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どこにでもいる平凡なOL。それが前世の私だった。なんとなく流されるように生きて、自分なんてなくて。遠慮して。自分で勝ち取ったものなんてなかった。誰かを押し除けてまで、なんて。でもそんな自分が嫌いで。
人の目ばかり気にして、なんのために生きているのかなんてわからなかった。
だからーーー
決意を新たに早数年。気が付けば華も恥じらう16歳になっていた。私といえば、今日も今日とて、
「ジェームズ。このお野菜たっぷりのメニューはなあにっ。貴方、わたくしに恨みでもあって!?」
テーブルの上に並べられたお料理に悶絶していた。これはジェームズの密かな反逆である。私が、淑女と言われる年齢になったのに、彼が止めても庭師小屋に行くのがお気にめさないのだ。そうした時の常套手段がお野菜攻め、なのである。最終手段で「お嬢様の健康のためを思って」などと言いながらお魚攻めまでする悪逆非道執事に彼は成長した。料理長とまで結託するとは、なんと姑息な男なの、ジェームズ。
「うううぅー」
「お嬢様。そんなお顔をされても全て召し上がるまで席を立つことはまかりなりませんよ」
駄々っ子作戦は失敗。結局、正午過ぎまでランチに時間を費やしてしまったのだったーー。
「お嬢様、今日は随分と遅かったですね」
「ええ、ちょっとね。主従の関係について闘っていて」
「はい?」
森の中。ネロは相変わらず。大きくなったバスカヴィルがゔぉんと吠える。可愛いわ。
今日の私はなんと言っても完璧令嬢なのである。そうして彼の持つバケツの中を見て、「あわわわ」気絶してしまった、私なのだった。
前世、現代人に人のバラバラ死体はグロいってーーー。
「お嬢様、お気分は治りましたか?」
「はっ」
「急に倒れておしまいになって驚きました。確かにあまり見て気分の良いものではありませんが…」
うぅー、ここがモリアーティ家だということをすっかり忘れていたわ。心の準備ができていても良かったものなのに。私、不自然だったかしら。本来のベアトリスなら平気、…じゃないわよね。なんとなくわかるわ。今は同一人物だもの。
「ごめんなさい。モリアーティの名が泣くわね。わたくし達が命じて貴方が仕事をしてくれてるのに」
「お嬢様が命じたわけではないでしょう」
「一緒だわ。ここはわたくしの家。貴方がすることにわたくしは責任があるのよ」
「……」
まだくらくらする頭を抑えつつ、私は身を起こそうとしてまたふらつく。
「お嬢様っ!」
咄嗟に大きな体に抱き止められた。爽やかなグラスの匂いがする。
「申し訳ございません。ご無礼を」
「いえ、いいのよ。ーーありがとう」
最近のネロと私と言ったら変な感じだった。仲は深まったとは思うのだけど、どこかぎこちないというか、妙に素っ気ないというか。
昔はお膝の上によく乗せてくれたのに最近ときたら、「断固拒否します」などと冷たい返しなのである。
「……ネロ」
「なんですか」
「どうして最近、そんなに距離を取るの」
ぴたり、とネロの動きが止まった。沈黙。
「……取ってません」
「取ってるわよ」
即答した。
「前はもっと——」
言いかけて、少しだけ言葉を探す。
「近かったでしょう」
ネロは、ゆっくりとまた距離を取るり
「……お嬢様」
静かな声。
「それは、お嬢様が“子供だったから”です」
「……え?」
「貴方も、私も大人になりました」
視線を合わせないまま続ける。
「距離感なんて、わかってなかった子供の頃とは違います」
胸が、ちくりと痛む。
「お嬢様は、モリアーティ家のご令嬢で」
一拍。
「〝私〟は、その使用人です」
線を引くみたいに。はっきりと。
「……今さら、それ言う?確かに貴方は使用人としての関係に拘っていたけど」
今更でしょう?私は彼にもっと親しみを感じていた。
「違います」
食い気味に否定される。初めてだった。こんな風に、強く返されたのは。
「最初は」
ネロの手が、わずかに握られる。
「貴方のことを何も知らなかった」
低い声。
「だから、近くにいられた」
その言葉の意味が、じわじわと染みてくる。
「でも今は」
ゆっくりと、こちらを見る。
「たくさん知ってる」
あのバケツの中身。この家のやっていること。ネロが背負っているもの。私は知っているつもりだ。なのに今はネロが遠くにいるように思える。
「……お嬢様がいつまでも私のそばにいるのはおかしいです」
私は、しばらく黙っていた。それから、ふっと息を吐く。
「そうね」
あっさり認める。
「おかしいわね、わたくし」
ネロが一瞬だけ固まる。その顔はどこか青ざめている。でも、続ける。
顔を上げる。
「だって、わたくしがそうしたいんだもの」
ネロが言葉を失う。
「距離を取るかどうかも、関わるかどうかも、全部、わたくしが決めるわ」
「だから、そういう言い方はずるいです」
視線を逸らす。
「全て貴方のせいにしてそばに入れと?」
思わず、くすっと笑った。
「いればいいじゃない」
「……それができたら苦労してません。ーー俺の欲望が貴方の望む形じゃないんだ」
ぼそりと。その声に、ほんの少しだけ本音が滲む。
「?」
「貴方は知らない。俺がどんなに欲深いかなんてーー」
苦悶の表情を浮かべるネロ。壊れものを前にしたようにその手が宙を彷徨って下に下ろされた。
「ねぇ、ネロ」
「……なんですか」
「こっち来なさい」
「嫌です」
「来なさい」
「嫌です」
間髪入れずの応酬。でも——数秒後。
諦めたように、ネロが一歩近づいた。
「……何を」
言い終わる前に。私は、そっと手を伸ばして——彼の服の袖を掴んだ。
「逃げないで」
一言。それだけ。ネロの呼吸が止まる。
「……逃げてません」
「逃げてるわ」
優しく言う。
「わたくしからじゃなくて」
一拍。
「自分から」
ネロの瞳が、大きく揺れた。沈黙。長い、長い沈黙。やがて——
「自分が貴方を汚してしまいそうで」
苦しそうな、掠れた声。
「怖いんです」
ぎゅっとネロに抱き締めれ、触れるか触れないかのキスを額にされた。




