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ジャンヌ――私の知らない昨日を、私たちは生きた  作者: parupuntist


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第六章 これでお別れね

 レティは、パンの焼ける匂いで目を開いた。

 工房の休息室。

 朝の光が、カーテンの下へ細く入っている。

 自分の左腕には、新しい白い布。

 首の後ろへふれると、金属の面は、何にもつながっていなかった。

 時計は、八時二十三分。

 昨日から、日付が変わっている。


 机に、記憶帳があった。

 十九時四十六分。帰ってきた。先生にもう一度診てもらい、工房で休む。

 リリィの名前がある。

 ライに、好きだと返事をしたことも書いてある。

 うれしかった。

 最後の一行だけ、すこし大きい。

 レティは、その字を右の指でなぞった。

 帰ってきた体は、ここにある。でも、その道を自分で歩いた感じはなかった。


 砲口の白い光。

 席の右へ載せた指。

 アジーが、怖くても歩く、といった声。

 機体の右足の、緑の表示。

 そこだけが、紙を見なくても浮かぶ。

 それから先は、帳面を読まなければつながらなかった。

 守ってもらったことはわかる。同じ時間にいた感じもする。なのに呼びかけても、機体の中のようには届かない。


 イネスが、戸口に立った。

「起きた?」

「はい。レティです」

「おなか、空いてる?」

 すこし考えると、おなかが空いていた。なぜか、それがありがたかった。

「空いてます」

 イネスが笑う。

 小さな机へ、スープとパンをおいた。

「今日は、食べて休む。仕事のことは、こちらで連絡してある」

 レティは、右手で匙(さじ)を取った。

 スープから、生姜(しょうが)の匂いがする。

 昨日の朝も、生姜の入った粥を食べた。だれが作ってくれたのかは、わからなかった。

 今朝は、イネスが用意してくれたスープだ。レティはもう一口、飲んだ。


「イネスさん」

「うん」

「ジャンヌの中では、アジーが怖がってるのが、すこしわかったんです」

 レティは、スープの表面を見た。

「あの人は、平気だから代わってくれるんだと、思ってた」

「うん」

「平気じゃなかった」

 イネスは、急いで答えずに聞いてくれた。

「リリィの、帰りたいっていう気持ちも、すこし届いた。知らないことだったのに、遠くの人の話じゃなくなった」

 レティは、匙を皿へおいた。

「降りたら、また、読まないとわからない。あんなに近くにいたのに」

 喉の奥が、狭くなる。

 勝って、捕まらずに帰れた。それでも、みんなの声がまた遠くなったことが、寂しかった。


「そのこと、いつもの先生にも話せる?」

 イネスが尋ねた。

 レティは、記憶帳を引き寄せる。

「話したいです」

 右手でペンを持った。

 ほかの人が書いた、帰宅の時刻。

 その下へ、自分の希望を書く。

『あの中でいっしょにいた時間を、降りたらまた知らないままにしたくない。毎日の暮らしでも、つながっていたい。――レティ』

 読み返してから、パンへ手を伸ばした。

 話す日まで、ここで、食べて待てる。


     * * *


 アジーは、机の上の小さな絵を見た。

 同じ日の午後。

 痛む左腕は、布を巻いたまま膝(ひざ)へ載せている。

 右手には、筆。

 丸い窓と、葉と、取っ手のないカップ。

 昨日は、そこまで描いた。

 今は、続きを決められる。


 窓の内側へ、青を足した。

 筆を水へ浸す。

 塗った色が濁る前に、布で軽くぬぐう。

 小さな音だった。

 砲声のあとでは、小さすぎるくらいの。


 となりの部屋で、イネスとライが話していた。

「サイラから連絡が来た。噴射の予約は、各国の管制が取り消したそうだ。月の船も出始めたって」

 ライの声が聞こえる。

「補給が戻るには、まだかかるね」

 イネスが答えた。

「地球でも月でも、不正な受信装置を止めてる。俺たちの資料も使われたそうだ」

 アジーは、声のする方へ目を向けた。

 その先は、管制や作業班が続けている。全部を守りに戻らなくていい。アジーは絵へ目を戻した。


 筆先が、すこし震えた。

 扉を破ったときの、自分の歯の痛さを思い出す。

 アジーは、いちど筆をおいた。

 息を吐く。

 目の前には、カップの絵がある。

 取っ手は、まだない。

 取っ手は、今日描かなくてもいい。アジーは休むことにした。


 帳面の、レティの希望へ返事を足す。

『アタシが絵を描いて楽しかった感じも、レティに伝えたい。怖かった戦いだけで、アタシの時間を知ったことにしないで。今日は休む。――アジー』

 ペンをおく。

 次の人へ残すのは、戦いだけでなくていい。絵も見えるところへおいた。


     * * *


 四日後、レティは生活医療支援室の椅子に座った。

 左腕には、まだ布がある。

 机の反対側には、以前から話を聞いてくれている担当医。

 閉じた扉の外で、ライが待っていた。

 いっしょに入ってもらうか聞かれたが、今日は、まず自分で話したかった。


 レティは、記憶帳のページを開いた。

「この先のこと、相談したいです」

 先生は、返事の書かれたところまで読んでから、帳面をレティへ戻した。

「あのとき、いっしょに操縦して、何がいちばん違いましたか」

「読むだけじゃなかったことです。アジーも怖かった。でも、いっしょにいてくれた。その怖さがすこしわかって、私も声を掛けられた」

 レティは、自分の右の指を合わせた。

「また兵器へつながないと、ああならないんでしょうか」

「ジャンヌと同じ方法でつながらなくても、暮らしの中でできることはあります」

 先生は、ゆっくり答えた。

「ここでも、短い感覚をつなぐ練習をしてきましたね。帳面で出来事を知るだけでなく、そのときの気持ちも受け取る。それを、無理のないところから続けられます」

「それが、ずっと、続いたら?」

「おぼえている時間の隔たりが、小さくなることがあります。別々の名前で協力して暮らす人もいる。一つの自分として生きる人もいます」

 先生は、レティの顔を見た。

「経験や気持ちをつないでいくことを、統合と呼びます。一つの自分になるところは、最終的な融合、と分けて呼ぶこともあります」

 レティは、そのことばを、小さく繰り返した。


「みんなの名前が、なくなるんですか」

「そうなれば、今のように別々に呼び合う感じは変わるでしょう。寂しさや、怖さがあってもおかしくありません」

 先生は、簡単に、大丈夫とはいわなかった。

「だれかを追い出して、残った一人だけが生きる話ではありません。みんなが過ごした時間を、自分のものとして持つ。そのために、望みや怖さを聞いていきましょう。急いで決めなくていいんです」

「知らない過去を、全部見ないといけないですか」

「いいえ。思い出せないところがあっても、暮らしはつなげます。今話せないことを、無理に思い出さなくてもいいのです」

 レティは、机の角から目を上げた。

 全部を思い出さなければ、自分の人生にはならない。そんな条件は、なかった。

 レティは、キットのページへ目を落とした。

「痛かった時間も、いっしょに持てたらと思います。でも、本人がどうしたいか、まだ聞けていなくて」

「その希望も、キット本人の希望や不安も、聞きながら相談しましょう」

 レティは、うなずいた。


「私は」

 レティは、息を整えた。

「昨日の私を、おぼえている明日がほしいです」

 先生が、うなずいた。

「その希望を、出発点にしましょう」

 帰る前に、レティは、説明を記憶帳へ残した。

 みんなを呼び出して、賛成してもらおうとはしなかった。読めるときに読んで、明日でも、その先でも返してほしい。空白を、自分の希望で埋めたくない。


     * * *


 リーヌは、診察の説明を読んだ。

 次の朝。工房の休息室。

 右手で眼鏡を直し、ひざに載せた左腕の位置を変える。

 統合。

 最終的な融合。

 どんな変化かはわかる。でも、自分が望むのかは、まだ答えられなかった。


 別々の名前で、呼び合わなくなる。

 次に起きる人へ、何を知らせるか考えなくなる。

 レティは、昨日をおぼえていたいといった。

 自分も、交代のたびにレティへ説明しなくて済むなら、と思っていた。

 でも、説明を読み終えたあと、左手が自分の名を探していた。

 リーヌ。

 この字を書かなくなる日は、来るのだろうか。


 帳面を、すこし前へ戻す。

 十九時三十六分。リリィの返事。

 うれしかった。

 自分なら、帰った時刻と手当ての内容を先に書く。次にすることを並べ、安心した気持ちは後回し。書かずに終わる日もあった。


 機体の中では、怖いといえた。ライは通信を切らず、みんなも道を見てくれた。すこし楽になったことを、今もおぼえている。

 またそうなりたい。でも、リーヌとして返事をする自分がなくなるのは、怖かった。


 リーヌは、左手でペンを取った。

『わたしが説明しなくても、皆がおぼえている。そのとき、わたしはどこにいるのでしょう。別々に呼ばれなくなるのは怖いです。安心した時間を伝えたい気持ちもあります。今は、どちらも。――リーヌ』

 署名へ、指をおいた。

 消さずに残す。


 キットのページでも、指が止まった。

 痛さを持つ役割だと知っていた。でも、この先もキットは一人で持ちたいのだろうか。

 自分の役が変わるのも怖い。彼にだけ、簡単に怖さを捨ててほしいとはいえない。

 もう一行、書く。

『キットへ。痛かったことを、役目の説明だけで終わらせたくありません。どう持てるか先生に聞きたいです。わたしの怖さも、話します。――リーヌ』

 リーヌは、賛成と反対の欄を作るのをやめた。

 今、何がほしいか。

 何を失うのが怖いか。

 その二つを書くために、新しいページを残した。


     * * *


 ジョーンは、同じ行を三度読んだ。

 その日の夕方。工房の休息室。

 左腕の布が、まだ厚かった。

 別々の自分だと感じる境目が薄れ、一つの自分として生きる。

 先生の説明を、レティが写した行。

 その下にある、皆の返事。


 俺の返事は、まだない。


 右手でペンを握った。

 署名する場所の白さが、急に、嫌になった。

 賛成したら、レティは昨日をおぼえ、ライへ返事をする。その朝に、俺はいるのか。

 俺が、次に目を開ける日は。


「ふざけんな」


 ペンが紙へ食い込んだ。顔は熱く、手は冷たい。怒っているのに、息が震える。

 原型の腕が落ちたとき、自分の体まで失った気がした。今も手はここにある。なのに、次に起きる自分がいないと思うと、口が乾いた。


『俺は消えたくない。まだ決めるな。――ジョーン』


 書いても、安心できなかった。眠ったあとに、ほかのやつが読む。いいことだからと、話を進めるかもしれない。

 ジョーンは帳面を閉じられなかった。


 ライが、戸をたたいた。

 ジョーンは、自分の行を隠さず、帳面を渡した。

「俺って、いない方がいいのか」

 ライは、読んでから顔を上げた。

「そう思ったことはない」

「疑うやつが減った方が、楽だろ」

「お前が止めたから、地下で味方を撃たなかった」

「それ、役に立ったからだろ」

 自分でも、きつい声だと思った。

 止められなかった。

「役に立つときだけ、俺を呼ぶのか。あとの日はいらないのかよ」


 ライは、すぐ返さなかった。

 椅子を一つ寄せて、同じ高さに座る。

「俺は、お前と、壊れたねじの悪口もいいたい」

 ジョーンは、彼を見た。

「それだけの日にも、会いたいと思う」


 口は開いたが、言い返せなかった。胸の震えだけが残る。

「……消えるのか、先生に聞きたい」

「聞こう」

「俺が寝てる間に、レティが一つになるって決めたら?」

「お前が嫌だと書いたことを、レティにも読んでもらう。俺から、今すぐ賛成しろとはいわない」

 ライは、帳面を彼へ戻した。

 何も消されていない。先生の答えまで、代わりに約束することもなかった。


 ジョーンは、最後にもう一行、書いた。

『俺が嫌だといったことを、余計な不安みたいに消すな。先生に話したい。――ジョーン』

 ペンを置く。

 ライが席を立つまで、紙の上の字を見ていた。

 まだ、怖かった。

 だから、怖いままの返事を残した。


     * * *


 レティは、裂けかけたページを開いた。

 次の朝。自分の左腕は、まだ布の中にある。

 ライから、ジョーンが説明を読んだことを聞いた。

 帳面へ、右の指をおく。


 俺は消えたくない。


 その字が、紙の裏まで浮いていた。

 ペンを取れなかった。いっしょに生きて、昨日をおぼえていたい。その先に、ジョーンは自分のいない朝を見た。


 味方を撃たないと止めたジョーン。怖いまま動かしてくれたアジー。あの判断が、そばにあった。

 役に立ったから残し、役目を終えたらいなくなる。そんな話にはしたくない。


 レティは、空いた行へ書いた。

『今すぐには進めません。あなたがいなくなればいいとは、思っていません。でも、私の希望だけでは、そう怖くなることに気づけなかった。嫌だと思ったことも、その理由も、先生に話してほしいです。私も相談します。――レティ』


 解決したことは、なにも書けていない。でも、急いで賛成してもらうのはやめられる。もう一行足した。

『まだ決めるな、という返事を、そのまま残します。』

 最後に足す。

 ジョーンの字へ、線を引かなかった。

 その日は、次にしてほしいことの欄も、空けておいた。


     * * *


 ジョーンが、生活医療支援室へ来たのは、それから二日後だった。

 ライには、廊下で待っていてもらった。

 先生の机へ帳面を置く。開いたページには、自分の字がある。

 まだ決めるな。


「これ、俺が書いた」

「はい」

「レティは待つっていった。でも、この先、俺が次に起きなくなったら?」

 先生の顔を見た。

「昨日の俺がいたって、あいつがおぼえてても、今日の俺がいなきゃ、同じじゃないだろ」

 止めようとしても、かかとが床を打った。

「自分が消えるように感じるんですね」

「感じるだけかどうかも、わからねえんだよ」

 声が大きくなった。

 廊下へ聞こえたかもしれない。

 先生は、扉を見なかった。


「今のように、別々に目を覚ます感じが、ずっと続くとは約束できません」

 その答えに、ジョーンの腹が冷えた。

「だから、怖いまま急いで進めることはしません。今日は、一つになるかどうかを決める日ではありません」

 先生は、帳面を指した。

「あなたが嫌だといったことを、ここで消したり、ほかの人の希望で上書きしたりしません」

「俺が反対してると、治してもらえないとか」

「ありません。これからも、眠ること、仕事へ戻ること、怖くなったときのことを相談できます」

 ジョーンは、組んだ指をほどいた。

 話しただけで、同意したことにされる場所ではないらしい。


「でも、毎回、起きたとき、何があったか探すのは嫌だ」

 ようやく、そこまでいえた。

「ライが待ってたって書いてあっても、俺には待ってもらった感じがない。……それも、嫌なんだ」

「まず、今あった安全な出来事を、気持ちといっしょに受け取るところから。怖い過去を思い出すか、一つになるか。それも今日、まとめて決めなくていいんです」

「途中で、もう嫌だと思ったら」

「止めて、また話しましょう」

 先生は、ペンを渡す前に聞いた。

「今日の話を、どう残したいですか」


 ジョーンは、帳面へ右手を置いた。

 足の揺れは、まだ止まっていない。

『消えるのは怖い。今も嫌だ。まず、今日のことを分け合う練習だけ、相談する。先のことまで賛成したわけじゃない。――ジョーン』

 書き終えて、先生に見せた。

 直せとはいわれなかった。


 廊下へ出ると、ライが立った。

「帰るか」

 ジョーンは、彼の持つ二人分の上着を見た。

 診察で統合へ賛成したかどうかを、先に尋ねることはしなかった。

「帰る」

 そう答えたあと、すこしだけ、続けた。

「今日、お前が待ってたところは、俺がおぼえてる」


     * * *


 キットは、カレンダーへ左の指をおいた。

 塔から帰って、二週間ほどたったころだった。

 腕の傷をおおう布は、すこし小さくなっている。

 工房の机で、帳面の日付を、一つずつカレンダーの枠へ合わせた。

 塔の送信が止まった日。

 工房へ帰った日。

 先生と話した日。

 紙の上では、順番に並んでいる。

 そのあいだに、色の違う小さな紙を挟む。


 昨日イネスと鉢を植え替え、土を混ぜて葉を拭いた。それは、自分でおぼえている。楽しかったと書いた。

 次の人にも、土のやわらかさまで伝えたい。

 先生の説明を読み直した。楽しい時間だけではないのだろう。痛かったことも、ぼく一人の中だけでなくなるのかもしれない。


「イ……イネス」

 最初の音の先で、息が止まった。

 イネスが顔を上げて、続きを待つ。

「あのときのこと、みんなと持てたら、ぼく、すこし、楽になるかな」

 拭いていた鉢が、机へおかれた。

「今も、ひとりで持っている感じがする?」

 キットは、帳面を見た。

 知らなかったと、みんなが返事をくれた。

 うれしかった。でも、痛さはまだ、自分の中にある。

「みんなが寝てるあいだ、ぼくだけ、あのときにいるみたい」

 左の指で、今日の枠を押さえる。

「みんなと分けて持てたら、ずっと一人で、そこにいなくていいのかな」

 息を吸った。

 今は、吸っても胸は痛くない。

「それなら、ぼく、やってみたい」

 いったあと、紙の端をつまんだ。

 別の自分として目を開ける感じは、変わるかもしれない。その説明も読んでいる。

「でも、一つになったら、ぼくは……」

 続きの音が出るまで、イネスは待った。

「ぼくって、いえなくなるの?」

 顔を上げる。

「みんながおぼえてくれても、ぼくが、いなくなったら。楽になったって思うの、だれ?」

 すこしうれしかったのに、腹が冷える。昨日は、鉢の根を変な足の生きものだと思って笑った。

 続きを笑いたいのは、ぼくだ。


「い、痛くて、苦しいのは……嫌だ」


 声が出たあとも、胸の中では、まだ、つかえていた。

「だから、みんなと持てるなら、うれしい。でも、ぼくが消えるのは、こわい」

 イネスは、ペンを渡す前に、キットの顔を見た。

「楽になりたい気持ちも、消えるのは怖いっていう気持ちも、両方、先生に伝えよう」

「話を聞いてもらっても、ぼくが、ぼくのままでいられる?」

 イネスは、すぐにはうなずかなかった。

「今と同じまま、って、私には約束できない。だから、そこも聞こう。今日は先まで決めなくていいよ」

 キットは、今日の枠を見る。

 鉢を植え替えた日の、次の日。

「昔のことも、いっぺんに見せなくていい?」

「うん。今日は、何を残したいか聞いているよ」

 机の端に、水がある。

 キットは、一口飲んだ。

 帳面の新しいページへ、希望と怖さを並べた。

『すこし楽になれるなら、やってみたい。でも、ぼくがなくなるのはこわい。昔の記録は、今日は開かない。先生にも両方話したい。――キット』

 細い根を、その下へ描く。

 次の水やりの日を、カレンダーへ書いた。

 次の人に、鉢の世話も頼んだ。起きるまで待ってほしいのではない。また伸びた葉を見たいし、水をやった感じも知れたらうれしい。

 ページをめくってから、もう一つ足した。

『みんなが苦しくなるのは、いいのかな。』

 それも、先生へ聞きたかった。


 帳面には、ここまでの二週間の返事もあった。

『休んでと書いても、次の人が急いでしまう朝がある。今のけがを、見落とされたくない。休む理由も、自分の体のこととしてわかってほしい。――ノア』

『声を聞いてもらえなくなるのは嫌だ。でも、倒れる寸前まで説明しなくても休めるなら、そうしたい。――ヴェル』

 ミナは、月を見た夜を、仕事の計算だけにしてほしくないと残していた。

 オルドの字は、短かった。

『練習の途中で嫌だといったら、止まれるか。止めても、工房で暮らしていいのか。まだ、たしかめたい。――オルド』

 キットは、次のページも読んだ。

『自分の声で話せなくなるのは、寂しいです。でも、本を読み終えて明るい窓を見た日の喜びも、いっしょに持ちたい。――セラ』

『出口を探す僕が、もう要らないといわれるのは怖い。でも、逃げ道を探さず眠れた夜も、次の人へ続いてほしい。――ルカ』

 ミュウは、ライが工具を落とし、イネスが笑った録音を選んでいた。

『好きな音を、だれにも聞かれずに終わらせたくない。――ミュウ』

 それでも、知らない声を勝手に流し続けはしなかった。

 エマの返事は、すこし遅れた。

『すぐ、いいよといったら、先まで賛成したことにされそうで怖い。あたしが何を望んでいるのか、待ってほしい。今は、まだ、考えています。――エマ』

 キットは、そのページの端に日付を足した。

 空白のまま待った日にも、ちゃんと、日付がある。


     * * *


 アジーは、絵の前で、絵の具の蓋を閉じた。

 塔から帰って二週間ほどたったころの、工房の午後。

 腕の布は小さくなったが、まだ、重いものは持たない。

 丸い窓。葉。取っ手のないカップ。

 同じ絵を、何日かおきに描いている。


 帳面には、ジョーンの拒む字と、レティの返事があった。

 今日は決めない。

 自分も、そう書ける。

 キットの返事には、楽になりたい希望と、消えるのは怖いという文が並んでいた。

 助けたいからといって、自分やキットの怖さを押し込めていいわけではない。

 アジーは、空いたところへペンをおいた。


『アタシ、まだ描いてない絵がある。描きたいと思ってるアタシが、いなくなるのは嫌だ。――アジー』


 大きな絵も、土を握る子どもの手も、知らない町も。これから、自分で色を選んで描きたいのに。


 机の向こうでライが、ばらしたパーツを並べている。

 アジーは、ペンを置いた。

「一つになっても、絵が残ればいい、って思える?」

 ライは、手を止めた。

「何の話?」

「描いた人が、もう、アタシっていわなくなっても」

 絵だけ壁に残って、自分はこの色が好きだといえなくなる。そう思うと、窓の青が遠く見えた。


「残したいの、絵だけ?」

 ライが聞いた。

 アジーは、首を振る。

「描いてて楽しかったのも。うまくいかなくて、むかついたのも」

 いったあと、絵の具の蓋を開けた。

 青に白を混ぜすぎて、腹が立っていた。完成した絵だけでは、その気持ちは見えない。


「レティにも、この色を選んだときの話、残せるか」

「……今日は、ことばなら」

「今日は、それでいいんじゃないか」


 アジーは、白を混ぜた場所へ、小さな矢印を描いた。

 この色にしたかった。

 次の青は、すこし濃くしたい。

 先のことは怖い。でも、今描きたい線が見えた。嫌だと思うままでも、今日の絵は描ける。


 その夜、別の筆跡の返事が来た。

 レティは青が好きだと書いていた。でも、描いたときの気持ちはまだ思い出せない、と。すぐにわかったことにはされなかった。

 アジーは、次に読んだとき、その一文のそばへ、短く返した。

『じゃ、すこしずつ。絵が残ったからそれでいい、ってことにはしたくない。アタシがどうして描きたかったのかも、聞いて。――アジー』


     * * *


 ジョーンは、担当医の前で、腕を組むのをやめた。

 塔から帰って、ひと月ほどたったころ。

 接続器を診る病院の、小さな相談室。

 医師は診察の結果と、工房で調べたデータをたしかめていた。必要なことは、支援室の先生にも伝わる。

 机には、機体の接続図が一枚あった。


「一つになったら、あれには乗れないんだな」

 ジョーンは、原型の仕様を指した。

「戦うための接続は、合わなくなると考えられます」

 医師が答えた。

「別々の自分から考えを読み、機体へ送る接続器です。一つになれば、知識が残っても、同じ信号の出し方にはなりません」

「十五人、そろわないから?」

「十五は、機体の処理系統の数です。人数ではありません。一人で速く考えたり、技能を使い分けたりしても、代わりにはならないんです」

 ジョーンは、図から目を離した。

 乗れなくても、つながる方へ進むのか。自分たちの未来として考えた。


「装置を直したら、戻せるとか」

「一つの自分で使える接続器は、まだ作れません。それに、兵器のために、望む暮らしを変える理由もありません」

「……そうか」

 ジョーンは、右の指で机の端を二度たたいた。

 部屋は静かだった。

 だれも、能力を惜しめとはいわなかった。


 接続器をどう扱うか相談するため、押収された記録も読むことにした。レティも頼んでいた。装置を付けたまま連れ戻す理由を、ジョーンも知りたい。

 医師が、保安側から受け取ったログのコピーを開いた。

 研究の責任者名。ヴァイス。

 その下の一行を、ジョーンは読んだ。


『原型を動かせる状態を保つため、人格ごとの分離を維持する。』


 次の行を読めなかった。暮らしの先を相談する前から、向こうは決めていた。原型を使うため、分けたままにすると。


 ハーデンの声を思い出した。

 君の判断は、君だけのものだ。

 閉じた部屋を怖がる理由を、だれにも渡さずに済む。あのとき、すこしだけほしかった言葉だ。

 だからこそ、腹が立った。消えたくない気持ちを使って、分けたまま機体へつなぐのが自分のためだと、思わせようとしたのか。


「俺が、俺でいたいっていうのを、機体のパーツみたいに残すつもりだったんだな」

 ジョーンは、記録を見たままいった。

 医師は黙って聞いた。

「俺が疑ったこととか、嫌だっていったことは、残したい。でも、一生、俺だけで見張ってたいわけじゃない」

 記録を押す右の指が、白くなっていた。

 敵と反対を選べば済む話ではない。今も、消えたくないのは自分の気持ちだ。

「これ読んだから、怖くなくなるとかじゃないぞ」

「はい。あなたがどう生きたいかを、記録の方針から決めることはしません」

 医師の答えを聞いて、ジョーンは、すこし指をゆるめた。

 怖いまま考えていい。自分の名前を守るために、兵器へつながり続けなくてもよかった。


「先生。怖い記憶を話すとき、途中でやめてもいいんだろ」

「はい。暮らしの相談でも、体の治療でも、止めてほしいと話せます」

「次に起きたやつが、続けろっていわれたりは?」

「そのとき、どういう状態で、どうしたいか。本人にたしかめます」

 ジョーンは、右手を机から引いた。

「それ、書いとく」

 帳面へ、医師の返事を残す。

 最後に、自分のことばを足した。

『俺が疑った理由も、休みたくなった日の気持ちも、おぼえていてほしい。怖いことを全部話せたら先へ進める、なんて条件にはするな。――ジョーン』


     * * *


 リリィは、ライへ記憶帳を渡した。

 工房の閉店後。

 机の上には、片づけかけの工具と、二つのカップ。

 左腕の傷は、薄い線になりはじめていた。

 ライが、統合について書かれたページを読む。

 接続器のことも、一つになると原型に合わなくなるかもしれないことも、そこにあった。


「ジャンヌの中みたいに、みんなの気持ちもわかる毎日がほしい」

 リリィは、自分のカップへ左手を添えた。

「でも、あたしがライを好きなのまで、なくなるのは、嫌」

 ライは、帳面を閉じなかった。

「なくしたくないんだな」

「うん。あんたにいったことも、ちゃんと帰って、うれしかったのも」

 リリィは、机へ目を落とした。

 白い糸で縫った手袋が、彼の工具の上にある。

 帰ってきて、好きだといった。それを、なかったことにされたくない。

 別の名を呼ばれる朝にも、胸が痛む。もうリリィと呼ばれなくなったら。左の指が、カップを固く握った。

「あたしがいった、好きっていうの、だれかの記録だけになるのは嫌」

 声が、思ったより細くなった。

「好きだっていいたかったあたしの気持ちまで、忘れないでいてほしい」


「俺がリリィにした返事は、俺がしたことだから、おぼえてる」

 ライがいった。

「でも、その先で、お前がどう感じるかを、俺が決めることはできない」

 リリィは顔を上げた。

「……そのとき、聞く?」

「聞く。お前の気持ちも、俺の気持ちも、そのとき話したい」

 ライは、帳面を彼女へ戻した。

「ここへ書いてあったから、好きでいろとは、いわない」

 リリィは、黙っていた。

 みんなの時間へ、自分の恋も持っていきたい。その先でも好きかどうかは、その日に感じて、話せばいい。


「あたしの恋だったって、知っててほしいの」

「うん」

「続きは、また、話していい?」

「話していい」

 リリィは、カップから手を離した。

 彼の右手へ、左の指を載せる。

 傷のあとは、もう、乾いていた。

 今の自分が、こうしたいと思っている。

 彼は、その手を、握り返した。

 リリィは、すこしだけ息を吐く。

 先でどう呼ばれても、好きだといった今日を捨てなくていい。このあたたかさを、持っていきたかった。


     * * *


 フィルは、支援室の窓のそばへ座った。

 椅子の前の小さな机には、丸い石が三つ。

 右耳を先生へ向けている。

 窓から、青い空が見えた。

 ジャンヌの頭から見た空とは、高さが違う。

 今は、遠くへ逃げる場所を探さなくてよかった。


「みんな、一つの自分になるって」

 フィルは、丸い石を右手へ取った。

「ぼく、どこに行くの」

 先生が、こちらへ椅子を向けた。

「ぼくが寝たら、もう、起きない?」

 石を握る指に、力が入った。

「まだ、寝たくない」

「今日、眠ったらいなくなる、という話ではありません」

 先生は、声を急がせなかった。

「今は、どんなことが怖いか聞いています。ここで、先のことを決めなくていいですよ」

 フィルは、しばらく石を離さなかった。

「ここで話しても、いいよっていったことにはならない?」

 先生がうなずくのを見て、フィルは手を開いた。


「ぼくが見た、きれいなの、みんなが知ったら」

 小さな石を、机へ戻す。

「ぼくが、いわなくても、きれいって思う?」

「そういう時間を、つなぐ練習ができます」

「ぼく、ジャンヌの上、好きだった。高かった」

「うん」

「でも、撃つのは、嫌だった」

「今、窓から見える空は、どうですか」

 フィルは、顔を上げた。

 雲の端に、小さな丸がくっついている。

 白いカップを、ひっくり返したみたいだった。

 すこし、笑う。

「これも、好き」

 先生が、紙を一枚渡してくれた。

 フィルは、雲の形を描いた。

 危ない足を探すためではない。あとで自分も、ほかの人も、好きだと思った雲を見たかった。

 絵の下には、右の字で書いた。

『ぼく、まだこわい。でも、このそら、つぎもすきがいい。――フィル』


     * * *


 レティは、帳面を最初から読み返した。

 次の診察へ行く前の夜だった。

 仕事用の机。

 いつもなら、翌日の回収品の番号を調べる時間。

 今は、先生へ持っていく返事を、確かめている。

 怖いという行。

 こうしたいという行。

 原型へ、もう適合しなくなるという説明。

 レティは、それを飛ばさず読んだ。


 あのつながりはほしい。でも、また兵器に乗り続けたいのではない。

 絵を描き、土にふれ、返事をして、仕事へ行く。そこで暮らした時間を、自分にも続けたい。


 レティは、アジーの絵を見る。

 カップの取っ手は、まだ、ない。

 描く人が、いなくなればいいわけではない。

 あの色を好きだと思った気持ちまで、持っていきたい。

 キットの、楽になれるならやってみたい、という返事もうれしかった。

 みんなが苦しくなるのはいいのかな、とも書いてあった。

 レティは、返事を残す。

『痛かった時間を、私も持ちたいです。怖さもあるので、すこしずつ、先生と相談したいです。消えるのが怖いという返事も、残しておきます。――レティ』

 リリィは楽しい日も苦しい日も知りたい、アジーは嫌なら止まる、ジョーンは先生へ聞こうと返していた。

 だれも、今すぐ全部を渡せとはいっていない。

 ページを戻す。

 ジョーンの字は、強く紙へ食い込んでいる。

 消えたくない。

 まだ決めるな。

 休みたくなった日も、持っていってくれ。

 返事の違いも、それぞれの日付も、消さずに残っている。

 全員が同じ日に賛成したわけではない。まず、今の安全な出来事と気持ちを分け合ってみたい。その返事が増えた。怖いと書いた人も含めて。


 右手で、最後の空白へ書いた。

『原型にまた乗れることより、昨日の私をおぼえている明日がほしい。皆の希望と不安も持って、先生と進め方を相談したい。――レティ』

 すぐに全部が変わるとは、書かなかった。

 違う返事が出れば、また読む。

 今日は、ここまで。


 机の灯を消す前に、空いたカップを流しへ持っていった。

 水を出し、底に残った茶を流す。

 ふと、持ちやすい取っ手の形を考えた。

 あの絵には、まだ描かれていない。

 レティは、洗ったカップを伏せた。

 明日も、使うつもりだった。


     * * *


 先生と相談し、安全な今の出来事を伝え合う練習を始めた。それでも、急には変わらなかった。


 リーヌは、朝の帳面へ、昨日の買い物を書いた。

 パンと、筆を一本。

 値段の下へ、選んだときの気持ちを足す。

 細い筆を見つけて、アジーが喜ぶかもしれないと、すこしうれしかった。

 次に読んだ人から、返事が来る。

 わかった。

 出来事は伝わっても、選んだ感覚までは思い出せないらしい。


 首の装置は、病院で体の状態を見ながら治療した。支援室では、気持ちを安全な場所へ戻す練習をする。昔のことを話す日も、話さない日もあった。

 工房の仕事にも戻った。パーツを洗い、番号を見て、接点を直す。疲れれば、どの名前の日にも休む時間は要った。


 数か月たったある朝、リーヌは、帳面を開く前に、昨日の店を思い出した。

 棚の下の方へ、安い筆が並んでいた。

 買ったのは、アジー。

 いつもなら、彼女の書いた値段を読んで知る。

 今日は、店の戸を押したときの鈴の音と、筆の柔らかさが残っていた。

 リーヌは、眼鏡へ手をやった。

 帳面を読む。

 書かれたことと、残っている感覚を比べる。

 同じだった。


 すこしだけ、うれしくなる。

 うれしさのあとに、寂しさが来た。説明する前に、同じことをおぼえている。別々の時間が重なって、知らせなくていいことが増えていた。

 リーヌは、その寂しさも、先生へ話した。

「知らせることがなくなったら、わたしは、要らなくなるようで」

 いったあと、ひざの左手を見る。

「でも、値段だけではなくて、柔らかい筆を好きだと思ったことも、わたしの中にありました。何も整理せずに窓を見て、ライがお茶をおいてくれた日の安心も」

 役目を終えても、休んで、何かを好きでいてよかった。

 名前を書かなくなる怖さは、まだある。

 怖さも聞いてもらいながら、もうすこし受け取ってみたい。うれしさと怖さの両方を、帳面にも残した。


     * * *


 寒い時期に、一度、記録を読むのをやめた。

 ジョーンが前にいる日だった。

 先生と相談していた、昔の記録。

 扉の閉まる音のことを話したとたん、息が浅くなった。

 工房へ帰ってからも、戸の鍵を何度も確かめた。

 帳面を伏せる。


「今日は、やめる」

 ライへいった。

「うん」

「途中まで、話したけど」

「続き、今日じゃなくていい」

 ジョーンは、彼の顔を見た。

 全部話せば、仕事に戻っていい。自由にしてやる。そんな条件は、出されなかった。


 その日は、二人で古い計測器のねじを外した。

 閉めるときの締めつけが強すぎて、頭が傷んでいる。

 ジョーンが、別の工具を選ぶ。

「最初にやったやつ、雑だな」

「俺だ」

 ライがいった。

 ジョーンは、いちど彼を見て、鼻で笑った。

 笑えたことに、すこし驚いた。

 怖い話をやめても、その日が全部失われたわけではない。


 夜、帳面へ書いた。

 今日は読むのをやめた。計測器は直した。ライがねじを壊していた。

 数日後に開くと、最後の一文へ、次の人から小さな丸がついていた。

 ライと話して笑った感じも、少しわかったと添えてある。

 そのとなりに、レティの字があった。

『先生に、今日は続きをしないと話した。私も、今は怖いと思った。止めてから、ねじのことを思い出して、すこし笑えた。』

 ジョーンは、長く、その二行を見た。

 眠ったあとも、続きをさせられていない。レティも怖さを知り、読むのをやめた。断った理由まで、伝わっていた。

 ほっとした途端、別々でなくなっていく怖さが、また来た。

 それも、書き足した。

 翌週の診察で話すつもりだった。

 急いで平気にならなくていいことを、もう一度、確かめたかった。

 疑う力を捨てなくてもよかった。

 レティも断れる。自分だけが、気を張って起き続けなくてもよくなっていた。


     * * *


 次の暖かい季節、レティは、窓のそばで絵を描いた。

 左の指で紙を押さえ、右手で筆を使う。

 腕の傷は、薄い線になっている。

 首の金属の面は、すこしずつ進めた治療のあと、なくなっていた。

 その日にも、記憶帳は必要だった。

 装置を外した朝に、皆が一つになったわけではない。


 絵には、丸い窓がある。

 鉢の葉が、その手前へ伸びている。

 カップには、やっと取っ手を足した。

 丸くしすぎると、持ちにくそうだ。

 すこし細長く描き直す。

 その形が、好きだった。


 アジーのまねではない。色を取る楽しさも、線がつながらないいらだちも、自分の気持ちだ。

 見せようと内側へ呼びかけた。でも、返事の代わりに、青を薄くしたいという自分の好みがあった。

 レティは、筆先へ水を足す。

 紙の上で、青が広がった。


 その夜、帳面へ、絵のことを書いた。

 昨日、選んだ筆もおぼえている。

 明日は、葉の続きを描く。

 自分の名前を書こうとして、すこし手が止まった。

 この喜びを、だれのものと書けばいいのか。

 考えてから、今日の自分の名を書いた。

 好きな色を選び、描いて喜んだ。今日の自分にも、その気持ちがある。


     * * *


 アジーは、机の上の絵を見た。

 レティが窓を描いた、その週の終わり。

 青は、前より薄い。

 筆を水へ入れたときの、すこし楽しみな感じが残っていた。

 帳面を読んでから浮かんだものではない。

 アジーは、右手で筆を取った。

「あ、これ」

 うまくつながらなかった葉の線。

 もう一度描きたいと思ったことも、おぼえていた。

 レティの名前で過ごした午後だった。

 その続きを、今、自分も描きたい。


 消えたくないと書いた自分は、まだここにいる。でも、起きるまで絵を待たせなくてもよくなってきた。選んだ色も、線へのいらだちも、ほかの名前の日へ続いている。


『アタシが選んだ青を、ほかの名前の日にも、自分の好きな色だと思って描けた。それ、うれしい。続きは、明日も描きたい。先生に、そう話す。――アジー』


 筆を洗ったあと、アジーは、ほかの返事も読んだ。

 書かれた日は、そろっていない。

 怖さの減り方も、同じではなかった。

 キットには、別の日の土の匂いや、鉢の世話が続いていた。昔のことをすこし話して、苦しくなり、やめた日もある。次に起きたレティも、続きを開かなかった。

『場面は、まだ思い出せません。でも、息を吸うのが怖かった感じが、私にもすこし残りました。今日は続きを開かず、先生に話します。――レティ』

 痛さの全部が、一度に戻ったのではない。キットが伝えたいところから、少しずつ持った。

 後から、左の字が足されていた。

『今も苦しい。でも、ぼくだけの中にあるんじゃないって、すこし思えた。土をさわって、笑いたかった気持ちも続いてた。もっとつながる方へ進みたい。なくなるのは、まだこわい。それも先生に話す。止めたくなったら、また止める。――キット』

 希望も怖さも残したまま、本人が選んだ返事だった。

 レティも雲がきれいだと返していた。あとでフィルが、右の字を足している。

『ぼくも、そのひのくも、すき。こわいのは、せんせいにいう。』

 ノアは、次の人も痛い朝に仕事を休めたと書いていた。ヴェルも、何度も説明する前に止まってくれた、と。

 ルカは、出口を何度も調べなかった夜をおぼえていた。オルドの返事は、その下にある。

『帰っていいと思えた。見張る日だけを、俺の全部にしなくていい。』

 ミナが夜空を見た日の喜びも、次の朝へ、すこしずつ続くようになった。


 リリィは、レティがライと買い物をした日をおぼえていた。名を呼ばれなくなる寂しさはある。でも、二人でパンの袋を持ったうれしさが、読む前から残っていた。

『あたしの恋を、いなかったことにされていない。続きの気持ちまで、先に決めなくてもよかった。明日は、また、明日の気持ちを聞く。――リリィ』


 セラは、別の名前で読みかけた本の続きを気にした朝を書いていた。読んだ場所だけでなく、続きが楽しみな感じも残っていたという。

 ミュウの録音には、ほかの人も笑ったという返事。選んだ音の楽しさを、知る人が増えていた。

 エマのページには、長く余白があった。

『待って、といったら、待ってもらえた。そのあとで、あたしから話せた。すぐ決めなくても、暮らしは続いた。――エマ』


 アジーは、最初の怖いという行も読み返した。

 絵の話だけではない。『今日はここまで』と書いた人に、続きをせかす返事もない。

 帳面を閉じて、窓へ目を戻す。

 今日の葉は、昨日より、すこし開いていた。


     * * *


 その年の夏、ジョーンは、昨日のことを帳面で確かめた。

 工房へ、新しい仕事の話が来ていた。

 しばらく使われていない、地下の設備。

 扉を閉めて、音を出す検査がある。

 前にいたのは、レティだった。

 彼女は、今すぐには引き受けず、検査の方法を聞き直していた。


『扉が閉まると、怖くなった。ジョーンが嫌だといっていた理由を、読んで知っていたときと違った。外から調べられる方法を相談した。――レティ』


 ジョーンは、行の途中へ指をおいた。

 起きるまで返事を待たなくても、レティは断れた。自分が嫌だと思った理由が、彼女にもわかる。腹の固いものが、すこしほどけた。


 昨日の昼のことも、うすく残っている。

 机へ置いた、仕事の図面。

 外の風の音。

 すぐに決めなくていいと思ったとき、やっと吐けた息。

 自分の声で話したのではない。でも、ひとの話を借りた感じとも違っていた。


 ジョーンは、最初に拒んだページを開いた。

 俺は消えたくない。

 まだ決めるな。

 強い字は、そのまま残っていた。

 嫌だといえて、待ってもらえて、よかった。反対した自分を、恥ずかしかったことにはしたくない。


 次の診察で、ジョーンは、その二つのページを見せた。

「今も、俺の名前で起きなくなるのは、怖い」

 先生は、続きを待った。

「でも、俺が寝てたら、俺が嫌だと思ったことまで、なくなる暮らしは嫌だ。……昨日、あいつが断れたの、俺もうれしかった」

 そこまで話して、目を伏せた。

「消えたくないっていった俺の気持ちも、持っていきたい。怖かったのをなかったことにして、平気な顔で進むんじゃなくて」

 帳面へ、右手で書く。

『まだ怖い。でも、今は、すこし先まで進めてみたい。止めたいときは、止める。――ジョーン』

 昔の返事を消して、書き直しはしなかった。

 その下へ、今日の日付を足した。


     * * *


 あの夜から、二年近くがたった。


 レティの体は、二十四歳になっていた。

 仕事で知った人には、自分の名を告げている。

 細かな作業が見づらい日は、画面を拡大した。今の見え方に合うように。

 食べ物への反応や、聞こえ方は、先生とたしかめながら暮らしている。

 名前の境目が変わっても、体の困りごとは残っていた。


 おぼえていない過去は、まだある。

 読み返しても、情報のままで残る記録もある。

 ただ、昨日の夕方を思い出せる日が、増えた。

 仕事帰りに雨が降った。

 ライと、店の軒の下で待った。

 明日は晴れそうだと話した。

 会話だけでなく、雨がやむまで、もうすこし待ってもいいと思った気持ちも、おぼえていた。


 原型ジャンヌは、地球側と月側がともに見張り、封鎖している。

 直したところや、保管中のようすは、定期的に知らされた。

 折れた主砲を、もう一度、自分の考えで動かす。そんな未来は選ばなかった。

 代わりに、工具箱へ新しい筆を一本入れた。

 仕事の帰りに、描きたいものが見つかる日がある。


 リーヌとは、まだ、ときどき話した。

 大事なことを忘れたのではないかと、不安になる夜。

 知らない日付へ触れたあと。

 その声は、以前より近かった。

 返事の前に、自分にも同じ考えが浮かぶことがある。

 リーヌから聞いたのか、自分で思いついたのか。わからないくらい、気持ちが重なっていた。

 怖い日は、先生へ話した。

 怖くない日は、そのまま、明日の用意をした。

 使い終えた帳面の最後に、リーヌが一行を残した。

 レティは、そのページをいつでも開けるよう、今の帳面といっしょに机へおいた。


 最後の会話が来たのは、そんな夜だった。


     * * *


 レティは、自室の椅子へ、ひとりで座っていた。

 机には、今の記憶帳と、使い終えた一冊と、描きかけの絵。

 丸い窓の向こうを、これから何色にするか、まだ決めていない。

 右手の親指に、青い絵の具がついていた。


 目を閉じる。

 相談のときに練習した、静かな場所を思い浮かべた。

 内側の机の向こうに、リーヌがいた。

 眼鏡のつるへ、左手を添えている。

 その姿も、声も、胸の内で受け取るものだった。


『今日の帰り道、わたしが説明する前に、おぼえていましたね』

「うん」

 レティは、小さく答えた。

「店の前に、鉢が増えてた。葉の端に、雨が残ってた」

『そう』

「それを見て、キットが根の形を描いてた日のことを、思い出した」

 声に出してから、続きを内側で返した。

『紙の色も、おぼえてる。楽しかったっていう感じも』

 リーヌが、すこし笑った。

 レティにも、同じうれしさがあった。


『こうして、別々に話すわたしは、ここまでかもしれない』

 リーヌの声は、静かだった。

 レティは、机に置いた自分の手を握る。

 寂しい。

 その気持ちを、急いで消したくはなかった。


『わたしも、寂しいです』

 リーヌから届く。

『でも、もうわたしが眠っても、昨日はあなたの中にある』

 次の人が怖がらずに歩けるよう、書く順を考えた夜。紙の固さ。左手の疲れ。やっと吐けた息。

 レティは、目を閉じて受け取った。今、話を聞いて知っただけの感じではない。


『これでお別れね』


 レティは、すぐに返事ができなかった。

 リーヌの名が浮かぶ。相談を続ける中で、自分で選んだ名だと聞いた。大切に思う気持ちも、今はわかる。

『名前、おぼえていたい』

 レティは伝えた。

『あなたが、自分で選んだことも』

『ええ』

 リーヌが答えた。

『忘れないで。これは、あなたの人生だから』


 あなた。

 その言葉を受け取ったレティには、もう、ほかの名前で過ごした時間もある。

 怖い夜へ出ていった自分。

 好きだといった自分。

 疑って、断って、疲れて休んだ自分。

 丸い雲を、きれいだと思った自分。

 名前を呼び合って、ここまで、生きてきた。


 リーヌとして紙を書いた夜のこと。

 レティとして、その紙を読んだ朝のこと。

 その二つを分けようとしても、境目はなかった。書いた夜の心細さと、読んだ朝の安心。教わっただけではない、自分が生きた時間として、ここにある。


 レティは、目を開けた。

 窓の外は、いつもの夜だった。

 頬が濡れている。

 どの名前の涙か、確かめなくてよかった。

 右手の甲で拭う。

 青い絵の具が、すこしついた。


 記憶帳を開く。

 明日の予定が、左の字で書かれている。

 回収した機械を点検する。帰りに、パンを買う。

 昨日、その予定を立てたときの気持ちも、おぼえていた。

 細い字を指でなぞる。

 もう一度、胸の内へ声を掛けた。


「……おかえり、私」


 返事を待たずに、ペンを取った。

 今日の日付と、帰り道をおぼえていたことを書く。

 それから、使い終えた一冊の、最後のページを開いた。

 リーヌが残したことばが、そこにもあった。

 忘れないで。これは、あなたの人生だから。

 細い左の字へ、右の指でふれた。


 それから、絵の方へ机の灯を向けた。

 筆を水へ浸す。

 筆先へ、すこし水を足す。

 今日の青で、窓の向こうを塗りはじめた。

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