第五章 帰るために、戦う
砲口の奥が、白く光った。
アジーは、ジャンヌの左腕を上げた。
シートに載せた、自分の左腕は動かさない。そこには、朝からの傷がある。
黒い盾が、地上出口の映像をふさいだ。
衝撃。
砲弾の衝撃で、アジーも席へ押された。肩と腰のベルトが食い込み、留め具が鳴る。画面の下で、昇降台の縁がちぎれた。
まだ、上がりきっていない。
『あと一メートル』
リーヌの声と、機体が測った高さが届いた。
『あいつの砲、もういっかい撃つ!』
フィルの白い丸が、盾の向こうの砲身へ重なった。
遠隔実証型。その右腕の砲だった。
「昇降台、止めんな! そのまま地上まで上げて!」
『地上まで続けます!』
サイラが返した。
『盾の力場、使える。守る方と、弾を逃がす先を選んで!』
ヴェルの声。
アジーは、敵の砲口を見た。次も来る。
「前を守る。弾は、右の置き場へ!」
『右の資材置き場、人は退いています。地上班も入っていません!』
サイラが返す。
左腕の盾の前へ、薄い青白い面がひろがった。
二発目。
砲弾が、面の上を滑るように曲がった。
右の舗装がはじけ、置きっぱなしの鉄材が跳ねた。
弾は右の置き場を壊した。でも、胸へ来る衝撃は、一発目よりずっと小さい。
「そらせた……!」
それでも、ジャンヌの左足が、台の上で滑った。
すぐに右足首が曲がり、腰が踏ん張れる側へ寄った。左ひざも沈み、滑った足が台の内側へ戻る。
アジーが直そうとしたときには、目の前の景色はもう水平だった。
『右足、まだ載ってる!』
レティの声に、アジーは足元の緑を見た。
足首も腰も、倒れないよう勝手に動いた。アジーがどこを曲げたか見きる前に。
つかんだ留め具から、指を離せない。
倒れずに済んでも、怖さは消えなかった。
『着いた』
リーヌ。
「行く!」
ジャンヌが、地上へ踏み出した。
アジーは面を止め、金属の盾で、敵の砲身を押した。
三発目が出た。
実弾が、人のいない倉庫の屋根を突き破った。薄い板が、光って舞い上がる。
『沿道は退避済み。地上班は防壁の内側です!』
サイラの声。
敵の左手が、ジャンヌの肩をつかんだ。
アジーは、原型の右手で、その手首をつかみ返す。
押し返せ。
アジーは敵を押し返す動きを、ジャンヌへ伝えた。
敵の足が、地面から離れた。
「え――」
自分の声が、間に合わなかった。
原型の腰が回った。八メートル近い敵が横へ振られ、肩から倉庫へぶつかる。壁の鉄板が、内側へへこんだ。
屋根の端がつぶれる。
砂ぼこりが、白い波のように広がった。
アジーは、シートの中で右手を握った。
つかんでいたのは、腹の留め具だった。
外の巨人の手とは、違う。
『機体が、大きな力で助けてる。押す強さを、もっと小さく伝えて!』
ヴェルがいった。
『適合率、九十七。こっちの考えを、ほとんどそのまま動きにできてる』
考えただけで、こんなに動く。ただ押したかっただけなのに。
人を押すより、ずっと大きな力が出てしまった。
砂ぼこりの中で、砲身が上がった。
敵は、止まっていない。
右腕を、こちらへ向け直している。
アジーは、左の盾の前へ青白い面を戻した。
原型の右腕の主砲へ、初めて狙いを渡す。
「ジョーン。あいつの肩。撃てる?」
『当たる。人も乗ってない。でも、弾が抜けるかもしれない。奥の倉庫、人はいないか?』
『たしかめました。味方も入っていません』
サイラが答えた。
『その肩を抜く分だけ。艦を沈める最大出力は使わない』
ジョーンが渡した。
ヴェルが、主砲の出力を下げる。
『最大なら、敵の後ろの倉庫まで抜ける。低い方でも、あの装甲は抜ける』
敵の砲口が、またこちらを探していた。
『そこへ一発。許可を出す』
撃っていいと、ジョーンが伝えた。
原型が右腕を構えた。
盾の青白い面が薄くなる。砲の根元へ、同じ光が集まった。
撃つ間は、盾の守りが弱くなる。
アジーは、それでも、選んだ肩から目をそらさなかった。
撃つ場所を選ぶと、原型が先に身構えた。両足を開き、腰を落として、路面を踏みしめる。
右腕の砲が、轟いた。
シートが、後ろへ殴られた。
アジーは息を吐き出した。
白い筋を引いた実弾が、敵の肩へ入った。装甲の一枚が裏返り、後ろの壁まで飛ぶ。
厚い肩の装甲が、大きくえぐれていた。
これで、出力を下げている。艦を沈める砲だという言葉が、今さら怖かった。
遠隔実証型の胸が傾く。砲身が落ち、地面に長い溝を刻んだ。
原型の肩が、わずかに後ろへ下がり、すぐ戻った。
足首とひざが反動を受け、腰が次の一歩へ戻る。右足は、元の場所にあった。まだ、立て直せとも伝えていない。
砲の光が弱まり、盾の前へ青白い面が戻る。
口を開けたまま、それを見た。
『アジー、進める』
リーヌの声で、撃った敵から塔への道へ目を戻した。
頭のカメラが、前を向いた。
中央管制塔は、遠くの屋根の間へ、上の方だけを見せている。
地上出口から、六キロ。
貨物道路を二キロ進んで川を渡り、そこからまた塔へ続く。
『追い打ちはいらない。中央へ』
ジョーン。
「わかってる!」
いった声が、裏返った。
アジーは、原型を道路へ向き直らせた。
足元で、短い銃口が光った。
四本脚の警戒機が、倉庫の陰から出ていた。
三発の実弾が、左ひざの装甲の隙間へ入った。
盾は、まだ前を守っていた。横から来た短い銃は、その外にある。
砲ばかり見ていた。横の敵には、撃たれてから気づいた。
地面が、急に近づいた。
『左ひざ、支えが落ちた!』
ヴェル。
原型の右足が、半歩、外へ出た。
腰が右脚の上へ寄り、傷んだ左ひざから重さを抜いた。片脚が崩れても、原型は倒れない。
塔への道路はまだ見えている。アジーは、その方向へ進めと伝え直した。
原型が、左の脚を引く。歩く。
シートの下で、警告が鳴り続けた。
思っていたより、ずっと強い。
でも、次にどこを撃たれるか、自分にはわからない。震える右手の感覚を、レティたちにも渡した。平気なふりは、できなかった。
『……アジー。怖いの、私にも、すこしわかる』
レティ。
アジーは、息を吸った。
「じゃあ、見てて」
原型の脚を、次の一歩へ動かす。
「アタシ、怖くても歩けるから」
* * *
リリィは、背もたれへ押される重さを受け取った。
十九時十三分。原型は、出口から三百メートルほど、貨物道路を進んでいた。
内側から、今の場所と傷んだ脚を伝えていいか、と届いた。
「場所と、脚。そこ、見せて」
アジーが、原型を歩かせている。
フィルは、前を横切る警戒機を見ている。
口で話すのは、今は自分だった。
左足の点検映像へ切り換える。
ひざの装甲の隙間から、液が流れていた。
踏み出すたび、灰色の道路へ、濡れた点が増える。
「ライ。脚の液、見える?」
『見える。左ひざの循環圧が落ちてる。保安の整備班も見てる』
顔は見えない。ライは地上出口近くの保安の拠点へ退き、そこで同じ映像を見ている。
直したときに使った、パーツのリストが送られてきた。
リリィはリストで冷却液の成分を調べ、脚の温度もたしかめた。
「冷やすための液ね。燃料がぜんぶこぼれてるわけじゃない」
『傷んだパイプだけ、止められます。残った液を、これ以上こぼさないためです』
整備員が、操作の図を送った。
「止めたら?」
『左ひざは、使うほど熱が上がります。長く走れません』
『やる。流しっぱなしより、いい』
ヴェルが答えた。
アジーが歩幅を狭めた。その間に、ヴェルが教わったバルブを閉じる。
濡れた点が、小さくなった。
前の映像へ戻すと、橋の方で、煙が上がっていた。
『貨物橋の路面を、敵の射撃が砕きました。車両は戻してください!』
サイラの通信。
写真が一枚、来る。
橋の真ん中に、大きな穴。川の水が、その下を流れている。
あの脚で、跳べるのか。
リリィには、わからなかった。
後ろが、明るくなった。
最初の遠隔実証型が、砂ぼこりから浮き上がった。肩は欠けても、右の砲は動いている。
背中の二つのスラスターから、白い噴射が伸びた。
敵も、飛べる。
『原型も、背中のスラスターが使えます。脚とは別に動きます』
整備員がいった。
「図では、九十秒までだったよね」
『はい。続けて使うと熱が上がります。離陸と、降りる分も含めてください』
リリィは、シートの左のくぼみを見た。
肘から先をタオルに載せた、自分の左腕。
朝より、痛みは鈍かった。
なくなってはいない。
「あたしたち、飛んだことないからね。みんな、見てて」
内側へいう。
『橋の向こうの、空いてる道へ。そこまでなら』
アジーの返事が来た。
リリィは、自分の右の指を見た。
ライの傷のある手へ、まださわっていない。
戻ってからにした、話もある。
塔に着いても、落ちたら戻れない。降りられる広場も、みんなに見ておいてほしかった。
* * *
景色がぼやけた。
リーヌは右手で眼鏡をかけた。左腕はタオルに載せたままにする。
十九時十四分。原型は、道沿いの空の倉庫を背にしている。
機体の動きは止まった。左ひざを休ませ、短い間だけ、敵の砲から身を隠す。
塔まで、まだ五キロ以上あった。
今の場所。飛ぶ予定。傷んだ脚。
そこへ、別の情報が押し寄せた。
ひざの熱。上空の警戒機。橋の穴。敵の通信。自分の息。
白い丸が二重に見える。
胸がむかついた。
『いっぺんに来すぎ。負荷、上がってる。機体じゃなくて、こっちの』
ヴェルがいった。
首の刺激は止まっている。
それでも、体は一つだった。
「伝え合うもの、減らします」
リーヌは、いま返事のある相手へいった。
「みんなに渡すのは、進む場所と、危険の印だけに。熱や通信の数字は担当が見て、必要なときに知らせてください」
『ぼく、降りるとこ、丸にする』
フィル。
『通信は俺。結果だけ渡す』
ジョーン。
『飛べる時間はオレが見る』
ヴェル。
共有する範囲を絞ると、流れ込む数字が減った。吐き気もすこしおさまり、前の道を見られる。
『リーヌ、俺の声も少ない方がいいか』
ライが尋ねた。
「必要なことだけ。でも、声は残してください」
すこし間をおく。
「わたしも、今、怖いです」
『……わかった。ここにいる』
それ以上の返事は、なかった。
怖いままでも、整理は続けられる。リーヌは息を吐き、渡す情報を選び直した。
サイラから、今飛べる道を示すマップが来た。
道は貨物道路の真上、壊れた橋を越える。シールドの下、四十メートルまでの高さだ。
『降りるのは、塔の手前の貨物広場。救助車も、その先で待てます』
サイラが伝え、地上班を退かせた。リーヌはその広場を行き先に選ぶ。飛び方は原型が計算する。
『原型。倉庫の向こうへ出たら、まだ撃たれます』
地上班が知らせた。
遠隔実証型が、前方の空へ回っている。肩を削られても、砲口は原型を探し続けていた。
敵の砲が光る。
倉庫の屋根が、内側へ落ちた。
立ったままのジャンヌへ、薄い板が降りかかる。
「ここに長くはいられません」
リーヌは、内側へ知らせた。
『五秒だけ、敵の砲の向きを固定できるかもしれない。その間に飛び出す』
ジョーンがいった。
『受信してる信号が見えた。地上班に送って、通信を妨害してもらう』
* * *
ジョーンは、シートの操作器へ右の指をおいた。
十九時十六分。
センサーが、敵へ送られる命令を拾っていた。原型に命令を入れる回線は切ってある。今見えるのは、外を流れる信号だけだ。
工房で読んだ通信規格と、同じ間隔。
機体の向きを変える命令が来るたび、先頭のコードが変わる。
「サイラ。出口側の班、まだジャマーを使えるか」
『倉庫の北の防壁にいます。拾った信号のデータを送ってください』
ジョーンは周波数と、命令の間隔を送った。
「向きを変える命令が切れれば、この型は最後の向きで止まる。そこだけ妨害してほしい」
地上班にも規格をたしかめてもらう。敵を丸ごと乗っ取れなくていい。砲が今の空を向く、短い時間がほしかった。
『五秒。合図をください。射撃そのものは止まりません』
知らない隊員が答えた。
ジャンヌの背中のふたが開いた。
左右の太いスラスターが、わずかに外へ張り出す。
アジーから、行きたい場所が伝わってきた。
『向こうの広場まで。いま、跳ぶ』
ジョーンは前を見る。
敵の砲は、倉庫の上端へ向いている。
「今!」
地面が、白くなった。
原型の噴射が、路面の砂と金属片を外へ吹き飛ばす。
腰が持ち上がり、八メートルの黒い体が、倉庫の屋根を越えた。
ジョーンの背中が、シートへ沈む。
腹のベルトが、食い込んだ。
『四、三――』
地上班の声。
原型は、もう、屋根の上にいる。
遠隔実証型の砲は、倉庫の上端へ向いたままだった。
砲弾が、下へ落ちていく倉庫の角を、もう一度砕いた。
『二、一! 妨害終了!』
地上班の声が続いた。
ジャンヌが、前へ飛び出した。
道路が、細い灰色の帯になる。
止まった貨物車。橋の穴。川を渡る風。
それらが、下で一つにつながって、後ろへ流れた。
ジョーンは、息を止めていた。
狙いの担当欄は、未確定。
敵機は撃てる。でも、その下に、橋を離れる味方の車両がいた。
『今は撃てない。弾が敵を抜けたら、橋を離れる味方の車へ行く』
発射を止めた理由も、みんなへ渡した。
『わかった。かわす!』
アジー。
右へ避けたいという、短い動き。
原型は、機体一つ分、右へ滑った。
画面の川が、斜めに跳ねた。
横倒しになる前に、背中のスラスターが噴き方を変えた。腰と脚も動く。
『大きい、大きい! ほんのすこしでいい!』
ジョーンが叫び終えるころには、映像は水平へ戻っていた。
行き先を、遠くへ選びすぎた。機体が噴射や脚の動きを補い、倒れずに済んだ。
砲弾が、左肩のすぐ横を通る。
あたるはずだった場所は、もう空だった。
敵の旋回が、すこし遅れた。
画面の端には、敵が命令を受けた時刻と、向きを変えた時刻が並んでいる。
敵は、中央の命令を待ってから向きを変える。原型は、考えをすぐ動きにする。そのわずかな差に、守られていた。
飛び方を知ったわけではない。声も手も震えたままだ。
敵が、右腕を持ち上げ直した。
さっき撃った肩は欠けたまま。こちらの背中を、砲口が追ってくる。
『車、橋から離れました! 敵機の奥も、退避済みの道路です』
サイラの声。
ジョーンは、画面の下を見た。
白い車が、橋の出口から外へ曲がっていく。敵の体とは、もう重なっていなかった。
『あいつの腰。撃てる』
『じゃ、そこ。次を撃たせたくない』
アジーが、原型の主砲へ狙いを渡す。
ヴェルが、装甲を抜けるだけの出力を選ぶ。艦を沈める最大の値にはしない。
ジョーンは、二度目の発射を許可した。
ジャンヌの右腕が、飛びながら敵へ向いた。
スラスターが噴き方を変え、腰も回った。砲を伸ばした重さと、撃つ反動に備えて、原型が先に身構える。
左の盾の光が弱まり、砲の根元へ白い光が集まる。
ジョーンの右手が、腹のベルトを握った。
こちらも撃たれる。
怖いまま、発射を許可した。その怖さも、内側へ渡す。
原型の主砲が、二発目を放った。
強い振動。
それでも、画面の川は、横へ回らなかった。
白い噴射が、一瞬だけ太くなる。機体は、撃つ前の高さを保ったまま、前へ進む。
敵の左腰がはじけた。
パーツが火花とともに飛び散った。敵が横へ回り、片方の噴射を長く引いて後ろへ離れる。
『当たった』
アジーから届く。
ジョーンは、奥の道も見た。人のいる方へ、弾は抜けていない。
止まったかどうか、確かめに戻る時間はなかった。
『中央へ。追いかけない』
ジョーンはそう伝え、撃った敵から塔へ視線を戻した。
「……助かった」
ジョーンは、地上班へいった。
『塔側の班にも、今の位置を渡しました。そちらへ進んでください』
返事が来た。
会ったこともない人たちが、同じ五秒を使ってくれていた。
『塔から、もう一機、上がりました! 原型の前へ向かっています』
今度は、塔側の班から声が来た。
遠くの建物の前に、白い噴射が二本見える。
その上にある、黒い肩。
左右とも、欠けていなかった。
今、撃った機体とは、別だった。
ジョーンは、帯から指を離せなかった。
* * *
ミナは、流れていく川の光を見た。
十九時十七分。原型は、壊れた貨物橋を越えていた。
ベルトに支えられた自分の足は、席の床にある。ジャンヌの足は、三十メートルの空にあった。橋が小さくなる。
前から飛行ドローンが二機。胴の四つのファンで浮く、無人の機械だ。
下の機銃が光った。実弾が続けざまに、原型の腹の下を通る。
『大きいの、右!』
フィルの印が、正面のモニターに出る。
最初の遠隔実証型が、並ぶように飛んでいた。
欠けた肩。左腰には、もう一つ大きな傷がある。
それでも、右腕の砲は、まだ動いた。背中の白い噴射も続いている。
原型が右へ向きを変えると、敵の砲が、ついさっきの位置へ来る。
次の実弾へ、アジーが左腕の盾を向けた。
『盾でそらすなら、弾は川の空いてる方へ!』
リーヌが、味方の車と重ならない場所を渡す。
青白い面へ、砲弾がぶつかった。
画面の横へ白い筋が走り、川の水が、遠くで高くはじける。
機体へ来る振動は小さい。
ミナは、肩のベルトから指を離せなかった。
『大きく動きすぎ。行き先を近くに!』
ヴェルが知らせた。
『わかってる。……でも、近いんだよ!』
アジーの声も、震えていた。
原型が、四十メートル近くまで上がった。
機体は傾きを戻し、噴射を弱めた。選んだ道から、上へ外れすぎないように。
腕で敵を押す間も、腰と脚が重さを打ち消すように動く。
敵は、砲を向けるのに一瞬、遅れた。
その間に、ジャンヌの左腕が、敵の肩を外へ押し払う。
遠隔実証型の背中が斜めになる。弾が、空の倉庫へ向かって飛んだ。
原型は、自分から選んだ貨物道路の上へ戻った。
力も、動き始める速さも、原型が上だ。それでも、下の道は遠い。ミナは歯をかみしめていた。
『前にも、大きいの!』
フィルの白い丸が、正面へ出た。
塔から来た二機目だった。
両肩がそろった黒い体が、道路の上に立つように浮いている。
その右腕の砲が、こちらへ向いた。
原型の左には建物がある。右には、肩の欠けた一機。
ミナは、自分の背中を椅子へ押しつけた。
かわす場所が、狭い。
『前の胸へ。アタシ、狙い、そこにする』
アジーが渡した。
胸なら、画面で見えている。いちばん大きな、その場所へ。
『奥の貨物置き場、退避済み! 味方は建物の内側です』
サイラが知らせた。
『撃つ。前を、あける』
ジョーンの許可が届く。
『胸を抜ける分にする。撃ったら装置を冷やす。力場は、すぐには使えないぞ』
ヴェルが知らせた。
盾の青白い面が消え、右腕の砲の根元が光る。
前と、右。敵は、まだ二機いた。
ミナは、右の砲口も見ていてほしいと、フィルへ渡した。
ジャンヌの右腕が伸びた。
腰と噴射が、伸ばした腕に合わせて動いた。狙いを追っても、カメラの高さはほとんど変わらない。
敵の砲口の奥が、明るくなる。
ミナは息を止めた。
原型の主砲が、先に、三発目を放った。
前の巨人の胸が、内側へへこんだ。
次の瞬間、弾が背中を抜け、火花と装甲の破片を引いて、奥の空いた路面へ突き刺さった。
黒い板が、いっせいに外へ開く。右腕の砲が上を向き、撃ちかけた弾を、空へ放った。
砲弾が、原型の頭の上を抜けた。
下がった肩が、すぐ戻る。両脚と二つのスラスターが、撃つ前の進路へ支え直した。
ミナは、指をほどけなかった。
あれだけ撃っても、自分は落ちなかった。
二機目の白い噴射が、二本とも消えた。
胸に穴のあいた巨人が傾き、道路の左側へ落ちていった。
貨物の置き場。
積まれた空の容器をつぶし、床の板を押し上げた。
低い大きな音が、コックピットまで届く。砂ぼこりの上へ、壊れた腕が転がった。
そのあとで、機体の胸から火が上がった。
『塔からの一機、撃墜。動いていません!』
塔側の班が知らせた。
原型は、あいた道の上を飛び抜けた。
ミナは、振り返る映像を開かなかった。
自分たちが乗っているのも、あの高さから落ちる機械だ。
空の中で、足の裏に力を入れた。
原型は、次に下りる場所へ、まだ進んでいた。
管制の短い報告が入った。
第二ステーション。落とすための噴射は、まだ予約を取り消せない。
二十一時二十分。
ステーションを落とす噴射の、開始時刻だ。
原型の高さを示す数字のとなりに、その時刻が重なった。
「道は、みんなに見ててほしい。わたし、管制の返事を見る」
ミナは範囲を選び、報告の文字だけを確かめた。
作業班は、受信部の手前まで来ている。
別のステーションでは、装置の切り離しが進んだ。
月の船は、まだ出られない。
飲み水を待つ居住区の名がある。
「中央を切れば、第二の予約も、消せる?」
『通常の操作が戻れば、こちらで消せます。送信を止めてください』
かすれた声が返った。
ミナは、前の道を見た。
塔が、大きくなっている。
「もうすこしで、届く。そっちも、続けて」
『続けます』
『飛行、残り二十九秒。先に下りるぞ』
ヴェル。
アジーは、塔の手前の貨物広場へ降りると伝えた。
白い丸が、その路面へおかれた。
ミナは、やっと息を吐いた。
肩の欠けた一機が、右の後ろへ戻っていた。
その砲口が、横から光った。
『右、来る!』
フィルの声。
力場の装置は、まだ冷やしている。
着地する道ばかり見ていた。アジーが盾を向けるより先に、敵の砲が背中を狙った。
ジャンヌの背中で、何かがはじけた。
右側の噴射が、消える。
右肩が下がった。
景色が傾く前に、左のスラスターが向きを変えた。腰と脚も動き、画面が水平へ戻る。
『右のスラスター、停止!』
ヴェルが叫ぶ。
『下、空いてる。ここ、だれもいない!』
リーヌの声。
「落ちる――」
ミナは、シートの中で、自分の両足を床へ押しつけた。
ジャンヌの姿勢は、それでは戻らない。
『広場の真ん中へ下りる。そこ、変えない!』
アジーが選んだ場所には、まだ白い丸がある。
機体が残る噴射を調整し、回り続ける体を止め、右足を出した。アジーは降りる場所を選ぶだけだ。細かな噴き方まで、考えられない。
それでも、前へ進む速さは、すぐには消せなかった。
貨物広場が、近づく。
ミナは目を閉じなかった。
そこへ下りる。そこしかない。
路面へ着く直前、左の噴射が太くなった。
原型の右足が着いた。足首とひざが曲がり、落ちてくる重さを受ける。
左足が続き、傷んだひざが沈んだ。
腰を低くし、使える右脚へ重さを戻す。前へ滑っても、横倒しにはならない。
火花を散らして、黒い体が三十メートルほど滑った。
ジャンヌの左手が地面を押す。指先が、舗装を深く削った。
止まる。
ミナの歯が、かちりと鳴った。
滑らかな着地ではなかった。でも、胸を地面へ打つ前に、体を支えてくれた。
ミナは、吐けなかった息を、ようやく吐いた。
塔の門が見える。
広場の向こう、百メートルほど先だった。
橋の向こうへ、来た。
それが、こんなにも遠かった。
* * *
フィルは、灰色の地面を見ていた。
十九時十八分。体は、コックピットの中にある。
肩とおなかのベルトが、さっきより固く感じた。
自分の足は、床へついている。
外のジャンヌも、もう、飛んでいなかった。
『立てる。右足を残して、前へ』
アジーがいう。
原型が頭を上げる。塔はもう、画面に収まりきらない。
門の内側へ続く道。右わきに、低い建物。
その手前に、肩の欠けた遠隔実証型が下りてくる。
左腰から、細い煙が出ていた。
最初から追う一機だ。撃墜した方ではない。
敵の背中の噴射が止まった。
右腕の砲を、塔の前で構える。
フィルは、砲身を白い丸で囲んだ。
「また、撃つ」
『見えた』
アジー。
ジャンヌが、左腕を前へ出した。
盾と砲身がぶつかる。
砲身とぶつかった盾の縁で、放射部がつぶれた。青い火花が散る。
『盾から力場を出すところが壊れた。冷えても、もう使えない』
ヴェルが知らせる。
金属の盾は、まだ敵の砲身を押していた。
太い銃口が、空へ向いた。
弾が出た。塔の横を抜けていく。
原型の右手が、敵の胸を押した。
大きな二つの体が、門へ向かって動く。靴を引きずるように、原型の左足がついてきた。
押し返されるたび、右足首とひざが曲がり、路面をつかみ直した。押す腕と、踏ん張る脚。どちらも、フィルがいうより早く動く。
敵が、胸を戻そうとする。
ジャンヌは、その前に、左腕を砲の下へ入れ直した。
フィルが見つけた、腕の曲がるところ。
白い丸が、そこに残っている。
原型は、同じ高さへ、すぐ手を届かせた。
低い建物の扉が、前に来た。
『塔の一階にあとからつけた、軍用の送信区画です。切り離すのは、この中の送信ラックだけ』
サイラが、図を送った。
『普通の通信設備は上の階です。この張り出した区画の、扉から三メートル奥』
サイラは図のラックを囲んだ。塔の設備班から、点検口の写真も届く。人はいない。
フィルは、扉へ丸を移した。
「ここ」
『わかった。フィル、もう場所、わかったよ』
リーヌの声。
敵が、肩からぶつかってきた。
映像が揺れ、フィルの右手が、腹の帯を握る。
さっき、空にいた。
今は、ぶつかっている。
何度も、落ちそうになった。
「……こわい。ぼく、休みたい」
『休んでいいです。あなたが残した印を見て、わたしたちで進めます』
リーヌが答えた。
もう一度だけ、フィルは、扉を見た。
青い空も、その上に、ほんのすこし見えていた。
また、あとで見たい。
白い丸を残し、目を閉じる。
まだ見ろとは、いわれなかった。
* * *
オルドは、シートの留め具へ右手を添えた。
十九時十九分。
現在の位置と、機体の傷みを受け取る。
軍用の送信区画は正面。敵は、左にいる。
原型の左腕が、敵の砲を上へ押している。
右足は支えている。左ひざの熱は、上がり続けた。
背中の右のスラスターは、もう使えない。
『押し合う時間、あと長くはない。左ひざが止まる』
ヴェルが知らせた。
この脚で六キロを歩くのも、飛び直すのも無理だった。オルドは帰る地図を見た。
オルドは、短くせき払いをした。
「サイラ。ここで歩けなくなったら、俺たちを降ろせるか」
『塔の門の内側まで行ければ、救助車を入れられます。胸へ籠を上げます』
門は、送信区画から十数メートル。
建物の角が、敵の射線を遮る。
塔側の班の車が、そこで待っていた。
「切ったあと、あの門の中へ。機体が残っても、俺たちは出る」
『わかった。右脚で支えて、そこまで進む』
アジー。
『送信ラックの図、こちらで見ます』
リーヌ。
『主砲は撃たせない。送信区画の後ろに、普通の通信設備がある。壊したくない』
ジョーン。
レティからも、短い返事が来た。
『降りる手順、まだ選べる』
『別の班が、塔の上の階を押さえました。主任のヴァイスも捕まえています』
サイラの報告。
その声のすぐあとに、原型の肩へ衝撃が来た。
砲身は、まだ動こうとしている。
指揮した人を捕まえても、送信は続いている。敵機も、命令のまま動いていた。
オルドは、標的を増やさなかった。
「敵を壊しきるまで戦うんじゃない。送信を断ったら、門へ入って降りる」
内側へいった。
強い原型でも、ここまでで壊れた。すぐ戻れるとは思えない。だから今、降りる場所まで選んだ。
* * *
アジーは、白い丸の残る扉へ目を戻した。
十九時二十分。
口に血の味がする。舌の端をかんでいた。
原型の左腕は、敵の砲を押さえている。
自分の左腕は、タオルの上にある。
自分の腕は、上げなくていい。アジーはタオルへ預け直した。
「ジャンヌの右手で、扉を開ける。届くように、機体をすこし低くする」
『右ひざを曲げて。左足へ重さを戻さないでください』
リーヌがいった。
ジャンヌの右ひざが曲がる。
肩が下がり、扉が、右手の正面へ来た。
敵は、左から体ごと押してきた。
盾を外へ向け、ジャンヌの体を、敵の砲と扉の間へ入れた。
八メートルの機体の重さが、まだ使える右脚へ掛かる。
ジャンヌの右の指を開く。
扉の上端の隙間へ入れて、引いた。
動かない。
『下も留まってます。先に上を曲げて』
リーヌが図から知らせる。
アジーは、扉の上の端を、外へ折るよう伝えた。
原型の腕が、すぐ動いた。
分厚い扉が、ゆっくり丸まる。
それから、留まっていた下の部分が、いっぺんに裂けた。
重い板が、道路へ落ちる。
風が、足元の砂を押した。
暗い部屋の奥に、銅色の枠がある。
高さ三メートルほどの、幅の広い送信ラック。
床から来る電源も、奥へ抜ける接続ケーブルも、予備も、この枠につながっている。
『枠ごと。後ろの接続を全部、引き離します』
リーヌ。
原型の右手を、部屋へ入れる。
腕に沿う主砲が、扉の縁へぶつかった。
あとすこし、届かない。
回収するパーツを傷つけないよう、邪魔な工具の柄を外したことがある。今、ほしいのも砲ではない。枠をつかむ指だ。
「右腕の砲が邪魔だ。折って手を入れる。もう撃てなくてもいい」
『発射許可、止めたままにする』
ジョーンが答えた。
アジーは、ジャンヌの砲口を、扉の縁へ押しつけた。
右腕を、内へひねる。
固定具が割れた。
太い砲身が外へ折れ、火花を引いて、地面へ落ちる。
原型の右の指が、銅色の枠へ届いた。
重装艦を沈める力より、今は、この枠をつかむ手が要る。
『左ひざ、熱が上限!』
ヴェルが叫んだ。
ひざの関節が止まる。
原型の左側が、下へ沈んだ。
敵の砲口が、盾の端から出てくる。
黒い穴。
目の前だった。
体を引きたい。でも、背もたれに押しつけられ、もう下がれない。
『アジー、右足、緑。まだ支えてる』
レティがいった。
その声にも、震えがある。
レティも、同じ一瞬を見て震えている。
アジーは、支える右足と、枠をつかんだ指へ目を戻した。
「引く。切れるまで、見てて」
『見ています』
リーヌ。
敵の砲口が、光った。
左の盾が砕けた。
機体が、大きく傾く。
四本の帯が、跳ねた体を椅子へ戻した。
画面が黒くなる。
戻った映像へ、左腕の装甲が落ちていった。
ジャンヌの左ひじから先が、道路へ転がる。
砲弾をそらしてくれた盾も、壊れた放射部も、そこへ落ちた。
自分の腕まで、なくなった気がした。
タオルを見る。ある。この体の腕は、まだここにある。
原型の右手を、放さない。
反動で跳ねた敵の砲身が、もう一度、下がろうとしている。
次の弾が入る、重い音。
アジーは、右足で支えて引き続けると、機体へ渡した。
原型の腰が、残った右足の上へ戻る。
左の前腕を失い、重さが変わった。原型が足首とひざを曲げ直し、引く力を路面へ逃がす。アジーには、一つずつ考える時間もなかった。
原型の右の指で、銅色の枠を引く。
部屋の床が割れた。
固定していたボルトが飛ぶ。
送信ラックが、壁から浮いた。
『ラックの上の固定、外れました。奥のケーブルは、まだ一本つながってます!』
リーヌ。
『右腕へ力を回す! 機体は右脚で支えて!』
ヴェル。
ジョーンが、塔側の班へ、近づくなと叫んでいる。
アジーは、歯をかんだ。
もう一度だけ、引いた。
最後の接続ケーブルが、根元からちぎれた。
青い火花が、壊れた床を走る。
銅色の送信ラックが、扉の外へ出た。
十九時二十一分。
敵の砲身が、止まった。
弾は、出なかった。
上空で、無人機の赤い灯が、動きをやめた。
道路の警戒機が、銃口を下げる。
飛んでいたものは、落ちずに、空中で姿勢を保っている。
砲声だけが、耳に残っていた。
原型の右手には、壊れた送信ラックがぶら下がっている。
『中央の軍用送信、停止!』
サイラの声。
『ほかの地域でも、受信が止まりました。各管制、そのままたしかめて!』
アジーは、枠を道路へおろした。
もう、引かなくてよかった。
遠隔実証型は、原型のすぐ左で姿勢を保っていた。
砲口は、近いまま。
アジーは、そちらへ手を伸ばさなかった。
『敵機の制御部を止めます。原型、門の内側へ!』
塔側の班が、首の下のケーブルへ弾を撃ち込む。
ジョーンが、了解、と返した。
ジャンヌの右足で、一歩。
壊れた左足を、滑らせる。
もう一歩。
建物の角へ入った。
後ろで、大きな金属が倒れる音がする。
『遠隔実証型、停止。こちらで押さえました』
サイラが知らせた。
アジーは、見に戻らなかった。
右ひざを曲げ、ジャンヌを低くする。
残った右手を地面へつく。
姿勢を保って、止まる。
表示が、緑へ変わった。
「……送信、止めた」
アジーは、口に出した。
まだ、この席から降り、ライのいるところへ帰らなくてはならない。
息を吸う。
「帰るぞ」
* * *
ノアは、シートに置かれた左腕へ目を向けた。
十九時二十四分。原型は中央管制塔の門の内側で、姿勢を保っている。
今の位置と停止の状態だけ受け取る、と内側へ応じた。
コックピットは、地面よりまだ三メートルほど高かった。
右手で、タオルの端をすこしめくる。
傷を覆う布は、白いまま。
頭は痛い。口の中にも、小さな傷がある。
呼吸を数えた。
背中の震えは、すぐには止まらない。
「救助の方に伝えてください。意識はあります。左の前腕に傷。首の接続器は、これから外します」
整備用通信へいった。
『救助車、門へ入ります』
サイラが答えた。
別の通信が、短く入る。
『第二ステーション。こちらで操作できるようになりました。落とすための噴射も、予約を取り消しました』
ノアは閉じかけた目を開いた。まだ、降りていない。
ほかの管制からも報告が来た。第三ステーションの予約を消し、月の発着場では船を案内する。故障の点検は、その場の作業班が続けていた。
全部は戻っていない。でも、届かなかった操作が、届くようになった。
救助車の映像へ、画面を換える。
救助車のアームが伸び、手すりつきの籠を胸の高さへ上げてきた。
救助員が一人、乗っている。
『外で待ちます。接続を終えるボタンは、ご自分で押してください』
「わかりました」
ノアは、席の操作器を見る。
停止。
姿勢保持。
どちらも、たしかめた。
接続終了は、選べる。
「終えます。体のことは、診てもらいます」
内側へ知らせた。
『頼む。絵、まだ途中なんだ』
アジー。
『予約、消えたって。聞いた』
ミナ。
『見ました』
リーヌ。
最後まで動いていた相手の返事を、ノアは受け取った。
右の指で、終了を押す。
首の前の開いた支えが、ゆっくり左右へ離れた。
端子の板が、首の後ろの三つの接点から離れた。
胸の装甲が開いた。
風が来た。
油と、焼けた金属の匂い。
さっきまで内側に重なっていた声が、遠くなった。
どこまでおぼえているか、すぐにはいえない。目の前の籠と救助員、通信からのサイラの声を、一つずつたしかめた。
ノアは、記憶帳を右手へ取った。
帰るための手順の下へ、時刻だけ書き足す。
十九時二十八分。接続終了。胸の前に救助員。
次の人が読めるよう、開いたページを残した。
眼鏡も、帳面といっしょに袋へ入れる。
赤い解除レバーを引く。
肩の二本、腰の二本のベルトが、腹の前で外れた。
救助員が、シートと籠の間へ渡した板を、しっかり留める。
「左腕は引かないでください」
「はい。右側を支えます」
返事を聞いてから、ノアは腰を上げた。
一歩。
板を渡る。
人の足で降りる距離は、それだけだった。
籠が、ゆっくり地面へ下がった。
黒い原型の胸が、頭の上へ離れていく。
左の肘から先がない。右腕の主砲も、根元から折れている。背中の右のスラスターには、大きな穴。左足の下には、こぼれた冷却液の跡があった。
原型は止まったままだった。開いた胸の中に、人はいない。
ノアは、救助員に支えられながら、車両の開いた戸口へ入った。
普通の椅子へ座る。
首を動かしても、何も引っかからない。
『ハーデンも捕まえました。逃げたメンテナンス通路の先です。軍の協力者も、捕まえています』
サイラの報告が聞こえた。
工房の資料と、占拠先の記録を比べているという。ほかに押さえる場所も、止める設備もある。そこは、別の人たちが続けていた。
ノアは、救助員から受け取った薄い毛布を、肩へ掛けた。
救助車で戻れる。原型を歩かせて、六キロを帰らなくてもよかった。
* * *
リリィは、車の窓へ右の指をつけた。
十九時三十六分。救助車は、西の保安の拠点に停まっている。
別の橋で戻った、と救助員が教えた。出口近くで待っていたライも、ここにいる。
肩には薄い毛布。医療員が、左腕の傷を診ようと、新しい布を用意していた。
膝の袋から記憶帳を出す。
ノアの字。
接続終了。救助車へ。
送信は止まり、各地の担当が噴射の予約を消している。救助員から、その話も聞けた。
その話を聞くあいだ、リリィは、窓の外の人影を探していた。
戸が開いた。
ライだった。
保安の腕章をつけた人に案内され、車の外で立ち止まる。
手には、新しい布が巻かれている。
「……リリィ?」
「うん」
それだけ答えると、彼の肩が下がった。
ずっと上げていたのだと、そのときわかった。
「手、診てもらった?」
「診てもらった。お前も、今からだろ」
「うん。動かせる。でも、痛い」
格納庫で、彼がしたのと同じ返事をした。
ライが、笑いかけて、途中で口をつぐんだ。
泣きそうな顔だった。
「上がっていい?」
彼が医療員へ尋ねた。
となりの席なら、と返事が来る。
ライは車の段を二つ上がり、リリィの右側へ座った。
同じ高さ。
画面の向こうでも、足場の下でもない。
リリィは、自分の右手を伸ばした。
彼の布を避け、手首へ指を添える。
あたたかい。
ジャンヌの大きな手で、こうしたいのではなかった。
「帰ってきた」
「うん」
「あたしも、好き」
リリィは、彼の手首を見たままいった。
「あのときの、返事」
ライの右手が、ゆっくり、彼女の指の上へ重なった。
「聞いた」
「……もうちょっと、何かいってよ」
「うれしい」
今度は、すぐ答えた。
リリィは顔を上げる。
ライは、ちゃんと、彼女を見ていた。
帰って返事をする。その約束を守れた。告白されたことも、返したことも、自分がおぼえている。
うれしさを渡そうと、内側へ呼びかけた。でも、返事は来ない。ジャンヌにつないでいたときとは違う。
いっしょに見ているかもわからず、膝の帳面へ目を落とした。
「……あとで、書いとく」
「何を?」
「ライに、あたしも好きだって返事をしたこと。帳面で、みんなにも知らせたい」
リリィは、ライの手首から指を離さなかった。
「うれしかったのも。そこ、抜かしたくない」
ライが、うん、といった。
医療員の手が、左の傷へ伸びる。
リリィは右手をつないだまま、手当てを受けた。




