8
「とっっても可愛いわっ」
「お嬢様」
「この子のことはバスカヴィルと名付けましょう!どう!とっても強そうでしょう?」
使用人たちを素通りして、私はネロの前で手を打った。
「わたくしが名付け親で、わたくしの〝お気に入り〟ですもの。これで滅多なことないでしょう?」
艶然と微笑んでくるりと振り向く。
「この子にもしものことがあったら、わたくしきっと泣いてしまうわ。お父様の前でね」
使えるものは全部使ってやるわ。今夜の私は気合いが違った。なにしろ、今後のネロとーーわんちゃんの命がかかっているもの。
今夜がネロのトラウマエピソードの一つ。こっそり飼っていた犬を使用人たち、引いてはお嬢様が原因で殺されてしまう、というものである。ドン引きエピソードだ。
この件がきっかけでネロは心を閉ざし、闇の暗殺者にーー
(させる訳がないのだわ!)
私は小さき命を守るため、宣言した。
「ちょうど番犬が欲しいと思っていたの。この子、ちょうど良いでしょう?この件、番頭にもお話は通しておくわ。ーーわかったわね」
はっきり言って贔屓も贔屓。だけど、こんな時こそ我が儘お嬢様特権発動なのである。
蜘蛛の子を散らすように逃げていく使用人たち。後に残ったのはネロと私だった。
静寂が落ちた。ざわついていた空気が、嘘みたいに引いていく。残ったのは、夜に沈みかけた庭と、私と、ネロと——腕の中で小さく震える命。ネロは、まだ何も言わない。ただ、じっとこちらを見ている。
その目は、さっきまでの必死さとも、怒りとも違っていた。……戸惑い。警戒。信じていいのか分からない、そんな色。
近くで見ると、子犬は思っていたよりもずっと小さい。黒い毛並みはまだ柔らかくて、ところどころ汚れている。そして——震えている。
「……怖かったのね」
そっと撫でると、子犬はびくりと身を強ばらせたあと、弱々しく鼻を鳴らした。
その様子を見て、ネロの指が、かすかに動く。
「……お嬢様」
低い声だった。
「どうして」
問いは短い。でも、その中に詰まっているものは重かった。どうして庇ったのか。どうして見逃さないのか。どうして——奪わないのか。
(ああ、もう)
私は心の中でため息をつく。
(この子、ここで全部壊れるのよね)
ゲームの中のネロは、この後、子犬を失って、誰も信じなくなる。感情を切り捨てて、冷たい暗殺者になる。でも。
(そんなの、知ったことじゃないわ)
「可愛いからよ」
私はあっさりと言った。
「……は?」
「理由なんてそれで十分でしょう?可愛いものは守るの。わたくしの趣味よ」
ネロが言葉を失う。たぶん、こんな答えは想定していなかったのだろう。私はくすりと笑って、子犬——バスカヴィルの額を指で撫でた。
「それに」
少しだけ、声を落とす。
「あなたが、必死に守っていたものだもの」
ネロの肩が、ぴくりと揺れた。
沈黙。風が木々を揺らす音だけが、静かに通り過ぎていく。やがて——
「……弱み、です」
ネロがぽつりと言った。
「これがある限り、俺は……何もできない」
自嘲の混じった声。さっきの連中に言われた言葉が、まだ残っているのだろう。
私は、ふうん、と軽く相槌を打った。
「そう?」
「……え?」
「弱みじゃなくて、強みじゃないの?」
ネロが、はっきりと息を呑んだ。
「守りたいものがあるから、強くなれるんでしょう?」
私は肩をすくめる。ネロは、しばらく何も言わなかった。ただ、じっと、私と、腕の中の子犬を見ている。その目が、少しだけ——ほんの少しだけ、ほどけた気がした。
「……お嬢様は」
かすれた声。
「本当に変な人ですね」
「あら失礼」
即答した。
「褒め言葉として受け取っておくわ」
ふん、と鼻を鳴らす。ネロの口元が、ほんのわずかに緩んだ。——今日初めてちゃんと目があったかもしれない。




