プロローグ 七つの鎧
「和平協議は予定どおり進んでいます。両政府は――」
声が、そこで切れた。
月面の基地で、管制官は通信モニターを見上げた。地球とつながっているはずの青いランプが、灰色に変わっている。
この基地は、月の軌道を動かすためのものだ。
仲間たちの顔は明るかったが、大声で喜ぶ人はいなかった。十八年も続いた戦争だ。終わると聞かされた翌日に、また死んだ人の名を読み上げたこともある。
それでも今朝は、休みをもらうにはどう書けばいいか、尋ねる人がいた。
管制官も、仕事に入る前に、娘から届いた動画を二度見た。
『海って、どこまでが海なの?』
住まいのバスタブで、娘は両手をいっぱいに広げていた。
平和になったら、地球へ連れていく。約束してから、もう二年になる。
「地球から返事は?」
「ありません。地球側の管制へ、別の回線で呼びかけます」
となりの席の青年が、端末を叩いた。
その指が止まった。
「整備棟に、なにか入ってきます」
壁の監視モニターが切り替わる。
大きく開いた入口の奥から、黒い鎧が現れた。
肩は整備棟の二階通路より高い。装甲のつなぎ目に白い光が走った。細い腰の下で、二本の脚が床を踏みしめる。
警備機が、その前へ出た。
短い砲身が光る。
黒い機体が左腕を上げた。その前に、薄い青白い膜のようなものがひろがる。
弾はそこで曲がり、整備棟の壁を砕いた。
「いま、弾が……」
青年が言い終える前に、青白い膜が薄くなる。
今度は黒い機体の右腕が上がった。砲の根元へ、白い光が集まる。
モニターが真っ白になった。
遅れて床がびりびりと震え、青年の机からマグカップが落ちた。
映像が戻る。
警備機は胸の装甲を抉られ、横倒しになっていた。その後ろの厚い壁にも、穴があいている。
「軍の識別コードが出ました。機体の名は――」
青年はモニターを見直した。
「ジャンヌ」
管制官も、その名は聞いていた。特殊装甲機兵。まだ実戦には出ていないはずだ。居場所も性能も、知らされていなかった。
画面の端で、警備機の脱出用ハッチが開きかけた。隙間から、中の兵士の白い手袋が出る。だが、体を引き出すところまでは動かなかった。
黒い足が、その前を通り過ぎた。
「ここを閉鎖して。全員、安全区画へ」
管制官は、非常用の操作パネルを開いた。
閉鎖のボタンを押しても、パネルは操作待ちのままだった。
施設を結ぶ地図に、赤い警告が重なった。西側の電力基地。月面の推進施設。軌道上の中継局。
「ほかの施設にも、同じ機体がいます」
青年の指先で、ランプが一つ、二つと点いた。
「……七体。ここだけじゃない」
黒い機体の後ろから、銃を持った兵士たちが入ってきた。
一人が、施設を動かすための端子に携帯端末をつなぐ。直後、管制パネルに、軍へ操作権を渡せという命令が届いた。
ジャンヌは、その兵士と、閉じかけた避難用の扉の間へ立った。
胸に並ぶ十五のランプが、順に点いていく。
管制パネルに、軍からの命令が出た。
認証、有効。
施設の操作権、移管。
「こちらは許可してない。だれが操作権を渡したの?」
だれも答えなかった。
通信器が鳴る。
和平会議の声とは違う。感情のない、平らな声だった。
『両政府は要求を拒否した。第一段階を実行せよ』
月のあちこちにある推進設備が、動き始める。宇宙に浮かぶ電力基地と中継局も、それに続いた。
地球を囲む、月の軌道。
そこへ、細い赤線が重なった。
月の進む道を、コンピューターが赤線で描いていた。線は何年も先へ伸び、やがて地球の周りを外れた。
「中止要求を送って」
「送っています」
青年は、何度も同じ操作をくり返した。
「ジャンヌの操縦者からも、停止要求が来ています」
青年が、別々に届いた信号を並べる。
「三つとも、同じコックピットからです。時刻も同じ。でも、文面も送信元の信号も違う」
「乗っているのは?」
管制官が尋ねると、青年は搭乗者の欄を見た。
「……一人です」
軍の回線に、息の音が割り込む。
『……止めてくれ』
若い男の声だった。
『こんな命令は、聞いてない』
管制官が答えようとしたとき、受信欄に短い文が出た。
外部指令を優先。
男の声が切れる。
十五のランプは、一つも消えなかった。
黒い機体の砲口が、避難用の扉へ向く。
軍から、施設を無理に動かす信号も届き続けていた。
明かりがちらつく。
窓の向こうで、整備棟へ続く隔壁が閉じていった。逃げ道を示すランプも、途中で消える。
青年が椅子を離れ、床の点検ハッチを引き上げた。
「ここからとなりの区画へ行けます。早く」
管制官は、個人端末を掴んだ。
指がふれた画面で、娘の動画がまた動きだす。
『お母さんも、いっしょに入れる?』
小さなバスタブの中で、娘がすこしだけ横へずれた。
管制官は答えかけ、唇を噛んだ。
青年に続いて、床下へ体を滑り込ませる。後ろで隔壁が閉まった。狭い点検通路に、娘のかすかな声だけが残った。
* * *
数週間後、地球の港で、少年は昼の空に星を見つけた。
「あれ、船?」
母親は答えなかった。
船着き場は、もう海に沈んでいた。航路が乱れ、戻る船は何日も遅れている。避難所へ向かう人たちが、荷物を抱えて浅い水の中を歩いていた。
空の光が、すこしずつ形を持ち始めた。
大きなリングのようなものだ。
輪の一部が、欠けている。
外壁の窓がいくつも光り、周りから、赤い尾を引く破片が離れていった。
人が暮らしていた植民ステーション。その一部が、落ちてくる。
母親が、少年の手を掴んだ。
走れ、という声が、警報に埋もれる。
避難所の入口で、少年は靴を片方なくした。水に流れた靴へふり向く。母親は、手を離してくれなかった。
海の向こうで、雲が下から照らされた。
閉まりかけた扉の隙間に、白い光が差し込む。
少年は母親の服へ顔を押しつけた。濡れた布の向こうで、心臓がどくどくと鳴っている。
扉が閉じたあと、床が突き上がった。
泣き声と、荷物が崩れる音。
母親の腕が、少年の頭を抱えた。
それからしばらく、自分の名前を呼ぶ声しか、聞きとれなかった。
推進設備を奪い返し、月がまた、安定した軌道を巡り始めたころには、地球のいくつもの港が失われていた。
壊れた船や建物の破片は、そのあとも宇宙から降り続けた。
海の色をおぼえている人たちが、子どもに昔の写真を見せるようになった。
七体のジャンヌがどこへ消えたのかは、わからなかった。
* * *
三百年後。
地球のシールド都市の下で、冷えた金属に、新しい工具の傷がついていた。
地下の格納庫。天井から、細い作業灯が垂れている。
その光の下に、黒い鎧が横たわっていた。
胸の装甲が一部外され、取り替えたパーツだけが銀色に見えた。柱で支えた脚の周りに、古いパーツと新しいケーブルが分けておかれている。
ここまで直すのに、数年かかった。
「補助電源、安定しました」
作業員が、端末から顔を上げる。
「認証ユニットも正常です。旧保守ネットワークへ、照合要求を送れます」
白衣の男は答えず、胸に開いたコックピットを覗き込んだ。
シートは一つ。
頭を支える枕には、古い革が残っていた。指先で押すと、乾いた表面に、細かなひびが入る。
胸で、十五のランプが点いた。
ケーブルをつなぎ直した胸の奥から、機械の声が流れる。
『自己診断、終了』
男は、枕から指を離した。
『神経分散制御、待機』
すこし間をおいて、古い装置が告げた。
『接続系統――十五』
作業員が、別のモニターを見る。
「操縦者の照合先からは、まだ返事がありません」
「照合を続けろ」
男は、シートの縁に手をおいた。
「応答があったら、私へ回せ」
装甲の中で、冷却液が流れ始める。
十五の接続欄は、どれも正常を示す光をともしていた。
その下にある、一人分の名前を書く欄だけが、白く空いていた。




