第一章 昨日のことを、私は知らない
レティの昨日は、夕方の六時十三分で途切れていた。
西二街区のパイプ室。膝の下に敷いた作業布。締めすぎた留め金を、もうすこしだけ緩めようとしていた。
おぼえているのは、そこまでだ。
レティアの名で請け負う、回収・整備の仕事。ライと二人で旧文明の機械を調べ、使えるパーツを持ち帰る。街の設備を直すこともある。昨日の循環バルブも、その一つだった。
目を開けると、自室の天井があった。
窓の外で給水管を水が流れ、となりの部屋では椅子を引く音がした。レティは枕元の時計を見る。
七時二十二分。
寝間着に着替えている。作業着は椅子の背にかかり、昨日使った手袋が、机の端に二枚並んでいた。
夕食を食べ、手袋を洗い、ここへ帰ってきたのだろう。
だろう、をつけずにいえることはすくなかった。
起き上がると、右の親指に青い絵の具が残っていた。爪の横に沿った細い線は、擦ってもすこししかとれない。
机には、描きかけの絵が伏せてあった。
紙の隅を持ち上げる。丸い窓。その向こうは、木の葉のような緑でいっぱいだった。窓辺のマグカップは、まだ線だけで描かれている。
見たことのない場所だった。
レティは紙を戻し、そのとなりの記憶帳を開いた。
厚くなった紙の端が、指に引っかかった。表紙のテープは三度貼り替えてある。どれを自分が貼ったのかも、ぜんぶはおぼえていない。
昨日のページには、左へすこし傾く、整った字があった。
『十八時三十二分。西二街区の循環バルブ、交換終了。試運転に異常なし。報酬は入金済み。――リーヌ』
その下に、もっと力の入った字。
『手袋の縫い目がほつれてた。直した。次に使うとき、引っ張ってたしかめとけ。――アジー』
買い物の欄は空白だった。
夕食の欄も。
帰宅の時刻も、ない。
青い絵の具がついた指で、空白をおさえた。
リーヌはよく記録を残す。でも、一日じゅう起きているわけではない。彼女にも知らない時間がある。
レティは、二枚の手袋を見た。
右の人差し指のつけ根に、白い糸が渡っている。
助かった、と小さく思った。
昨日のうちに、そういえればよかった。
記憶帳の見返しには、十五の名前が並んでいた。リーヌ、リリィ、ジョーン、アジー、フィル。ほかにも、レティが声や書きおきで知っている名前がある。
彼らは、レティの中にいる。
声が届くときも、気持ちだけが残るときもある。なにもわからないことも多い。同じ体を使う彼らの昨日が、レティの昨日とはつながらなかった。
そのリストには、レティの名もあった。
リストの下には、小さな字でつけ足されている。
『今、把握している人たち』
今、わかっているだけでも十五人。それでぜんぶだと決めたわけではない。
名前を知っても、その人が過ごした時間まで知ることはできなかった。
レティはアジーの書きおきの下に、右手で返事を書いた。
『ありがとう。使う前にたしかめます。――レティ』
それから、台所へ行った。
冷蔵庫の取っ手には、紙が一枚巻きつけてあった。
『あたしの朝食に卵を混ぜないで。表示も見て。――リリィ』
丸い字の下に、尖った字が割り込んでいる。
『ゆで卵は俺の分。ほかの朝食とは分けてある。――ジョーン』
扉を開けると、浅い保存容器が二つ並んでいた。
一つには、殻を剥いたゆで卵。もう一つには、豆と野菜の粥。粥の蓋に貼った成分表示には、卵が入っていないことを示す線が引いてある。
ここまでしてくれたのがだれなのか、レティにはわからなかった。
卵を見ていると、塩を振る指先が一瞬だけ浮かんだ気がした。
次にはもう、白い表面しか見えない。
昨日の自分がしたことだろうか。思い出そうとするほど、手の動きはぼやけた。
ジョーンは卵が好きだ。リリィは食べると肌が赤くふくれて苦しむ。レティには、そのおぼえがない。でも、食べている途中でリリィになるかもしれない。
レティは粥の容器をとった。
温める間、冷蔵庫の紙を読み返す。
あたし。
俺。
昨日の自分の口からも、その言葉が出ていたはずだ。
けれど、いったときの気持ちは思い出せない。
同じ指で剥いたかもしれない卵を、他人の忘れ物みたいに眺めてしまう。
調理器が短く鳴った。
蓋を開けると、生姜の匂いが立った。
湯気の向こうに、店の明かりのような黄色が、ふっと重なった。なにかの声。袋を持ちかえる手。
レティは匙を止めた。
なにも、はっきりしなかった。
それでも、その匂いがきらいではないことだけはわかった。
一口食べる。
豆も、底に沈んだ根菜もやわらかかった。もう一口と食べるうちに、肩の力が抜けていく。おなかが空いていたらしい。
窓から見えるのは、下層区画の向かいの建物だった。壁を走る何本ものパイプ。その隙間に、小さな植木鉢がある。
葉の先に朝日が当たっていた。
遠いシールドの屋根を通り、上の街並みにさえぎられて、それでもここまで届いた光だ。
レティは粥を食べ終え、容器を洗った。
流しへおいた右手には、青い線がまだ残っている。
今日は、どこまでおぼえていられるだろう。
そう思ったとき、目の前の冷蔵庫の紙が、すうっと遠くなった。
流れる水の音は続いていた。
自分が次になにをしようとしていたのか、その行き先だけが、わからなくなった。
* * *
ジョーンが冷蔵庫の前に立っていると気づいたとき、蛇口は閉まっていた。
腹があたたかい。口の中には生姜の味がある。
卵は、まだ容器に残っていた。
「粥かよ」
机の端に出しっぱなしの匙を見て、ジョーンは鼻から息を吐いた。
自分が食べたのではないとわかったところで、腹がもう一度空くわけでもない。
冷蔵庫の紙を読む。
卵に警戒するような赤い下線が、また増えていた。
卵は別の容器に分け、名前までつけた。昨夜も、その後にだれが起きるかわからないから、食べずにおいたのだ。
厄介なおき土産みたいに書かれるのは、面白くなかった。
ジョーンはペンをとった。
『俺の分だって、何度もいった。勝手に捨てるな』
右手で書き足し、卵の容器へ向かう矢印を引く。
冷蔵庫を閉める前に、殻を剥いた表面を、すこし名残惜しく見た。
今から食べるつもりはなかった。
窓ぎわの端末に、今日の依頼を開く。旧保守区画で通信設備を調べる仕事だった。写真にある端子は、二世代前のものと同じ形だ。
見慣れた形式だった。
店で売っているアダプターでは、信号を通せない。昨日直しておいた、細い接続ケーブルが要る。
ジョーンは工具バッグを開け、変換アダプターをたしかめようとした。
白い袋の中に、赤いペンキの缶が見えた。
入れたおぼえはない。
仕事の袋に、なんでペンキが。文句が浮かぶより早く、缶の輪郭がぼやけた。
* * *
リリィは工具バッグを閉じた。
朝から、なぜこんなものを覗いているのか。
窓際の端末には仕事の依頼が開かれていた。机にはペン。冷蔵庫には、昨日より長い文句。
「捨てるなんて、いってないよ」
リリィはペンを左手へ持ちかえた。
ジョーンの矢印を避けて書く場所を探す。裏へ回すと、どの文への返事かわからなくなる。
結局、矢印の途中に短い線を引いた。
『卵を分けたって返事、あたしは聞いてない。卵の入ってる袋を、こっちの容器の上におかないで』
昨日、冷蔵庫を開けたとき、卵の入った袋が粥の蓋の上に載っていた。
混ぜたのかと思ったのだ。
混ぜていないなら、それでいい。でも、返事を聞いていないのに、こちらだけが怒ったことにされるのはいやだった。
ついでに、端へ小さくつけ足す。
『ゆで卵が好きなのは知ってる。買うなとはいってない』
そこを書いてから、リリィはすこし落ち着いた。
流しには、洗った粥の容器がおいてあった。蓋には成分表示。
だれかが食べ、片づけてくれたらしい。
時計をたしかめると、八時をすこし回っていた。
ライが来るまで、まだ間がある。
リリィは窓へ寄り、作業着の袖口を直した。鏡代わりの暗い画面に、寝癖の残った髪が映っている。
手櫛を入れ、途中でやめた。
ライが来たとき、起きているのがあたしとは限らない。
それが、すこしだけ腹立たしかった。
* * *
リーヌは、窓ぎわの机へ右手を付いた。
窓の輪郭がぼやけていた。
遠くの葉も、端末の文字も、やわらかい色の塊になっている。
左手で眼鏡ケースを探る。机のいつもの位置にあった。
眼鏡をかけると、端末の四隅と、冷蔵庫に巻きついた紙が戻ってきた。
紙には、黒と赤の線が入り乱れていた。
わたしが読む場所も、すこしは残してほしい。リーヌは紙から目を離し、記憶帳を開いた。
八時十八分。自宅。粥の容器は洗浄済み。卵は冷蔵庫に残っている。冷蔵庫の注意書きに追記あり。
たしかめられることだけを書き、最後に自分の名をつける。
昨日の買い物欄へ、手を伸ばしかけた。
止める。
そこに自分がいたとは、いえなかった。
玄関が、三度叩かれた。
「起きてるか」
ライの声だ。
リーヌは記憶帳を閉じ、玄関へ向かった。
「起きているわ。今、開ける」
ライは片手に工具バッグを、もう片方に、細長い紙袋を提げていた。作業着の肩に朝日が当たり、縫い目に溜まった白い埃まで見える。
「おはよう。今日は――リリィ?」
「リーヌ」
「ああ。髪を直してたから、そうかと思った」
リーヌは左手で眼鏡を押し上げた。
「直したのは、わたしではないわ」
ライは言い訳せずにうなずいた。見た目で決めつけずに聞いてくれるところは、きらいではない。
彼は入ってよいか尋ね、工具バッグを玄関の脇へおいた。
台所へ来ると、冷蔵庫の紙に目を留めた。
「朝飯の注意が、設計図みたいになってるぞ」
「矢印の接続が、二か所間違っているわ」
「そこを直すのか」
リーヌは紙を外し、机の上へ広げた。
折れた部分をおさえると、ジョーンの字の下から、リリィの小さな追記が出てきた。
買うなとはいってない。
折れた下に隠れていた一行だ。ジョーンは、読む前に返事を書いたのかもしれない。
ライは紙袋からパンを一本出した。香ばしい匂いが台所に広がる。
「市場の店が試し焼きしてた。卵も乳も入れてないって。表示、こっち」
包み紙を切り離さず、端にある、使った材料の欄を見せる。
「ありがとう。朝食は済んでいるみたい」
「昼にでも食べてくれ。俺のは別にある」
ライは袋を机へおいた。
不意に、リーヌの目の奥で、細い痛みが引いた。
読みかけの紙へ目を戻そうとしても、字が手元から離れていく。
彼女は眼鏡を外し、ケースに収めた。
開いた記憶帳へ、短く書く。
『八時二十四分。ライが来た。今日は旧保守区画。依頼は端末にある』
ペンをおいたところまでは、おぼえていた。
* * *
レティは、手を止めた。
さっきまで、流しの前にいたはずだった。
今は椅子に座っている。向かいにライがいた。机には紙袋と、開いた記憶帳。自分の右手は、左手の甲をおさえていた。
「……ライ」
「おはよう」
ライはすこしだけ身を起こした。
「今、だれが出てる?」
「私。レティです」
「わかった」
彼は記憶帳の端を指した。
「ここまで、リーヌが書いてくれてる」
レティは左手で書かれた時刻を読んだ。
八時二十四分。
自分が粥を食べ終えてから、もう四十分近く過ぎている。
ライが入ってきたところさえ、おぼえていない。朝食のあとに、知らない四十分があった。
ライが、紙袋をすこし寄せた。
「パン。昼の分」
「……ありがとう」
生姜の匂いは、まだおぼえている。
あたたかい粥を食べたことも。
思い出せるのは、そこまで。レティはライへ顔を上げた。
「昨日、私、帰りになにを買ったの?」
「買い物は見てない。市場の手前で、別れたから」
ライは答え、すこし考えた。
「そこまではアジーだった。塗料の店に寄りたいっていってた」
「青いの?」
「色までは聞いてないな」
レティは右の親指を見た。
ライも青い線を見た。でも、アジーが買った色だとはいわない。レティは手を膝へ戻した。
レティは机の紙を拾った。
冷蔵庫に貼ってあったはずのものだ。黒い字も赤い字も、さっきより増えている。
自分の目で見たおぼえのない返事が、ここに残っていた。
「……みんな、同じところに書くから」
「うん?」
「いついったことか、わからなくなるの。今朝のことか、昨日のことか。返事を読んだかどうかも」
紙の端をおさえる。
丸い字で、小さく書かれた一行があった。
ゆで卵が好きなのは知ってる。
リリィが怒っていたのは、卵を買ったことではないらしい。ジョーンには、それが伝わっただろうか。
「時刻も書いたら、どうかな」
レティはいった。
ライは返事を急がず、続きを待った。
「用件と、返事を分けるの。あと、次にしてほしいことを、一つだけ書く。卵が別の容器だってわかれば、リリィも、もう混ぜたかどうか聞かなくていいし」
「なるほど。どこへの返事かもわかるな」
「字がいっぱいで読めなくなったら、新しい紙に移して。古いのも、捨てないでおいておく」
レティは紙から手を離した。みんなの書き方まで変えていいのだろうか。リーヌなら、もっと上手に残す。ジョーンにも、別のやり方があるかもしれない。
自分のために、手間を増やしている気がした。
「あの、いやだったら――」
「紙、あるか?」
ライが、机の脇を見た。
「まず書いておいとけばいいんじゃないか。返事も、そこへもらえば」
レティはうなずき、棚から紙をとった。
右手で、三つの欄に分ける。
時刻。用件。次にしてほしいこと。
どれも、読める字で書いた。
ライは横から覗き、最初の欄へ指をおいた。
「ここに、書いた人の名前も」
「……そうね」
忘れていたことを笑われなかったので、もう一度うなずけた。
レティは名前の欄を足し、記憶帳の新しいページにも、同じ形を書いた。
その紙を冷蔵庫に貼り、古い注意書きを、記憶帳へ挟む。
これなら、返事を探せる。卵と粥のことも、もう一度話せそうだった。
「今日の仕事、私も、できるところをやりたい」
「もちろん。二人分で入場をとってある」
ライはすぐに答え、それから端末へ目をやった。
「回線はジョーン、記録を読むのはリーヌに頼めると助かるけど」
「いつ、出てくるかは、わからない」
口にしてから、レティは袖口を握った。
自分では足りない、といわれた気がした。ライはそんなこと、いっていないのに。
「だったら、先に俺と外側を調べよう。扉と配線。つなぐところまでなら、俺もできる」
ライは工具バッグを持ち上げた。
「機械が読めなきゃ、持ち帰って調べる。今日中にぜんぶやれ、って依頼でもない」
レティは袖口から手を離した。
自分ができるところから始めればいい。
そう考えるのに、まだすこし時間がかかった。
出かける前に、記憶帳と眼鏡のケースを工具バッグへ入れた。昼のパンは、潰れないように一番上へ載せる。
『八時三十一分。自宅。今日はライと旧保守区画の調査へ行きます。移動したら、行き先を残してください。――レティ』
今日、自分で決めたことだった。
最後の文字を書いたとき、紙が遠ざかった。ライへなにかを言おうとしたが、声を出すための息が、うまく続かなかった。
* * *
アジーは、開いた記憶帳へ目を落とした。
八時三十一分。自宅。ライと旧保守区画の調査。
細い字の下に、新しい欄が三つ並んでいる。時刻と名前。用件。次にしてほしいこと。
「アジー?」
ライが尋ねた。
「そう。支度は済んでる?」
「あとは上着。レティが荷物をまとめてくれた」
アジーは工具バッグを開けた。記憶帳、眼鏡、変換アダプター。赤いペンキの缶と、紙に包んだパン。
缶は昨夜、自分が入れた。錆止めの残りで、回収した板に絵を描くつもりだ。パンが潰れないよう、包みを袋の上へ戻す。
机に伏せた絵を、一度だけ見た。
丸い窓の向こうに描いた葉は、もうすこし暗くしたい。窓辺のカップには、まだ取っ手がない。
続きは、帰ってから。
右手で記憶帳へ名前を足し、左手で上着を引き寄せた。
『八時三十六分。アジー。これから出る。』
その短い返事を、レティがいつ読むかはわからなかった。
下層区画の朝は、上の街区より遅く明るくなる。
建物の間を歩きながら、アジーは右の作業手袋の縫い目を引いた。昨夜渡した白い糸は、緩まなかった。
となりではライが、折りたたんだアシストフレームを肩に担いでいた。歩くたび、ベルトの留め具がかちゃかちゃと鳴る。
通りの上では、帰ってくる船のアナウンスが流れていた。月の居住区から来た便が、地球へ下りる順番を待っているという。
広場のモニターに、地球と月の共同復旧事業のロゴが出た。
「今日の調査も、あそこから回ってきたんだよな」
アジーが見上げると、ライもうなずいた。
「発電所も輸送路も、直すにはまず調べないと。両方の街をつなぎ直す仕事だ」
表示が切り替わり、初めて地面へ立つ家族の映像が流れた。
幼い子が、土を握っている。
迎えた人がなにかを言い、子どもは握った手を開いた。
砂が靴へ落ち、画面の中で、みんなが笑った。
アジーは、子どもの手を見た。握っている間と、開いたあとでは、指の形がまるで違う。
「見たい?」
ライが尋ねる。
「今の手、描きたい。もう一回やらないかな」
「明日も船は来る。土を触る子は、ほかにもいるんじゃないか」
「あの子が土を握るのは、一回目だろ」
ライは表示を見上げた。
映像は、到着時刻のリストへ変わっていた。
アジーは歩き出した。今夜、絵の続きを描けるとは限らない。それでも、あの指の形は忘れたくなかった。
旧保守区画へ向かう道は、広場から外縁の壁に沿って下っていた。新しい舗装が終わると、継ぎ目の広い古い床板になる。
人通りが途切れたところで、ライが足を止めた。
ライが壁の扉へ入場パスを当てた。センサーだけが新しく、扉の縁には削り取られた古い紋章が残っている。
アジーも、レティアの名でもらった作業票を当てた。回収・整備作業員。その下に、今日の仕事が出る。今日は設備を調べるだけで、パーツの持ち出しは認められていなかった。
「ここから先は、床の印の内側。外はまだ、強度を調べてない」
ライは黄色い線を示した。
アジーは床板の沈んだ端を見た。
「バッグも線の内側だね。あそこには、おきたくない」
扉が開く。
冷えた空気に、埃と古い油の匂いが混じっていた。
ライが、小さな携帯スキャナーを差し出した。空気と、床の強さ。二人で数値をたしかめてから、通路へ入った。
ライは扉の脇にある小さな床のハッチも指し、光を当てて位置をたしかめた。
入口から、正面のサーバー室までは、まっすぐだった。
途中、左側に機材庫がある。扉は半分開き、奥に、脚を折り畳んだ大きな作業機が見えた。ライが照らしても、灯は点かなかった。
「あれも、回収候補?」
「今日は調査だけだ。起こすなら、先に動力を切り離してから」
アジーは戸口から、脚のつなぎ目を見た。
「固まってるかは、ここからじゃわからないな。場所だけ残しとく」
ライへいい、機材庫の位置を端末に記録した。
サーバー室には、三列のラックが残っていた。手前に金属製の作業台。右の壁際には、取っ手のついた床のハッチがある。
ライがアシストフレームを広げた。腰と前腕に着ける、重いパーツを運ぶための装具だ。
「ラックの蓋、頼めるか?」
「これが動けばね」
アジーはベルトとランプをたしかめ、装具を着けた。すこし腰を落とすと、フレームが動きを助けてくれる。
「平気。開けるときは呼んで」
ライはまず、床のハッチを持ち上げた。
「下に、保守用の通路がある」
細い光を落とすと、人が一人ずつ這って進めるほどの空間が見えた。束ねた配線が片側へ寄せてあり、入口のほうへ続いている。
「表の通路が塞がっても、ここから戻れる。入口の脇に梯子があったろ」
「扉の横の、小さい蓋だね」
アジーは端末のマップへ、床下の道を描き足した。線は、入る前にライが指した場所まで戻っている。
ライは蓋を開けたまま固定し、工具バッグを作業台へ運んだ。
「ここは無線が届かない。部屋の回線へつないでおく」
ライが作業用トランシーバーを接続パネルへつないだ。余ったケーブルが、足元で輪になる。
窓のない室内に、照明が一つずつ点いていく。
ラックの下には埃が積もっていた。だが、端子の周りだけ、擦ったように黒い金属面が見えている。
「ここ、だれか触ってる」
アジーが照らすと、ライは屈んだ。
「市の調査員かもしれない。あとで記録と比べよう」
ライは、擦れた部分を端末で撮った。
アジーも写真の番号を受け取り、右手で記憶帳へ書き込んだ。
『九時四十六分。アジー。旧保守区画、サーバー室。ライと入場。右側の床のハッチは入口へ続く。写真は作業用タブレット。』
アジーは記憶帳の新しい欄へ目を移した。『次にしてほしいこと』。
レティが作った欄へ、戻る道の写真番号を添えた。
『場所がわからなければ、この図を見ること。移動したら、行き先も書く。』
ライが配線をつなぎ始めた。
アジーは頼まれた接続ケーブルを袋から出した。カバーに裂け目がないことをたしかめ、端子を裏返す。
同じ形をした穴が、三つ並んでいる。
どちらを上にするのだったか。
工具を握る右の指へ注意を戻そうとしたとき、その並びだけが、妙にはっきり見えた。
* * *
接続ケーブルの硬いカバーが、右の指先にふれていた。
ジョーンは、その感触をたしかめるように、端子を裏返した。
「そのまま挿すな。接地の位置が違う」
ライの手が止まる。
「ジョーン?」
「そう。外側は同じでも、これ、軍用の並びだ」
ジョーンはケーブルを持ち直し、作業用タブレットへ変換アダプターをつないだ。
右の親指には青い絵の具がある。机の上には、アジーの書いた時刻と行き先。レティが朝に作った欄から、今日の仕事をたしかめた。
初めて来る部屋だった。
端子の並びだけは知っている。だが、いつ、どこで扱ったものなのかは、今すぐ思い出せなかった。
「補助電源、もうすこし下げてくれ」
ライが調整する。
ジョーンは古い通信規格の表を開いた。記憶だけを頼りにつなぐのは危ない。傷んだ場所を避け、一つずつ端子を選ぶ。
変換アダプターの灯が、赤から緑へ変わった。
だが、作業用タブレットには、意味のない文字列しか出ない。
「読めるか?」
「まだ。返事が、別の世代の形式だ」
ジョーンは古い解析ツールを立ち上げた。
一度目は、なにも揃わなかった。
二度目で、時刻らしい区切りが現れる。
三度目。画面の端に、施設の管理番号が浮かんだ。
ライはケーブルに手を添え、黙って待っていた。
急かさない。大丈夫だともくり返さない。必要な手だけ貸してくれるので、ジョーンも作業を続けられた。
十時十一分。
ようやく、保存領域の目次が読めた。
航路記録。設備点検。閉鎖区画の通行規則。
古い日付が並ぶ中に、新しい保守履歴があった。
ジョーンはその行を開こうとした。
認証要求。
先へ進めない。
「だれか、最近まで使ってる」
「市の記録に、出てるか?」
「あとで比べる。認証が要るところには手を出さない。調査で入ってるだけだからな」
ジョーンは目次と点検記録を保存した。
「暗号のかかったデータも、コピーは取っておく」
「今、読めるのか?」
「いや。持ち帰って調べる」
ライへ答え、データをまとめて取り込んだ。
短い文章が一つ、閲覧画面の下に現れた。
『外部指令切断後は、現場の保守操作を優先する』
「妙な規則だな」
ジョーンはいった。
「回線が切れたときの、切替手順か」
ライが画面を覗く。
「そうらしい。回線が切れても勝手には切り替わらない。設備のそばにいる人が、手で操作するんだ」
ジョーンはそのページにも印をつけた。
「この略号、リーヌの方が読めそうだな」
ジョーンは目次を送った。機械の名か、計画の名かもわからない。
彼は新しい伝言欄を開いた。
時刻。場所。用件。
朝、だれかが増やした欄だ。
『十時十七分。旧保守区画のサーバー室。読めた資料は保存済み。接続はまだ切ってない。新しい保守履歴には認証が要る。触る前にライへいうこと。――ジョーン』
次にしてほしいこと。
『目次の略号を調べて。リーヌが読めるなら頼む』
書き終わり、両手を作業台へおいた。
頭の奥が重かった。
頭の中で、人の声が引っかかっていた。言葉になる前に遠ざかり、だれの声かもわからない。
「一度、休む」
ジョーンはライへ伝えた。
「ケーブルはそのまま。抜くなら、俺が書いた停止手順から」
彼は作業椅子へ腰を下ろした。
リーヌ、と、内側へ呼びかけてみる。
返事はなかった。
頼んだからといって、いつも出てきてくれるわけではない。
ジョーンは目を閉じ、硬い背もたれに頭を預けた。
指には、ケーブルの凹凸がまだ残っていた。
* * *
リーヌは眼鏡を探した。
伸ばした左手に、ケースがふれる。
「ここ。さっき、袋から出しておいた」
ライの声がした。
眼鏡をかけると、金属の作業台と、その上で光っている端末が見えた。
見覚えのない部屋だった。
紙の記憶帳を開き、次に、端末の伝言を読む。
伝言で、ライとここへ来たとわかった。
黄色い床の線を歩いた感覚は、すこしだけ残っていた。いつのものかは、まだわからない。
「どのくらい、休んでいた?」
「五分くらい。ジョーンが、目を閉じてから」
「わかった。ありがとう」
リーヌは目次を開いた。
「略号、読めそうか?」
「旧軍の分類ね。知らないものもあるから、辞書と比べてみる」
リーヌはライへ答え、読めたものだけに意味を書き足した。
暗号化された資料には、今はふれない。
先に、コピーできた点検記録をたしかめる。
外部指令。
現場保守。
操縦者接続。
最後の語を見て、リーヌは手を止めた。
通信設備の点検に、操縦者の項目がある。
「ここ、昔は軍用機をつないでいたみたい」
「整備庫の作業機か?」
「それかもしれない。まだ、対応する機体番号が読めない」
指で画面を送ると、埋もれていた見出しが現れた。
JEANNE。
その文字列が、照明の白い光に重なる。
その下の行へ目を動かすより先に、作業台の端で、なにかが短く鳴った。
リーヌは音のほうを見た。
接続パネルにはめ込まれた、小さなユニットが緑に光っていた。さっきまでは、暗かったランプだ。
画面の隅で、表示が変わった。
『近距離照合、開始』
首のつけ根に、細い熱が走った。
リーヌは左手を伸ばし、そこをおさえた。
指の下に、傷も、熱い金属もない。
それなのに、体の内側から、もう一度、強くおされたような感触があった。
「リーヌ?」
ライが呼んだ。
声は聞こえていた。返事をしようとした。
口の中で、言葉の順番がほどけた。
端末に、短い一行が増える。
『応答を確認』
ライもリーヌも、なにも送っていない。なにを返事として受け取ったのか。
自分は、まだなにも――。
* * *
フィルは、椅子の上で体を丸めた。
首が痛い。
まぶたを開けると、床の四角い光が見えた。靴の先。長いケーブル。灰色の机。
いつもの部屋ではない。
眼鏡を外し、膝へおいた。はっきりした床の模様を、右の指でなぞる。
足の裏へ、床の振動が伝わってくる。部屋を見回すより先に、フィルはそちらへ気を向けた。
とん、とん、とん。
しばらく間が空き、もう一度。
左側で、人の口が動いている。
フィルはそちらへ右耳を向けた。
「フィル。俺だ、ライだ。わかるか」
今度は聞こえた。
フィルはうなずく。
「ぼく、この揺れ方、知ってる」
ライは椅子のそばに屈んだ。
「どれ?」
「床が、さっきと違う」
また、三つ。
最後の一つだけ、すこし遅れている。
フィルは右の指を床へ向けた。
「足の音。こっちへ来る」
ライが携帯計器を床へ当てた。
表示の線が跳ねる。
入口のほうで、金属を引きずる音がした。
ライは顔を上げた。
「立てるか。ここを出よう」
机の脇のケーブルを外そうとした、そのとき。
サーバー室の扉に、四本の脚が見えた。
「機材庫のやつだ」
ライがいった。
体の低い作業機が、入口側の通路を塞いでいる。前部についた細い管が、ゆっくり室内へ向いた。
フィルは、椅子から降りようとした。
脚がもつれた。
「ライ」
赤い灯が、靴の先から膝へ滑る。
名前をもう一度呼ぶ前に、ライの腕が体へ回った。
椅子ごと、机の陰へ引かれる。
乾いた音がした。
壁に、穴が三つ開いた。
* * *
左手が、作業台の縁を掴んでいる。
震えていた。
彼女はその手を離し、左腕を体の前へ出した。銃口とライの間へ、肩を入れる。
ライが椅子の背を掴んだまま、息を切らしていた。
「アジー、か」
「右の蓋。逃げられる?」
「入口までつながってる」
アジーは右側の床のハッチを見た。入口へ戻れるなら、そこへライを逃がす。
アジーは腰のアシストフレームを締め直した。右手で作業台の脚へ触れ、キャスターのストッパーを二つとも外す。
作業機が、また撃った。
作業台の端から、金属片が飛んだ。
左の前腕を、熱い線が擦った。
アジーは腕を引かず、右手で台を押し出した。装具の駆動音が上がり、靴底が床を滑る。
腰を落とす。
車輪に乗った台の角を扉へ向け、その端を持ち上げる。
分厚い天板が傾き、ラックを支える台へぶつかった。
重い音が、室内を満たす。
アジーの膝が、床にふれた。
扉の向こうから飛んできたものが、天板を叩く。表面の塗装が弾け、跳ねた破片が壁へ当たった。
「アタシが塞ぐ。ライ、下の通路へ」
ライが動く。
アジーは左腕を見る。
袖に、血が滲んでいた。指は動く。だが、しっかり握ろうとすると、肘の内側まで痛みが走った。
無理に握り込まず、腕を胸へ寄せる。
「ライ、急いで。台が、長くもたない」
アジーは傷から、削れた天板へ目を戻した。
銃口のついた作業機が、一歩、室内へ進む。
天板の端から、脚の先が見えた。
四本の脚。前の二本に、体重が移る。
作業台の下から、整備用ケーブルを引き出した。カバーはやわらかいが、中の線は強く引いても切れない。
片方の端は、ラックの根元に留めてあった。
余った輪を引き出し、扉の内側へ投げる。
最初の脚が踏んだ。
次の脚が、輪の中へ入る。
アジーはケーブルを台の脚へ回し、右手で強く引いた。
作業機の前脚が寄る。
後脚が床を掻き、銃口が下がった。
床に火花が散る。
アジーの装具が、警告音を出した。
これ以上、引き続けられない。
彼女はケーブルを台の脚の留め具へ噛ませ、手を放した。
大きな機体が傾き、天板にぶつかった。
「端末も持ってきて!」
ライが床のハッチの脇から呼ぶ。
アジーは作業用タブレットのケーブルを抜いた。保存完了の表示が見える。
その下に、時刻と用件の欄。
記憶帳を端末と重ねて拾う。椅子に落ちた眼鏡もケースへ収め、バッグに押し込んだ。
右手の親指で、伝言欄を開く。
『床下から入口へ逃げる。ライといっしょ。左腕に傷。――アジー』
書いて、保存する。
その短い間に、作業台がもう一度鳴った。
アジーは袋を肩へかけ、床のハッチへ体を寄せた。
先に降りたライが、下から手を上げる。
縁には、彼の作業用トランシーバーがおかれていた。ケーブルはまだ、作業台の端子へ続いている。
端末と記憶帳をライへ渡す。装具のベルトを緩め、体に寄せて折りたたんだ。これで狭いハッチを通れる。
床のハッチの縁で、スピーカーが短く鳴った。
作業用トランシーバーから、人の声が流れる。
『被験個体の照合を確認。回収班を出せ』
アジーは、声のほうへ顔を向けた。
床のハッチの下から、ライが呼ぶ。
「来い。今のうちだ」
彼女は通信器のケーブルを抜き、本体を袋へ押し込んだ。返事の代わりに、足を下ろす。
梯子の段をたしかめ、狭い通路へ降りる。
ライが蓋を引いた。
最後に見えたのは、赤く光る、作業機の前部だった。
床下では、二人が並ぶことはできなかった。
ライが先を進み、アジーはその靴底を追った。携帯ライトの光が、低い天井とケーブルを照らしている。
上から、金属を擦る音がする。
作業機は、まだ動いている。
アジーは右手で床を押し、膝を寄せた。
左腕は痛んだ。腰の枠が天井へ当たり、体を低くし直す。
勝てなくても、ここを出ればいい。
頭の中でくり返し、また一歩ぶん進む。
ライがふり返り、端末を戻してくれた。
「これ、持てるか。俺は先に、入口の蓋を開ける」
「持てる。先に行って」
アジーは右の腕へ、端末と記憶帳を抱えた。
狭い通路を、腰と膝で進む。
首の奥が、まだ熱い。
さっきの声が、呼吸の隙間に入り込んでくる。
回収班。
あの声は、だれを連れ戻そうとしているのか。考え始めると手が止まりそうで、アジーは前を見た。
目の前の靴。床。配線。
次に、手をおくところ。
けれど、光に浮いた靴の形が、ぼやけ始めた。
握っているものを、落としてはいけない。
それだけを残そうとして、右腕を強く曲げた。
* * *
レティは、暗いところにいた。
顔のすぐ前に、埃のついた配線がある。
左腕が痛い。
腕を動かすと、濡れた袖が皮膚へ貼りついた。
息がうまく吸えない。腰にも胸にも硬いものがふれている。立とうとすると天井に頭が当たり、短い声が漏れた。
「止まって」
前のほうで、ライの声がした。
靴底が、こちらへ向く。
「今、だれが出てる?」
「私。レティ」
自分の名前が、ひどく小さく聞こえた。
レティが最後におぼえているのは、自宅の机だった。
冷蔵庫へ紙を貼り、仕事へ行こうと決めた。そのあとのことが、なにも思い出せない。
「ここは床下の通路だ。入口へ戻ってる。うしろに、こっちを撃ってきた作業機がいる」
「撃って……」
「アジーが時間を作ってくれた。左腕に傷がある。そこ、床につけるな」
上で、なにかが鳴った。
レティは肩をすくめた。
動くな、とだれかにいわれた気がした。
いつ。どこで。
思い出そうとした途端、首の奥が熱くなり、目の前の配線まで遠ざかる。
「レティ」
ライの靴が、まだそこにあった。
「あとすこしで梯子だ。俺が先に上がって、手を貸す。顔を上げなくていい。膝で進めるか」
彼の問いに、レティはすぐには答えられなかった。
だれか、代わって。
願いが、息より先に浮かんだ。
アジーなら。ジョーンなら。
私より、こんなときになにをすればいいのかわかるはずだ。
けれど、目の前には配線と、ライの靴しかなかった。
腕の中で、端末の角が腹に当たっている。
落とさないように抱え直すと、画面が点いた。
『床下から入口へ逃げる。ライといっしょ。左腕に傷。――アジー』
撃たれた理由も、傷のひどさも、書いていない。
でも、行く場所はわかる。入口へ。
朝、自分が作った欄に、アジーが残してくれた。
レティは端末と記憶帳を、工具バッグの口へ押し込んだ。右手の親指に、青い絵の具が残っている。爪の端から、すこし剝がれていた。
朝と同じ指。
傷のある左腕も、動かせる右腕も、ここにある。
「……進める」
いってから、膝を動かした。
床の継ぎ目が、作業着越しに当たる。
右の手のひらを前へおく。体重を移す。左の膝を引き寄せる。
ひとつずつなら、できた。
ライが進み、靴がすこし遠ざかる。
レティも、そのぶんだけ進んだ。
息は苦しかった。腕は痛かった。上の物音がするたび、膝が止まった。
そのたびに、入口へ、と画面の文字を思い出した。
梯子の上から、光が差した。
白い、街の照明だった。
ライが先に出て、工具バッグを引き上げる。レティは右手で最初の段を掴んだ。
足をおく。
腰の枠が壁へ擦れる。
次の段へ。
途中で膝が震え、靴底が滑った。
「右の段、もう一度。そこにおいて」
ライの手が、肩を支えた。
引いてもらうだけでは、体がハッチの縁につかえてしまう。
レティは歯を食いしばり、足をおき直した。
最後の段を踏む。
顔に、通路の風が当たった。
床へ膝が乗ったとき、ライが腰の枠を掴んでくれた。
二人で体を引き出し、蓋を閉める。
金属の留め具が、乾いた音を立てた。
建物の外では、配送車が走っていた。
向かいの屋台から、湯気が上がる。
信号が変わり、仕事着の人たちが道を渡っていく。
だれも、レティを見ていなかった。
ライは扉から離れた柱の陰へ彼女を連れていき、腰と腕の装具を外した。袖を傷から浮かせ、清潔な布を当てる。
レティは柱へ背をつけた。
目の前は普通の街だ。それでも、足元が落ち着かなかった。
「まだ、あの下にいるみたい」
レティはライへ、かすれた声を出した。
「当局に知らせる。まず、そこまで行こう。手当ても要る」
ライが端末で、仕事の許可を出した画面を開く。バッグから通信器を出し、街の回線につなぎ直した。
レティはうなずいた。
アジーの伝言はある。でも、それ以外は腕の痛みと、床下から出てきたことしかわからない。
「途中のこと、おぼえてないの。撃たれたところも見てない。どう話せばいい?」
「俺が見てたところは話せる。端末にも記録がある」
ライは言い、彼女の顔を見た。
「今の腕の痛みは、レティが伝えてくれ」
痛みなら、わかる。
レティは左腕を見下ろした。布の隅が、ゆっくり赤くなっている。
右手で、工具バッグの口を開く。
記憶帳は端のほうが折れていたが、濡れてはいなかった。
ライに時刻を教えてもらい、朝の続きへ書く。
『十時三十八分。レティ。旧サーバーの建物を出た。左腕に傷。ライと当局へ行く。』
名前を書くところで、ペンが一度止まった。
ライは彼女の書く文字を見つめ、なにかを言いかけた。
「ほかにも、なにかあった?」
レティが尋ねると、彼は閉じた扉へ目を向けた。
「通信器から、声がした。出る直前に」
「どんな声?」
「人の声だ。被験個体の照合をたしかめた、回収班を出せって」
被験個体。
ペン先が紙へ沈み、小さな穴を開けた。
レティはその言葉を、聞いていなかった。
なのに、口の中が乾いた。
建物もライの画面も見えている。でも、目を閉じたら、別の場所で開いてしまう気がした。
ライの通信器が、短く鳴る。
レティの指が跳ねた。
「通報窓口につながった」
彼は画面を彼女へ見せた。
市の紋章。その下に、『現在地を確認中』。
「歩けるか」
レティは記憶帳を閉じ、袋へ戻した。
朝、冷蔵庫に残っていた材料の表示。縫い直された手袋。逃げる方向を書いた伝言。
知らない間にも、みんなはこの体で暮らし、次に起きる人を助けていた。手袋も伝言も、その跡だった。
今は、私がここにいる。
「歩く」
柱から背を離す。
ライがすぐとなりで、歩幅を小さくした。
レティは靴の先を見た。床下の埃と、こぼれた血がついていた。
一歩。
その足が地面を踏むところを、レティは見ていた。
昨日、なにを買ったのかは、まだ知らない。
けれど今から、助けを求めに行く。
『被験個体』という言葉を思い出すと、背中が冷えた。連れ戻したがっている人にも、そう呼ばれるのだろうか。
どうか、私の名前で呼んでほしい。
被験個体ではなく。
レティはその願いを口にする代わりに、もう一歩、街のほうへ進んだ。




