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ジャンヌ――私の知らない昨日を、私たちは生きた  作者: parupuntist


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第三章 十五人は、だれのために生きたのか

 扉が開くと、画面の中の女の子は笑った。

 レティは、机の縁を右手で掴(つか)んだ。

 自分の顔だ。右の眉の端が下がる癖も、幼いころの写真と同じだった。

 けれど、男が入ってきた瞬間の、安心した笑い方は知らなかった。

 女の子の肩から、すこし力が抜ける。

『お父さん』

 女の子が呼んだ。

 迎えに来てくれた。

 そんな小さな安心だけが、レティの胸にも戻った。

 あの人と家で何があったのかは、ほとんど浮かんでこない。

 男は扉を閉め、机に薄い記録用パネルをおいた。暗い色の袖を、肘まで折っている。

 女の子は膝に両手を揃え、男が自分のほうを向くのを待った。

 レティの息が浅くなった。

 となりにライ、向かいにイネス。ここは、あの検査室ではない。いつもの工房だ。

 ライを見ようとしても、視線が画面へ戻ってしまう。見ていないと、質問に答えられない。そんな考えで、体が固くなった。

『いま、だれがいる?』

 男がいった。

 ハーデンも、検査室でそう尋ねた。

 初めて会ったはずなのに、別の名前があると知っていた。この男も、ずっと前から同じことを聞いている。

『レティ、です』

『ほんとうか』

 女の子の頬に、笑みが残っていた。

 聞き返されても、笑ったままだ。やめたら叱られると、思っているのだろうか。

『はい』

『いま、だれがいる?』

 同じ質問。

 さっきの答えでは、よくなかったのだ。

 女の子が椅子の下へ足を引く。レティも靴を引き、左腕の傷に痛みが走った。

 今日できた傷。白い保護シート。工房の椅子。

 いま自分がいる場所を、声にしてたしかめたかった。

『レティ……』

『考えてから答えろ』

 男はパネルへ書き込み、引き出しに右手を伸ばした。

 中身は、まだ見えない。

 それなのに、レティの指が机を離れなくなった。

「……止めて」

 ライが、すぐ再生を止めた。

 男の手は、引き出しへ届く手前で動かなくなった。

「止めた。続きを流さない」

 画面の明るさが落ちる。

 レティは一本ずつ、机の縁から指を外した。親指に残った青い絵の具が見えた。

 画面の女の子の手には、ついていない色だった。

 イネスが、小さな時計を机へおいた。

「いまは、十四時七分。私の工房にいる。左腕を、この布へ戻していいよ」

 レティは腕を載せた。靴底を床へ押しつける。

 椅子の背に体を預けて、やっと、長く息を吐けた。

 ライの手は、頼めば届くところにあった。今はふれずに、待っていてくれる。

「この子、父親が来てくれて、うれしかったみたい。私にも、その感じだけはある」

 画面を見ないまま、レティはいった。

「でも、引き出しを開けるのがこわかった。なにが入っているかも、見てないのに」

「いまわかったのは、その二つだね」

 イネスが記憶帳を開いた。

「先を見てたしかめるかどうかは、あとで決められる。今日は止めた、って書いておこう」

 レティは右手でペンをとった。

『十四時七分。イネスの工房。十三年前の自分の映像を見た。父親が来て笑ったあと、同じ質問をくり返された。引き出しを開ける前に止めてもらった。人物の映像は、今日はここまで。――レティ』

 資料を閉じる。消すボタンにはふれなかった。見続けたくはない。でも、あの子がいた記録まで、消したくなかった。


 水をすこし飲んでから、レティは記憶帳を開き直した。

『ハーデンは私のことを、どこで知ったのか。持ち帰った記録を調べたい。』

 工房へ来る前に、自分で残した希望だった。

 あの男が知っていたことをたしかめようとして、自分の古い映像まで見つかった。

 レティは、閉じた映像のリストへ目を戻した。

「この映像も、今朝のサーバーに入っていたのね」

「うん。今朝は暗号で読めなかった。検査室の照合票に保存先があって、そこのアクセスキーで開いたんだ」

 ライが、照合票の参照先を示した。

「ハーデンも、これを見たの?」

「どこまで読んだかは、まだわからない。なにを見て質問したのか、捜査の人にたしかめてもらっている」

 仕事で持ち帰った資料と、首につなごうとした機械の鍵。それが合う。レティは、二つの見出しを見比べた。

「ふつうの修理の仕事だったのに。どうして、私の小さいころの映像が入ってるの」

「まだわかっていない。でも、検査室でお前が選ばれた理由には、この記録が関わっていそうだ」

 ライが答えた。

「あのサーバーは、最近まで使われていた。首の機械からの返事も、アーク・リバースへ送られてる。検査機器にも、同じ組織の名があった」

 イネスが、捜査担当へ渡した控えを出した。

「襲われたことも、閉じ込められたことも通報した。現場は保安の担当が調べてるよ。ここでは、首の接続器を見よう。なにに使うのか、わかるところから」

「首にあるものが、あの人たちと、どう関係してるのか」

「うん。なぜ反応したのか。なぜ、また体へつなごうとしたのか。次に同じことをされないために、わかるところを探す」

 レティは、閉じた映像のリストへ目を戻した。

 子どものころのことを思い出せなければ、安全にはなれないのだろうか。

 その問いが顔に出たのか、イネスは人物映像の欄を畳んだ。

「動画をぜんぶ見なくていい。装置の説明や、保存された日付からわかることもある」

「……首のことを、調べてほしい。映像の続きは、まだ見たくない」

 レティは二つを分けて、記憶帳に書いた。

 映像は見ない。装置は調べたい。その二つを、次の人にも読めるように残した。

 ペンをおくと、時計がぼやけた。眠気に似ている。でも、眠る場所を自分で選ぶことはできなかった。


     * * *


 キットは、レティが書いた二行を読んだ。

 首の接続器について調べてほしい。

 人物の映像は、今日は見ない。

 机の時計は、十四時十六分だった。

 左腕が痛み、キットは布へ戻した。今朝できたこの傷は、ほかの人も痛いと書いている。

 帳面には、父親が来て笑った、とあった。

 暗い袖。重い足音。息をするだけでも痛かった夜。

 レティにはほとんどない、その記憶が、キットには残っていた。


「ぼ、ぼく、キット」

 先の音が、すぐには出なかった。

 ライは、途中を代わりにいわず、待った。

「あの人の顔、出さないで」

「出さない。映像は閉じたままだ」

 ライが答えた。

「叩かれたときのこと、ぼく、おぼえてる」

 左の指が、傷の布の端を握った。

「みんなは、痛かったの、おぼえてない。ぼくには、まだ、ある」

 ライが、すぐには答えなかった。

 キットは机の木目を見た。

 日付を並べるのは、何度もした。リーヌに小さな紙を渡したこともある。でも、みんなが読む帳面に、あの痛さを残すのは初めてだった。

 イネスは、人物映像の欄を閉じてあるのを見せた。

「今日は見ないよ。話すのも、ここまででいい。ここは私の工房。あの人は、いない」

 キットは、机の時計を見た。

 十四時十六分。

 今は、あの男のいる部屋ではない。キットは工房の木の机へ、右手をおいた。

 ぬるい水を飲み、布から指を離した。


 左手でペンを取り、腕を布へ預けたまま、一行だけ残した。

『あの人に叩かれたことも、痛かったのも、ぼくはおぼえてる。レティも、ほかの人も、おぼえてない。ぼくの中には、まだある。顔の映像は見ない。――キット』

 書き終えてから、資料の方へ顔を向ける。

「日付を、並べたい」

 ライが、資料のリストをこちらへ向けた。

「どこから見ようか」

「首の機械、いつまで使ってたか知りたい。『最後に使った日』があるでしょ。施設を出たころまで、探せると思う」

 六年前より古い記録もある。この街へ来る前から、首の機械を調べていたのだ。最後に使った日なら、見つかるかもしれない。

 キットは再生の印をおさず、名前と日付だけが出るリストを開いた。

 名前、時間、書いた場所。同じ印を探すと、日付が二種類あることに気づいた。

 作った日と、あとからサーバーへ移した日。昨日移した記録にも、六年前のことが書いてある。

「こ、こっちの順番だと、昨日のことに見える。中に書いてある日で、並べて」

 ライが表示を切り替えた。

 レティア。接続器使用。

 同じ名前の列が、ある日を境に途切れていた。

 六年前。

 その翌日に、短い報告がある。

『区画事故。対象、所在不明。回収未了。』

 キットは、最後の四文字へ指をおいた。

「この『回収未了』って、ぼくたちがまだ戻ってないってこと?」

 ライは画面を引き寄せた。

 眉の間に、しわが寄る。

「人に、回収って書いてるのか」

 彼は別の端末を開き、イネスを呼んだ。

 支援室から、保護したときのメモが届いていた。その日付と比べる。

「この二日後だ」

 イネスがいった。

「十六歳で保護された日」

 いなくなった日と、保護された日。同じ六年前の、二日しか離れていない日だった。

「じゃあ、施設の人が帰してくれたわけじゃないの?」

 ライは答えを探すように、報告を下へ送った。

 首の接続器を外した、という行はなかった。

 その代わりに、照合反応なし、とある。

 目の前の首にも、装置は残っている。

「これだけじゃ、出たときのことはわからない。でも、向こうは戻ってくるのを待ってたみたいだ」

 ライはそういって、画面から顔を上げた。

 キットの顔まで、長く見ていた。


 最後の数日には、課題をする端末へ書き込んだ、短い文も残っていた。

 丸や四角を選ぶ欄の、外側。

『つぎに起きた人へ。窓の灯が消えたら、戸を開けない。係の人が廊下にいる。』

 次の記録には、別の文がある。

『交代しても、左へ行くな。左の床は熱い。右の壁に沿って歩く。』

 キットは、二つを選んだ。

「これも、首の機械を使わなくなるころに書いてる。施設を出る道のことかもしれない」

「だれが書いたか、わかるか?」

「名前がないから、わからない。でも、次の人が知らないまま戸を開けないように、教えてる」

 次に起きる人は、自分が見たことを知らない。いまの記憶帳と、同じだった。

 ライは、短い文だけを別のページへコピーした。

「ページの名前、どうしよう」

「昔の伝言」

 いまの帳面にも、行き先や傷のことが書いてある。六年前にも、そうして次の人を助けていた。

「レティが起きたら、映像じゃなくて、これを見せて」

 キットは頼んだ。

 ライがうなずいたので、もう一つだけ、文を集めた。

『巡回灯が二度消えてから。機材の搬出口は、内側から開く。』

 扉の外がどうだったかは、おぼえていない。そこへ想像を書き足すのはやめた。


     * * *


 リーヌは、眼鏡をかけるまで、紙の字を読めなかった。

 ライからケースを受けとり、眼鏡をかける。ぼやけた行が、はっきりした。

 十四時三十四分。イネスの工房。人物の映像は開かない。

 キットの文で、昔、彼が渡してきた小さな紙を思い出した。

 工房へ通い始めたころ、叩かれたことと痛さをおぼえている、と書かれていた。

「キットのことは、前から知っていました」

 ライが顔を上げた。

「あいつだけが、おぼえてることも?」

「はい。彼の紙を読みました。わたしは、あの痛さを思い出せません」

 リーヌは、腕を載せた布を見た。

「申し訳ないと思いました。でも、役割なのだと受け止めてきたんです。わたしは記録をまとめる。キットは、痛かった記憶を持っている、と」

 代わりに持つ方法は知らない。でも、彼が今どうしたいかまで、役割で決めたくはなかった。

 顔の映像は見ない。その文を残し、昔の伝言へ目を移した。

『巡回灯が二度消えてから。機材の搬出口は、内側から開く。』

 左の指が、紙の端で止まった。

 暗くなる窓。ひとつ。ふたつ。

 その夜も、巡回灯が消えるのを数えた。

 交代したあとも扉を開けられるよう、端末に時刻を残した。そのとき目の奥が痛んでいたことまで、思い出せた。

「これは、わたしが書きました」

 ライが椅子を近づける。

「この紙を?」

「元の文を。十六歳のころまでいた施設で」

 彼女は、日付の下へ指を滑らせた。

「そこから、逃げてきたんです」

 ライの手が止まった。

 端末を持ったまま、彼は一度、イネスを見た。

「逃げたって……レティは、保護されたっていってた」

「保護されたのは、そのあとです。出ていいと認めてもらったのではありません」

 リーヌは、腕の下の布へ目を落とした。

 六年前の腕には、別の傷があった。

 いまの傷を見ても、その夜のすべてが戻るわけではなかった。

「事故で、明かりも監視も止まる時間ができたんです。わたしは扉が開く時刻を調べました。その先で、だれかが居場所を知らせる回線を切った」

「首の装置から、居場所を送られないように?」

「伝言には、そうあります。わたしは、切ったところをおぼえていません。外で支援者につながったときのことも、途中が抜けています」

 ライは、リーヌが話したことと、記録の二つの日を並べた。

 その下へ、短い文を書く。

 退所ではなく、逃げた。

 彼は、書いた字を見直した。

「そこにいたってことは、聞いてた。でも、出るために灯を数えてたなんて、聞いてなかった」

「レティも、わたしが数えていたところは知らないと思います」

「リーヌは、伝えなかったのか」

 責める声ではなかった。

 それでも、紙をおさえていた右手が固くなった。

「悪い場所だったことは、伝えました。細かいことは、話しませんでした」

 ライは、しばらく黙った。

 その間に、リーヌは記憶帳を開いた。

 知らせなかった理由を、逃げた方法より、ずっとゆっくり書いた。


「首に刺激を加えられて、図形や信号を読む課題をしました。断ると、『レティが了承した。続けなさい』といわれたんです」

 リーヌは、その言葉も帳面に残した。

「レティがなんと答えたかは知りません。わたしが起きたときには、もう始まっていました。あの子を『基準状態』と呼んで、最初の返事を別の名前のときと比べていたんです」

「『基準状態』って、レティが課題に同意したって意味じゃ、ないんだな」

「違います。でも、あの子は、自分が『はい』といったせいで、ほかの人が痛いことをされたと思うかもしれない」

 窓の灯を待っていたときより、喉が狭くなった。

「だから、課題のことをレティへ話すのがこわくて、黙っていました」

 レティが知りたくないといったわけではない。聞いてさえ、いなかった。

『あなたが自分を責めると思って、話しませんでした。なんのための課題だったかは、わたしも知りません。キットの苦痛も、以前に彼の紙を読んで知っていました。申し訳なく思いながら役割だと理解し、あなたには伝えませんでした。――リーヌ』

 左手で最後の字を書くと、傷が痛んだ。ペンをおき、腕を布へ戻す。

「次にレティが起きたら、このページを見せてください。黙っていたのは、わたしが決めたことだと伝えたい」

 ライがうなずいた。

 リーヌは、眼鏡を外した。

 内側へ呼びかけても、すぐには返事がなかった。

 紙は、閉じずに残した。


     * * *


 レティは、眼鏡のおかれた机を見ていた。

 自分の目では、離れた時計まで見える。

 十四時四十七分。

 すぐ下の紙に、その前の十三分のことが書いてあった。

「私、逃げてきたの?」

 ライはうなずいた。

「リーヌが、おぼえているところを話してくれた。ぜんぶは、まだわかってない」

 レティは、手紙の逃げ道のところを読んだ。

 知らない施設の廊下。知らない灯の数。

 その暗いところを、この体が歩いてきた。

 思い出せないのに、靴を椅子の下へ引いていた。

「出してもらったんじゃ、なかったのね」

「少なくとも、出たあとの向こうの記録は、所在不明と回収未了だった」

 ライは、キットの集めたページを見せた。

 戸を開けない。左へ行かない。

 その理由まで、短い文でついていた。

 一つ間違えたら、出られなかったかもしれない。この街での暮らしは、知らない間にみんなが工夫してくれた先にあった。


 その前のページに、キットの字があった。

 顔の映像は見ない。

 日付の照合を頼む前に、彼が残した文だった。

 ぼくの中には、まだある。

 レティは、その一行から目を離せなくなった。

「……キットだけが、おぼえてたの?」

 ライが、椅子をすこし近づけた。

「本人が、そう話した。叩かれたときのことも、痛かったのも」

「今日、初めていったの?」

「みんなへ残したのは、今日だ。俺も、それまで知らなかった」

 ペンを取ろうとした手が止まった。自分には、お父さんが来てくれた安心だけがある。

 そのあとに続く痛さは、キットの中に残っていた。

「私、なにも知らずに、お父さんって……」

 喉が詰まり、続きが出なかった。

 同じ帳面へ名前を書いていたのに、知らなかった。

「私は忘れてたのに、あの子はずっと痛いままだったんだね」

 イネスが、帳面をレティの手元に残した。

「痛いことをしたのは、あの男だよ。レティが、おぼえていられなかったことを責める理由にはならない」

 それでも、申し訳なさは消えなかった。ごめんなさいと書き、大丈夫だと返してもらいたくなる。

 でも、苦しんでいたキットに、自分をなぐさめてもらうのは違うと思った。

 レティは、ペンを握り直した。

『キットへ。知らなくて、ごめんなさい。痛かったことを、なかったことにしません。話したくないことは、聞き出しません。返事はしなくても大丈夫です。――レティ』

 どうすれば、彼がひとりでおぼえ続けずに済むのだろう。

 答えを、まだ知らなかった。


 手紙の、まだ読んでいなかった行へ目が戻った。

 以前から知っていた、という行で、指が止まった。

「リーヌは、キットのことも知ってたのね」

「彼が昔、残した紙を読んだって。今日の帳面で初めて知ったのとは違う」

 ライが、手紙の行を示した。

 レティは、役割という字へ目を戻した。

 その二文字では、キットの痛さまではわからなかった。

「ほかにも、知ってたのね」

「自分がした課題と、逃げる準備の一部を。知らないところもあるって、いってた」

 レティは、基準状態という字を指でなぞった。

 先に自分が返事をし、ほかの人が痛いことをされた。そんな順番が、紙の上に見えてしまう。

「私が、やりますっていったのかな」

 イネスは、手紙の一行を示した。

「そこは、リーヌにもわからないって書いてある。それに、どんな返事をしていても、子どもに痛い課題を続けていい理由にはならないよ」

 レティは読んだ。

 あなたがなんと答えたのかは、知りません。

 その一行を、もう一度読んだ。

 想像した場面を、自分の記憶と間違えないために。


 右手でペンをとる。

『リーヌへ。知らないままでいたいかどうかも、私に聞いてほしかった。』

 最後の字が、紙へ深く沈んだ。

「私、怒ってる。助けてくれた人なのに」

「助かったことと、話してほしかったことを、両方書いていいと思う」

 ライが、空いている次の行を示した。

 レティは、最初の文を消さなかった。

『ここまで来てくれて、ありがとう。でも、これからなにを知るかは、私にも選ばせてください。』

 書き終えたとき、胸の内側に、声のようなものがふれた。

 ごめんなさい。

 外では、だれもそういっていない。

 リーヌ、と呼んでみたが、続きを聞くことはできなかった。

 だから、聞こえた気がした、その短いことばだけを書き添えた。

 おぼえていなくても、他人の時間にはしたくない。かといって、知りたいと願えば戻るものでもなかった。

 レティは「昔の伝言」を、記憶帳へ挟んだ。

 全部は思い出せなくても、逃げてきた跡は持っていられる。次に目を覚ましたときも、読めるように。


     * * *


 セラは、しおりを残した区画表へ戻った。

 十四時五十八分。工房。映像は開かない。

 手紙の下に、リーヌの短い返事があった。これからは、なにを知りたいか聞く、と。

 セラは、自分がたしかめかけた語を辞書へ入れた。

 ルナ・オースリーワン。

 レティが小さいころ、出身を聞かれると答えていた名。

 ハーデンが、レティへ尋ねた名。

 古い表では、その右に、用途の記号があった。

 読みとった語を、別の紙へ写す。

 操縦者応答。接続調整。

 居住区を示す記号は、ない。

「これは、町の名前ではありません」

 ライが、こちらを向いた。

「どういうことだ」

「人の反応を調べる、研究区画の識別名です。月面の旧軍施設で使っていた番号」

 彼女は、表の一行を示した。

 となりにも、同じ形の番号が並んでいる。

 違う実験室。違う設備。

 家も、学校も、そこには書かれていなかった。

「待ってくれ。レティが小さかったのは、十三年前だろ。これ、三百年前の表だ」

「これは古い表です。レティがいたころの登録も、同じ番号で探します」

 セラは、キットが分けてくれた管理記録を並べた。

 旧施設から技術資料を継承。

 名称を引き続き使用。

 現代の区画へ登録。

 登録した組織は、アーク・リバースだった。

 十三年前の人物映像にも、同じ区画名がある。

「昔の資料と呼び名を使い直したんです。レティが生まれた時代まで、三百年前になるわけではありません」

 セラがいうと、ライは、ゆっくり息を吐いた。

 その息は、途中で止まった。

「じゃあ、十六までいた施設って」

「この記録と、リーヌの話を合わせれば、研究を行った区画だったと考えられます」

 ライは背もたれを握り、何度も『研究区画』の見出しを見た。

「治療とか、保護するための場所だと思ってた。なにか、そういうところから出てきたんだって」

 彼は、区画表へ顔を戻した。

「逃げなきゃいけない研究室だったのか」

 セラはうなずいた。

 乾いた布の匂いを、一瞬だけ感じた。

 机にある布には、そんな匂いはない。

 資料から顔を上げ、工房の窓をたしかめてから、彼女は記憶帳を開いた。

『ルナ・オースリーワンは、故郷の地名ではありません。研究区画を見分けるための名前でした。昔の資料にある名を、今の組織が使い直しています。――セラ』

 右手で書いたその文を、ライに読んでもらう。

 わかると答えたあとも、彼は紙から目を離さなかった。


     * * *


 ジョーンは、セラが書いた二つの日付を見た。

 古い区画表。十三年前の映像。

 十五時十三分。

 いまの体は二十二歳。六年前に保護された。その控えも、机にある。

 俺たちの時間が、古い兵器の記録といっしょに保存されていた。

 その前に、キットの文と、レティの返事を読んだ。

 ぼくの中には、まだある。

 右の指が、そこで止まる。

 閉じた扉と、答えを強いられる課題は知っていた。

 でも、叩かれたときの痛さは、思い出せない。

「あいつが一人で、まだ痛かったなんて、俺、知らなかった」

 ライは、帳面を閉じなかった。

「知らせてくれたのは、今日だ」

 次のやつが困らないように、扉も逃げ道も書いてきた。

 それで守っている気になっていた。

「俺、知ってるつもりだったんだな」

 悪いのは、あの男だ。それでも、すまなさが残った。

 顔を見たくないという返事は、消さない。そのページを脇に残し、首の接続器のデータを読んだ。

 用途の前に、取り付けた日があった。

 十三年前。対象年齢、九歳。

 同じ番号で、その前の資料を探す。

 十四年前の家庭内記録が見つかった。

 保護者提供。応答する名前の変化を確認。

 例として、レティとリーヌの名がある。

 ジョーンは、二つの日付を並べた。

「首に機械を入れる前から、違う名前で返事してた」

 ライが画面へ顔を近づける。

「八歳のころから、家でも?」

「この記録ではな。首の機械を入れる前から、レティとリーヌはいたんだ」

 それより前にだれがいたかは、この資料ではわからなかった。

 その先に、だれから受け取ったかを示す欄がある。養父、と書かれていた。

 人物映像の番号が、さっき見たものと同じだった。

「お父さんって呼んでた男だ」

 ジョーンがいうと、ライは目を伏せた。

 養育者との契約。

 その本文を開こうとすると、別の鍵を求められた。

 ジョーンは閉じ、読める方へ戻った。

 接続器を調整したあとも、家庭内の反応をたしかめる。

 その理由を書いた欄に、短い添付があった。

『提供記録への報酬を継続。』

 画面の字を、二度読んだ。

 意味を取り違えたのではなかった。

 添付の説明に、話し合いの短い録音がついている。

「ここだけ聞く。止めてっていったら、すぐ止めてくれ」

 ライがうなずいてから、数秒を再生した。

『家で撮った分も、前と同じでいいんですね』

 男の声。

『応答が保たれているなら。調整後も、生活上の変化を記録してください』

 録音が終わった。

 ジョーンは、舌の奥に苦さを感じた。

 何度も名を聞き、答えが変わるまで椅子から降ろさなかった。その記録が、研究する側へ渡されていた。

 自分には残っていない痛さを撮り、あの男は金を受けとっていた。

「娘を撮って、金にしてたのか」

 ライの声が低くなった。おいたペンが、机を転がる。

「報酬を続けるって、ここにはある。いくら払ったかは、これだけじゃわからない」

 家で撮られていたことは知っていた。金にしていたと知ったのは、ジョーンも今だった。

 右手が、机を叩きかける。

 やめて、記録番号を控えた。

 あの男はここにいない。殴っても、机と自分の傷が痛むだけだ。

「契約は、俺の鍵じゃ読めない。捜査の人に、これを渡してくれ」

 イネスが、録音と文書をいっしょに保存した。

「読めたところと、開かなかったところを分けて伝える」

 飛び出して父親を探す気はなかった。保安に調べてもらうため、記憶だけでなく、この録音も残しておきたい。


 装置を取り付けたときのデータに、写真があった。小さな紙が写っている。

 顔はない。胸か腰につけたカメラが、手に握った紙を見下ろしていた。

『息を止めない。ゆっくり吐く。手を強く握ると爪が割れる。』

 研究者はそれを、課題には関係のない行動だと書いていた。

 ジョーンは、欠けた右の爪を見た。検査室の扉を握ったときの欠けだった。

「俺も、今日、次のやつに扉の場所を書いた。なにも知らずに起きたら、逃げられないから」

 ライが、今朝の伝言を開いてくれた。

 奥の扉から機械室へ。そこからメンテナンス通路。ライに連絡済み。

「この紙も、同じだろ。次のやつが痛くて動けなくならないように教えてる。こいつらの課題じゃない」

 書いた人の名前は、わからなかった。

 それでも、その人が伝えようとした注意は読めた。

 ジョーンは、キットの「昔の伝言」へ、その紙を加えた。

 記憶帳にも、短く残す。

『キットへ。知らなかった。すまない。まだ痛いのを、お前一人に抱えさせておきたくない。顔を見たくないって返事は、次に起きたやつにも読ませる。――ジョーン』

 逃げ道も、傷ついた手の使い方も、自分たちが残した。データを読むなら、それまで研究者の命令だったことにしたくない。

 記録の控えを閉じると、画面の端に、別の図が残った。

 接続器から、黒い胸へ伸びる線。

 ジョーンは、それに印をつけた。

 ジョーンは端末をライへ押した。首が冷たい。次の人にも、この線を見てもらおう。


     * * *


 リリィは、記憶帳を読み終え、閉じた端末を見た。

 十五時三十七分。

 映像の中の女の子が父親へ笑ったことは、レティの字で知った。

 その男が金を受けとっていたことは、ジョーンの字で知った。

 同じ机の上に、どちらも残っている。

 キットの文を読み、リリィは息を止めた。

 痛かったのを、あの子だけがおぼえていた。

「知らなかった……」

 日付を並べてくれる子。そんな顔ばかり、思い浮かべていた。

 あの男を怒鳴りたい気持ちと、気づけなくてごめんという気持ちが重なる。

 リリィは、帳面を机へおいた。

「あの子にも、ここで休んでほしい。日付を調べる仕事がなくても」

 ライがうなずいた。

 机の時計を見る。

 こわい資料を読む以外にも、好きな時間を過ごしてほしい。リリィは帳面へペンを寄せた。

「あたし、今日の昼ごはん、途中じゃなかった?」

 ライがパンの包みを持ってきた。

「半分、残ってる。卵は入ってない」

 包みの角に、材料をたしかめた印がある。

 リリィは笑って紙をおさえた。傷のある腕で押さえずに済むよう、ライがパンをちぎってくれる。

「あたしが食べるころには、調べ物ばっかりになってる」

「休憩にしよう。水、ここでいいか」

「うん」

 口へ入れると、乾いたパンが舌へついた。

 水を飲んでも、すぐには飲み込めなかった。

 ライはなにもいわず、もう一口分を、皿の上へおいた。

 待たれる時間があった。

 リリィは、記憶帳の横へ右手を伸ばした。

「お昼も、手、触ったよね。パンをもらったとき」

「うん。おぼえてるか?」

「そこは、あたしがいたから」

 ライの右手が、紙の上へ来た。

 指へふれる。今度は自分から、すこしだけ握った。

 あの父親の記録で、目の前の手までこわくなりそうだった。でも、ライの言葉は自分が聞いている。もう一度、指を握った。

「あたし、ここにいる時間、好きだよ」

 ライが顔を上げた。

 もうすこし待てば、なにか答えてくれたのかもしれない。

 けれど、頬が熱くなったので、リリィはパンの方を見た。

「冷めたスープでも、つけてくれたらもっと好き」

「温める」

「スープの話だけじゃないんだけど……うん、温めて」

 ライが席を離れてから、リリィは記憶帳を引き寄せた。

 左手で書こうとすると痛い。文を短くして、腕を布に載せたまま書いた。

『十五時三十七分。ごはんの続き。ライに手を貸してもらった。いやな記録を読んだけど、今日のこの時間まで嫌いにしたくない。キット、知らなくてごめん。好きなことも、今度教えて。返事は、したいときでいい。――リリィ』

 細い字は、すこし震えていた。

 それでも、最後の名前まで書けた。


     * * *


 ジョーンは、リリィの短い文と、机の端にあるスープを見た。

 十五時五十一分。

 湯気は、まだ立っていた。

「これ、飲んでいいのか」

「うん。リリィは、もう半分飲んだ」

 ライが答える。

 ジョーンは、右手で器を持った。

 唇へ当てると、口の中にあった苦さが、すこし薄くなった。

 印をつけていた図を開く。

 首の接続器から、機体へ伸びる線。

 ジャンヌ用操縦者接続。

 その下の、調整に使ったコードを見て、器をおいた。

「この印、昔、課題の画面に出てた」

 ライが、となりへ寄る。

「なにが?」

「課題の名前。俺が信号を読まされたとき、端末に出ていた印と同じだ」

 ジョーンは課題の記録と、機体の図を並べた。

「見ろ。この信号は通信へ。図形を選ぶ課題は姿勢へ、道を比べる課題は移動へつながってる」

 指で線を追うと、別々だった図が重なった。

「俺たちを、この兵器につなぐためだったんだ」

 ジョーンの声は、思ったより小さかった。

 ライは図を見たまま、しばらく動かなかった。

「人体実験、ってことか」

「研究区画の使い道とも合う。首の装置で、俺たちの考えを機体へ送る。名前によって返事が違うことを、利用したんだ」

 ライは左腕の白い布へ、目を落とした。

 十三年前、九歳だった体のことも、思っているのだろうか。

「それを、治療だって……」

 途中でやめ、彼はジョーンを見た。

「すまん。俺が、そう思ってただけだ」

「俺も、ぜんぶ知ってたわけじゃない」

 ジョーンは、図の下にある条件を広げた。

 十五の処理系統。

 通信、移動、姿勢、動力。

 その一つずつへ、どう動かしたいかを伝える、接続器からの信号。

 ライが、記憶帳の見返しを開いた。

『いま、把握している人たち』

 並んだ名を数えてから、図へ目を戻す。

「十五だ。こっちも十五だけど、名前の数に合わせたのか?」

「機体の十五系統は、三百年前の設計からある。俺たちに合わせて作ったんじゃない」

 ジョーンは、二本の線を指した。

「俺とリーヌが同じ解析を使う設定もある。俺一人の出力が、通信と解析の両方へ行くところも。ひとりに一本じゃない」

「交代するたびに、通信の係や、移動の係を代わるってことか?」

「それだけじゃ、足りないらしい」

 彼は、動作例の図を広げた。

 同じ時刻に、四つの指示が届いていた。

「姿勢を変えろ、右へ進め、前方の図形を見分けろ、通信は待て。前の指示を待たずに、全部届いてる」

 ジョーンは送信元を示した。

「一つのコックピットからだ」

「これ、順番をずらした図じゃないのか」

 ライが尋ねた。

「同時受信って書いてある。首の接続器を通して、俺たちそれぞれの考えを、同時に受け取るんだ」

「お前たち、いまもそうなのか?」

「いや。いま、こうやって話してるのは俺だ。リーヌがなにを考えてるか、ずっと聞いてるわけじゃない」

 ジョーンは、机にある記憶帳を示した。

 そうできるなら、紙へ書いて渡さなくてもよかった。

「機体につないだときのために、作った設定だ。だから、接続器を持つ俺たちを探した。一人が順番に動かすだけじゃ、原型の力はぜんぶ使えない」

「全員、同時に起きないとだめなのか?」

「全員じゃなくていい。十五系統の処理は、機体が続ける。いま返事ができる何人かで、動かしたいところへ指示を出すんだ」

 ライは、今朝の別の機体の映像を開いた。

 人が入らない、遠隔実証型。

「遠隔実証型なら、人を首からつながなくても動くんだろ。原型も、同じようにできないのか」

「腕や脚はまねた。でも、原型には砲撃をそらす装置がある。その力を、主砲の弾を速くするためにも使う」

 ジョーンは、兵装の図を開いた。

 胸の装置から、左腕の盾と、右腕の砲へ線が伸びている。

 力場(りきば)発生器。

「盾の前なら、弾の向きを曲げる。砲へ回すと、普通の砲より速く弾を押し出せる」

 ジョーンは、二本に分かれた線を示した。

「遠隔実証型にも、それが付いてる?」

「ない。製造試験は、成功してない」

 修復票に、製造できない理由が並んでいた。材料の作り方も、古い制御システムの組み方も失われている。

「胸に残ってた実物を使うんだ。関節と、冷やす管を直してな」

「装置を別の機体へ移すのも、だめなのか?」

「この装置を別の機体へ移して、普通の操縦器で動かす試験も失敗してる。元の神経接続で使うために、俺たちの体を調べたんだ」

 テスト用の椅子の図を、原型の制御システムへ重ねる。

 機体をまだ直していた年に、自分たちが受けた課題の番号もあった。

「首の装置の設定も、何度も変えてる。別々の返事を、間違えずに読めるように」

 ライは、傷を覆う白い布をもう一度見た。

「機械の方を作り直せないから、お前たちを合わせたのか」

 ジョーンは、返事の代わりに、小さくうなずいた。

 機械のために、体の方を合わせていた。

 ジョーンは、条件の続きへ目を落とした。

「負担が増えると、頭が痛くなって返事も遅くなる。計算は機体がやるけど、こっちの脳が十五人分に増えるわけじゃない」

 ジョーンは、条件の欄を見た。

「休まず求められたら、この体がもたない。それでも、課題を続けさせてたんだ」

 なにに返事をしていたのか。図の上で、やっとわかった。

 首の奥が、また冷たくなった。

 ジョーンは画面を閉じ、レティへ残す文を書いた。

『俺たちは、ジャンヌにつなぐために調べられていた。首の装置は、そのためのものだった。でも、逃げるために残した伝言は、あいつらの命令じゃない。――ジョーン』

 同じページに、研究の番号だけを残したくなかった。

 スープの器をもう一度持つ。

 中身は、すっかり冷めていた。


     * * *


 アジーは、布へ載せた左腕を見た。

 十六時十三分。

 首が固い。肩を下げても、奥の力が抜けない。

 記憶帳に書かれたことを読み終え、端末から顔をそらした。

 キットの文で、右手が止まる。今朝の傷なら、自分も痛い。でも、あの子に残った昔の痛さは思い出せなかった。

「あの子だけ、ずっと……?」

 ライが、帳面へ目を落とした。

「そう話してくれた」

 前へ出れば、体を守れると思っていた。拳を握りかけ、ほどく。

 守りきれなかった悔しさと、申し訳なさが残った。抱きしめたくても、別の体はない。

「気づいて、やれなかったんだな」

 口にしてから、奥歯を合わせた。

 どこへ手を伸ばせばいいのか、わからなかった。

「しばらく、これを閉じていい?」

 ライがうなずいた。

「いま、送った控えを見てもらってる。新しい返事が来たら知らせる」

 イネスが、看板用の紙留めをおいた。

「絵の紙なら、これで挟める。左手でおさえなくていいよ」

 机の端に、筆と青い絵の具がある。

 アジーは、朝、自宅で見た描きかけの絵を思い出した。

 丸い窓。その向こうの葉。まだ取っ手のないカップ。

 続きを描きたくて、帰るつもりだった。

 右手で瓶の蓋を緩める。

 窓の輪郭を描き、左の縁へ青を一筆おく。

 内側だけ、すこし濃くした。

 筆をおくと、右の親指へ新しい青がついていた。

「今朝、レティもそこを見てた」

 ライが、指へ目を留める。

「いつついたのか、わからなかったんだ」

「昨日、窓の絵を描いたとき。こっちは、いまついたやつ」

 アジーは指と紙を、順に見せた。

 この色なら、昔の部屋を思い出さずに話せる。課題のほかにも、自分たちには時間があった。昨夜の絵のことも、レティに知ってほしい。

「アタシがしてきたこと、あの記録にあるのだけじゃないから」

 彼女は、筆を持ち直した。

 一筆おく場所も、昨夜、葉の色を混ぜたことも、研究者が決めたわけではない。

 ライは、すこし笑った。

「知ってる。先週、パイプの見積もりの裏まで葉っぱ描いてた」

「あれ、空いてたから」

「市へ出す方だった」

「ちゃんと隅を空けただろ」

 紙へ青い取っ手を描こうとして、アジーはやめた。

 その先は、自宅にある絵へ足す。

 描きかけを、ここで終わらせたくはなかった。

『昨日の指の青は、窓の絵を描いたときについた。今日は工房でも、一筆おいた。帰ったら窓の絵を仕上げたいし、今朝、広場で見た、土を握る子どもの手も描きたい。レティが知りたければ、まず、こういう時間から伝えたい。キット、知らなくて、ごめん。嫌だったことは、今日は説明しなくていい。この窓の色を見て、好きな色も教えて。――アジー』

 筆を机へ横たえ、絵と記憶帳を、次の人から見えるように残した。


     * * *


 レティは、青い窓の絵を見ていた。

 十六時二十四分。

 右の親指に、新しい絵の具が重なっている。

 文を読めば、どこでついた色かはわかる。自分でつけた記憶はなかった。

 その前のページに、ジョーンが残した短いまとめもある。

 研究区画。養父の提供記録。ジャンヌ用の接続器。

 ライが、本人映像を開かずに、記録の番号と図を順に見せてくれた。

 レティは、最後に自分の名前へ目を戻した。

 上には、被験番号があった。

 パーツの札で見たものと、よく似た書き方だった。

「お父さんが来たら、帰れると思ってたのかな」

 画面で、ちゃんと笑っていた。

 その顔は、お金のために撮られたと知らなかった。

 キットへの返事も、同じページに並んでいた。

 ごめんなさいのとなりに、休んでほしい、好きな色を教えてという文がある。

 文を読んでも、痛さまでは戻らなかった。

「あの人を待って笑ったのも、叩かれたのも、私たちだったんだね」

 レティは、紙の端から指を離した。

 キットのことを知りたい。でも、苦しかった話を無理にさせたくなかった。

「私は、治してもらってるんだと思ってた。なにを治すのかも、わからないのに」

 ライの手が、机の上で止まった。

「あの男が、そういった?」

「ことばは、いま、思い出せない。でも、いい子で待っていれば、なにかが終わると思ってた」

 レティは、図の上にある自分の名を見た。

 パーツ、機械、子ども。レティも、機械に合わせて調整するものとして並んでいた。

 被験個体。ライから聞いたその言葉を、今、字で見てしまった。

「これ、故郷の名前じゃなかったんだね」

「セラが、そう読んだ。古い番号を、同じ名前で使っていたって」

 レティはうなずいた。

 故郷だと思って、家や台所を探していた。思い浮かばないのは、記憶がないせいだと思っていた。

 最初から、研究室の番号だった。

 字から指を離す。

 すぐとなりには、アジーの描いた窓がある。

 取っ手のないカップ。

 故郷だと教えられた番号の中にはなかった、自分たちが描いた家の中。


「この絵を描いたときの感じを、すこし知りたい」

 レティはいった。

「アジーが絵を描いたって、読むだけじゃなくて。私も、その机に座って筆を動かした感じを、思い出したい」

 イネスは、アジーの伝言をたしかめた。

「伝えたい、と書いてくれてるね。どこまで知りたいか、まず頼んでみよう。返事がなければ、紙の返事を待ってもいい」

 レティは、内側へアジーの名を呼んだ。

 一度目は、なにも起きなかった。

 二度目に、焦りに似た感じが胸へふれた。アジーの気持ちか、自分の焦りかはわからない。

 催促をやめ、記憶帳へ書く。

『絵を描いた一筆の感じを知りたいです。いやだったら、あとで返事をください。――レティ』

 そう書いたとき、指に、違う感触があった。

 細い筆を、持ちかえる。

 紙へふれた筆先が、すこしだけ引っかかる。

 親指に、冷たい青がつく。

 ほんの一瞬、昨夜の自宅の机が見えた気がした。

 いまの手にはペンがある。いま座っているのは、イネスの工房だ。

 工房にいるのに、別の机で筆を持つ感触がある。戸惑って、手のペンをおいた。

「すこし、わかった気がする。紙に筆がふれた感じ」

 イネスは続きを急がず、聞いた。

「いまの絵を描いたとき?」

「違うかもしれない。昨日の机だったと思う」

 たしかめようとしたら、その机の奥へ、別の白い部屋が重なりかけた。

 胸が詰まる。

「もう、やめたい」

 ライが、絵を伏せた。

「やめよう。いまは、工房にいる」

 レティは、靴を床へ押しつけた。継ぎ目に、木の粉が見える。

 白い部屋は、それ以上近づいてこなかった。

 届いた感覚と、中断したことを、別々に書く。

 昨夜の机かもしれない。筆先の抵抗。親指の冷たさ。

 どんな場面か、ぜんぶはわからない。こわくなったので、今日はここまで。

 胸の奥へ、低い声のようなものが来た。

 続きは、あと。

 アジーだと思った。

 レティは、「あと」と声に出した。

 すこしわかり、そこで止まれた。それなら、いつかまた頼めるかもしれない。


     * * *


 フィルは、扉の上の風車を見ていた。

 丸く見えていたものが、ゆっくり回ると、羽根の形になる。

 左側でだれかが話したので、聞こえる右耳をそちらへ向けた。

「フィル。そこは高いから、座ったままで見よう」

 ライがいった。

 フィルは、伸ばしかけた右手を下ろす。

「ぼく、回るの、見てた」

 イネスが棚から、使っていない羽根を一枚持ってきた。

 端が丸くなっていて、指でなぞっても痛くない。

 机の上で、フィルは羽根をすこし回した。

 左腕を動かすと痛いので、右手だけで触る。

「これ、なんのけが?」

 白い布を示すと、ライが短く説明した。

「今朝、調査へ行った部屋で、金属が飛んで当たった。手当てはしてある。いまは休ませてる」

「ぼく、当たったところ、おぼえてない。でも、痛い」

「同じ腕だからな。布は、ここでいいか?」

 フィルがうなずいてから、ライは肘の下を支え直してくれた。

 机の端には、伏せた絵がある。

 端末には、人の顔が出ていない。

「なにか、答えなきゃだめ?」

 フィルが聞くと、イネスは、使っていたペンをおいた。

「いまは休む時間。課題はないよ」

 羽根の穴をなぞる。

 何度触っても、正解は聞かれない。手を止めても、急かされなかった。フィルは丸い端を、もう一度なぞった。


 外で、長い音がした。

 机の羽根は動いていない。

 音は風車でも、工房の機械でもなかった。

 声が、それに続いた。

『外縁街区にいる方は、案内に従って地下の退避施設へ移動してください。』

 フィルは、右耳を窓へ向ける。

 靴が走る音。子どもの泣く声。

 今朝の三拍の足音とは、違っていた。

 なのに、体が椅子から離れそうになった。

「ライ」

「警報だ。お前のせいで鳴ったんじゃない。外でなにが起きたか、たしかめる」

 ライが、工房の表示をつける。

 いつものパイプの図が消え、赤い案内へ変わった。

 町の名前が、その下に並ぶ。

 知らない町の名前もあった。

 フィルは羽根をおいた。

 休んでいいといわれたばかりだ。また、どこかへ動かされるのだろうか。

 その外で、なにかが始まっていた。


     * * *


 リーヌは、眼鏡をかけ、窓の外を見た。

 十六時四十四分。

 鞄(かばん)を抱えた人たちが、下の通りを歩いている。

 子どもが青い布を巻いた植木鉢を抱えていた。今朝、広場の映像で見た家族と同じ到着札をつけている。

 地球へ降りて、まだ一日もたっていないのかもしれない。

 イネスが、戸口の通話器を持っていた。

 訪ねてきた人の名が、支援室から聞いた名と同じか、たしかめる。

 派遣元へかけ直し、声をたしかめてから、内側の鍵を外した。

「市の保安局、連絡官のサイラです」

 入ってきた女性は、机の端末より先に、白い布で覆われた腕を見た。

「傷の処置は済んでいますか」

「先ほど、診療の方に診てもらいました」

 リーヌは答えた。

 ノアの記録のあとに、医師のメモも挟んである。

「いま、話しているのはリーヌです。体の名はレティア。同じ体で、別の名前で返事をすることがあって、おぼえている時間も違います」

 自分から、必要なところだけ伝えた。

 サイラは、リーヌの顔を見た。

「支援室から、だいたいのことは聞いています。詳しくは、いまお話しできる方にたしかめます」

 ハーデンとは違う。知っていた理由から話してくれた。それでも、リーヌは目をそらさずに尋ねた。

「わたしたちを、どこかへ連れていくために来ましたか」

「まず、お守りするためです。それと、いただいたデータに関わることで、いまなにが起きているか、伝えに来ました」

 サイラは、自分の端末を机へおいた。

 画面には、中央管制塔の映像がある。

 町の上へ伸びる塔。共同復旧事業の旗が、外壁から垂れていた。

 その上に、黒い点が何列も浮かんでいる。

 撮影が近づくと、一つずつ、銃口のある無人機だとわかった。

「今日の午後、ここにある軍用区画が占拠されました。占拠した勢力は、アーク・リバースと名乗っています」

 イネスの椅子が、短い音を立てた。

 リーヌは、記憶帳にある名へ目を落とした。

 今朝の照合を受けた相手。

 検査室の機器を管理していた相手。

 六年前、自分たちの記録を保存した相手。

「地球と月圏の政府へ、管制ネットワークも、防衛を指揮する権限も渡せと要求しています」

 サイラが次の画面へ送った。

 地球と月のいくつもの政府へ送った、通告の文。

 要求の下に、時刻がある。

 二十一時二十分。

「拒否すれば、地球を回る複数の宇宙ステーションを、地上へ落とす。そのための噴射を、この時刻から始めるそうです。月圏への輸送も止めると」

 ライが、中央管制塔の映像へ顔を寄せた。

「復旧のための設備だろ。なんで、軍がそこから命令を出せるんだ」

「復旧した設備に、旧軍の信号を先に受ける回線が残っていました。事業に加わった一部の技術者と、軍の協力者が関わっています」

 サイラの声は、平らではなかった。

 急いでいる人が、急がせすぎないように区切っていた。

「その回線を外す監査が、まもなく入る予定でした。今日の通報で、照合や捕まえようとした証拠も外へ出た。調べが進む前に動いた、と見ています」

 リーヌは、手の中のペンへ目を落とした。

 さっきまで、昔の出来事を、いつのことか並べていた。

 その途中で、向こうはいまの街を奪っていた。


 通告文には、まだ下があった。

 指定対象の引き渡し。

 レティア。

 添付された顔写真を、リーヌは知らなかった。

 六年前の、すこし頬の細い顔。

 保護されたあとに写した身元用の写真ではない。

『未回収の適合対象を返送せよ。』

 左の指が、ペンを強く握った。

 傷が痛むまで、力を入れていたことに気づかなかった。

 ライが、端末を裏返しかけた。

「その文まで読まなくていい。お前を、物みたいに……」

「待ってください」

 リーヌは、顔を上げた。

「私にも、なにを要求されているか知っておきたいんです。見たところだけ、帳面に残します」

 腕を布へ戻し、ライに、短い文の代筆を頼んだ。

 六年前の回収を、まだ終わったことにしていない。

 書いてもらった字を読む。

 逃げてから六年、この体で歩いてきた。向こうの紙では、まだ戻っていないだけだった。


     * * *


 ミナは、記憶帳の新しい行から顔を上げた。

 十六時五十七分。

 工房の外で、避難を呼びかける声が続いている。

 黒い塔の映像。二十一時二十分。レティアの引き渡し。

 サイラという人が、いまの情報を持ってきた、と書いてあった。

「わたしは、ミナ。通告にある宇宙ステーションの、いまの位置を見せてください」

 サイラは自分の端末を開いた。

「軌道管制から、ステーションのデータが届いています。いまどこにいて、どのくらいの速さで動いているかも」

「記録を取った時刻も、ぜんぶ」

 画面に、地球を回るステーションの場所と名前が並んだ。

『地球周回ステーション』

 写真には太い骨組みと、翼のような設備。そばの貨物船が、ひどく小さい。船が寄り、電力も中継する施設だ。

 これを、地上へ落とすという。

 ライも写真を見ていた。

「これを、町へ落とす気なのか」

 ミナは、ジョーンが開いた運用資料の目次を探した。

 旧軍の信号で、ステーションのスラスターを動かす表があった。

 噴射を続ける時間と、そのときの出力。

 敵の通告に書かれた条件は、その中の一つだった。

「その噴射をしたら、本当に落ちるか、確かめる。昔の表だけじゃわからないから、今日の位置と速度を使う」

 ミナは二つを並べ、端末のシミュレーターに数値を入れた。

 ライが机の横へ来た。

「この時刻、こっちと違ってる」

 彼が指した二つの表は、時間の数え始めが違っていた。

 ミナは、入力を止める。

「先に、同じ時間にしないとだめだ」

 サイラへたしかめ、条件をそろえてから、やり直した。


 地球を巡る、ステーションの通り道が表示された。

 敵が命じた噴射を入れると、別の赤い線が伸びる。

 丸く地球を囲んでいた通り道から、それていた。

 一つ目のステーションの印が、赤い線をたどり、地球へ近づいていく。

 二つ目も、違う場所で高度を下げた。

 三つ目の線は、海を越え、別の大陸へ伸びていた。

「進む向きにブレーキをかけるの。スラスターの向きを変えて、速度を落とす。すると、ステーションが回る道の低いところが、地球へ近づく」

 ミナは、一つ目の線の途中を指した。

 地球のまわりにある、薄い青の帯。

 空気のあるところだった。

「この噴射を続けたら、ステーションは地上へ落ちる」

 ライの手が、机の上で止まった。

「途中で、燃えるんじゃないのか」

「壊れるし、燃える。でも、この大きさのものが、ぜんぶ燃えてなくなるわけじゃない。大きな破片が、地上まで落ちてくる」

 ミナは、シミュレーターの次の画面を開いた。

『落下予測範囲』

 世界地図の離れた場所が、赤く塗られていた。

 一つのステーションの下には、いくつもの町の名がある。

 同じことが、別の大陸でも起きる。

「ここに、人がいる」

 声が、すこし小さくなった。

 サイラは計算の条件を管制へ送った。

 返事を待つ数十秒、ミナは赤い範囲を見ていた。知らない町の灯。計算の答えの先に、家がある。

 管制から声が届いた。

『条件をたしかめました。第二、第四ステーションのスラスターに、不正な命令が入っています。噴射を待っていて、こちらからは操作できません。』

 声の後ろに、別の人の呼ぶ声が重なった。

 計算だけの話ではない。空のステーションにも噴射の準備が入り、管制の操作は届かなくなっていた。


 続いて、月圏から映像が来た。

 発着場の船。開いたままの貨物口。出発を待つ列。

『予定便は保留。地上からの解除を試しています。中央からの信号が、こちらの操作に優先しています。』

 映像の端で、積み荷を持った人が、船の前に立ち尽くしていた。

 今朝、地球へ降りてきた家族の映像とは、違う待ち方だった。

「船を止める方は、もう、やってるんだ」

 ミナがいうと、サイラはうなずいた。

「輸送の妨害は、すでに始まっています。二十一時二十分には、ステーションを落とす噴射も始め、月圏への輸送を全面的に止めると」

 月に船が届かなくなる。地球には、ステーションが落ちてくる。

 その前に、敵の命令を止めなければ。

 ミナは、計算の保存を選んだ。

 赤く塗られた町の名を、最後にもう一度見た。

 赤い範囲へ破片が落ちるより前に、噴射を止めてほしい。

 そう願ったことも、記憶帳へ残した。


     * * *


 ジョーンは、サイラが示した中央管制塔の地図を見た。

 十七時十三分。

 中央という字を、右の指でなぞる。

 いくつもの施設へ線が伸びていた。その下に、無人機の列もつながっている。

「ここが、なにを送ってる?」

「占拠された軍用区画です。ここから、無人機には攻撃命令を、軌道や輸送の設備には、無理に動かす信号を送っています」

 サイラは、塔の中の一部を赤くした。

「この送信設備を、装置ごと切り離せば、各地の管制がまた操作できます。ステーションの噴射を止めて安全な軌道へ戻すのも、船を飛ばすのも、それぞれの担当が続けます」

「無人機は?」

「この回線につながる機種は、攻撃命令が切れると、その場で待つ設定です。飛ぶための制御は残ります。街へ落ちるわけではありません」

 ジョーンは、別の画面を見た。

 塔の前で、地上の車両が止まっていた。

 次の瞬間、空中の無人機が一斉に向きを変えた。

 映像が白くなる。

 音が戻ると、車両の上にあった灯が、地面へ落ちていた。

「奪還は、続けています」

 サイラは止まった映像を閉じた。

「通信を妨害し、軌道側でも端末を切り離しています。二つの施設は、もう操作を取り戻しました。ただ、期限までにぜんぶを戻せるかは、まだわかりません」

「遠くから、ケーブルを切れないのか」

 ジョーンは、軍用回線をたどった。普通の通信とは別で、塔の中を通っている。

「予備も同じ区画につながっています。一本切っても、残りから送られるんです」

 サイラが、赤い装置を指した。

「ここを装置ごと切り離す必要があります」


 サイラは、別の道を示した。

 工房から退避施設へ。

 そこから、保安の保護先へ。

「まず、こちらへ移れます。引き渡せという要求には応じません」

 ライが、すぐうなずいた。

「それなら、支度する。資料の原本も持っていく」

「待て」

 ジョーンは、機体の図を開いた。

 原型ジャンヌ。地下の格納庫。

 右の指が、今朝保存した規則へ届いた。

『外部指令切断後は、現場の保守操作を優先する。』

 サーバーで見つけた文。

 原型の制御ユニットに、当てはまる決まりだった。

 照合票とつながった図も、同じ型式を示している。

「こいつを、俺たちが動かしたら」

 ライは、図とジョーンの顔を交互に見た。

「お前たちを兵器に乗せるための実験だったんだろ。その兵器を、こっちから動かしに行くのか」

「あいつらのために乗るんじゃない。中央へ届くために使う」

 ジョーンは、塔の周りを囲むドローンを示した。

 その後ろに、黒い遠隔実証型が立っている。

 同じ色の胸。同じように厚い装甲。

「普通の作業機じゃ、ここを通れない。原型には、こいつらに負けない装甲と、攻撃を避ける速さがある。俺たちの接続器にも、それを使うための設定が残ってる」

「残ってるだけで、使えると決まったわけじゃない」

「そうだ。図のとおりに動くかは、現物で見ないとわからない」

 ジョーンは、続きを隠さず広げた。

 外部指令を受ける装置。

 首へ刺激を送り、返事をさせる装置。

 接続を続けさせるための、外側の仕組み。

「だから、乗る前にこいつを切る。俺たちを捕まえるために使ってた方だ」

 ライは、その図へ顔を近づけた。

 眉が寄る。

「図と違ってたら、切れないかもしれない」

「そのときは、乗らない」

 ジョーンは答えた。

 ジョーンは条件も帳面に残した。動かす前に、帰れなくならないことをたしかめる。

「中央が原型へも、攻撃しろって送る危険はある。俺たちが、そうするために乗らないってことは、いま、書く」

 記憶帳を引き寄せる。

『原型を自分たちで動かし、中央の軍用送信設備を切る案。格納庫で、命令を受ける装置と、刺激を送る装置を先に切る。敵が攻撃しろといっても、従わない。――ジョーン』

 ライは、その文を読んだ。

「これ、お前ひとりで決めていい話じゃないだろ」

「だから、案って書いた。レティにも、次に起きるやつにも聞く」

 サイラは、二人の間にある紙を見ていた。

「原型を直した記録は、押収した資料と合っています。格納庫の入口には、こちらの班を送れます。ただ、私はあなたたちに乗れと命令できません。保護先へ行く道も、残しておきます」

 ジョーンはうなずいた。

 外では奪還と避難が続いている。自分たちが選べる道も、一つ増えた。研究者へ返事をするための道ではない。


     * * *


 ルカは、昔のマップと、市が使っている点検用のマップを並べた。

 十七時三十一分。

 ジョーンの案を読み、顔を上げる。

「僕、格納庫までの道なら、比べられる。そこから先の戦い方は、わからない」

 サイラが椅子を寄せた。

「入口は、こちらの班がたしかめています」

「今朝、ライと入った場所は、ここ?」

 ルカは、点検用マップの一角を指した。

 ライが首を振る。

「となりの区画。俺たちが逃げた床下は、こっちまでだ。その先は見てない」

 ルカは、見ていない道を灰色にした。

 見た道と、図にあるだけの道を、同じ色にはしたくなかった。

 格納庫へ続く点検トンネルは、川の下を横切っている。

 旧図では、階段だった。

 市のマップでは、直して坂にしたと書かれている。

 その先に、途中から途切れた線があった。

「ここ、崩れてる?」

 ライが、最近の工事記録を開いた。

「古い線を埋めた。代わりの道は、この横だ」

 ルカは新しい方をたどった。

 やがて、確認班から写真が来た。

 坂の先の扉。新しい灯。古い紋章を削った跡。

 図と違うものは、写真の上に印を足す。

「格納庫の扉までは、通れるって。奥は、まだ見ていない」

 サイラが知らせた。

「入口を守る班と、戻る場所を用意します」

 次に、地上の図を開いた。

 格納庫は都市の西の端、工場の並ぶ場所にある。

「地上出口から塔まで六キロ。貨物道路を進んで、二キロ先に川を渡る橋がある」

 ルカは地図の距離を読み、橋へ指をおいた。

「塔は、出口のすぐとなりじゃないんだね。こっちの橋、今も通れる?」

「地上の班が調べています。戦いの中で変わるので、出る前にも知らせます」

 サイラが答えた。

 ルカは、地上の道を、まだ灰色のまま残した。

 工房の印も消さずに残す。目的地だけの地図は嫌いだった。着いたあと、帰る道も要る。

『格納庫へは、点検トンネルから。灰色は未確認。扉の先で図と違ったら、止まって知らせる。――ルカ』

 僕が見た場所ではない。

 その一言を、最後に足した。


     * * *


 ヴェルは、外部装置の図を、左の指で拡大した。

 十七時四十二分。

 機体へつながる電源ケーブルは、二本あった。

 胸へ入る太い線と、その横の細い線。

「オレ、どっちを切ればいいか確かめたい。太い方まで切ったら、機体を動かす電力も消える」

 ライは、測った数字と比べるための表を開いた。

「外部の装置は、こっちの専用電源か」

「図では。軍用の通信と、強制刺激の装置だけ、別になってる」

 ヴェルは、胸から盾と主砲へ続く線も確かめた。

「力場の装置は主動力の方だ。箱を切っても、弾をそらす力と、主砲は残る」

 ヴェルは、接続器へ続く細い線をたどった。

 操縦席から指示を送る回線は、箱を通らない。敵の命令と、自分たちが動かす線。いっしょに切るわけにはいかなかった。

「格納庫で先に切るのは、原型についてる、この外部装置。中央管制塔じゃない」

 ヴェルは、二つの図を並べる。

「ここを切っても、外の無人機は止まらない。世界の設備へ送る信号も止まらない。そっちは、乗ってから中央へ行って断つ」

 ライが、記憶帳へ短く写した。

 格納庫で原型の箱を切り、塔で中央の送信設備を断つ。ライは、二つの作業を順番に書いた。

 ヴェルは、切る予定の端子に印をおいた。

「実物も同じ型で、測った電圧が図と合えば、外から切り離せる。カバーを開ける工具は?」

 ライが工具バッグを開く。

 ヴェルは、短い刃と絶縁用の留め具を選んだ。

 その先の動作図に、照準の欄があった。

 主砲、発射。

 操縦側の照準確定を要求。

「中央が撃てといっても、主砲には、こっちの返事が要る。機体の計算した狙いで撃つかは、オレたちが決めるんだ」

 サイラが、その欄を見た。

「返事をしなければ、安全ですか」

「いや。返事を出させるための刺激装置がある。切る前に乗ったら、どれだけ待たせられるかもわからない」

 ヴェルは、線の途中へ、赤い印を足した。

 勇気を出せば、電気が消えるわけではない。

「だから、先に切る。図が違えば、予定を変える。そこは省かないでくれ」

 ライが、別の修復票を開いた。

「地上の道が塞がったら、背中のこれも、使えるのか」

 図の肩の後ろから、腰へ向けて、太い筒が二つ並んでいる。

 スラスター。短い時間なら、機体を空へ持ち上げて進める。

 ヴェルは、その下の制限を読んだ。

「続けて九十秒まで。上がる分も、降りる分も、その中だ。ずっと飛んで待つのは無理。修復済みってあるけど、現物でも確かめる」

「飛ばすのも、全部、自分で計算する?」

「姿勢とか、落ちないための細かな動きは、機体が補う。行き先は、こっちが決める」

 ヴェルは、図を閉じなかった。

「それで戦い方まで、知ってることにはならない。オレたち、飛んだこともないんだから、降りる場所も要る」

 選んだ工具を、ライへ渡した。

 左腕の傷へ、また痛みが来る。

 交代しても、傷は同じだ。工具はライに収めてもらった。


     * * *


 オルドは、帰る道から先に見た。

 十七時五十四分。

 外の警報は、もう、同じ間隔で鳴っていた。

 慣れていい音ではないと思った。

 短く、せき払いをした。

「俺はオルド。進む話の前に、戻る条件を残す」

 左手でペンを持ち、腕を布へ載せる。

 傷が痛んで歩けなくなったら、進まない。

 図と違う分岐で、連絡が取れなければ、先へ行かない。

 外部装置を切れなければ、搭乗しない。

 サイラは、入口を守る班がいる場所と、途中で連絡を取れる場所を示した。

 オルドは、その二つへ戻る線を書いた。

「敵が入ってきたら、この予定のままでは動けない」

 ライへいう。

「近い方へ退く。原型を動かすために、まずこの体をなくしたら、なににもならない」

「同意する」

 ライは、時刻を確かめた。

 出るまでに、まだ短い時間がある。

 机には、案を読んだリーヌの返事が挟まれていた。

『ここまで守った暮らしを、向こうへ返すためには使いたくない。わたしたちで断つなら、次に必要な資料を残します。――リーヌ』

 その下に、リリィの細い字がある。

『引き渡されたくない。ライと、この工房へ帰りたい。乗るなら、そのために乗って。――リリィ』

 サイラと話す間にも交代した、とライが二人の書いた時刻を教えた。オルドが直接聞いた返事ではない。

 いま、返事のない名もある。

「全員が、その場で考えて答えられたことにはしないでくれ」

 彼は、空いている行を残した。

「前へ出たあと、やめたいといってもいい。まだ知らないやつには、まず、これを読ませる」

 ライがうなずいた。

「帳面は持っていく。途中で交代したら、俺からも説明する」

 帳面は作戦書だけではない。なにも知らずに起きる人へ、行き先を教えるものだ。

 オルドは、戻る場所と、やめる条件を書いたページを、一番上へ挟んだ。

 進むための案を、すこしだけ信用できるようになった。


     * * *


 レティは、二つの道を見ていた。

 十八時八分。

 一つは、保護先へ行く道。

 もう一つは、地下の格納庫へ行く道。

 どちらにも、戻る地点が書いてある。

 ライは椅子へ座り直した。

「原型が使えるかは、まだわからない。俺たちが行かなくても、避難も奪還も続いてる。お前ひとりに背負わせる話じゃない」

 レティは、資料を見た。

 世界地図の赤い範囲。

 発進できない月の船。

 植木鉢を抱えた子のことを、ライが話してくれた。自分は見ていない。でも、アジーがその手を描きたいと残している。

「私たちが直すバルブの先にも、部屋があるよね」

 レティは世界地図へ目を戻した。

「水を使う人がいて、ごはんを作る人がいる。ステーションも船も、同じなんだね」

「ああ。だれかがそこで暮らしてる」

 自分たちの暮らしだけ、地図から切り取ることはできなかった。


「私が戻れば、やめるって、書いてある?」

 レティは、敵の通告を指した。

 サイラが首を振る。

「引き渡しは、要求の一つです。管制ネットワークも、防衛を指揮する権限も渡せといっています。あなたが行っても、各国を従わせる要求は残ります」

 ただ、自分が我慢すれば終わる。

 そう考えそうになったところへ、答えが来た。

 レティは通告から手を離した。

「私が、つながれたら、あの人たちはなにをするの」

 サイラは、原型の運用案を開いた。

 中央へ迫る重装部隊を迎え撃つ。そのあとも抵抗する軍の基地を攻める。

 地球と月の軍の拠点が、図の中で囲まれていた。

「各国の軍が、中央を取り戻しに来ると予想しています。原型を、その反撃を破るために使いたい」

「でも、遠隔実証型も強いんでしょう。三百年前の一体を直して、私たちまで調べるほどなの?」

 サイラは、ジョーンが印をつけた修復票を開いた。添付されていたのは、三百年前のテスト映像だ。

 黒い盾の前へ、青白い面がひろがる。

 飛んできた砲弾が、そこで横へそれた。離れた斜面が、白くはじける。

「弾が、消えたんじゃないんですね」

「はい。進む方向を曲げています。次を見てください」

 盾の光が薄くなる。

 原型が、右腕を上げた。

 砲の根元へ白い光が集まり、実弾が出る。

 映像が、標的のカメラへ切り替わった。

 分厚い装甲板の中央に、穴があいている。ずっと奥に立てた、二枚目の板も抜けていた。

 テストの的は、重装艦と同じ厚さの装甲だった。

 レティは、机へおいた自分の腕を見た。

 あの巨人も、一つの席から動かすものだった。

「同じ装置の力を使い、弾をさらに速く押し出しています。最大出力なら、重装艦の装甲も、軍の基地を守る壁も撃ち抜ける。遠隔実証型には、この武器がありません」

 ライが、映像を止めた。

「保安の車を壊す力と、軍の艦を沈める力は、違うってことか」

「遠隔実証型は市街の保安側を苦戦させています。でも、各国の重火器や拠点の防衛を、同じように破れるわけではありません」

 サイラは運用案へ戻った。

 軍の協力者が動かす部隊。中央を守る遠隔実証型。抵抗の強い場所へ、原型を送り込む道。

 月へは、輸送船に載せて運ぶ予定もあった。

「制御網で脅しても、相手は黙って従わない。その抵抗を砕く切り札として、原型を用意してきたのです」

「軍の反撃を止めるために、一体の原型と、私たちを用意したのね」

「大きな軍を一からそろえるより、どの国も作れない兵器へ賭けた。あの研究も、修復も、そのためでした」

 レティは、首の後ろへ右手を当てた。

 なめらかな金属が、指の下にある。

 機械を直す間に、この体にも装置を入れていた。

「元の神経接続以外では、まだ動かせません。あなたたちの考えを読み取るため、長く調整してきた。ほかの人を、すぐ乗せることもできないのです」

 ライが、中央を示す印へ指をおいた。

「じゃあ、原型が使えなくても、今夜の攻撃は始められる。でも、そのあとの軍の反撃を抑える計画は、崩れる」

「はい。あなたを取り逃がし、証拠も外へ出たので、予定を早めています。捕まえたい側にも、余裕はない」


 戻って一人で耐えれば、済むのではない。降りられない席から、だれかの町へ砲を向けさせられる。

 自分たちの知らない時間を、あの人たちは、そのために使ってきた。

 レティは、仲間の書いたページを開いた。

 リーヌ。ジョーン。リリィ。オルド。

 絵を続けるために帰りたいという、アジーの文もあった。

 眠っている間に、みんなも案を読んでいた。また、なにも知らずに危ないところへ行かせたくない。この体を、向こうへ返したくもなかった。


「乗るのは、あの人たちの続きをするためじゃない。ここへ帰ってくるためでしょう」

 レティがいうと、ライはうなずいた。

「中央から命令を送る装置を断つ。そのために、使う案だ」

「攻撃しろっていわれたら?」

「従わない。先に、原型の外部装置を切る。図と違って切れなかったら、予定を変える」

 レティは、白い布で覆われた左腕を見た。

 この傷ができたとき、自分は前にいなかった。

 知ったあとも、痛かった。

「私、また途中でいなくなるかもしれない」

「そのときも、これを渡す」

 ライが、記憶帳へふれた。

「案を読んでも、やめたいと思ったらいっていい。次に起きた人にも、そう伝える」

 レティは右手でペンをとった。

 だれかが了承したから、次の課題を始める。そんな紙にはしたくなかった。

『ジャンヌを使って、中央管制塔の軍用送信設備を断ちたい。あの人たちの攻撃命令には従わない。私たちの暮らしへ帰るために。』

 次の行を空ける。

『危ないと思ったら、途中でも止めて。私は、この目的で行きたいです。――レティ』

 今朝も、自分で行き先を書いた。

 今日はライと、旧保守区画の調査へ行きます。

 その文から、まだ一日も終わっていない。

 違う仕事になってしまった。

 それでも、今度の行き先を、自分の字で書けた。

「お願いします」

 レティは顔を上げた。

「格納庫まで、連れていってください。そこからなにをするかは、私たちが決めます」

 サイラは、紙を読んでからうなずいた。

 ライは立ち上がり、工具バッグを持ってきた。


     * * *


 アジーは、レティの名前で終わった文を読んだ。

 十八時二十分。

 今朝の調査へ行く前と、同じ字だった。

 用件の中身だけが、ひどく大きくなっている。

 腕は痛い。医師の控えには、出血が増えたら止めるとある。

 アジーは、上着を羽織る前に、布の外側をたしかめた。

 いまのところ、新しい赤は見えない。

「支度する。アタシが出てる」

 ライが、折り畳んだアシストフレームを差し出した。

「左側の固定を、軽くした。動かすなら、肩で持つ。無理そうなら、途中で外そう」

 アジーは、右手で留め具を引いた。

 肩で支えた工具の重みを、フレームが受けてくれた。左腕を上げずに持っていられる。

 傷が治ったわけではない。

 そこをたしかめてから、脚の屈伸を一度だけした。

 サイラが、班への連絡を終えて戻る。

「入口までは、隊員二人がいっしょに行きます。中央へ向かった部隊も、中へ入ろうとしています。格納庫から地上へ出るには、機体用の昇降路(しょうこうろ)を使います」

 アジーは地図を見た。

 点検トンネル。地下格納庫。中央管制塔。

 この線を歩き、機械にふれるのは、傷のある体だ。アジーはバッグを持ち直した。

「ちなみに、これ、作業の見積もり出した?」

 ライが顔を上げた。

「いまから?」

「格納庫で外の指令を切って、中央の送信設備を止める。回収するのは、でっかい兵器一体。今日の調査票じゃ足りないだろ」

 ライは、しばらく口を閉じていた。

 それから、息を吐くように笑った。

「帰ってから、追加で出す」

「じゃ、帰ったら手伝って。アタシは絵の続きがある」

 机の青い窓は、そのままにしておく。

 取っ手を描くのは、自宅の方だ。

 イネスが、絵を棚へ移した。

「ここにおいておく。持って歩くと、まだ色がつく」

「捨てないで」

「捨てない」

 アジーはうなずき、短い返事を記憶帳へ足した。

『レティの案を読んだ。帰って絵を続けるために、アタシも行く。見積もりは帰ってから。――アジー』

 そのページを、ライに持ってもらう。

 右手には工具。左腕は体の近くへ。

 イネスが工房の戸を開けた。

 風車が、頭の上で回った。

 アジーは、それを見上げてから外へ出た。


 通りは、今朝より広く見えた。

 閉じた店が多かった。

 向こうの退避口で、隊員が荷物を持った人へ道を教えている。

 植木鉢を抱えた子どもが、立ち止まった。

 アジーは、青い布の上にある、その指を見た。

 描きたいと思った手に、すこし似ていた。

 初めて土を触る瞬間には戻れない。でも今、鉢を抱える指も、描いておきたい形だった。

 隊員の案内で、子どもは退避口へ入った。

 ライがとなりで歩く。

 アジーは、ライがバッグのひもを握る手を見た。手袋に、白い縫い目がある。

 今朝たしかめた自分の手袋にも、同じ色の糸が渡っていた。

 帰るときにも、ほどけていなければいい。


 点検トンネルの入口では、確認班の一人が待っていた。

 サイラの名を聞き、通信でたしかめてから、坂の先へライトを向ける。

「格納庫の前までは、歩けるようにしました。奥の機械には、まだ触っていません」

 隊員がいった。

「電源は残っています。警備機の反応は、いまのところありません」

 サイラは一人を入口へ残し、もう一人と先へ進んだ。

 アジーは、ライのすこし前を歩く。

 途中の分岐で止まり、ルカの地図と壁の番号を比べた。

 違う線へ入ってはいない。

 奥の灯が、一つずつ点いていく。

 地上の避難放送は、二つ目の曲がり角で聞こえなくなった。

 首の後ろが、冷える。

 今日はもう、なんども感じた温度だった。

 アジーは、触ってたしかめるのをやめた。

 足を止め、いまの位置を、ライに記録してもらう。

「先でなにか来たら、戻るのはここ」

 サイラが、通路の広くなった場所を指した。

 アジーはうなずいた。

 戻るところを見てから、扉へ向かった。


 十八時四十六分。

 格納庫の前にある、最後の扉が開いた。

 油と、熱い金属の匂いが流れてきた。床の新しい工具箱には、取り替えた端子が、ふたの裏に並んでいる。

 最近、だれかがここで働いていた。

 アジーは、その先で足を止めた。


 黒い巨人が、こちらを向いて立っていた。

「高さは、八メートルだ」

 ライの端末を見て、アジーは巨人へ目を戻した。

「三階建ての家くらい、あるんだね」

 広い肩に細い腰。太ももから足の甲まで、厚い装甲が重なっている。人の形でも、頭に鼻や口はない。黒い顔を横に切る、細い観測窓が一つあるだけだ。

 黒い装甲が、鈍く光を返す。角の削れたところからは、灰色の金属がのぞいていた。直したばかりの左肩だけが、周りより深い黒をしている。

 左腕の外側には、盾のように幅のある装甲。右腕には、腕に沿って太い砲身が取り付けられていた。

 左肩の後ろに、太い筒のふたが見えた。背中のスラスターだ。右にもあるが、ここからは肩に隠れている。

 その両手が、動かずに下がっている。

 原型ジャンヌ。

 映像で見た機械が、いまは同じ床の上にいた。


 機体の左わきに、鉄の足場が組まれていた。

 床から三メートル上がったところが、腰の整備用の足場だ。そこより一メートル高く、機体の左腰の後ろに、灰色の箱がついている。

 腰の足場から、さらに短い階段が上へ続く。先には、開いた胸の装甲があった。

 地面から五メートルのところに、人の座る椅子が一つ。

 あれほど大きい体の中で、椅子だけが、普通の大きさをしていた。

 膝をおく位置。腕を下ろす位置。首の後ろへふれる輪。

 椅子の横に、細い灯が十五、並んでいる。

 アジーは、肩を引いた。

 そこへ座ったら、首を動かせなくなる。

 研究施設の椅子を思い出しそうになり、アジーは胸から目をそらした。

「アジー」

 ライが呼んだ。声は、すぐ後ろから来た。

 白い部屋の係員の声ではなかった。

 アジーは右手を開く。親指に残る青が、整備灯の下で見えた。

「これが、実物」

 口に出してから、アジーは足元を見た。ここは、いまライと来た格納庫だ。

「最初に、外部装置の型式を見よう。まだ、だれも座らない」

 ライが工具バッグをおき、サイラが入口の隊員へ連絡する。

 アジーは、機体の肩の向こうを見た。

 奥の壁に、巨人が通れる扉がある。その向こうが昇降路。上の札は、貨物道路への地上出口を示していた。中央管制塔は、そこから六キロ先だ。

 進むなら、ジャンヌであの扉へ。戻るなら、後ろの扉から来たトンネルへ。

 机に残した青い窓へ、まだ取っ手を足していない。

 アジーは、黒い胸をもう一度見た。

 はじめて見るはずの椅子が、あまりにも、知っている形をしていた。

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