13
お兄様と薔薇園を見終えた日。ようやく解放された私は、半ば逃げるように屋敷を抜け出した。
「はぁ……生き地獄だったわ」
誰にともなく呟きながら、いつもの道を進む。森の中。木漏れ日。見慣れた小屋。——でも。
(……気配が違う)
ぴたりと足が止まった。静かすぎる。いつもなら、薪を割る音か、刃を研ぐ音か、バスカヴィルの鳴き声が聞こえるはずなのに。
「ネロ?」
呼びかけても、返事はない。胸が、ざわつく。一歩、踏み出した——その瞬間。
「動くな」
背後から低い声。首筋に、ひやりとした感触。刃物だわ。
(油断していたわ)
思考が一瞬で冷える。振り向かない。動かない。呼吸だけを整える。
「お嬢様が、こんなところに一人で来るとは」
知らない声。この屋敷の人間じゃない。でもこれは訓練された、暗殺者の声だ。
「……あなた、誰の差し金?」
「さあね」
くつくつと笑う気配。
「ただあんたに用がある」
刃が、わずかに食い込む。
「飼い犬に入れ込んで、秩序を乱す変わり者のあんたにな」
ぞくり、と背筋が冷える。でも。
(怖い、けど)
ぎゅっと拳を握る。
(ここで折れたら、全部終わりよ)
「この程度の脅しで、わたくしをどうにかできると思ってるの?」
挑発。相手の気配が、わずかに揺れる。
「強気だな」
「当然でしょう」
にやりと笑う。
「ここはモリアーティ家の庭よ。わたくしには番犬がついているの」
その時だった。——風が、裂けた。
「っ!?」
首元の圧が消える。金属音。何かが弾かれる音。私は反射的に距離を取って振り返った。そこにいたのは——
「ネロ……!」
息を切らしながら、刃を構える少年。その目は、今まで見たことがないほど鋭く、冷たい。
「……遅れてすみません、お嬢様」
低く、抑えた声。でも、その奥にあるのは——明確な怒り。
「下がってください」
「でも——」
「下がって」
一切の余地を与えない声音。私は、思わず一歩下がった。ネロは前に出る。私と、敵の間に。
「……へぇ」
相手が舌打ちする。
「飼い犬が来たか」
「お前にそう呼ばれる言われはない」
静かに言う。でも。その声は、冷え切っていた。
相手が笑う。
「野良犬のくせに、随分と忠実じゃないか」
ネロは何も言わない。ただ、一歩踏み込んだ。次の瞬間。激突。刃と刃がぶつかる。火花。息を呑む間もない攻防。
(速い……!)
目で追えない。でも分かる。ネロは——
(……もっと強い)
数合の打ち合いのあと。ネロの刃が、相手の喉元に止まった。ぴたりと。寸分の狂いもなく。沈黙。
「……殺すか?」
相手が笑う。
ネロの手が、止まる。——選択。
“庭師”としての正解は、殺すこと。でも。
「……やめておきます」
ネロは、ゆっくりと刃を引いた。
「ここで殺したら」
ちらりと、こちらを見る。
「お嬢様が嫌な顔をするので」
一瞬、空気が止まった。相手は、肩をすくめて笑う。
「なるほどな。随分と“躾けられてる”」
張り詰めていた空気が、ふっと緩んだ。
「……お嬢様」
ネロが振り返る。
「お怪我は」
「ないわ」
即答した。そして、数歩近づく。
「ネロ」
「はい」
「——来てくれて、ありがとう」
ほんの一瞬。彼の目が、揺れた。
「……当然です」
少しだけ視線を逸らす。
「使用人ですから」
「違うわ」
首を振る。
「さっきのは、“そういう顔”じゃなかった」
ネロが黙る。
「ねぇ。ネロ。わたくしを諦めないで」
ネロがはっと顔をあげる。お互いに沈黙の後、
「……はい」
小さく、でもはっきりと。
「諦めません。それが正しくなくとも」
「そう。ーーなら、それでいいのよ」
約束をした。




