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 お兄様と薔薇園を見終えた日。ようやく解放された私は、半ば逃げるように屋敷を抜け出した。

「はぁ……生き地獄だったわ」

 誰にともなく呟きながら、いつもの道を進む。森の中。木漏れ日。見慣れた小屋。——でも。

(……気配が違う)

 ぴたりと足が止まった。静かすぎる。いつもなら、薪を割る音か、刃を研ぐ音か、バスカヴィルの鳴き声が聞こえるはずなのに。

「ネロ?」

 呼びかけても、返事はない。胸が、ざわつく。一歩、踏み出した——その瞬間。

「動くな」

 背後から低い声。首筋に、ひやりとした感触。刃物だわ。

(油断していたわ)

 思考が一瞬で冷える。振り向かない。動かない。呼吸だけを整える。

「お嬢様が、こんなところに一人で来るとは」

 知らない声。この屋敷の人間じゃない。でもこれは訓練された、暗殺者の声だ。

「……あなた、誰の差し金?」

「さあね」

 くつくつと笑う気配。

「ただあんたに用がある」

 刃が、わずかに食い込む。

「飼い犬に入れ込んで、秩序を乱す変わり者のあんたにな」

 ぞくり、と背筋が冷える。でも。

(怖い、けど)

 ぎゅっと拳を握る。

(ここで折れたら、全部終わりよ)

「この程度の脅しで、わたくしをどうにかできると思ってるの?」

 挑発。相手の気配が、わずかに揺れる。

「強気だな」

「当然でしょう」

 にやりと笑う。

「ここはモリアーティ家の庭よ。わたくしには番犬がついているの」

 その時だった。——風が、裂けた。

「っ!?」

 首元の圧が消える。金属音。何かが弾かれる音。私は反射的に距離を取って振り返った。そこにいたのは——

「ネロ……!」

 息を切らしながら、刃を構える少年。その目は、今まで見たことがないほど鋭く、冷たい。

「……遅れてすみません、お嬢様」

 低く、抑えた声。でも、その奥にあるのは——明確な怒り。

「下がってください」

「でも——」

「下がって」

 一切の余地を与えない声音。私は、思わず一歩下がった。ネロは前に出る。私と、敵の間に。

「……へぇ」

 相手が舌打ちする。

「飼い犬が来たか」

「お前にそう呼ばれる言われはない」

 静かに言う。でも。その声は、冷え切っていた。

 相手が笑う。

「野良犬のくせに、随分と忠実じゃないか」

 ネロは何も言わない。ただ、一歩踏み込んだ。次の瞬間。激突。刃と刃がぶつかる。火花。息を呑む間もない攻防。

(速い……!)

 目で追えない。でも分かる。ネロは——

(……もっと強い)

 数合の打ち合いのあと。ネロの刃が、相手の喉元に止まった。ぴたりと。寸分の狂いもなく。沈黙。

「……殺すか?」

 相手が笑う。

 ネロの手が、止まる。——選択。

 “庭師”としての正解は、殺すこと。でも。

「……やめておきます」

 ネロは、ゆっくりと刃を引いた。

「ここで殺したら」

 ちらりと、こちらを見る。

「お嬢様が嫌な顔をするので」

 一瞬、空気が止まった。相手は、肩をすくめて笑う。

「なるほどな。随分と“躾けられてる”」

 張り詰めていた空気が、ふっと緩んだ。

「……お嬢様」

 ネロが振り返る。

「お怪我は」

「ないわ」

 即答した。そして、数歩近づく。

「ネロ」

「はい」

「——来てくれて、ありがとう」

 ほんの一瞬。彼の目が、揺れた。

「……当然です」

 少しだけ視線を逸らす。

「使用人ですから」

「違うわ」

 首を振る。

「さっきのは、“そういう顔”じゃなかった」

 ネロが黙る。

「ねぇ。ネロ。わたくしを諦めないで」

 ネロがはっと顔をあげる。お互いに沈黙の後、

「……はい」

 小さく、でもはっきりと。

「諦めません。それが正しくなくとも」

「そう。ーーなら、それでいいのよ」

 約束をした。


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