第6話「距離をゼロに」
アゼルは、拾い上げた留め具を握ったまま走り出した。
「待て、アゼル!」
ガレスの声が背中を追う。
待てるはずがなかった。
山へ続く足跡は二人分。その間に、靴底を引きずったような細い跡がある。リアが自分で歩かされているのか、気を失って運ばれているのかまでは分からない。
どちらでも同じだった。
あの二人が仲間のいる場所へ戻る前に、追いつかなければならない。
村の柵を越え、斜面へ踏み込む。乾いた土には、深く沈んだ踵の跡が残っていた。折れた草も、削れた木の根も、逃げた盗賊たちが急いでいたことを物語っている。
「リア!」
返事はない。
木々の間から戻ってきたのは、自分の声だけだった。
もっと早く気づけた。
井戸へ一人で行かせなければ。逃げた二人が本当に山へ戻ったのか確かめていれば。怪我人の手当てに気を取られても、周囲へ目を配っていれば。
リアは自分たちを信じて、ここまでついてきた。
守ると口にした覚えはない。それでも、守らなくていい理由にはならなかった。
考えるほど脚へ力が入る。
背後の足音が遠ざかっていく。ガレスとエル爺を置き去りにしかけていると分かっても、速度を落とせなかった。
その肩を、後ろから伸びた手がつかんだ。
「止まれ!」
振り払おうとしたが、ガレスの腕はびくともしない。大剣を背負ったまま、息を切らして追いついてきたらしい。
「離せ。足跡が消える」
「その前に、お前が消えるぞ」
「こうしてる間にも、あいつが何されてるか分からねえだろ!」
怒鳴った声に、枝から鳥が飛び立った。
ガレスは手を離さない。
「だから三人で行くんだ。お前一人で突っ込んで捕まったら、誰がリアを助ける」
「捕まらねえ」
「今のお前は、罠が口を開けてても踏む」
言い返そうとして、言葉が詰まった。
足跡だけを見て走っていた。木の上も、斜面の陰も、ほとんど見ていない。自分が追う側だから狙われないなどという保証は、どこにもなかった。
少し遅れて、エル爺が杖をつきながら登ってくる。息一つ乱していないのが、今は妙に腹立たしい。
「若者はせっかちでいかん。山道は逃げぬぞ」
「リアは山道じゃない」
「分かっておる。じゃから、取り戻しに行く」
エル爺は杖の先で地面を示した。
「二人とも右脚を傷めておる。片方は村でガレスに飛ばされた男じゃろう。歩幅が狭くなっておるから、そう遠くまでは行けん」
よく見れば、足跡に沿って小さな血の跡が続いていた。
焦りに塞がれて、アゼルはそれさえ見落としていた。
「急ぐからこそ、三人で行くぞ」
ガレスの言葉に、アゼルは一度だけ目を閉じた。手の中の留め具が、まだ痛いほど食い込んでいる。
「……分かった。急ぐぞ」
「最初からそのつもりだ」
ガレスが先に斜面を上がる。
アゼルは村の方角を振り返った。木々の隙間に、屋根が小さく見える。助けた怪我人たちは、今もあの酒場にいる。
逃げた盗賊より怪我人を優先した。その選択まで間違いだったことにはしたくない。
なら、リアも助ける。
それで済む話だ。
三人は、血と足跡を追って山へ入った。
道はしだいに細くなり、地面を木の根が覆い始めた。途中で足跡は消えたが、折れた枝と苔を削った靴跡までは隠せていない。
アゼルは先頭を走った。
今度は足元だけを見ない。木の上、岩陰、茂みの奥へ視線を走らせながら進む。
その途中で一度だけ、誰かの視線を感じた。
立ち止まり、振り返る。
揺れているのは枝葉だけだった。
「どうした?」
「……いや、何でもない」
気のせいだと切り捨て、再び走り出す。
やがて斜面の先に、黒ずんだ岩壁が見えた。
岩壁には、古い坑道の入口が口を開けている。朽ちた支柱には、獣の牙を思わせる黒い印が塗られていた。
「黒狼盗賊団のアジトか」
ガレスが大剣の柄へ手をかける。だが、鞘から抜こうとはしなかった。
入口の前に見張りはいない。人の声も聞こえなかった。
アゼルは身を低くし、周囲を確かめた。踏み固められた地面。岩陰へ押し込まれた空樽。坑道の上へ回り込める細い獣道。
静かすぎる。
追ってくると分かっていて、待ち構えている。
罠だ。
分かっていても、足を止める気にはなれなかった。
「正面から入る」
「罠だぞ」
「だろうな」
ガレスが眉を寄せる。
「分かってる奴の顔じゃねえぞ、それは」
「俺が先頭に立つ。隠れてる奴が出てきたら、ガレスは最後尾で入口側を抑えろ。エル爺は中の気配を探ってくれ。リアの居場所が分かったら、俺がそこまで突っ切る」
「わしだけ注文が多くないかの」
「一番いろいろできるだろ」
「それはそうじゃ」
エル爺が得意そうに髭を撫でる。
いつものやり取りが、張り詰めた胸の奥にわずかな隙間を作った。
アゼルを先頭にエル爺が続き、ガレスが最後尾につく。
罠を避けて回り道を探している時間はない。食いついてきたところを力ずくで破り、最短でリアのもとまで突き進む。
三人は坑道へ踏み込んだ。
中は冷えていた。濡れた岩と古い油の匂いがする。壁に掛けられた松明が、奥へ向かって二つ、三つと続いている。
アゼルは足を止めず、暗がりへ向かって声を張った。
「リア!」
暗がりの向こうで笑い声がした。
「来たぞ。やっぱり、あの娘で正解だったな」
左右の横穴から男たちが現れた。
背後でも足音が重なる。入口の外に潜んでいた者まで姿を見せた。
最後尾のガレスが即座に振り返り、背から鞘ごとの大剣を外して横に構える。狭い入口側の通路を、その巨体で塞いだ。
十人ほどの男たちが、三人を前後から挟み込む。
その中で、エル爺だけは盗賊たちではなく、奥へ続く暗がりに意識を向けていた。
中央に立つ大柄な男は、狼の毛皮を肩へ掛けている。手には幅広の鉈があった。
「左頬に傷のある男を捜してるそうだな」
「リアはどこだ」
「先に答えるのはお前だ。あの男はどこへ行った」
「知ってたら、こんな山まで捜しに来てねえよ」
男の口元から笑いが消えた。
「仲間じゃないって言うのか」
「会ったら酒代を返してもらう程度には知ってる」
「ふざけてんのか!」
鉈の切っ先が上がる。
周囲の盗賊たちも一斉に武器を構えた。
リアの姿はない。声も聞こえない。
エル爺が杖の石突きで地面を叩き、わずかに目を閉じた。
「……ここにはおらん。もっと奥じゃ」
もっと奥だ。
アゼルが一歩出ると、ガレスの鞘ごとの大剣が横から行く手を塞いだ。
「お前は奥へ行け」
「だけど――」
「ここは俺の距離だ」
ガレスは鞘ごとの大剣を持ち上げ、狭い坑道いっぱいに構えた。右手は柄を握っている。それでも、刃を抜く気配はなかった。
「道を開ける。お前はリアを連れて戻れ」
エル爺もゆっくりと杖を構える。
「天井を落とすでないぞ。埋まった若者を掘り出すのは腰にくる」
「落とすのは賊だけにしておく!」
ガレスが踏み込んだ。
黒い鞘の金具と鉈がぶつかる。
凄まじい音が坑道を震わせ、周囲の盗賊たちが怯んだ。
刃はまだ、鞘の内側にある。それでも、狼の毛皮をまとった男は両腕で鉈を支え、どうにかその場に踏みとどまった。
エル爺の杖から放たれた風が松明を激しく揺らす。炎が大きく傾き、奥へ続く道だけが明るく浮かんだ。
「行け、アゼル!」
開いた隙間へ身体を滑り込ませる。
刃が肩口をかすめ、上着の布を裂いた。男達の脇を抜け、奥へ走る。
背後で、鋼と怒号が重なった。
◇
黒衣の女は、坑道の梁から部屋の中を見下ろしていた。
壁際に、少女が一人座らされている。両手を後ろで縛られ、口には布を噛まされていた。見張りは二人。入口の騒ぎへ気を取られ、何度も扉の方を見ている。
見つけた。
それで役目は終わりだった。
手を出すな。ただ見届けろ。
命じられた言葉は明確だった。
黒衣の女は音を立てず、梁の上で向きを変えた。
背後から縄の擦れる音がした。
少女は身をよじり、どうにか口の布をずらしている。
「……アゼルさん」
祈るような声だった。
黒衣の女の足が止まる。
外の坑道から、少女の名を呼ぶ若い男の声が響いた。やがて、激しく鋼のぶつかる音が続く。
見張りの一人が扉へ駆け寄り、わずかに開けた隙間から外を覗いた。
「まずい。こっちへ来るぞ」
「娘を連れていく。盾にすれば、あいつらも手を出せねえ」
もう一人がリアの腕をつかみ、乱暴に立たせた。
「やめてください!」
リアが身をよじる。男は苛立ったように舌打ちし、腰の剣を抜いた。
「大人しくしろ。傷つきたくなければな」
冷たい刃が、リアの首筋へ近づく。
黒衣の女の手が動いた。
考えるより先に、短剣ほどの鉄針が指を離れていた。
鉄針が男の手首へ突き立つ。
「ぐっ!」
剣が床へ落ちる。もう一人が頭上を振り仰いだ時には、黒衣の女は梁の上から消えていた。
男の背後へ降り立ち、喉元へ短剣の刃を添える。
「静かに」
低い声に、男の身体が固まった。
短剣の柄で顎を打ち、気を失った身体を床へ横たえる。手首を押さえていた男へ踏み込み、その首筋へ手刀を叩き込んだ。
黒衣の女は少女の前へ膝をつき、口を塞いでいた布を外した。
「声を出さないで」
「……誰ですか?」
「今は、助けに来た人。それで十分」
短剣が縄を切った。
◇
アゼルは坑道の奥を走った。
扉が三つある。最初の部屋は食料庫。次は寝床。三つ目へ手をかけたところで、中から扉が開いた。
反射的に短剣を構える。
「アゼルさん!」
飛び出してきたリアが、その胸へぶつかった。
受け止めた腕に、確かな重みがある。
リアだ。
生きている。
「怪我は?」
「ありません。少し手首が痛いだけで――」
「本当に?」
「はい」
「どこも斬られてないか。殴られてないか。立てるか」
「立っています」
「……そうだった」
ようやく息を吐けた。
胸の中で暴れ続けていたものが、急に行き場を失う。膝から力が抜けそうになり、アゼルは足へ力を入れ直した。
リアの後ろには、全身を黒い衣で包んだ女が立っていた。顔の下半分を布で隠し、片手には細身の短剣を持っている。
「お前が助けたのか」
「話は後」
女の視線が、アゼルの背後へ動く。
振り返る。
狼の毛皮を肩へ掛け、鉈を握った大男が、怒りに目を血走らせて迫っていた。
「一人、そっちへ抜けた!」
ガレスの声が坑道の奥から響く。
アゼルが短剣を構えるより早く、黒衣の女の手から鉄針が放たれる。鉄針が男の手の甲へ突き立つ。
「ぐぁっ!」
堪らず声が上がる。
アゼルは懐へ入り、男の手首をひねった。鉈を奪い、背中を蹴って通路へ押し戻す。
そこへ、追いついたガレスが鞘ごとの大剣を横殴りに叩き込んだ。
「おらぁ!」
盗賊団の頭目と思しき男は通路を転がり、動かなくなった。
ガレスの後ろから、エル爺も顔を出す。
「無事かの」
「はい。この方が助けてくださいました」
リアが黒衣の女を示す。
女は答えず、短剣を鞘へ戻した。
坑道の入口側から、まだ複数の足音が近づいてくる。
ガレスが大剣を構え直す。
「話は全部、こいつらを片づけてからだ」
「リア、俺たちの後ろにいろ」
「はい」
リアは疲れた顔をしていた。手首には赤い縄の跡も残っている。
それでも、自分の足でそこに立っている。
無事だった。
その事実がようやく胸の奥まで届いた。
張り詰めていたものがほどけていく。狭くなっていた視界が開き、盗賊たちの足音も、松明の位置も、仲間との距離も、再び一つずつ見えるようになった。
アゼルの口元に、いつもの笑みが戻る。
角から三人の盗賊が飛び出してきた。
先頭の男が剣を振り上げる。
アゼルに向かってガレスが叫んだ。
「さっきやった早いやつやれ!」
アゼルは身体を沈めかけて、何かを思い付いたように顔を上げた。
「リア! 格好いい技の名前考えて!」
「……え? えーっと……」
今にも斬りかかろうとしている盗賊と、返事を待つアゼルを、リアが慌てて見比べる。
「相手までの距離を盗んで、ゼロにするみたいだから……」
先頭の盗賊が目前まで迫った。
「……シフト・オブ・ゼロ!」
「採用!」
アゼルは低く腰を落とした。
そこからさらに身を沈め、左手の指先を地面につく。
額を地面すれすれまで下げると、右腕を真横へ、地面と平行に伸ばした。
その姿は、地を這うほど身を伏せ、片翼だけを広げた隼。次の瞬間には、獲物との距離さえ消し去ってしまいそうだった。
「――シフト・オブ・ゼロ」
声を置き去りにして、アゼルの姿が消えた。
一人目の剣が空を斬る。
アゼルはすでに、その男の横を抜けていた。二人目が振り向くより早く腰の短剣を盗み、柄頭で三人目の手首を打つ。
剣が落ちる。
盗賊たちの視線が、そこにいるはずのアゼルを追って揺れた。
一歩ごとに立つ場所が変わる。壁を蹴る音に振り返る。追いついたと思った時には、そこにはいない。十歩の距離が一瞬で消え、三人の隊列が内側から崩されていく。
「今だ、ガレス!」
「おう!」
アゼルが三人を一か所へ追い込む。
ガレスの黒い鞘が、その平らな面で三人まとめて薙ぎ払った。
男たちが壁際へ転がる。
「名前がつくと、さっきより速く見えるな!」
「見えるだけかよ!」
「今ので倒せたんだからいいだろ!」
残る盗賊たちが足を止めた。
エル爺が杖を向ける。
「さて、まだ続けるかの。わしの魔法にも、今からたいそう長い名を付けてやってもよいぞ」
「名前の長さで脅すな」
一人が剣を捨てた。
それを合図に、残る者たちも次々と武器を床へ置く。
坑道に残ったのは、倒れた男たちのうめき声と、荒い呼吸だけだった。
アゼルたちは盗賊の武器を集め、動ける者へ仲間を縛らせた。ガレスが縄を確かめ、エル爺は坑道の奥に捕らわれた者がいないか見て回る。
リアは手首をさすりながら、アゼルのそばに立っていた。
アゼルは握りしめたままだった留め具を差し出す。
「これ、落としてたぞ」
「ありがとうございます」
「悪かった」
リアの指が止まった。
「俺が見落とした。怪我人を助けることしか見てなくて、お前を一人にした」
「私は、自分で水を汲みに行きました」
「でも――」
「助けに来てくれました」
リアは留め具を受け取り、表面についた土を指で拭った。
「だから、次は一人で行かないようにします。アゼルさんも、一人で全部背負わないでください」
返す言葉が見つからなかった。
ガレスが横から大きな手を伸ばし、アゼルの背を叩く。
「だとよ」
「痛えな」
「聞こえてない顔してたからな」
「聞こえてる」
アゼルは留め具を付け直すリアを見てから、少し離れた場所へ目を向けた。
黒衣の女は坑道の壁際に立っている。いつでも立ち去れそうなのに、そこから動こうとはしない。
「リアを助けてくれて、ありがとう」
「あなたたちが正面で騒いだから、入りやすかっただけ」
「それでもだ」
女はわずかに視線を逸らした。
「で、お前は何者なんだ?」
しばらく答えはなかった。
松明の火が揺れ、黒い衣の裾へ細い影を落とす。
「……クレハ」
女はそれだけ告げた。
「クレハか。何でここにいた?」
「それは、今は言えない」
「じゃあ、何なら言える?」
クレハはアゼルを見た。次にリアを見て、最後に縛られた盗賊たちへ目を向ける。
「あなたたちを、しばらく見届ける」
「それは、一緒に来るってことか?」
「好きに解釈して」
「分かった」
あまりに早い返事に、クレハがわずかに眉を動かした。
「そんな簡単に決めていいんですか?」
リアが小声で尋ねる。
「名前は聞いた。助けてもらった。今はそれで十分だろ」
クレハの目元が、ほんの少しだけ細くなった。
アゼルには、彼女がなぜ自分たちを見ていたのか分からない。助ける前に何を迷っていたのかも、これからどこまでついてくるつもりなのかも知らない。
それでも一つだけ、分かっていることがある。
クレハは、リアを見捨てなかった。
今は、それで十分だった。




