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「とっっても可愛いわっ」

「お嬢様」

「この子のことはバスカヴィルと名付けましょう!どう!とっても強そうでしょう?」

 使用人たちを素通りして、私はネロの前で手を打った。

「わたくしが名付け親で、わたくしの〝お気に入り〟ですもの。これで滅多なことないでしょう?」

 艶然と微笑んでくるりと振り向く。

「この子にもしものことがあったら、わたくしきっと泣いてしまうわ。お父様の前でね」

 使えるものは全部使ってやるわ。今夜の私は気合いが違った。なにしろ、今後のネロとーーわんちゃんの命がかかっているもの。

 今夜がネロのトラウマエピソードの一つ。こっそり飼っていた犬を使用人たち、引いてはお嬢様が原因で殺されてしまう、というものである。ドン引きエピソードだ。

 この件がきっかけでネロは心を閉ざし、闇の暗殺者にーー

(させる訳がないのだわ!)

 私は小さき命を守るため、宣言した。

「ちょうど番犬が欲しいと思っていたの。この子、ちょうど良いでしょう?この件、番頭にもお話は通しておくわ。ーーわかったわね」

 はっきり言って贔屓も贔屓。だけど、こんな時こそ我が儘お嬢様特権発動なのである。

 蜘蛛の子を散らすように逃げていく使用人たち。後に残ったのはネロと私だった。

 静寂が落ちた。ざわついていた空気が、嘘みたいに引いていく。残ったのは、夜に沈みかけた庭と、私と、ネロと——腕の中で小さく震える命。ネロは、まだ何も言わない。ただ、じっとこちらを見ている。

 その目は、さっきまでの必死さとも、怒りとも違っていた。……戸惑い。警戒。信じていいのか分からない、そんな色。

 近くで見ると、子犬は思っていたよりもずっと小さい。黒い毛並みはまだ柔らかくて、ところどころ汚れている。そして——震えている。

「……怖かったのね」

 そっと撫でると、子犬はびくりと身を強ばらせたあと、弱々しく鼻を鳴らした。

 その様子を見て、ネロの指が、かすかに動く。

「……お嬢様」

 低い声だった。

「どうして」

 問いは短い。でも、その中に詰まっているものは重かった。どうして庇ったのか。どうして見逃さないのか。どうして——奪わないのか。

(ああ、もう)

 私は心の中でため息をつく。

(この子、ここで全部壊れるのよね)

 ゲームの中のネロは、この後、子犬を失って、誰も信じなくなる。感情を切り捨てて、冷たい暗殺者になる。でも。

(そんなの、知ったことじゃないわ)

「可愛いからよ」

 私はあっさりと言った。

「……は?」

「理由なんてそれで十分でしょう?可愛いものは守るの。わたくしの趣味よ」

 ネロが言葉を失う。たぶん、こんな答えは想定していなかったのだろう。私はくすりと笑って、子犬——バスカヴィルの額を指で撫でた。

「それに」

 少しだけ、声を落とす。

「あなたが、必死に守っていたものだもの」

 ネロの肩が、ぴくりと揺れた。

 沈黙。風が木々を揺らす音だけが、静かに通り過ぎていく。やがて——

「……弱み、です」

 ネロがぽつりと言った。

「これがある限り、俺は……何もできない」

 自嘲の混じった声。さっきの連中に言われた言葉が、まだ残っているのだろう。

 私は、ふうん、と軽く相槌を打った。

「そう?」

「……え?」

「弱みじゃなくて、強みじゃないの?」

 ネロが、はっきりと息を呑んだ。

「守りたいものがあるから、強くなれるんでしょう?」

 私は肩をすくめる。ネロは、しばらく何も言わなかった。ただ、じっと、私と、腕の中の子犬を見ている。その目が、少しだけ——ほんの少しだけ、ほどけた気がした。

「……お嬢様は」

 かすれた声。

「本当に変な人ですね」

「あら失礼」

 即答した。

「褒め言葉として受け取っておくわ」

 ふん、と鼻を鳴らす。ネロの口元が、ほんのわずかに緩んだ。——今日初めてちゃんと目があったかもしれない。


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