第三章 十五人は、だれのために生きたのか
扉が開くと、画面の中の女の子は笑った。
レティは、机の縁を右手で掴んだ。
自分の顔だ。右の眉の端が下がる癖も、幼いころの写真と同じだった。
けれど、男が入ってきた瞬間の、安心した笑い方は知らなかった。
女の子の肩から、すこし力が抜ける。
『お父さん』
女の子が呼んだ。
迎えに来てくれた。
そんな小さな安心だけが、レティの胸にも戻った。
あの人と家で何があったのかは、ほとんど浮かんでこない。
男は扉を閉め、机に薄い記録用パネルをおいた。暗い色の袖を、肘まで折っている。
女の子は膝に両手を揃え、男が自分のほうを向くのを待った。
レティの息が浅くなった。
となりにライ、向かいにイネス。ここは、あの検査室ではない。いつもの工房だ。
ライを見ようとしても、視線が画面へ戻ってしまう。見ていないと、質問に答えられない。そんな考えで、体が固くなった。
『いま、だれがいる?』
男がいった。
ハーデンも、検査室でそう尋ねた。
初めて会ったはずなのに、別の名前があると知っていた。この男も、ずっと前から同じことを聞いている。
『レティ、です』
『ほんとうか』
女の子の頬に、笑みが残っていた。
聞き返されても、笑ったままだ。やめたら叱られると、思っているのだろうか。
『はい』
『いま、だれがいる?』
同じ質問。
さっきの答えでは、よくなかったのだ。
女の子が椅子の下へ足を引く。レティも靴を引き、左腕の傷に痛みが走った。
今日できた傷。白い保護シート。工房の椅子。
いま自分がいる場所を、声にしてたしかめたかった。
『レティ……』
『考えてから答えろ』
男はパネルへ書き込み、引き出しに右手を伸ばした。
中身は、まだ見えない。
それなのに、レティの指が机を離れなくなった。
「……止めて」
ライが、すぐ再生を止めた。
男の手は、引き出しへ届く手前で動かなくなった。
「止めた。続きを流さない」
画面の明るさが落ちる。
レティは一本ずつ、机の縁から指を外した。親指に残った青い絵の具が見えた。
画面の女の子の手には、ついていない色だった。
イネスが、小さな時計を机へおいた。
「いまは、十四時七分。私の工房にいる。左腕を、この布へ戻していいよ」
レティは腕を載せた。靴底を床へ押しつける。
椅子の背に体を預けて、やっと、長く息を吐けた。
ライの手は、頼めば届くところにあった。今はふれずに、待っていてくれる。
「この子、父親が来てくれて、うれしかったみたい。私にも、その感じだけはある」
画面を見ないまま、レティはいった。
「でも、引き出しを開けるのがこわかった。なにが入っているかも、見てないのに」
「いまわかったのは、その二つだね」
イネスが記憶帳を開いた。
「先を見てたしかめるかどうかは、あとで決められる。今日は止めた、って書いておこう」
レティは右手でペンをとった。
『十四時七分。イネスの工房。十三年前の自分の映像を見た。父親が来て笑ったあと、同じ質問をくり返された。引き出しを開ける前に止めてもらった。人物の映像は、今日はここまで。――レティ』
資料を閉じる。消すボタンにはふれなかった。見続けたくはない。でも、あの子がいた記録まで、消したくなかった。
水をすこし飲んでから、レティは記憶帳を開き直した。
『ハーデンは私のことを、どこで知ったのか。持ち帰った記録を調べたい。』
工房へ来る前に、自分で残した希望だった。
あの男が知っていたことをたしかめようとして、自分の古い映像まで見つかった。
レティは、閉じた映像のリストへ目を戻した。
「この映像も、今朝のサーバーに入っていたのね」
「うん。今朝は暗号で読めなかった。検査室の照合票に保存先があって、そこのアクセスキーで開いたんだ」
ライが、照合票の参照先を示した。
「ハーデンも、これを見たの?」
「どこまで読んだかは、まだわからない。なにを見て質問したのか、捜査の人にたしかめてもらっている」
仕事で持ち帰った資料と、首につなごうとした機械の鍵。それが合う。レティは、二つの見出しを見比べた。
「ふつうの修理の仕事だったのに。どうして、私の小さいころの映像が入ってるの」
「まだわかっていない。でも、検査室でお前が選ばれた理由には、この記録が関わっていそうだ」
ライが答えた。
「あのサーバーは、最近まで使われていた。首の機械からの返事も、アーク・リバースへ送られてる。検査機器にも、同じ組織の名があった」
イネスが、捜査担当へ渡した控えを出した。
「襲われたことも、閉じ込められたことも通報した。現場は保安の担当が調べてるよ。ここでは、首の接続器を見よう。なにに使うのか、わかるところから」
「首にあるものが、あの人たちと、どう関係してるのか」
「うん。なぜ反応したのか。なぜ、また体へつなごうとしたのか。次に同じことをされないために、わかるところを探す」
レティは、閉じた映像のリストへ目を戻した。
子どものころのことを思い出せなければ、安全にはなれないのだろうか。
その問いが顔に出たのか、イネスは人物映像の欄を畳んだ。
「動画をぜんぶ見なくていい。装置の説明や、保存された日付からわかることもある」
「……首のことを、調べてほしい。映像の続きは、まだ見たくない」
レティは二つを分けて、記憶帳に書いた。
映像は見ない。装置は調べたい。その二つを、次の人にも読めるように残した。
ペンをおくと、時計がぼやけた。眠気に似ている。でも、眠る場所を自分で選ぶことはできなかった。
* * *
キットは、レティが書いた二行を読んだ。
首の接続器について調べてほしい。
人物の映像は、今日は見ない。
机の時計は、十四時十六分だった。
左腕が痛み、キットは布へ戻した。今朝できたこの傷は、ほかの人も痛いと書いている。
帳面には、父親が来て笑った、とあった。
暗い袖。重い足音。息をするだけでも痛かった夜。
レティにはほとんどない、その記憶が、キットには残っていた。
「ぼ、ぼく、キット」
先の音が、すぐには出なかった。
ライは、途中を代わりにいわず、待った。
「あの人の顔、出さないで」
「出さない。映像は閉じたままだ」
ライが答えた。
「叩かれたときのこと、ぼく、おぼえてる」
左の指が、傷の布の端を握った。
「みんなは、痛かったの、おぼえてない。ぼくには、まだ、ある」
ライが、すぐには答えなかった。
キットは机の木目を見た。
日付を並べるのは、何度もした。リーヌに小さな紙を渡したこともある。でも、みんなが読む帳面に、あの痛さを残すのは初めてだった。
イネスは、人物映像の欄を閉じてあるのを見せた。
「今日は見ないよ。話すのも、ここまででいい。ここは私の工房。あの人は、いない」
キットは、机の時計を見た。
十四時十六分。
今は、あの男のいる部屋ではない。キットは工房の木の机へ、右手をおいた。
ぬるい水を飲み、布から指を離した。
左手でペンを取り、腕を布へ預けたまま、一行だけ残した。
『あの人に叩かれたことも、痛かったのも、ぼくはおぼえてる。レティも、ほかの人も、おぼえてない。ぼくの中には、まだある。顔の映像は見ない。――キット』
書き終えてから、資料の方へ顔を向ける。
「日付を、並べたい」
ライが、資料のリストをこちらへ向けた。
「どこから見ようか」
「首の機械、いつまで使ってたか知りたい。『最後に使った日』があるでしょ。施設を出たころまで、探せると思う」
六年前より古い記録もある。この街へ来る前から、首の機械を調べていたのだ。最後に使った日なら、見つかるかもしれない。
キットは再生の印をおさず、名前と日付だけが出るリストを開いた。
名前、時間、書いた場所。同じ印を探すと、日付が二種類あることに気づいた。
作った日と、あとからサーバーへ移した日。昨日移した記録にも、六年前のことが書いてある。
「こ、こっちの順番だと、昨日のことに見える。中に書いてある日で、並べて」
ライが表示を切り替えた。
レティア。接続器使用。
同じ名前の列が、ある日を境に途切れていた。
六年前。
その翌日に、短い報告がある。
『区画事故。対象、所在不明。回収未了。』
キットは、最後の四文字へ指をおいた。
「この『回収未了』って、ぼくたちがまだ戻ってないってこと?」
ライは画面を引き寄せた。
眉の間に、しわが寄る。
「人に、回収って書いてるのか」
彼は別の端末を開き、イネスを呼んだ。
支援室から、保護したときのメモが届いていた。その日付と比べる。
「この二日後だ」
イネスがいった。
「十六歳で保護された日」
いなくなった日と、保護された日。同じ六年前の、二日しか離れていない日だった。
「じゃあ、施設の人が帰してくれたわけじゃないの?」
ライは答えを探すように、報告を下へ送った。
首の接続器を外した、という行はなかった。
その代わりに、照合反応なし、とある。
目の前の首にも、装置は残っている。
「これだけじゃ、出たときのことはわからない。でも、向こうは戻ってくるのを待ってたみたいだ」
ライはそういって、画面から顔を上げた。
キットの顔まで、長く見ていた。
最後の数日には、課題をする端末へ書き込んだ、短い文も残っていた。
丸や四角を選ぶ欄の、外側。
『つぎに起きた人へ。窓の灯が消えたら、戸を開けない。係の人が廊下にいる。』
次の記録には、別の文がある。
『交代しても、左へ行くな。左の床は熱い。右の壁に沿って歩く。』
キットは、二つを選んだ。
「これも、首の機械を使わなくなるころに書いてる。施設を出る道のことかもしれない」
「だれが書いたか、わかるか?」
「名前がないから、わからない。でも、次の人が知らないまま戸を開けないように、教えてる」
次に起きる人は、自分が見たことを知らない。いまの記憶帳と、同じだった。
ライは、短い文だけを別のページへコピーした。
「ページの名前、どうしよう」
「昔の伝言」
いまの帳面にも、行き先や傷のことが書いてある。六年前にも、そうして次の人を助けていた。
「レティが起きたら、映像じゃなくて、これを見せて」
キットは頼んだ。
ライがうなずいたので、もう一つだけ、文を集めた。
『巡回灯が二度消えてから。機材の搬出口は、内側から開く。』
扉の外がどうだったかは、おぼえていない。そこへ想像を書き足すのはやめた。
* * *
リーヌは、眼鏡をかけるまで、紙の字を読めなかった。
ライからケースを受けとり、眼鏡をかける。ぼやけた行が、はっきりした。
十四時三十四分。イネスの工房。人物の映像は開かない。
キットの文で、昔、彼が渡してきた小さな紙を思い出した。
工房へ通い始めたころ、叩かれたことと痛さをおぼえている、と書かれていた。
「キットのことは、前から知っていました」
ライが顔を上げた。
「あいつだけが、おぼえてることも?」
「はい。彼の紙を読みました。わたしは、あの痛さを思い出せません」
リーヌは、腕を載せた布を見た。
「申し訳ないと思いました。でも、役割なのだと受け止めてきたんです。わたしは記録をまとめる。キットは、痛かった記憶を持っている、と」
代わりに持つ方法は知らない。でも、彼が今どうしたいかまで、役割で決めたくはなかった。
顔の映像は見ない。その文を残し、昔の伝言へ目を移した。
『巡回灯が二度消えてから。機材の搬出口は、内側から開く。』
左の指が、紙の端で止まった。
暗くなる窓。ひとつ。ふたつ。
その夜も、巡回灯が消えるのを数えた。
交代したあとも扉を開けられるよう、端末に時刻を残した。そのとき目の奥が痛んでいたことまで、思い出せた。
「これは、わたしが書きました」
ライが椅子を近づける。
「この紙を?」
「元の文を。十六歳のころまでいた施設で」
彼女は、日付の下へ指を滑らせた。
「そこから、逃げてきたんです」
ライの手が止まった。
端末を持ったまま、彼は一度、イネスを見た。
「逃げたって……レティは、保護されたっていってた」
「保護されたのは、そのあとです。出ていいと認めてもらったのではありません」
リーヌは、腕の下の布へ目を落とした。
六年前の腕には、別の傷があった。
いまの傷を見ても、その夜のすべてが戻るわけではなかった。
「事故で、明かりも監視も止まる時間ができたんです。わたしは扉が開く時刻を調べました。その先で、だれかが居場所を知らせる回線を切った」
「首の装置から、居場所を送られないように?」
「伝言には、そうあります。わたしは、切ったところをおぼえていません。外で支援者につながったときのことも、途中が抜けています」
ライは、リーヌが話したことと、記録の二つの日を並べた。
その下へ、短い文を書く。
退所ではなく、逃げた。
彼は、書いた字を見直した。
「そこにいたってことは、聞いてた。でも、出るために灯を数えてたなんて、聞いてなかった」
「レティも、わたしが数えていたところは知らないと思います」
「リーヌは、伝えなかったのか」
責める声ではなかった。
それでも、紙をおさえていた右手が固くなった。
「悪い場所だったことは、伝えました。細かいことは、話しませんでした」
ライは、しばらく黙った。
その間に、リーヌは記憶帳を開いた。
知らせなかった理由を、逃げた方法より、ずっとゆっくり書いた。
「首に刺激を加えられて、図形や信号を読む課題をしました。断ると、『レティが了承した。続けなさい』といわれたんです」
リーヌは、その言葉も帳面に残した。
「レティがなんと答えたかは知りません。わたしが起きたときには、もう始まっていました。あの子を『基準状態』と呼んで、最初の返事を別の名前のときと比べていたんです」
「『基準状態』って、レティが課題に同意したって意味じゃ、ないんだな」
「違います。でも、あの子は、自分が『はい』といったせいで、ほかの人が痛いことをされたと思うかもしれない」
窓の灯を待っていたときより、喉が狭くなった。
「だから、課題のことをレティへ話すのがこわくて、黙っていました」
レティが知りたくないといったわけではない。聞いてさえ、いなかった。
『あなたが自分を責めると思って、話しませんでした。なんのための課題だったかは、わたしも知りません。キットの苦痛も、以前に彼の紙を読んで知っていました。申し訳なく思いながら役割だと理解し、あなたには伝えませんでした。――リーヌ』
左手で最後の字を書くと、傷が痛んだ。ペンをおき、腕を布へ戻す。
「次にレティが起きたら、このページを見せてください。黙っていたのは、わたしが決めたことだと伝えたい」
ライがうなずいた。
リーヌは、眼鏡を外した。
内側へ呼びかけても、すぐには返事がなかった。
紙は、閉じずに残した。
* * *
レティは、眼鏡のおかれた机を見ていた。
自分の目では、離れた時計まで見える。
十四時四十七分。
すぐ下の紙に、その前の十三分のことが書いてあった。
「私、逃げてきたの?」
ライはうなずいた。
「リーヌが、おぼえているところを話してくれた。ぜんぶは、まだわかってない」
レティは、手紙の逃げ道のところを読んだ。
知らない施設の廊下。知らない灯の数。
その暗いところを、この体が歩いてきた。
思い出せないのに、靴を椅子の下へ引いていた。
「出してもらったんじゃ、なかったのね」
「少なくとも、出たあとの向こうの記録は、所在不明と回収未了だった」
ライは、キットの集めたページを見せた。
戸を開けない。左へ行かない。
その理由まで、短い文でついていた。
一つ間違えたら、出られなかったかもしれない。この街での暮らしは、知らない間にみんなが工夫してくれた先にあった。
その前のページに、キットの字があった。
顔の映像は見ない。
日付の照合を頼む前に、彼が残した文だった。
ぼくの中には、まだある。
レティは、その一行から目を離せなくなった。
「……キットだけが、おぼえてたの?」
ライが、椅子をすこし近づけた。
「本人が、そう話した。叩かれたときのことも、痛かったのも」
「今日、初めていったの?」
「みんなへ残したのは、今日だ。俺も、それまで知らなかった」
ペンを取ろうとした手が止まった。自分には、お父さんが来てくれた安心だけがある。
そのあとに続く痛さは、キットの中に残っていた。
「私、なにも知らずに、お父さんって……」
喉が詰まり、続きが出なかった。
同じ帳面へ名前を書いていたのに、知らなかった。
「私は忘れてたのに、あの子はずっと痛いままだったんだね」
イネスが、帳面をレティの手元に残した。
「痛いことをしたのは、あの男だよ。レティが、おぼえていられなかったことを責める理由にはならない」
それでも、申し訳なさは消えなかった。ごめんなさいと書き、大丈夫だと返してもらいたくなる。
でも、苦しんでいたキットに、自分をなぐさめてもらうのは違うと思った。
レティは、ペンを握り直した。
『キットへ。知らなくて、ごめんなさい。痛かったことを、なかったことにしません。話したくないことは、聞き出しません。返事はしなくても大丈夫です。――レティ』
どうすれば、彼がひとりでおぼえ続けずに済むのだろう。
答えを、まだ知らなかった。
手紙の、まだ読んでいなかった行へ目が戻った。
以前から知っていた、という行で、指が止まった。
「リーヌは、キットのことも知ってたのね」
「彼が昔、残した紙を読んだって。今日の帳面で初めて知ったのとは違う」
ライが、手紙の行を示した。
レティは、役割という字へ目を戻した。
その二文字では、キットの痛さまではわからなかった。
「ほかにも、知ってたのね」
「自分がした課題と、逃げる準備の一部を。知らないところもあるって、いってた」
レティは、基準状態という字を指でなぞった。
先に自分が返事をし、ほかの人が痛いことをされた。そんな順番が、紙の上に見えてしまう。
「私が、やりますっていったのかな」
イネスは、手紙の一行を示した。
「そこは、リーヌにもわからないって書いてある。それに、どんな返事をしていても、子どもに痛い課題を続けていい理由にはならないよ」
レティは読んだ。
あなたがなんと答えたのかは、知りません。
その一行を、もう一度読んだ。
想像した場面を、自分の記憶と間違えないために。
右手でペンをとる。
『リーヌへ。知らないままでいたいかどうかも、私に聞いてほしかった。』
最後の字が、紙へ深く沈んだ。
「私、怒ってる。助けてくれた人なのに」
「助かったことと、話してほしかったことを、両方書いていいと思う」
ライが、空いている次の行を示した。
レティは、最初の文を消さなかった。
『ここまで来てくれて、ありがとう。でも、これからなにを知るかは、私にも選ばせてください。』
書き終えたとき、胸の内側に、声のようなものがふれた。
ごめんなさい。
外では、だれもそういっていない。
リーヌ、と呼んでみたが、続きを聞くことはできなかった。
だから、聞こえた気がした、その短いことばだけを書き添えた。
おぼえていなくても、他人の時間にはしたくない。かといって、知りたいと願えば戻るものでもなかった。
レティは「昔の伝言」を、記憶帳へ挟んだ。
全部は思い出せなくても、逃げてきた跡は持っていられる。次に目を覚ましたときも、読めるように。
* * *
セラは、しおりを残した区画表へ戻った。
十四時五十八分。工房。映像は開かない。
手紙の下に、リーヌの短い返事があった。これからは、なにを知りたいか聞く、と。
セラは、自分がたしかめかけた語を辞書へ入れた。
ルナ・オースリーワン。
レティが小さいころ、出身を聞かれると答えていた名。
ハーデンが、レティへ尋ねた名。
古い表では、その右に、用途の記号があった。
読みとった語を、別の紙へ写す。
操縦者応答。接続調整。
居住区を示す記号は、ない。
「これは、町の名前ではありません」
ライが、こちらを向いた。
「どういうことだ」
「人の反応を調べる、研究区画の識別名です。月面の旧軍施設で使っていた番号」
彼女は、表の一行を示した。
となりにも、同じ形の番号が並んでいる。
違う実験室。違う設備。
家も、学校も、そこには書かれていなかった。
「待ってくれ。レティが小さかったのは、十三年前だろ。これ、三百年前の表だ」
「これは古い表です。レティがいたころの登録も、同じ番号で探します」
セラは、キットが分けてくれた管理記録を並べた。
旧施設から技術資料を継承。
名称を引き続き使用。
現代の区画へ登録。
登録した組織は、アーク・リバースだった。
十三年前の人物映像にも、同じ区画名がある。
「昔の資料と呼び名を使い直したんです。レティが生まれた時代まで、三百年前になるわけではありません」
セラがいうと、ライは、ゆっくり息を吐いた。
その息は、途中で止まった。
「じゃあ、十六までいた施設って」
「この記録と、リーヌの話を合わせれば、研究を行った区画だったと考えられます」
ライは背もたれを握り、何度も『研究区画』の見出しを見た。
「治療とか、保護するための場所だと思ってた。なにか、そういうところから出てきたんだって」
彼は、区画表へ顔を戻した。
「逃げなきゃいけない研究室だったのか」
セラはうなずいた。
乾いた布の匂いを、一瞬だけ感じた。
机にある布には、そんな匂いはない。
資料から顔を上げ、工房の窓をたしかめてから、彼女は記憶帳を開いた。
『ルナ・オースリーワンは、故郷の地名ではありません。研究区画を見分けるための名前でした。昔の資料にある名を、今の組織が使い直しています。――セラ』
右手で書いたその文を、ライに読んでもらう。
わかると答えたあとも、彼は紙から目を離さなかった。
* * *
ジョーンは、セラが書いた二つの日付を見た。
古い区画表。十三年前の映像。
十五時十三分。
いまの体は二十二歳。六年前に保護された。その控えも、机にある。
俺たちの時間が、古い兵器の記録といっしょに保存されていた。
その前に、キットの文と、レティの返事を読んだ。
ぼくの中には、まだある。
右の指が、そこで止まる。
閉じた扉と、答えを強いられる課題は知っていた。
でも、叩かれたときの痛さは、思い出せない。
「あいつが一人で、まだ痛かったなんて、俺、知らなかった」
ライは、帳面を閉じなかった。
「知らせてくれたのは、今日だ」
次のやつが困らないように、扉も逃げ道も書いてきた。
それで守っている気になっていた。
「俺、知ってるつもりだったんだな」
悪いのは、あの男だ。それでも、すまなさが残った。
顔を見たくないという返事は、消さない。そのページを脇に残し、首の接続器のデータを読んだ。
用途の前に、取り付けた日があった。
十三年前。対象年齢、九歳。
同じ番号で、その前の資料を探す。
十四年前の家庭内記録が見つかった。
保護者提供。応答する名前の変化を確認。
例として、レティとリーヌの名がある。
ジョーンは、二つの日付を並べた。
「首に機械を入れる前から、違う名前で返事してた」
ライが画面へ顔を近づける。
「八歳のころから、家でも?」
「この記録ではな。首の機械を入れる前から、レティとリーヌはいたんだ」
それより前にだれがいたかは、この資料ではわからなかった。
その先に、だれから受け取ったかを示す欄がある。養父、と書かれていた。
人物映像の番号が、さっき見たものと同じだった。
「お父さんって呼んでた男だ」
ジョーンがいうと、ライは目を伏せた。
養育者との契約。
その本文を開こうとすると、別の鍵を求められた。
ジョーンは閉じ、読める方へ戻った。
接続器を調整したあとも、家庭内の反応をたしかめる。
その理由を書いた欄に、短い添付があった。
『提供記録への報酬を継続。』
画面の字を、二度読んだ。
意味を取り違えたのではなかった。
添付の説明に、話し合いの短い録音がついている。
「ここだけ聞く。止めてっていったら、すぐ止めてくれ」
ライがうなずいてから、数秒を再生した。
『家で撮った分も、前と同じでいいんですね』
男の声。
『応答が保たれているなら。調整後も、生活上の変化を記録してください』
録音が終わった。
ジョーンは、舌の奥に苦さを感じた。
何度も名を聞き、答えが変わるまで椅子から降ろさなかった。その記録が、研究する側へ渡されていた。
自分には残っていない痛さを撮り、あの男は金を受けとっていた。
「娘を撮って、金にしてたのか」
ライの声が低くなった。おいたペンが、机を転がる。
「報酬を続けるって、ここにはある。いくら払ったかは、これだけじゃわからない」
家で撮られていたことは知っていた。金にしていたと知ったのは、ジョーンも今だった。
右手が、机を叩きかける。
やめて、記録番号を控えた。
あの男はここにいない。殴っても、机と自分の傷が痛むだけだ。
「契約は、俺の鍵じゃ読めない。捜査の人に、これを渡してくれ」
イネスが、録音と文書をいっしょに保存した。
「読めたところと、開かなかったところを分けて伝える」
飛び出して父親を探す気はなかった。保安に調べてもらうため、記憶だけでなく、この録音も残しておきたい。
装置を取り付けたときのデータに、写真があった。小さな紙が写っている。
顔はない。胸か腰につけたカメラが、手に握った紙を見下ろしていた。
『息を止めない。ゆっくり吐く。手を強く握ると爪が割れる。』
研究者はそれを、課題には関係のない行動だと書いていた。
ジョーンは、欠けた右の爪を見た。検査室の扉を握ったときの欠けだった。
「俺も、今日、次のやつに扉の場所を書いた。なにも知らずに起きたら、逃げられないから」
ライが、今朝の伝言を開いてくれた。
奥の扉から機械室へ。そこからメンテナンス通路。ライに連絡済み。
「この紙も、同じだろ。次のやつが痛くて動けなくならないように教えてる。こいつらの課題じゃない」
書いた人の名前は、わからなかった。
それでも、その人が伝えようとした注意は読めた。
ジョーンは、キットの「昔の伝言」へ、その紙を加えた。
記憶帳にも、短く残す。
『キットへ。知らなかった。すまない。まだ痛いのを、お前一人に抱えさせておきたくない。顔を見たくないって返事は、次に起きたやつにも読ませる。――ジョーン』
逃げ道も、傷ついた手の使い方も、自分たちが残した。データを読むなら、それまで研究者の命令だったことにしたくない。
記録の控えを閉じると、画面の端に、別の図が残った。
接続器から、黒い胸へ伸びる線。
ジョーンは、それに印をつけた。
ジョーンは端末をライへ押した。首が冷たい。次の人にも、この線を見てもらおう。
* * *
リリィは、記憶帳を読み終え、閉じた端末を見た。
十五時三十七分。
映像の中の女の子が父親へ笑ったことは、レティの字で知った。
その男が金を受けとっていたことは、ジョーンの字で知った。
同じ机の上に、どちらも残っている。
キットの文を読み、リリィは息を止めた。
痛かったのを、あの子だけがおぼえていた。
「知らなかった……」
日付を並べてくれる子。そんな顔ばかり、思い浮かべていた。
あの男を怒鳴りたい気持ちと、気づけなくてごめんという気持ちが重なる。
リリィは、帳面を机へおいた。
「あの子にも、ここで休んでほしい。日付を調べる仕事がなくても」
ライがうなずいた。
机の時計を見る。
こわい資料を読む以外にも、好きな時間を過ごしてほしい。リリィは帳面へペンを寄せた。
「あたし、今日の昼ごはん、途中じゃなかった?」
ライがパンの包みを持ってきた。
「半分、残ってる。卵は入ってない」
包みの角に、材料をたしかめた印がある。
リリィは笑って紙をおさえた。傷のある腕で押さえずに済むよう、ライがパンをちぎってくれる。
「あたしが食べるころには、調べ物ばっかりになってる」
「休憩にしよう。水、ここでいいか」
「うん」
口へ入れると、乾いたパンが舌へついた。
水を飲んでも、すぐには飲み込めなかった。
ライはなにもいわず、もう一口分を、皿の上へおいた。
待たれる時間があった。
リリィは、記憶帳の横へ右手を伸ばした。
「お昼も、手、触ったよね。パンをもらったとき」
「うん。おぼえてるか?」
「そこは、あたしがいたから」
ライの右手が、紙の上へ来た。
指へふれる。今度は自分から、すこしだけ握った。
あの父親の記録で、目の前の手までこわくなりそうだった。でも、ライの言葉は自分が聞いている。もう一度、指を握った。
「あたし、ここにいる時間、好きだよ」
ライが顔を上げた。
もうすこし待てば、なにか答えてくれたのかもしれない。
けれど、頬が熱くなったので、リリィはパンの方を見た。
「冷めたスープでも、つけてくれたらもっと好き」
「温める」
「スープの話だけじゃないんだけど……うん、温めて」
ライが席を離れてから、リリィは記憶帳を引き寄せた。
左手で書こうとすると痛い。文を短くして、腕を布に載せたまま書いた。
『十五時三十七分。ごはんの続き。ライに手を貸してもらった。いやな記録を読んだけど、今日のこの時間まで嫌いにしたくない。キット、知らなくてごめん。好きなことも、今度教えて。返事は、したいときでいい。――リリィ』
細い字は、すこし震えていた。
それでも、最後の名前まで書けた。
* * *
ジョーンは、リリィの短い文と、机の端にあるスープを見た。
十五時五十一分。
湯気は、まだ立っていた。
「これ、飲んでいいのか」
「うん。リリィは、もう半分飲んだ」
ライが答える。
ジョーンは、右手で器を持った。
唇へ当てると、口の中にあった苦さが、すこし薄くなった。
印をつけていた図を開く。
首の接続器から、機体へ伸びる線。
ジャンヌ用操縦者接続。
その下の、調整に使ったコードを見て、器をおいた。
「この印、昔、課題の画面に出てた」
ライが、となりへ寄る。
「なにが?」
「課題の名前。俺が信号を読まされたとき、端末に出ていた印と同じだ」
ジョーンは課題の記録と、機体の図を並べた。
「見ろ。この信号は通信へ。図形を選ぶ課題は姿勢へ、道を比べる課題は移動へつながってる」
指で線を追うと、別々だった図が重なった。
「俺たちを、この兵器につなぐためだったんだ」
ジョーンの声は、思ったより小さかった。
ライは図を見たまま、しばらく動かなかった。
「人体実験、ってことか」
「研究区画の使い道とも合う。首の装置で、俺たちの考えを機体へ送る。名前によって返事が違うことを、利用したんだ」
ライは左腕の白い布へ、目を落とした。
十三年前、九歳だった体のことも、思っているのだろうか。
「それを、治療だって……」
途中でやめ、彼はジョーンを見た。
「すまん。俺が、そう思ってただけだ」
「俺も、ぜんぶ知ってたわけじゃない」
ジョーンは、図の下にある条件を広げた。
十五の処理系統。
通信、移動、姿勢、動力。
その一つずつへ、どう動かしたいかを伝える、接続器からの信号。
ライが、記憶帳の見返しを開いた。
『いま、把握している人たち』
並んだ名を数えてから、図へ目を戻す。
「十五だ。こっちも十五だけど、名前の数に合わせたのか?」
「機体の十五系統は、三百年前の設計からある。俺たちに合わせて作ったんじゃない」
ジョーンは、二本の線を指した。
「俺とリーヌが同じ解析を使う設定もある。俺一人の出力が、通信と解析の両方へ行くところも。ひとりに一本じゃない」
「交代するたびに、通信の係や、移動の係を代わるってことか?」
「それだけじゃ、足りないらしい」
彼は、動作例の図を広げた。
同じ時刻に、四つの指示が届いていた。
「姿勢を変えろ、右へ進め、前方の図形を見分けろ、通信は待て。前の指示を待たずに、全部届いてる」
ジョーンは送信元を示した。
「一つのコックピットからだ」
「これ、順番をずらした図じゃないのか」
ライが尋ねた。
「同時受信って書いてある。首の接続器を通して、俺たちそれぞれの考えを、同時に受け取るんだ」
「お前たち、いまもそうなのか?」
「いや。いま、こうやって話してるのは俺だ。リーヌがなにを考えてるか、ずっと聞いてるわけじゃない」
ジョーンは、机にある記憶帳を示した。
そうできるなら、紙へ書いて渡さなくてもよかった。
「機体につないだときのために、作った設定だ。だから、接続器を持つ俺たちを探した。一人が順番に動かすだけじゃ、原型の力はぜんぶ使えない」
「全員、同時に起きないとだめなのか?」
「全員じゃなくていい。十五系統の処理は、機体が続ける。いま返事ができる何人かで、動かしたいところへ指示を出すんだ」
ライは、今朝の別の機体の映像を開いた。
人が入らない、遠隔実証型。
「遠隔実証型なら、人を首からつながなくても動くんだろ。原型も、同じようにできないのか」
「腕や脚はまねた。でも、原型には砲撃をそらす装置がある。その力を、主砲の弾を速くするためにも使う」
ジョーンは、兵装の図を開いた。
胸の装置から、左腕の盾と、右腕の砲へ線が伸びている。
力場発生器。
「盾の前なら、弾の向きを曲げる。砲へ回すと、普通の砲より速く弾を押し出せる」
ジョーンは、二本に分かれた線を示した。
「遠隔実証型にも、それが付いてる?」
「ない。製造試験は、成功してない」
修復票に、製造できない理由が並んでいた。材料の作り方も、古い制御システムの組み方も失われている。
「胸に残ってた実物を使うんだ。関節と、冷やす管を直してな」
「装置を別の機体へ移すのも、だめなのか?」
「この装置を別の機体へ移して、普通の操縦器で動かす試験も失敗してる。元の神経接続で使うために、俺たちの体を調べたんだ」
テスト用の椅子の図を、原型の制御システムへ重ねる。
機体をまだ直していた年に、自分たちが受けた課題の番号もあった。
「首の装置の設定も、何度も変えてる。別々の返事を、間違えずに読めるように」
ライは、傷を覆う白い布をもう一度見た。
「機械の方を作り直せないから、お前たちを合わせたのか」
ジョーンは、返事の代わりに、小さくうなずいた。
機械のために、体の方を合わせていた。
ジョーンは、条件の続きへ目を落とした。
「負担が増えると、頭が痛くなって返事も遅くなる。計算は機体がやるけど、こっちの脳が十五人分に増えるわけじゃない」
ジョーンは、条件の欄を見た。
「休まず求められたら、この体がもたない。それでも、課題を続けさせてたんだ」
なにに返事をしていたのか。図の上で、やっとわかった。
首の奥が、また冷たくなった。
ジョーンは画面を閉じ、レティへ残す文を書いた。
『俺たちは、ジャンヌにつなぐために調べられていた。首の装置は、そのためのものだった。でも、逃げるために残した伝言は、あいつらの命令じゃない。――ジョーン』
同じページに、研究の番号だけを残したくなかった。
スープの器をもう一度持つ。
中身は、すっかり冷めていた。
* * *
アジーは、布へ載せた左腕を見た。
十六時十三分。
首が固い。肩を下げても、奥の力が抜けない。
記憶帳に書かれたことを読み終え、端末から顔をそらした。
キットの文で、右手が止まる。今朝の傷なら、自分も痛い。でも、あの子に残った昔の痛さは思い出せなかった。
「あの子だけ、ずっと……?」
ライが、帳面へ目を落とした。
「そう話してくれた」
前へ出れば、体を守れると思っていた。拳を握りかけ、ほどく。
守りきれなかった悔しさと、申し訳なさが残った。抱きしめたくても、別の体はない。
「気づいて、やれなかったんだな」
口にしてから、奥歯を合わせた。
どこへ手を伸ばせばいいのか、わからなかった。
「しばらく、これを閉じていい?」
ライがうなずいた。
「いま、送った控えを見てもらってる。新しい返事が来たら知らせる」
イネスが、看板用の紙留めをおいた。
「絵の紙なら、これで挟める。左手でおさえなくていいよ」
机の端に、筆と青い絵の具がある。
アジーは、朝、自宅で見た描きかけの絵を思い出した。
丸い窓。その向こうの葉。まだ取っ手のないカップ。
続きを描きたくて、帰るつもりだった。
右手で瓶の蓋を緩める。
窓の輪郭を描き、左の縁へ青を一筆おく。
内側だけ、すこし濃くした。
筆をおくと、右の親指へ新しい青がついていた。
「今朝、レティもそこを見てた」
ライが、指へ目を留める。
「いつついたのか、わからなかったんだ」
「昨日、窓の絵を描いたとき。こっちは、いまついたやつ」
アジーは指と紙を、順に見せた。
この色なら、昔の部屋を思い出さずに話せる。課題のほかにも、自分たちには時間があった。昨夜の絵のことも、レティに知ってほしい。
「アタシがしてきたこと、あの記録にあるのだけじゃないから」
彼女は、筆を持ち直した。
一筆おく場所も、昨夜、葉の色を混ぜたことも、研究者が決めたわけではない。
ライは、すこし笑った。
「知ってる。先週、パイプの見積もりの裏まで葉っぱ描いてた」
「あれ、空いてたから」
「市へ出す方だった」
「ちゃんと隅を空けただろ」
紙へ青い取っ手を描こうとして、アジーはやめた。
その先は、自宅にある絵へ足す。
描きかけを、ここで終わらせたくはなかった。
『昨日の指の青は、窓の絵を描いたときについた。今日は工房でも、一筆おいた。帰ったら窓の絵を仕上げたいし、今朝、広場で見た、土を握る子どもの手も描きたい。レティが知りたければ、まず、こういう時間から伝えたい。キット、知らなくて、ごめん。嫌だったことは、今日は説明しなくていい。この窓の色を見て、好きな色も教えて。――アジー』
筆を机へ横たえ、絵と記憶帳を、次の人から見えるように残した。
* * *
レティは、青い窓の絵を見ていた。
十六時二十四分。
右の親指に、新しい絵の具が重なっている。
文を読めば、どこでついた色かはわかる。自分でつけた記憶はなかった。
その前のページに、ジョーンが残した短いまとめもある。
研究区画。養父の提供記録。ジャンヌ用の接続器。
ライが、本人映像を開かずに、記録の番号と図を順に見せてくれた。
レティは、最後に自分の名前へ目を戻した。
上には、被験番号があった。
パーツの札で見たものと、よく似た書き方だった。
「お父さんが来たら、帰れると思ってたのかな」
画面で、ちゃんと笑っていた。
その顔は、お金のために撮られたと知らなかった。
キットへの返事も、同じページに並んでいた。
ごめんなさいのとなりに、休んでほしい、好きな色を教えてという文がある。
文を読んでも、痛さまでは戻らなかった。
「あの人を待って笑ったのも、叩かれたのも、私たちだったんだね」
レティは、紙の端から指を離した。
キットのことを知りたい。でも、苦しかった話を無理にさせたくなかった。
「私は、治してもらってるんだと思ってた。なにを治すのかも、わからないのに」
ライの手が、机の上で止まった。
「あの男が、そういった?」
「ことばは、いま、思い出せない。でも、いい子で待っていれば、なにかが終わると思ってた」
レティは、図の上にある自分の名を見た。
パーツ、機械、子ども。レティも、機械に合わせて調整するものとして並んでいた。
被験個体。ライから聞いたその言葉を、今、字で見てしまった。
「これ、故郷の名前じゃなかったんだね」
「セラが、そう読んだ。古い番号を、同じ名前で使っていたって」
レティはうなずいた。
故郷だと思って、家や台所を探していた。思い浮かばないのは、記憶がないせいだと思っていた。
最初から、研究室の番号だった。
字から指を離す。
すぐとなりには、アジーの描いた窓がある。
取っ手のないカップ。
故郷だと教えられた番号の中にはなかった、自分たちが描いた家の中。
「この絵を描いたときの感じを、すこし知りたい」
レティはいった。
「アジーが絵を描いたって、読むだけじゃなくて。私も、その机に座って筆を動かした感じを、思い出したい」
イネスは、アジーの伝言をたしかめた。
「伝えたい、と書いてくれてるね。どこまで知りたいか、まず頼んでみよう。返事がなければ、紙の返事を待ってもいい」
レティは、内側へアジーの名を呼んだ。
一度目は、なにも起きなかった。
二度目に、焦りに似た感じが胸へふれた。アジーの気持ちか、自分の焦りかはわからない。
催促をやめ、記憶帳へ書く。
『絵を描いた一筆の感じを知りたいです。いやだったら、あとで返事をください。――レティ』
そう書いたとき、指に、違う感触があった。
細い筆を、持ちかえる。
紙へふれた筆先が、すこしだけ引っかかる。
親指に、冷たい青がつく。
ほんの一瞬、昨夜の自宅の机が見えた気がした。
いまの手にはペンがある。いま座っているのは、イネスの工房だ。
工房にいるのに、別の机で筆を持つ感触がある。戸惑って、手のペンをおいた。
「すこし、わかった気がする。紙に筆がふれた感じ」
イネスは続きを急がず、聞いた。
「いまの絵を描いたとき?」
「違うかもしれない。昨日の机だったと思う」
たしかめようとしたら、その机の奥へ、別の白い部屋が重なりかけた。
胸が詰まる。
「もう、やめたい」
ライが、絵を伏せた。
「やめよう。いまは、工房にいる」
レティは、靴を床へ押しつけた。継ぎ目に、木の粉が見える。
白い部屋は、それ以上近づいてこなかった。
届いた感覚と、中断したことを、別々に書く。
昨夜の机かもしれない。筆先の抵抗。親指の冷たさ。
どんな場面か、ぜんぶはわからない。こわくなったので、今日はここまで。
胸の奥へ、低い声のようなものが来た。
続きは、あと。
アジーだと思った。
レティは、「あと」と声に出した。
すこしわかり、そこで止まれた。それなら、いつかまた頼めるかもしれない。
* * *
フィルは、扉の上の風車を見ていた。
丸く見えていたものが、ゆっくり回ると、羽根の形になる。
左側でだれかが話したので、聞こえる右耳をそちらへ向けた。
「フィル。そこは高いから、座ったままで見よう」
ライがいった。
フィルは、伸ばしかけた右手を下ろす。
「ぼく、回るの、見てた」
イネスが棚から、使っていない羽根を一枚持ってきた。
端が丸くなっていて、指でなぞっても痛くない。
机の上で、フィルは羽根をすこし回した。
左腕を動かすと痛いので、右手だけで触る。
「これ、なんのけが?」
白い布を示すと、ライが短く説明した。
「今朝、調査へ行った部屋で、金属が飛んで当たった。手当てはしてある。いまは休ませてる」
「ぼく、当たったところ、おぼえてない。でも、痛い」
「同じ腕だからな。布は、ここでいいか?」
フィルがうなずいてから、ライは肘の下を支え直してくれた。
机の端には、伏せた絵がある。
端末には、人の顔が出ていない。
「なにか、答えなきゃだめ?」
フィルが聞くと、イネスは、使っていたペンをおいた。
「いまは休む時間。課題はないよ」
羽根の穴をなぞる。
何度触っても、正解は聞かれない。手を止めても、急かされなかった。フィルは丸い端を、もう一度なぞった。
外で、長い音がした。
机の羽根は動いていない。
音は風車でも、工房の機械でもなかった。
声が、それに続いた。
『外縁街区にいる方は、案内に従って地下の退避施設へ移動してください。』
フィルは、右耳を窓へ向ける。
靴が走る音。子どもの泣く声。
今朝の三拍の足音とは、違っていた。
なのに、体が椅子から離れそうになった。
「ライ」
「警報だ。お前のせいで鳴ったんじゃない。外でなにが起きたか、たしかめる」
ライが、工房の表示をつける。
いつものパイプの図が消え、赤い案内へ変わった。
町の名前が、その下に並ぶ。
知らない町の名前もあった。
フィルは羽根をおいた。
休んでいいといわれたばかりだ。また、どこかへ動かされるのだろうか。
その外で、なにかが始まっていた。
* * *
リーヌは、眼鏡をかけ、窓の外を見た。
十六時四十四分。
鞄を抱えた人たちが、下の通りを歩いている。
子どもが青い布を巻いた植木鉢を抱えていた。今朝、広場の映像で見た家族と同じ到着札をつけている。
地球へ降りて、まだ一日もたっていないのかもしれない。
イネスが、戸口の通話器を持っていた。
訪ねてきた人の名が、支援室から聞いた名と同じか、たしかめる。
派遣元へかけ直し、声をたしかめてから、内側の鍵を外した。
「市の保安局、連絡官のサイラです」
入ってきた女性は、机の端末より先に、白い布で覆われた腕を見た。
「傷の処置は済んでいますか」
「先ほど、診療の方に診てもらいました」
リーヌは答えた。
ノアの記録のあとに、医師のメモも挟んである。
「いま、話しているのはリーヌです。体の名はレティア。同じ体で、別の名前で返事をすることがあって、おぼえている時間も違います」
自分から、必要なところだけ伝えた。
サイラは、リーヌの顔を見た。
「支援室から、だいたいのことは聞いています。詳しくは、いまお話しできる方にたしかめます」
ハーデンとは違う。知っていた理由から話してくれた。それでも、リーヌは目をそらさずに尋ねた。
「わたしたちを、どこかへ連れていくために来ましたか」
「まず、お守りするためです。それと、いただいたデータに関わることで、いまなにが起きているか、伝えに来ました」
サイラは、自分の端末を机へおいた。
画面には、中央管制塔の映像がある。
町の上へ伸びる塔。共同復旧事業の旗が、外壁から垂れていた。
その上に、黒い点が何列も浮かんでいる。
撮影が近づくと、一つずつ、銃口のある無人機だとわかった。
「今日の午後、ここにある軍用区画が占拠されました。占拠した勢力は、アーク・リバースと名乗っています」
イネスの椅子が、短い音を立てた。
リーヌは、記憶帳にある名へ目を落とした。
今朝の照合を受けた相手。
検査室の機器を管理していた相手。
六年前、自分たちの記録を保存した相手。
「地球と月圏の政府へ、管制ネットワークも、防衛を指揮する権限も渡せと要求しています」
サイラが次の画面へ送った。
地球と月のいくつもの政府へ送った、通告の文。
要求の下に、時刻がある。
二十一時二十分。
「拒否すれば、地球を回る複数の宇宙ステーションを、地上へ落とす。そのための噴射を、この時刻から始めるそうです。月圏への輸送も止めると」
ライが、中央管制塔の映像へ顔を寄せた。
「復旧のための設備だろ。なんで、軍がそこから命令を出せるんだ」
「復旧した設備に、旧軍の信号を先に受ける回線が残っていました。事業に加わった一部の技術者と、軍の協力者が関わっています」
サイラの声は、平らではなかった。
急いでいる人が、急がせすぎないように区切っていた。
「その回線を外す監査が、まもなく入る予定でした。今日の通報で、照合や捕まえようとした証拠も外へ出た。調べが進む前に動いた、と見ています」
リーヌは、手の中のペンへ目を落とした。
さっきまで、昔の出来事を、いつのことか並べていた。
その途中で、向こうはいまの街を奪っていた。
通告文には、まだ下があった。
指定対象の引き渡し。
レティア。
添付された顔写真を、リーヌは知らなかった。
六年前の、すこし頬の細い顔。
保護されたあとに写した身元用の写真ではない。
『未回収の適合対象を返送せよ。』
左の指が、ペンを強く握った。
傷が痛むまで、力を入れていたことに気づかなかった。
ライが、端末を裏返しかけた。
「その文まで読まなくていい。お前を、物みたいに……」
「待ってください」
リーヌは、顔を上げた。
「私にも、なにを要求されているか知っておきたいんです。見たところだけ、帳面に残します」
腕を布へ戻し、ライに、短い文の代筆を頼んだ。
六年前の回収を、まだ終わったことにしていない。
書いてもらった字を読む。
逃げてから六年、この体で歩いてきた。向こうの紙では、まだ戻っていないだけだった。
* * *
ミナは、記憶帳の新しい行から顔を上げた。
十六時五十七分。
工房の外で、避難を呼びかける声が続いている。
黒い塔の映像。二十一時二十分。レティアの引き渡し。
サイラという人が、いまの情報を持ってきた、と書いてあった。
「わたしは、ミナ。通告にある宇宙ステーションの、いまの位置を見せてください」
サイラは自分の端末を開いた。
「軌道管制から、ステーションのデータが届いています。いまどこにいて、どのくらいの速さで動いているかも」
「記録を取った時刻も、ぜんぶ」
画面に、地球を回るステーションの場所と名前が並んだ。
『地球周回ステーション』
写真には太い骨組みと、翼のような設備。そばの貨物船が、ひどく小さい。船が寄り、電力も中継する施設だ。
これを、地上へ落とすという。
ライも写真を見ていた。
「これを、町へ落とす気なのか」
ミナは、ジョーンが開いた運用資料の目次を探した。
旧軍の信号で、ステーションのスラスターを動かす表があった。
噴射を続ける時間と、そのときの出力。
敵の通告に書かれた条件は、その中の一つだった。
「その噴射をしたら、本当に落ちるか、確かめる。昔の表だけじゃわからないから、今日の位置と速度を使う」
ミナは二つを並べ、端末のシミュレーターに数値を入れた。
ライが机の横へ来た。
「この時刻、こっちと違ってる」
彼が指した二つの表は、時間の数え始めが違っていた。
ミナは、入力を止める。
「先に、同じ時間にしないとだめだ」
サイラへたしかめ、条件をそろえてから、やり直した。
地球を巡る、ステーションの通り道が表示された。
敵が命じた噴射を入れると、別の赤い線が伸びる。
丸く地球を囲んでいた通り道から、それていた。
一つ目のステーションの印が、赤い線をたどり、地球へ近づいていく。
二つ目も、違う場所で高度を下げた。
三つ目の線は、海を越え、別の大陸へ伸びていた。
「進む向きにブレーキをかけるの。スラスターの向きを変えて、速度を落とす。すると、ステーションが回る道の低いところが、地球へ近づく」
ミナは、一つ目の線の途中を指した。
地球のまわりにある、薄い青の帯。
空気のあるところだった。
「この噴射を続けたら、ステーションは地上へ落ちる」
ライの手が、机の上で止まった。
「途中で、燃えるんじゃないのか」
「壊れるし、燃える。でも、この大きさのものが、ぜんぶ燃えてなくなるわけじゃない。大きな破片が、地上まで落ちてくる」
ミナは、シミュレーターの次の画面を開いた。
『落下予測範囲』
世界地図の離れた場所が、赤く塗られていた。
一つのステーションの下には、いくつもの町の名がある。
同じことが、別の大陸でも起きる。
「ここに、人がいる」
声が、すこし小さくなった。
サイラは計算の条件を管制へ送った。
返事を待つ数十秒、ミナは赤い範囲を見ていた。知らない町の灯。計算の答えの先に、家がある。
管制から声が届いた。
『条件をたしかめました。第二、第四ステーションのスラスターに、不正な命令が入っています。噴射を待っていて、こちらからは操作できません。』
声の後ろに、別の人の呼ぶ声が重なった。
計算だけの話ではない。空のステーションにも噴射の準備が入り、管制の操作は届かなくなっていた。
続いて、月圏から映像が来た。
発着場の船。開いたままの貨物口。出発を待つ列。
『予定便は保留。地上からの解除を試しています。中央からの信号が、こちらの操作に優先しています。』
映像の端で、積み荷を持った人が、船の前に立ち尽くしていた。
今朝、地球へ降りてきた家族の映像とは、違う待ち方だった。
「船を止める方は、もう、やってるんだ」
ミナがいうと、サイラはうなずいた。
「輸送の妨害は、すでに始まっています。二十一時二十分には、ステーションを落とす噴射も始め、月圏への輸送を全面的に止めると」
月に船が届かなくなる。地球には、ステーションが落ちてくる。
その前に、敵の命令を止めなければ。
ミナは、計算の保存を選んだ。
赤く塗られた町の名を、最後にもう一度見た。
赤い範囲へ破片が落ちるより前に、噴射を止めてほしい。
そう願ったことも、記憶帳へ残した。
* * *
ジョーンは、サイラが示した中央管制塔の地図を見た。
十七時十三分。
中央という字を、右の指でなぞる。
いくつもの施設へ線が伸びていた。その下に、無人機の列もつながっている。
「ここが、なにを送ってる?」
「占拠された軍用区画です。ここから、無人機には攻撃命令を、軌道や輸送の設備には、無理に動かす信号を送っています」
サイラは、塔の中の一部を赤くした。
「この送信設備を、装置ごと切り離せば、各地の管制がまた操作できます。ステーションの噴射を止めて安全な軌道へ戻すのも、船を飛ばすのも、それぞれの担当が続けます」
「無人機は?」
「この回線につながる機種は、攻撃命令が切れると、その場で待つ設定です。飛ぶための制御は残ります。街へ落ちるわけではありません」
ジョーンは、別の画面を見た。
塔の前で、地上の車両が止まっていた。
次の瞬間、空中の無人機が一斉に向きを変えた。
映像が白くなる。
音が戻ると、車両の上にあった灯が、地面へ落ちていた。
「奪還は、続けています」
サイラは止まった映像を閉じた。
「通信を妨害し、軌道側でも端末を切り離しています。二つの施設は、もう操作を取り戻しました。ただ、期限までにぜんぶを戻せるかは、まだわかりません」
「遠くから、ケーブルを切れないのか」
ジョーンは、軍用回線をたどった。普通の通信とは別で、塔の中を通っている。
「予備も同じ区画につながっています。一本切っても、残りから送られるんです」
サイラが、赤い装置を指した。
「ここを装置ごと切り離す必要があります」
サイラは、別の道を示した。
工房から退避施設へ。
そこから、保安の保護先へ。
「まず、こちらへ移れます。引き渡せという要求には応じません」
ライが、すぐうなずいた。
「それなら、支度する。資料の原本も持っていく」
「待て」
ジョーンは、機体の図を開いた。
原型ジャンヌ。地下の格納庫。
右の指が、今朝保存した規則へ届いた。
『外部指令切断後は、現場の保守操作を優先する。』
サーバーで見つけた文。
原型の制御ユニットに、当てはまる決まりだった。
照合票とつながった図も、同じ型式を示している。
「こいつを、俺たちが動かしたら」
ライは、図とジョーンの顔を交互に見た。
「お前たちを兵器に乗せるための実験だったんだろ。その兵器を、こっちから動かしに行くのか」
「あいつらのために乗るんじゃない。中央へ届くために使う」
ジョーンは、塔の周りを囲むドローンを示した。
その後ろに、黒い遠隔実証型が立っている。
同じ色の胸。同じように厚い装甲。
「普通の作業機じゃ、ここを通れない。原型には、こいつらに負けない装甲と、攻撃を避ける速さがある。俺たちの接続器にも、それを使うための設定が残ってる」
「残ってるだけで、使えると決まったわけじゃない」
「そうだ。図のとおりに動くかは、現物で見ないとわからない」
ジョーンは、続きを隠さず広げた。
外部指令を受ける装置。
首へ刺激を送り、返事をさせる装置。
接続を続けさせるための、外側の仕組み。
「だから、乗る前にこいつを切る。俺たちを捕まえるために使ってた方だ」
ライは、その図へ顔を近づけた。
眉が寄る。
「図と違ってたら、切れないかもしれない」
「そのときは、乗らない」
ジョーンは答えた。
ジョーンは条件も帳面に残した。動かす前に、帰れなくならないことをたしかめる。
「中央が原型へも、攻撃しろって送る危険はある。俺たちが、そうするために乗らないってことは、いま、書く」
記憶帳を引き寄せる。
『原型を自分たちで動かし、中央の軍用送信設備を切る案。格納庫で、命令を受ける装置と、刺激を送る装置を先に切る。敵が攻撃しろといっても、従わない。――ジョーン』
ライは、その文を読んだ。
「これ、お前ひとりで決めていい話じゃないだろ」
「だから、案って書いた。レティにも、次に起きるやつにも聞く」
サイラは、二人の間にある紙を見ていた。
「原型を直した記録は、押収した資料と合っています。格納庫の入口には、こちらの班を送れます。ただ、私はあなたたちに乗れと命令できません。保護先へ行く道も、残しておきます」
ジョーンはうなずいた。
外では奪還と避難が続いている。自分たちが選べる道も、一つ増えた。研究者へ返事をするための道ではない。
* * *
ルカは、昔のマップと、市が使っている点検用のマップを並べた。
十七時三十一分。
ジョーンの案を読み、顔を上げる。
「僕、格納庫までの道なら、比べられる。そこから先の戦い方は、わからない」
サイラが椅子を寄せた。
「入口は、こちらの班がたしかめています」
「今朝、ライと入った場所は、ここ?」
ルカは、点検用マップの一角を指した。
ライが首を振る。
「となりの区画。俺たちが逃げた床下は、こっちまでだ。その先は見てない」
ルカは、見ていない道を灰色にした。
見た道と、図にあるだけの道を、同じ色にはしたくなかった。
格納庫へ続く点検トンネルは、川の下を横切っている。
旧図では、階段だった。
市のマップでは、直して坂にしたと書かれている。
その先に、途中から途切れた線があった。
「ここ、崩れてる?」
ライが、最近の工事記録を開いた。
「古い線を埋めた。代わりの道は、この横だ」
ルカは新しい方をたどった。
やがて、確認班から写真が来た。
坂の先の扉。新しい灯。古い紋章を削った跡。
図と違うものは、写真の上に印を足す。
「格納庫の扉までは、通れるって。奥は、まだ見ていない」
サイラが知らせた。
「入口を守る班と、戻る場所を用意します」
次に、地上の図を開いた。
格納庫は都市の西の端、工場の並ぶ場所にある。
「地上出口から塔まで六キロ。貨物道路を進んで、二キロ先に川を渡る橋がある」
ルカは地図の距離を読み、橋へ指をおいた。
「塔は、出口のすぐとなりじゃないんだね。こっちの橋、今も通れる?」
「地上の班が調べています。戦いの中で変わるので、出る前にも知らせます」
サイラが答えた。
ルカは、地上の道を、まだ灰色のまま残した。
工房の印も消さずに残す。目的地だけの地図は嫌いだった。着いたあと、帰る道も要る。
『格納庫へは、点検トンネルから。灰色は未確認。扉の先で図と違ったら、止まって知らせる。――ルカ』
僕が見た場所ではない。
その一言を、最後に足した。
* * *
ヴェルは、外部装置の図を、左の指で拡大した。
十七時四十二分。
機体へつながる電源ケーブルは、二本あった。
胸へ入る太い線と、その横の細い線。
「オレ、どっちを切ればいいか確かめたい。太い方まで切ったら、機体を動かす電力も消える」
ライは、測った数字と比べるための表を開いた。
「外部の装置は、こっちの専用電源か」
「図では。軍用の通信と、強制刺激の装置だけ、別になってる」
ヴェルは、胸から盾と主砲へ続く線も確かめた。
「力場の装置は主動力の方だ。箱を切っても、弾をそらす力と、主砲は残る」
ヴェルは、接続器へ続く細い線をたどった。
操縦席から指示を送る回線は、箱を通らない。敵の命令と、自分たちが動かす線。いっしょに切るわけにはいかなかった。
「格納庫で先に切るのは、原型についてる、この外部装置。中央管制塔じゃない」
ヴェルは、二つの図を並べる。
「ここを切っても、外の無人機は止まらない。世界の設備へ送る信号も止まらない。そっちは、乗ってから中央へ行って断つ」
ライが、記憶帳へ短く写した。
格納庫で原型の箱を切り、塔で中央の送信設備を断つ。ライは、二つの作業を順番に書いた。
ヴェルは、切る予定の端子に印をおいた。
「実物も同じ型で、測った電圧が図と合えば、外から切り離せる。カバーを開ける工具は?」
ライが工具バッグを開く。
ヴェルは、短い刃と絶縁用の留め具を選んだ。
その先の動作図に、照準の欄があった。
主砲、発射。
操縦側の照準確定を要求。
「中央が撃てといっても、主砲には、こっちの返事が要る。機体の計算した狙いで撃つかは、オレたちが決めるんだ」
サイラが、その欄を見た。
「返事をしなければ、安全ですか」
「いや。返事を出させるための刺激装置がある。切る前に乗ったら、どれだけ待たせられるかもわからない」
ヴェルは、線の途中へ、赤い印を足した。
勇気を出せば、電気が消えるわけではない。
「だから、先に切る。図が違えば、予定を変える。そこは省かないでくれ」
ライが、別の修復票を開いた。
「地上の道が塞がったら、背中のこれも、使えるのか」
図の肩の後ろから、腰へ向けて、太い筒が二つ並んでいる。
スラスター。短い時間なら、機体を空へ持ち上げて進める。
ヴェルは、その下の制限を読んだ。
「続けて九十秒まで。上がる分も、降りる分も、その中だ。ずっと飛んで待つのは無理。修復済みってあるけど、現物でも確かめる」
「飛ばすのも、全部、自分で計算する?」
「姿勢とか、落ちないための細かな動きは、機体が補う。行き先は、こっちが決める」
ヴェルは、図を閉じなかった。
「それで戦い方まで、知ってることにはならない。オレたち、飛んだこともないんだから、降りる場所も要る」
選んだ工具を、ライへ渡した。
左腕の傷へ、また痛みが来る。
交代しても、傷は同じだ。工具はライに収めてもらった。
* * *
オルドは、帰る道から先に見た。
十七時五十四分。
外の警報は、もう、同じ間隔で鳴っていた。
慣れていい音ではないと思った。
短く、せき払いをした。
「俺はオルド。進む話の前に、戻る条件を残す」
左手でペンを持ち、腕を布へ載せる。
傷が痛んで歩けなくなったら、進まない。
図と違う分岐で、連絡が取れなければ、先へ行かない。
外部装置を切れなければ、搭乗しない。
サイラは、入口を守る班がいる場所と、途中で連絡を取れる場所を示した。
オルドは、その二つへ戻る線を書いた。
「敵が入ってきたら、この予定のままでは動けない」
ライへいう。
「近い方へ退く。原型を動かすために、まずこの体をなくしたら、なににもならない」
「同意する」
ライは、時刻を確かめた。
出るまでに、まだ短い時間がある。
机には、案を読んだリーヌの返事が挟まれていた。
『ここまで守った暮らしを、向こうへ返すためには使いたくない。わたしたちで断つなら、次に必要な資料を残します。――リーヌ』
その下に、リリィの細い字がある。
『引き渡されたくない。ライと、この工房へ帰りたい。乗るなら、そのために乗って。――リリィ』
サイラと話す間にも交代した、とライが二人の書いた時刻を教えた。オルドが直接聞いた返事ではない。
いま、返事のない名もある。
「全員が、その場で考えて答えられたことにはしないでくれ」
彼は、空いている行を残した。
「前へ出たあと、やめたいといってもいい。まだ知らないやつには、まず、これを読ませる」
ライがうなずいた。
「帳面は持っていく。途中で交代したら、俺からも説明する」
帳面は作戦書だけではない。なにも知らずに起きる人へ、行き先を教えるものだ。
オルドは、戻る場所と、やめる条件を書いたページを、一番上へ挟んだ。
進むための案を、すこしだけ信用できるようになった。
* * *
レティは、二つの道を見ていた。
十八時八分。
一つは、保護先へ行く道。
もう一つは、地下の格納庫へ行く道。
どちらにも、戻る地点が書いてある。
ライは椅子へ座り直した。
「原型が使えるかは、まだわからない。俺たちが行かなくても、避難も奪還も続いてる。お前ひとりに背負わせる話じゃない」
レティは、資料を見た。
世界地図の赤い範囲。
発進できない月の船。
植木鉢を抱えた子のことを、ライが話してくれた。自分は見ていない。でも、アジーがその手を描きたいと残している。
「私たちが直すバルブの先にも、部屋があるよね」
レティは世界地図へ目を戻した。
「水を使う人がいて、ごはんを作る人がいる。ステーションも船も、同じなんだね」
「ああ。だれかがそこで暮らしてる」
自分たちの暮らしだけ、地図から切り取ることはできなかった。
「私が戻れば、やめるって、書いてある?」
レティは、敵の通告を指した。
サイラが首を振る。
「引き渡しは、要求の一つです。管制ネットワークも、防衛を指揮する権限も渡せといっています。あなたが行っても、各国を従わせる要求は残ります」
ただ、自分が我慢すれば終わる。
そう考えそうになったところへ、答えが来た。
レティは通告から手を離した。
「私が、つながれたら、あの人たちはなにをするの」
サイラは、原型の運用案を開いた。
中央へ迫る重装部隊を迎え撃つ。そのあとも抵抗する軍の基地を攻める。
地球と月の軍の拠点が、図の中で囲まれていた。
「各国の軍が、中央を取り戻しに来ると予想しています。原型を、その反撃を破るために使いたい」
「でも、遠隔実証型も強いんでしょう。三百年前の一体を直して、私たちまで調べるほどなの?」
サイラは、ジョーンが印をつけた修復票を開いた。添付されていたのは、三百年前のテスト映像だ。
黒い盾の前へ、青白い面がひろがる。
飛んできた砲弾が、そこで横へそれた。離れた斜面が、白くはじける。
「弾が、消えたんじゃないんですね」
「はい。進む方向を曲げています。次を見てください」
盾の光が薄くなる。
原型が、右腕を上げた。
砲の根元へ白い光が集まり、実弾が出る。
映像が、標的のカメラへ切り替わった。
分厚い装甲板の中央に、穴があいている。ずっと奥に立てた、二枚目の板も抜けていた。
テストの的は、重装艦と同じ厚さの装甲だった。
レティは、机へおいた自分の腕を見た。
あの巨人も、一つの席から動かすものだった。
「同じ装置の力を使い、弾をさらに速く押し出しています。最大出力なら、重装艦の装甲も、軍の基地を守る壁も撃ち抜ける。遠隔実証型には、この武器がありません」
ライが、映像を止めた。
「保安の車を壊す力と、軍の艦を沈める力は、違うってことか」
「遠隔実証型は市街の保安側を苦戦させています。でも、各国の重火器や拠点の防衛を、同じように破れるわけではありません」
サイラは運用案へ戻った。
軍の協力者が動かす部隊。中央を守る遠隔実証型。抵抗の強い場所へ、原型を送り込む道。
月へは、輸送船に載せて運ぶ予定もあった。
「制御網で脅しても、相手は黙って従わない。その抵抗を砕く切り札として、原型を用意してきたのです」
「軍の反撃を止めるために、一体の原型と、私たちを用意したのね」
「大きな軍を一からそろえるより、どの国も作れない兵器へ賭けた。あの研究も、修復も、そのためでした」
レティは、首の後ろへ右手を当てた。
なめらかな金属が、指の下にある。
機械を直す間に、この体にも装置を入れていた。
「元の神経接続以外では、まだ動かせません。あなたたちの考えを読み取るため、長く調整してきた。ほかの人を、すぐ乗せることもできないのです」
ライが、中央を示す印へ指をおいた。
「じゃあ、原型が使えなくても、今夜の攻撃は始められる。でも、そのあとの軍の反撃を抑える計画は、崩れる」
「はい。あなたを取り逃がし、証拠も外へ出たので、予定を早めています。捕まえたい側にも、余裕はない」
戻って一人で耐えれば、済むのではない。降りられない席から、だれかの町へ砲を向けさせられる。
自分たちの知らない時間を、あの人たちは、そのために使ってきた。
レティは、仲間の書いたページを開いた。
リーヌ。ジョーン。リリィ。オルド。
絵を続けるために帰りたいという、アジーの文もあった。
眠っている間に、みんなも案を読んでいた。また、なにも知らずに危ないところへ行かせたくない。この体を、向こうへ返したくもなかった。
「乗るのは、あの人たちの続きをするためじゃない。ここへ帰ってくるためでしょう」
レティがいうと、ライはうなずいた。
「中央から命令を送る装置を断つ。そのために、使う案だ」
「攻撃しろっていわれたら?」
「従わない。先に、原型の外部装置を切る。図と違って切れなかったら、予定を変える」
レティは、白い布で覆われた左腕を見た。
この傷ができたとき、自分は前にいなかった。
知ったあとも、痛かった。
「私、また途中でいなくなるかもしれない」
「そのときも、これを渡す」
ライが、記憶帳へふれた。
「案を読んでも、やめたいと思ったらいっていい。次に起きた人にも、そう伝える」
レティは右手でペンをとった。
だれかが了承したから、次の課題を始める。そんな紙にはしたくなかった。
『ジャンヌを使って、中央管制塔の軍用送信設備を断ちたい。あの人たちの攻撃命令には従わない。私たちの暮らしへ帰るために。』
次の行を空ける。
『危ないと思ったら、途中でも止めて。私は、この目的で行きたいです。――レティ』
今朝も、自分で行き先を書いた。
今日はライと、旧保守区画の調査へ行きます。
その文から、まだ一日も終わっていない。
違う仕事になってしまった。
それでも、今度の行き先を、自分の字で書けた。
「お願いします」
レティは顔を上げた。
「格納庫まで、連れていってください。そこからなにをするかは、私たちが決めます」
サイラは、紙を読んでからうなずいた。
ライは立ち上がり、工具バッグを持ってきた。
* * *
アジーは、レティの名前で終わった文を読んだ。
十八時二十分。
今朝の調査へ行く前と、同じ字だった。
用件の中身だけが、ひどく大きくなっている。
腕は痛い。医師の控えには、出血が増えたら止めるとある。
アジーは、上着を羽織る前に、布の外側をたしかめた。
いまのところ、新しい赤は見えない。
「支度する。アタシが出てる」
ライが、折り畳んだアシストフレームを差し出した。
「左側の固定を、軽くした。動かすなら、肩で持つ。無理そうなら、途中で外そう」
アジーは、右手で留め具を引いた。
肩で支えた工具の重みを、フレームが受けてくれた。左腕を上げずに持っていられる。
傷が治ったわけではない。
そこをたしかめてから、脚の屈伸を一度だけした。
サイラが、班への連絡を終えて戻る。
「入口までは、隊員二人がいっしょに行きます。中央へ向かった部隊も、中へ入ろうとしています。格納庫から地上へ出るには、機体用の昇降路を使います」
アジーは地図を見た。
点検トンネル。地下格納庫。中央管制塔。
この線を歩き、機械にふれるのは、傷のある体だ。アジーはバッグを持ち直した。
「ちなみに、これ、作業の見積もり出した?」
ライが顔を上げた。
「いまから?」
「格納庫で外の指令を切って、中央の送信設備を止める。回収するのは、でっかい兵器一体。今日の調査票じゃ足りないだろ」
ライは、しばらく口を閉じていた。
それから、息を吐くように笑った。
「帰ってから、追加で出す」
「じゃ、帰ったら手伝って。アタシは絵の続きがある」
机の青い窓は、そのままにしておく。
取っ手を描くのは、自宅の方だ。
イネスが、絵を棚へ移した。
「ここにおいておく。持って歩くと、まだ色がつく」
「捨てないで」
「捨てない」
アジーはうなずき、短い返事を記憶帳へ足した。
『レティの案を読んだ。帰って絵を続けるために、アタシも行く。見積もりは帰ってから。――アジー』
そのページを、ライに持ってもらう。
右手には工具。左腕は体の近くへ。
イネスが工房の戸を開けた。
風車が、頭の上で回った。
アジーは、それを見上げてから外へ出た。
通りは、今朝より広く見えた。
閉じた店が多かった。
向こうの退避口で、隊員が荷物を持った人へ道を教えている。
植木鉢を抱えた子どもが、立ち止まった。
アジーは、青い布の上にある、その指を見た。
描きたいと思った手に、すこし似ていた。
初めて土を触る瞬間には戻れない。でも今、鉢を抱える指も、描いておきたい形だった。
隊員の案内で、子どもは退避口へ入った。
ライがとなりで歩く。
アジーは、ライがバッグのひもを握る手を見た。手袋に、白い縫い目がある。
今朝たしかめた自分の手袋にも、同じ色の糸が渡っていた。
帰るときにも、ほどけていなければいい。
点検トンネルの入口では、確認班の一人が待っていた。
サイラの名を聞き、通信でたしかめてから、坂の先へライトを向ける。
「格納庫の前までは、歩けるようにしました。奥の機械には、まだ触っていません」
隊員がいった。
「電源は残っています。警備機の反応は、いまのところありません」
サイラは一人を入口へ残し、もう一人と先へ進んだ。
アジーは、ライのすこし前を歩く。
途中の分岐で止まり、ルカの地図と壁の番号を比べた。
違う線へ入ってはいない。
奥の灯が、一つずつ点いていく。
地上の避難放送は、二つ目の曲がり角で聞こえなくなった。
首の後ろが、冷える。
今日はもう、なんども感じた温度だった。
アジーは、触ってたしかめるのをやめた。
足を止め、いまの位置を、ライに記録してもらう。
「先でなにか来たら、戻るのはここ」
サイラが、通路の広くなった場所を指した。
アジーはうなずいた。
戻るところを見てから、扉へ向かった。
十八時四十六分。
格納庫の前にある、最後の扉が開いた。
油と、熱い金属の匂いが流れてきた。床の新しい工具箱には、取り替えた端子が、ふたの裏に並んでいる。
最近、だれかがここで働いていた。
アジーは、その先で足を止めた。
黒い巨人が、こちらを向いて立っていた。
「高さは、八メートルだ」
ライの端末を見て、アジーは巨人へ目を戻した。
「三階建ての家くらい、あるんだね」
広い肩に細い腰。太ももから足の甲まで、厚い装甲が重なっている。人の形でも、頭に鼻や口はない。黒い顔を横に切る、細い観測窓が一つあるだけだ。
黒い装甲が、鈍く光を返す。角の削れたところからは、灰色の金属がのぞいていた。直したばかりの左肩だけが、周りより深い黒をしている。
左腕の外側には、盾のように幅のある装甲。右腕には、腕に沿って太い砲身が取り付けられていた。
左肩の後ろに、太い筒のふたが見えた。背中のスラスターだ。右にもあるが、ここからは肩に隠れている。
その両手が、動かずに下がっている。
原型ジャンヌ。
映像で見た機械が、いまは同じ床の上にいた。
機体の左わきに、鉄の足場が組まれていた。
床から三メートル上がったところが、腰の整備用の足場だ。そこより一メートル高く、機体の左腰の後ろに、灰色の箱がついている。
腰の足場から、さらに短い階段が上へ続く。先には、開いた胸の装甲があった。
地面から五メートルのところに、人の座る椅子が一つ。
あれほど大きい体の中で、椅子だけが、普通の大きさをしていた。
膝をおく位置。腕を下ろす位置。首の後ろへふれる輪。
椅子の横に、細い灯が十五、並んでいる。
アジーは、肩を引いた。
そこへ座ったら、首を動かせなくなる。
研究施設の椅子を思い出しそうになり、アジーは胸から目をそらした。
「アジー」
ライが呼んだ。声は、すぐ後ろから来た。
白い部屋の係員の声ではなかった。
アジーは右手を開く。親指に残る青が、整備灯の下で見えた。
「これが、実物」
口に出してから、アジーは足元を見た。ここは、いまライと来た格納庫だ。
「最初に、外部装置の型式を見よう。まだ、だれも座らない」
ライが工具バッグをおき、サイラが入口の隊員へ連絡する。
アジーは、機体の肩の向こうを見た。
奥の壁に、巨人が通れる扉がある。その向こうが昇降路。上の札は、貨物道路への地上出口を示していた。中央管制塔は、そこから六キロ先だ。
進むなら、ジャンヌであの扉へ。戻るなら、後ろの扉から来たトンネルへ。
机に残した青い窓へ、まだ取っ手を足していない。
アジーは、黒い胸をもう一度見た。
はじめて見るはずの椅子が、あまりにも、知っている形をしていた。




