第8話「宵を守る者」
エル爺の問いかけに、クレハの足が止まった。
右手は腰元へ添えられたまま、いつでも鉄針を抜ける位置にある。
そのわずかな変化を見て、アゼルも足を止めた。ガレスとリアは何を問われたのか分からないらしく、二人の間で視線を往復させている。
「……どこで、その名を知ったの」
クレハの声から、先ほどまでの柔らかさが消えていた。
「長生きすると、色々な噂が耳に入ってくるんじゃ」
エル爺は立ち止まったものの、クレハを振り返らなかった。道の先に見える村を眺めながら、いつもと変わらない調子で髭を撫でている。
「戦や災害の影に現れ、被害と死者を最小限に抑える。名を残さず、働きを誇らず、事が済めば消えてしまう。騎士団とは違うやり方で、世の平穏を守っておる者たち――そういう噂じゃった」
「噂だけで、私が宵守だと?」
「姿を隠す技、鉄針の扱い、人を見張る時の距離。それだけなら似た者もおるじゃろう。じゃが、おぬしは黒狼どもの内情を探りながら、自分の働きを誰にも明かそうとせなんだ」
そこでエル爺は、ようやくクレハを振り返った。
「誰にも知られず、誰かを生かして帰す。宵守の流儀と、よう似ておる」
クレハの指先が、ほんのわずかに鉄針から離れた。
「宵守って、何だ?」
アゼルが尋ねると、ガレスも大きくうなずいた。
「俺も聞いたことがねえ。どこかの騎士団か?」
「騎士団ではない。国にも属しておらん」
「じゃあ、ギルドみたいなものですか?」
「それとも違うのう」
エル爺は杖を肩へ担ぎ、少しだけ考えるように空を見上げた。
「騎士は国と法を守る。宵守は、それだけでは届かぬ場所に手を伸ばす。国同士の都合や、表立って動けば争いになるような場所でのう」
「国に属してないのに、そんなことをするのか?」
「国が動かぬからこそ、動かねばならぬ時もある」
エル爺の口調は穏やかだった。
けれど、そこにいつもの冗談めいた響きはなかった。
「国が耳を貸さぬ災いに、国へ逆らってでも立ち向かったことがあるとも聞く。正しいと思ったものを守るためにな」
アゼルは目を細めた。
噂を語っているだけにしては、エル爺の言葉には迷いがなかった。だが、尋ねたところで素直に話すとも思えない。
「閉じた組織じゃ。内の結びつきは強く、規律も厳しい。何も語らぬゆえ、外から見れば冷たく映ることもあるじゃろう」
エル爺は、クレハへ静かに目を向けた。
「じゃが、守ろうとしておるものまで冷たいわけではない。あやつらは、あやつらなりの正しさで動いておる」
クレハは何も答えなかった。
ただ、腰元にあった右手を下ろした。
肩からも、張りつめていたものが少しだけ抜けたようにアゼルには見えた。
「……そういうふうに見る人がいるとは思わなかった」
「知られるために働く連中ではないからの」
「じゃあ、クレハは俺たちを守ってたのか?」
ガレスが尋ねると、クレハはすぐに首を横へ振った。
「観察していたの」
「そこは頑なだな!」
「事実だから」
「何を観察してたんだ?」
アゼルが尋ねる。
クレハは一度エル爺を見た。エル爺は何も言わず、答えを任せるように目を閉じる。
「アルト・ヴァイスの弟子が、何を見て、何を選ぶのか」
クレハはアゼルをまっすぐ見つめた。
「それを記録するのが、私の任務」
「俺の?」
「ええ」
「いつからだ?」
「レイヴェルを出る前から」
「そんな前から見られてたのか……」
アゼルは自分の服を見下ろした。
別に見られて困ることをした覚えはない。だが、知らないところで行動を記録されていたと聞くと、何とも落ち着かない。
「何を書いたんだ?」
「言えない」
「そこもか」
「任務の内容を話すわけにはいかないもの」
「大丈夫ですよ、アゼルさん」
リアが慰めるように言った。
「悪いことは、あまり書かれていないと思います」
「あまり?」
「全部とは言い切れませんから……」
「リアまで何だよ」
ガレスが腹を抱えて笑う。
「最初の一行は決まったな! 変わったシーフを発見、だ!」
「それはお前も同じだろ」
「俺は剣士だ!」
「変わった剣士だ」
「なら仕方ねえ!」
「納得するのかよ」
張りつめていた空気が、少しずつほどけていく。
クレハは三人のやり取りを眺めていた。呆れているようにも見えたが、先ほどまでの鋭い警戒はもうない。
「それで」
ガレスが笑いを収め、クレハを見る。
「宵守なら、俺たちの味方なのか?」
「味方か敵か、すぐ二つに分けたがるのう」
答えたのはエル爺だった。
「少なくとも、今ここにおる娘は、おぬしらと同じものを守った。それでは足りんか?」
「……いや。足りる」
「なら、今はそれでよい」
エル爺は杖の先で、アゼルの肩を軽く小突いた。
「おぬしらが今見ておるのは、宵守という組織ではなく、この娘じゃろう」
「痛いな。分かってるよ」
アゼルは肩をさすりながら、クレハへ向き直った。
「宵守がどういう連中なのか、俺にはまだ分からない」
「ええ」
「でも、お前がリアを助けたのは見た」
クレハの視線がリアへ動く。
「あれも任務だったのか?」
「……観察対象を失うわけにはいかなかったから」
「俺はあそこにいたぞ」
「あなた一人になれば、その後の行動に影響するでしょう」
「だったら、木の上から見てればよかった」
クレハが言葉を止めた。
「黒狼の根城へ入って、鉄針を使って、リアを助ける必要まではなかったはずだ」
アゼルは、クレハの返事を待った。
彼女はすぐに答えなかった。
やがて、わずかに眉を寄せる。
「……見過ごす方が、任務の妨げになると判断したの」
「そういうことにしておくよ」
「何、その言い方」
「別に」
クレハは納得していない様子だったが、それ以上は追及しなかった。
アゼルにも、彼女が何を考えていたのかは分からない。
ただ、任務という言葉に押し込めるには、少し回りくどい言い訳だと思った。
「任務は大事じゃ」
エル爺が、独り言のように言った。
「じゃが、自分の目で見たものも忘れるでないぞ」
クレハがエル爺を見る。
「忠告?」
「年寄りのお節介じゃよ」
「……変わった人ね」
「百三十七年も生きておれば、色々な者に会うからの」
エル爺はそれだけ言うと、村へ向かって歩き出した。
ガレスとリアも、その後に続く。
アゼルも歩き出そうとして、まだその場に立っているクレハを振り返った。
「行かないのか?」
「……行ってもいいの?」
「何で今さら聞くんだよ」
「私が宵守だと知ったでしょう」
「知ったのは名前だけだ。結局、何をする組織なのかもよく分かってない」
「警戒しないの?」
「してるよ」
アゼルは迷わず答えた。
「だから、見えるところを歩け。木の上に隠れられるより、その方がいい」
クレハは、ふっと肩の力を抜いた。
「それに、見届けるんだろ?」
「ええ。任務が終わったわけではないから」
「なら来ればいい」
「まだ、仲間になったわけではないけれど」
「それもさっき聞いた」
アゼルは先を歩く三人を追って歩き出した。
少し遅れて、もう一つの足音が続く。
やがてクレハはアゼルへ追いつき、今度は半歩離れた隣を歩いた。
まだ近いとは言えない。
それでも、木の上から見下ろされていた時よりは、ずっと話しやすい距離だった。
夕陽に照らされた街道へ、五つの影が長く伸びる。
その先には、リーネ村の明かりが見えていた。




