝していいんですよ?」
話に割って入って「ヘッヘ」と笑ったチッタさんを流し見て、ブワイヨさんは話を続ける。
「これは魔力を使って瞬間的に粉塵を飛ばして煙幕を作る魔道具のようなものです。うちの商会で扱っているめくらまし程度のおもちゃですが、仲間の噂通りに意外と効きました。」
ロディスのリバーラリー商会は行商人としてあちこちの山奥の村まで出向いて商品を売り歩いているので、途中の山道や街道で襲われたりする時に使って逃げるのかなと想像すると理解が深い。実にブワイヨさんは万全の装備を持ってあの街へ取り組もうとしたのだと判ってくる。
「最初、あの虫たちは襲ってはきましたが噛みついたりはしなかったので、ただ飛び回って威嚇するだけの集団催眠のような状態ではないかと判断しました。何かで気を散らせば我に返るかなと思ったのです。魔法で言うところの『混乱』状態でしたから。本来、飛行する虫の集団全体という広範囲に効果のある魔法を使うのが望ましいのですが、何しろあんなに狭いところです、できることがたかが知れていました。」
わたしと同じに地属性の魔法を使うブワイヨさんも、石造りの納骨堂という地属性にとって攻撃に不利な条件に行動を躊躇ったのだと判ってホッとする。
「ところでさっきの虫は、ビア様には寄っていきませんでした。そうでしたね?」
「ええ、」
でもわたしが虫を仕掛けたわけではないですよ、というつもりで両手を見せて振ってみる。
「おいチッタ、こっちに来てビア様を見ろ、」
「え?」
わたしは何も隠し持っていないのに?
一方的に怪しまれて取り調べられるのは腑に落ちなくて、逃げ出したい気持ちで後退りをしたわたしを見て、チッタさんは戸惑いながらガチョウの姿のまま飛び跳ねてわたしの周りをぐるりと回った。
「何も見当たりませんよ?」
肩掛け鞄も明るい灰色の火光獣のマントも、怪しいものを隠したりはしていない。
「ビア様の肌は?」
「肌?」
チッタさんの困惑した声に、わたしも困惑する。ガチョウとはいえ、中身のチッタさんは男性だったりする。
「何を探しているのですか、」
さすがに恥ずかしくなってきて、その場にしゃがみこんでしまった。ブワイヨさんに直接尋ねてみたくなる。
「ブワイヨさん、わたしは虫を扱えません。だいたい、罠を仕込む余裕なんてなかったですよ?」
1周目の未来で来たことがあるからと言って疑われる程アンシ・シに詳しくないし、地下迷路の地図を貰ったとはいえ実際はあの地図だけではどうにもならないのだと、一緒に探検してみた実体験としてわかっている。
「いえ、ビア様、」
「あった、ありましたよ、旦那、」
しゃがんでいるわたしの周りを律儀にぐるぐると歩き回っていたチッタさんが大声を出した。
「虫除けの印、お嬢様の首の後ろにばっちりあります!」
「そうか、だからでしたか。さすが、冒険者のビア様、準備が万端です。」
何を言っているのかわからなくて、そっと首の後ろを撫でてみる。
「こんな場所に虫除けの印があるのですか?」
王都ではそんなことをする必要もなかったのもあって、ちょっぴり信じがたい。
「昔懐かしい虫除けの呪印です。虫が使えたばあちゃんが昔、夏になると描いてくれたもんです。」
「ブワイヨさん、今は、」
記憶の中を遡らなくともすぐに、わたしの首筋に触れた人物について脳裏に映像を引き出せる。
「今の時代、虫除けの呪印を描ける人材がいませんよ。何しろ虫使いなんて、極めて珍しい職位ですから。」
塔にあった虫、虫の罠。虫を扱える魔法使い…。
虫使いのアミが、あの塔まで辿り着いた3人と1体の中の2人目なのだと気が付いて、わたしは名前を声に出すべきなのかどうか迷う。
ガルースの月の女神さまの神殿の椅子は皇国のクアンドか公国のカペラに転送できる椅子なのだと、どれ程の人が知っている事実なのだろうと迷ってしまったのもあるけれど、彼女を知っていると言っても彼女についてほとんど知らないのもあって言葉が出てこない。
乏しい月明かりで見た姿を、昼日中に見て同じと言えるのかが怪しい。
「かといって塔にいたひとりが虫使いなのだと判明したとしても、かえって面倒になっただけかもしれません。」
視線を落としたままだったわたしが顔を上げると、ブワイヨさんが腕を組んで軽く首を傾げたのが見えた。
「どうしてですか?」
「まず、先の大戦をきっかけに廃れてしまった職位です。地属性の魔法使いで虫使いとなる者がそうそういません。なった者がいたとしても、この土地で見つけられるかどうか。」
「公国でも、同じだと思います。」
「彼らは大量の虫の卵や虫を扱うので、土地の生態系を壊してしまうこともあります。このクラウザー候領では禁忌だったはずです。チッタ、そうだったな?」
「大昔ですが、皇国とこの辺り一帯が虫使いにより蝗害を引き起こされ飢饉に陥ったことがあるって話ですよ、姉ちゃんは知ってるかもしれませんが、少なくとも私は知らない昔です。」
「虫を食べる鳥はこの土地じゃあ重宝されます。チッタが食い意地が張っているのはこの土地に暮らす者が甘やかしている影響かもしれないです。」
ブワイヨさんは肩を竦めた。
当の虫使いのアミと出会ったのは領都のガルースだったりする。そういう土地だって知っていて滞在していたのなら、相当うまく手の内を隠せる性格な気がする。
「ビア様、その呪印、もらわれたのはいつですか?」
「つい最近です。」
時期としてもアンシ・シが封鎖されている間だ。
「この前の、満月よりこっちですか?」
「そうです。」
わたしの答えに「ふう、」とひとつ溜め息をついて、「この街に虫使いがいたのなら、黒い甲虫以外にも何か虫を使った事件をしでかしていたのかもしれないな、」と呟いた。
ありがとうございました。




