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翌日。私は朝から完璧だった。姿勢よし、言葉遣いよし、癇癪ゼロ。誰がどう見ても、模範的なお嬢様である。
「お嬢様、本日は大変ご機嫌麗しゅう」
「当然よ。わたくしですもの」
ふふん、と扇子を口元に当てる。完璧。完璧すぎるわ。
(これでネロとの関係も順調に——)
「ベアトリス様」
不意に呼び止められた。
「またあの野犬のところに?」
ジェームズである。かなりのお冠のご様子だ。
「野犬ではなくって、ネロは我が家の飼い犬よ。主人が愛犬と戯れて問題でも?」
「…随分と仲良くなられたご様子。この傷薬もあのような者には過分です」
「過分かどうかは、わたくしが決めることよ」
ぴしゃりと言い放つと、ジェームズの眉がわずかに動いた。けれどすぐに、いつもの従者然とした顔に戻る。
「失礼いたしました。ですが、あの者は“庭師”です。道具と同じ扱いで十分かと」
「道具?」
思わず声が低くなる。
「ええ。我がモリアーティ家においては」
「なら尚更よ」
言葉を遮る。ジェームズが、初めてわずかに目を見開いた。
「道具は手入れをしなければ使い物にならないでしょう?」
にっこりと笑って見せる。
「壊れてからでは遅いの。違って?」
「なるほど」
ジェームズは一瞬だけ沈黙し、そして小さく頭を下げた。
「お嬢様のお考え、しかと」
(ふぅ。危ないところだったわ)
胸の内で安堵する。ジェームズはまた一礼し、引き下がる。モリアーティ家らしいムーブは出来たのではないだろうか。
(急に人が変わって変に勘繰られでもしたら、それこそ危険だわ。何しろ我が家は悪役一家なんですもの)
モリアーティ家で育ったものは主従問わず真っ黒だ。私は今、10歳。ネロとジェームズは、10代半ばくらいかしら?
彼等は幼い頃から親元を離れたり、或いは代々我が家に仕えたり住み込みで働いている。ネロは前者、ジェームズは後者。家業が家業なため、秘密裏なことが多い我が家らしいと言えばらしい制度だ。
そう。その閉鎖空間で、私こと記憶を取り戻す前のベアトリス・モリアーティはやらかしてしまうのである。
(野良犬なんて考えなしだったわ。どうしてわたくしってば、ネロにそんなこと言っちゃったのかしら)
それもよりにもよって引き取られた日に。ネロは貧しい家庭の出自で親から売られてきた子供だった。傷心の中、彼は屋敷のお嬢様に誹られたのである。
(屋敷のお嬢様にあんなこと言われたらその後の扱いがどうなるかなんて目に見えてるわよ〜〜)
そして先日の大泣き事件。もう扱いがクライマックスになってもおかしくない状態だ。
(ただでさえ例のイベントが起きてしまいそうなのに〜。あ〜、無力な自分が恨めしい)
執事長にいくらネロの現場の改善を求めても駄目だった。気付いてしまったが、私ってこの家で権限ない?我が儘放題かと思いきや、児戯の範囲でしか許諾されていない気がする。きっと使用人の配置換えや環境の改善は私の命令の範疇を越えるのだろう。
「うぅ〜。深〜い闇を感じるわ」
悩んでいる内にいつもの小屋の前に着いた。ネロの後ろ姿を見てホッとする自分がいた。今日も彼は無事だ。
「ご機嫌よう。良いお天気ね」
淑女らしく挨拶をして、ネロの傍に近付く。
「今日は貴方に傷薬を持ってきたわ。よぉ〜く効くわよ。なんと言ってもモリアーティ製ですからね」
「…お嬢様。それは私を脅迫してますか」
「いいえ?毒に通じているものは医療にも秀でているものよ?知らなかった?」
微笑む私を嫌そ〜な顔のネロが出迎える。だけど、その表情に以前のような拒絶はない。
「さぁ、そこにお座りなさい」
「はぁ?」
「ふふん、最初はわたくし自ら塗ってあげるわ。感謝するのね」
ネロを草はらに座らせ、私は彼の膝の上に乗った。「はぁ!?」とネロから奇声が上がったような気がしたけど、気にしないわ。ふっふ〜、現代社会人の塗り薬擦り込み方(※近所の皮膚科クリニック直伝)とくと受けるといいわ。まぁ、私ってばまだ小さいからお膝の上に座っちゃったけど、そこは見逃して欲しいわね。
「……お嬢様」
「なに?」
「降りていただけますか」
「いやよ」
「なぜです」
「楽だから」
「……」
呆れたような沈黙。
「あ、あの、お嬢様、本当に不味ーー…」
明らかに動揺した声。けれど私は手を止めない。むしろ、にこやかに圧をかける。
「動かないでちょうだい。塗りムラができるでしょう?」
「いや、本当に——状況が理解できません」
「理解しなくて結構よ。これはこの屋敷の主人としての“義務”ですもの」
さらりと言いながら、傷口にそっと薬を伸ばす。
(やっぱり、痛むわよね)
「しみる?」
「問題ありません」
「嘘。痛いに決まってるわ」
「痛くありません」
「痛いわ」
ぴしゃりと断言すると、ネロは黙り込んだ。
(ふふ、素直で宜しい)
以前の彼なら、痛みすらなかったことにしていただろうに。
「ふふ、いい子ね。ネロ」
「………」
黄金の日差しが庭に落ちる。こうして私たちの午後は穏やかに過ぎていった。




