エピローグ 昨日のつづき
ねじは、昨日おいた場所にあった。
白い布の右端。三本並んだうちの、いちばん短い一本。
レティは、それを右手に取った。
奥の穴へ短いねじを入れると、ふたが浮いて水がにじむ。昨日はそれを見つけてやめた。パーツの店が閉まっていたことも、おぼえている。
自室の窓ぎわにある、仕事用の机。
鉢へ水を送る、植物屋のポンプだ。パン一斤の箱ほどの大きさ。開いたふたの下に、古い配線と、手のひらに載る丸いパーツが見えた。
レティは、端末に点検用の図を出して、拡大した。
モーターから伸びるケーブルと、その先のセンサー。図には、どこへつながるか丸い印も付いていた。
形をたどっていると、つい時間を忘れそうになる。
丸の横に、今日取り替えたパーツの名前を書き込む。
ふたの縁のゴムリングも、新しくした。昨日サイズを測り、今朝イネスに分けてもらったものだ。
ふたを戻し、短いねじを手前の穴へ入れる。
指に伝わる固さを確かめながら、ゆっくり締めた。
左の腕には、薄い傷の線がある。袖をまくると、窓からの光がそこにも届いた。
机のとなりへ、低い台を寄せる。
水を張った洗面器とポンプを載せた。吸い込むチューブも、送り出すチューブも水へ沈める。
電源を入れると、透明なチューブに水が満ちた。
水圧を示す針が、いつもの目盛りまで上がった。
レティは、ふたの下へ乾いた紙を当てた。
待つ。
紙は乾いたまま。水は漏れていない。
レティは、そっと笑った。
机の端においた記憶帳は、まだ、閉じている。
昨日の作業は、そこにも書いてある。ねじの場所も、買わないといけないパーツも。
でも、今日は、開く前に思い出せた。
手の冷たさも、指を伝った水も。あとすこしなのに、と閉店時刻を見た気持ちまで。帳面を開く前に、思い出せた。
あの夜、リーヌと最後に話してから、三週間が過ぎていた。
窓のそばの壁には、絵が一枚、掛かっている。
丸い窓と、鉢の葉と、取っ手のついたカップ。
窓の向こうは、薄い青で塗った。
色を決めた夜のことも、おぼえていた。
今朝は、別の紙へ、通りで見た葉を描いた。親指のつけ根に、そのときの青がすこし残っている。
ポンプを直す手を見て、あとで洗おう、と思った。
廊下で、戸が強く閉まった。
肩が跳ねた。
右手が、洗面器のふちを強くつかむ。
また閉じ込められる気がした。水の音が遠ざかり、息が詰まる。
レティは、いったん、ポンプから顔を上げた。
窓を見た。
開けてある。風で、机の紙の角が動いている。
通りの向こうでは、店の人が看板を裏返していた。
今日のおすすめ、と、眼鏡なしで読める。
息を吐く。
洗面器から手を離し、乾いた机へ手のひらをおく。
木の細かな傷が、指の腹にふれた。
しばらくして、チューブを流れる水の音が、また近くなった。
怖い日は、まだある。
次の相談で先生に話そうと思い、机の帳面へ短く書いた。
戸の音で、手が止まった。
書き終えてから、ポンプを見る。
すぐに戻らなくていい。もうすこし休んでから、最後の点検をしよう。
* * *
最後の点検を終えて、電源を切った。
呼びかけられたのは、道具を片づけはじめたころだった。
「レティ。入っていいか」
戸の向こうから、ライの声がする。
「うん」
戸が開いた。
ライは、片手に工具バッグ、もう片方に紙袋を持っていた。
外の設備を点検してきたそうだ。靴に、乾いた土がついている。
工具バッグを入口のそばへおき、紙袋を机へ載せた。
中には、いつもの店のパンが二つ。
レティは、チューブから水を抜いていた手を止めた。
「買ってこようと思ってた」
「お前が好きなパンを、っていったら、店で笑われた」
「なにが?」
「昨日、お前が買ったのと同じだって。二人とも同じのを選ぶね、って」
昨日は閉店間際で、棚に三つしかなかった。迷って一つ買い、ライに会うかもしれないと、もう一つ頼もうとした。
店の人が奥から焼きたてを出した。腕に抱えた袋があたたかかった。
「うん。買った」
レティはいった。
「昨日のは、ここでいっしょに食べた」
「俺の方は、おぼえてる」
「私も」
声に出してから、頬がゆるんだ。
パンを買ったと書かれた行を、今から探さなくていい。
昨日、となりに座った人が、今日は戸のところに立っている。
ライは、洗面器のそばへ来た。
乾いた紙を見て、ふたのねじへ目をやる。
「今日は、どうだった?」
「これ、直った。昨日、水がにじんだところから、続けられた」
レティはポンプを指した。
「ゴムのリングも悪くなってたから、換えた。あとは、持ち主に使い方を教える」
「水を出しすぎないこと?」
「うん。根を、ずっと水の中にしないこと。それと、長く使わなかったら、最初にチューブを洗うこと」
説明用の紙を見せる。
細い線で、チューブと鉢の絵を描いてある。
ライは、絵の下の小さな葉へ指を向けた。
「これも、使い方か」
「それは、描きたかっただけ」
「わかりやすい」
「葉の方?」
「両方」
レティは笑った。
ポンプを布へ移し、洗面器を片づける。ライも紙が濡れないよう、袋を寄せてくれた。
レティは流しで手を洗った。
青い絵の具が、すこしずつ水へ混じる。
指の腹に、ねじを締めたときの感じが残っていた。
戻ると、ライが、入口に近い椅子へ腰を下ろそうとしていた。
仕事の話だけで帰る日は、すぐ立てるその席を選んでいた。
レティは、窓のとなりの椅子を引いた。
「こっち」
ライが顔を上げた。
「まだ、急いで帰らなくていい?」
「いい」
「じゃあ、お茶、入れるから」
昔は、戸が開くたび、だれがいるか聞かれた。知らない間に、別の名前への返事が済んでいる日もあった。
レティは、引いた椅子へ手をおいたまま、笑った。
「今日は私、って答えなくていいんだね」
「うん。今ここにいるお前に、会いに来た」
ライは、窓のとなりへ来た。
椅子の背へ、作業着の上着を掛ける。
ポケットから出した手袋には、白い糸の縫い目があった。
その横に、もっと新しい縫い目が増えている。
レティは、お茶を二つ、机においた。
自分のカップを持って、ライのとなりへ座る。
湯気が上がった。
今は、この人と、もうすこし話したい。
そう思ったのも、いすを引いたのも、自分だった。
「明日、仕事のあと、パン屋に寄らない?」
「寄る」
「買うだけじゃなくて。奥の席で、食べていきたい」
ライは、一度、彼女を見た。
「明日も、同じのにする?」
「まだ、わからない。違うのがあったら、そっちにするかも」
「じゃあ、見てから決めよう」
レティはうなずいた。
明日の棚を、まだ見ていない。
そこへ、いっしょに行く約束ができた。
ライがカップを机へ戻した。
レティは、その右手へ、自分の左手をそっと重ねた。
手の甲の小さな傷も、指の固いところも、知っている。
好きだといった日のうれしさも、今は、自分の思い出の中にある。
レティは、彼を見た。
「今日も、来てくれてうれしい」
ライの指が、すこし動いた。
レティの手を受け止めて、握る。
「俺も」
その先は、すぐに話さなくてもよかった。
窓から入る風で、紙袋の口がかさりと鳴る。
レティは、となりにいる人の手を、もうしばらく握っていた。
* * *
お茶が半分ほど減ったころ、通りから、子どもの笑い声が届いた。
レティは、ふと、右耳を窓へ向けた。
フィルがよくした向きが、自然に残っている。今は、左に座るライの声も、通りの足音も、両耳で聞けた。
レティは、カップを持ったまま、空を見た。
シールドの向こうに、青空が続いていた。
薄い雲の間へ、月が白く浮かんでいる。
小さな丸い雲が、その下を流れた。
カップをひっくり返したみたいで、レティは、すこし笑った。
あとで描こうと思った。
机の棚には、リーヌが使っていた補助ディスプレイつきの眼鏡がある。
レティは、そのケースに触れてから、となりの古い記憶帳を取った。
角が丸くなっている。
開くと、押さえても浮いてくるページがある。
何度も読み、書き、折り返した紙だった。
読んでしかわからない昔の日も、今でも思い出せない朝もある。先生に話すこともある。急いでページを戻す必要はなかった。
紙に残った日付を、一つ、指でなぞる。
おぼえていないところも含めて、ここまで生きた。
使い終えた帳面の最後に、細い字がある。
『忘れないで。これは、あなたの人生だから』
左手で書いた、リーヌの字。
レティは、その行へ右の指をふれた。
書いてくれたことを、今も、うれしいと思う。
となりで、ライがパンを一つ取り、半分に割っている。
半分を載せた皿が、机の上を、こちらへ来た。
レティは、古い一冊を棚へ戻した。
今、使っている方を開く。
戸の音のことを書いた行の下へ、左手で今日の日付を足した。
『ポンプが直った。昨日のつづきを、おぼえていた。ライとお茶を飲んだ』
そこまで書いてから、顔を上げる。
ライも、彼女を見た。
レティは、すこし考えて、もう一行を足す。
『明日は、いっしょにパン屋へ行く』
書いたばかりの字を眺める。
明日の仕事と、パン屋の約束を指でたしかめる。そこでどんな話をするかは、まだ決めなくていい。
レティは、帳面を開いたまま、ペンを置いた。
端末に、保管中のジャンヌの通知が残っていた。地球と月、両方の監督で、原型は封鎖されている。
首の後ろへ、指をやる。
あの硬い金属の面は、もうない。
それぞれの考えを、同時にあの機体へ送ることも、もうできない。
レティは、通知に「読みました」と印をつけた。
修理の依頼票を開く。
生活の名、レティア。その下に、今日、直した品物。
持ち主への連絡は、まだ済んでいなかった。
「電話してもいい?」
「うん」
ライが、カップを持ってうなずく。
ポンプは机の上にある。
短いねじは、正しい場所へ戻した。
明日、持ち主に返せる。
そのあとには、自分で決めた約束がある。
レティは、依頼票の番号へ連絡を入れた。
呼び出しの音を、待つ。
窓のそばで、紙の角が、また動いた。
洗っても落ちなかった青が、親指にすこし残っていた。
向こうが、電話に出た。
レティは、自分の声で名乗った。
「レティです」
――終。




